バックナンバー1997
「経済社会の崩壊、消費社会の終焉、思考という虚構」
1997年度に書かれた哲学エッセー集です。
このころはだいたい、ホームページをつくりはじめたばかりだったので、
自分自身の世界観や経済社会に対する基本的な捉え方、
といったものを紹介・説明していたような気がします。
時代背景がびみょうに出ていることを察していただければ幸いです。
97年の6月には酒鬼薔薇聖斗の神戸事件があり、
10月には消費マインドの落ち込みが騒がれ、11月には三洋証券、
北海道拓殖銀行、山一証券などの大型倒産が目立ちました。
わたしはだれもが語っているのなら自分は語る必要はないというタイプなので、
直接にはそれらのテーマをとりあげていませんが、影を落としているのはたしかです。
「Goodbye Little DADDY's Town――社会批判と迷いの浜田省吾論」
1997/12/28.
さよなら、アブラとカネと腐敗にまみれたちっぽけなオヤジの街――。
若者の心の叫び声を代弁した浜田省吾の唄を聴け。
「のんびりした、ゆたかな社会の実現」 1997/12/13.
江戸時代の町人は一日にたったの4時間しか働かなかったという。
暴走「生産マシーン国家」から、もっとまともな社会を構築しようではないか。
「勤勉と享楽と経済的繁栄」 1997/12/7.
勤勉でないとモノはつくれない、享楽でないと経済は繁栄しない。
勤勉な価値観を嫌っているわたしはどう考えればいいのか。
「サイアクの職場環境から」 1997/11/9.
転職したカイシャが長時間残業のサイアクの職場でした。
Help Me!な惨状をチクってやります。ついでにわたしのフリーター経験も。
「カッコいい人がいなくなった――カッコよさから未来を探る」 1997/11/3.
人間はカッコよさに憧れて、社会や歴史を動かしてきたと捉えることができる。
これからのカッコよさから、未来をみいだすことができるか。
「日本人はこれからなにをめざすのか」 1997/10/27.
消費社会の終焉のあとに、日本人はいったいなにをめざすのか。
「消費マインドの落ち込み」 1997/10/19.
げんざいの消費低迷はなぜ起こっているのだろうか。
物質消費社会や企業社会にたいする無言の抵抗なのだろうか。
「暴力と騒乱の時代がやってくるのか
――鈴木啓功『国家の終焉 国民の逆襲』を読んで」 1997/10/5.
国会議事堂が爆破されたり、国民が反乱をおこしたりと、
物騒な予測がされている鈴木啓功の著作の感想をのべています。
「会社はなぜこんなにつまらないのか?――親のようには生きたくない――」
1997/9/24.
親のようなサラリーマンにはなりたくないという若者が増えている。
若者にとって会社はなぜこんなにおぞましく、つまらないのか、分析しています。
「全自動分業社会の虚しさ」 1997/9.
便利で機能的なこの社会はとても魅力的だが、道具のような自己の価値観に
虚しさを感じざるをえない。虚しさの理由を分析しています。
「目的なき時代の働く意欲」 1997/8.
社会は経済や消費での目標をなくしてしまった。
若者たちは働く意欲をもちつづけ、社会機能を維持しつづけられるだろうか。
「戦後日本社会の危機」 1997/7.
現在の経済危機は、日本社会の危機なのではないのだろうか。
企業にすべてを奪われた社会の帰結ではないのだろうか。
「マザコン男、社会保障制度、官僚支配」 1997/7.
保障や保護をもとめるわれわれの心がマザコン男を生み出し、
そしてそれが自由主義経済の精神を失わせるのではないだろうか。
「日本経済社会崩壊のとき」 1997/7.
経済大国になったこの社会は大きな目標も夢も喪失してしまった。
人間をひきずり回すこの経済システムは、結局は崩壊してしまうのではないだろうか。
「書物の現実、テレビの現実、マンガの現実」 1997/7/10.
書物の権威がこれまでの社会をつくってきたが、それは計画・予測に
閉じ込められた牢獄をつくってしまった。テレビやマンガはこれを打ち破れるか。
「もし学校教育をなくしたとするのなら」 1997/7.
自殺者と殺人者の出る学校はもうすでに監獄以外のなにものでもない。
これいじょう、犠牲者を出さないためには学校を解体するしかない?
「われわれはなんのために働くのか」 1997/6.
なぜわれわれは人生の大半の時間を労働に奪われるのだろうか。
「経済、仕事、会社の価値観をひき下げろ」 1997/6.
戦前の軍国主義と同じように、経済だけに偏重してきた
現代日本社会を批判します。
心の運転術
感情や欲望のままに従うのは、ハンドルのない車を運転することと同じことだ。
心を操作するためには、心の性質と心の実体化の過ちを知らなければならない。
『思考は超えられるか 第一部』 1997/6.
思考とは恐怖や悲しみをもよわせる原因ではないのか、それを捨てれば、
その苦悩や苦痛から解放されるのではないかといったことを考えています。
『思考は超えられるか 第二部』 1997/6.
思考が自分を傷つけていることや、他人や時間、視界は「虚構」ではないのか、
といったこと、クリシュナムルティ、ケン・ウィルバーが紹介されています。
『思考は超えられるか 第三部』 1997/6.
呼吸や筋肉が悪感情や悲観的な気分を規定してしまうのではないか。
無意識の筋肉や呼吸をコントロールする方法はないのか。(継続中のハズ?)
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