戦後日本社会の危機



                                               1997/7.





     現在の閉塞感や長期不況は、経済のみの危機ではなく、

    日本社会の危機を反映したものではないかという、

    佐藤光著『入門・日本の経済改革』(PHP新書)を読んだ。


     日本経済に対する信頼や自信の欠如、社会的規律の弛緩(モラル・ハザード)が

    その原因であるという説は、経済にばかり向きがちだった目を社会に向けさせてくれた。


     この長期に閉塞した現在の状況はまさに、戦後日本社会のひずみや歪みを

    問うものではないだろうか。

     「経済至上主義」や「会社中心主義」、あるいは「金儲け」だけにひた走ってきた

    戦後日本社会の病理がいっせいに噴出しているのではないだろうか。


     オウム真理教事件や神戸小学生殺傷事件、厚生省のトップ逮捕や

    金融業界のトップの逮捕、安田病院問題といった一連の事件は、

    まさに戦後日本社会の病理が生み出したものではないだろうか。


     これらはすべて、「経済至上主義」だけにつっ走ってきたために、

    家族や地域社会、共同体のつながりといったものをまったく崩壊させた

    戦後日本社会のありかたに、その病根があるのではないだろうか。


     企業や自分の属する集団の利益のみを追求ばかりするために、

    社会や共同体の連帯感や絆といったものが破壊された結果、

    「外」の人間や世間にたいする善悪の基準や規律がまったく働かなくなってしまっている。

     自分の属する集団の善悪と規律こそが、すべてであり、「絶対」なのである。

     社会や世間といった中間の存在が、まったくなくなったといっていいかもしれない。


     めいめいが自分の属する集団の利益や規律のみに汲々としてしまい、

    ほかの社会からのチェック機能がまったく働かなくなってしまっている。

     社会や世間の規律や善悪の基準といったものがまったく浸透していないか、

    あるいは存在していないかのどちらかだ。


     社会や共同体がまったく存在しなくなったところに、

    現在の暴走する集団や企業が存在するのではないだろうか。

     つまり現在の社会にあるのは、ただ自集団の利益や規律のみを追求する閉鎖集団が

    なんのつながりもなく、無数にばらばらにあるだけなのである。

     薄ら寒い風景である。


     なぜこんなふうになってしまったのか。

     もちろんこれはいうまでもなく、「経済至上主義」に原因がある。

     企業が人間のすべての時間、人生までを、なにも残らないまで、

    奪ってしまったからだ。


     アメリカではだから、いま必死に「家族」に帰ろうとしている。

     または、ボランティアに精を出そうとしている。

     しかし日本ではなんの試みも行われていないばかりか、

    あいかわらず、企業は人間のすべての人生と時間を奪い去っている。


     日本の企業社会には、人間は企業のみに属するのではなくて、

    社会や共同体のために存在するという考えがまるでない。

     企業がすべて丸抱えにしても、なんの問題もないと思っている。

     だから、結婚しない若者が増えたり、子どもの数がどんどん減ってゆくのだ。

     自社の利益ばかりを考えていると、少子化という、

    社会全体からのしっぺ返しを食らうのだ。

     また世間や共同体の絆を企業が分断した結果、

    世間の規律や善悪の基準をもてない人間がどんどん増加してしまっている。

     企業が、男親だけではなく、母親さえも、家庭や地域から奪い去ってしまったからだ。

     まるで、「本土決戦」みたいなものだ。

     地域社会には、子どもと老人しか残っていない。


     企業は人間の全てを奪い去ってはならないのだ。

     かれは社会に子孫を残せないばかりか、共同体が破壊されてしまった結果、

    規律や善悪の育たない子孫を生み出してしまうことになる。


     もはや企業は自社の利益だけを追求する時代ではない。

     自社のみではなく、社会全体の生態にまで目を向けなければならない。

     社会全体の利益や必要を考えなければならない。

     そうでないと、社会全体の生態からとんでもない仕打ちを食らうことになる。


     企業集団というのは視野がかなり狭くなるようだ。

     自己の利益のみを追求し、自然環境を破壊したり、公害病をまき散らしたり、

    オゾン層を破壊したり、あるいは薬害をつくりだしたりする。

     企業は、社会全体の生態までに考慮しなければならない。

     そうでないとけっきょくは、自社を壊滅させてしまうことになるし、

    その悪影響は社会全体にまでおよぶことになる。


      自然破壊や公害病といったものは、結果としてはわかりやすく、

     因果関係もはっきりしやすいが、人間や社会全体におよぼす悪影響というものは、

     ひじょうにわかりにくい。

      だからいつまでたっても、企業は人間の自然のなかに、公害や環境破壊を

     まき散らしていっても気づかない。


      企業がこの戦後50年のあいだに人間や社会のなかにまき散らしていった

     害悪は計り知れないものがある。


      現在の一流企業や官僚の汚職や不正は、社会や共同体の一員という意識が

     なくなり、一企業・一集団の一員という意識しかもたなくなったから、

     犯されたものではないだろうか。

      社会全体の正義といったものがまったく働かなくなってしまっている。


      企業は男たちを「会社人間」化し、家族や地域社会からひきちぎってしまった。

      また個人の人生や人格を生きる自由を奪い去ってしまった。

      そして女たちは子どもを会社人間化する受験地獄にたたきこみ、

     あるいはパートに出て、ますます地域社会の絆は存在しなくなった。

      企業からリタイヤした老人たちはただ病院に通いづめになるだけだ。


      生まれてから定年になるまで、ただ企業のためだけに捧げ尽くされ、

     親子や家族、地域共同体といったものは、壊滅してしまった。

      この社会には、地域や家族のつながりをなくした、自社利益のみを追求する企業が、

     なんの連関もなく、無数に存在しているだけだ。


      ただ、この企業社会をつくりだしたのはだれかというと、

     やはりわれわれのなかにある物質消費への欲望や、隣より優れたいという

     優越願望が、生み出したものではないだろうか。

      このようなうら寒い企業社会を支持したのは、やはりわれわれのなかにある、

     「豊か」になりたい願望や、「金持ち」になりたい願望ではないだろうか。


      じつのところ、そのような時代は終わってしまった。

      終わってしまったのに終わることができない矛盾に、

     現在のわれわれは悩まされている。

      いつまでも山のような商品に囲まれたり、空しいレジャーに追い立てられたり、

     そんなことをわれわれは死ぬまで追い求めつづけるだろうか。

      いつか切り開くかもしれない科学万能のユートピアなど夢見れるだろうか。

      もうそんなものは終わってしまったのだ。


      だがそのようなバカ騒ぎをやめてしまえば、たちまち経済供給が

     回らなくなってしまう。

      赤ん坊のように「飽きた」からといって、ポイと捨てるわけにはゆかないのだ。

      われわれはこの社会をつづけるために、

     ありあまるモノを買いつづけなければならないのだ。


      現在の長い不況はやはり、もう欲しいモノはない、

     モノばっかりの生活はうんざりだという反応ではないのだろうか。

      多くの商品があるスーパーから、必要最小限の商品だけをとりそろえた

     コンビニに人気が集まるのも、そのひとつの表われではないか。


      いま、われわれに求められているのは、モノまみれになって、

     消費や企業活動だけにつき進んできた「企業=消費社会」からの脱却ではないだろうか。

      企業や労働が、われわれの人生や地域社会の絆をすべて奪い去ってしまう社会から、

     離脱するべき時ではないだろうか。


      企業は、人間や社会という観点から、従業員たちにもっと自由な時間と、

     自由な人生選択を可能にする社会を生み出してゆくべきだ。

      さもないと、大量の人員を抱えたまま、この日本経済は鉛のように

     沈んでゆくだろう。

      経済活動が、自然や生態系を破壊したために洪水や公害に悩まされるのと

     同じように、人間社会という自然から復讐されるのだ。


      けっきょくのところ、戦後社会は、企業活動や経済活動の充実ばかり目指したために、

     人間の活力や創造力といったものを、抹殺する社会をつくりだしてしまったのだ。

      経済活動というのは、文化から生み出されるのではないだろうか。

      近代ヨーロッパは、オリエンタルな文化に憧れることによって、

     近代産業文明を興したのではないか。

      経済活動ばかりを大事にして、ほかのことをおろそかにすると、

     文化や社会は育たず、経済が繁栄する土壌を育むことができない。

      戦後日本社会は固くて重苦しい経済活動のみに偏重しすぎて、

     やわらかな、魅力ある社会を生み出せなかったのだ。

      経済を生み出す養分は文化にあるということに、

     戦後の経済人は気づかなかったのだろうか。


      戦後の日本社会は経済だけに偏重し、

     企業組織のみに帰属する人間を大量に生み出してしまった。

      そして社会や共同体の利益や連帯といったものを失ってしまった。

      わたしにとって大事なことは、いかに欲しいモノを手に入れるか、

     いかに自分の属する会社を儲けさせるかということだけになってしまい、

     社会全体の利益や必要といったものをまったく考えなくなってしまった。


      おそらく消費社会に最適化するシステムとは、そのようなものなのだろう。

      消費社会というのは、究極的には自分の欲しいモノを手に入れるためのシステムだ。

      多くの生産物を家族でまかなうシステムから、ほかの集団に外注化したり、

     分業化するうちに、工場組織や企業組織ができあがった。

      大量生産には家族より、契約集団のほうが適している。


      日本ではこの企業組織が、擬似家族共同体として祭り上げられた。

      そしてこの共同体のために、家族と地域社会、または個人が壊滅してしまった。

      家族はいろいろな生産品を外注化したために、ほとんどの機能を失ってしまった。

      だが家族が成り立たないことには、子どもを再生産することができない。

      企業組織は、人間の存続に必要不可欠である子どもの再生産を

     おこなうことができないがゆえに、家族になることはできない。

      どんなに賃金手当てをつけても、父親の時間を返さないことにその証明にはならない。

      擬似家族共同体なんて、ウソっぱちである。


      しかし、戦後の日本人にとって、家族や子どもを守るより、

     なぜ企業活動のほうが、大事だったのだろうか。

      家族や子どもを守るより、大事な価値観や必要があったのだろう。

      多くのモノを手に入れたり、地位やポストを手に入れるために、

     ほんらいの人間の目的である子孫の存続という目的がないがしろにされた。

      また企業社会のなかにおいても、子孫の存続が貶められ、無視された。

      消費という目的においても、家族や子どもはじゃまものになった。


      この企業活動や消費生活といったものは、とんでもなく、

     人間のほんらいの目的や自然といったものと、抵触するようである。

      子孫の存続をないがしろにする社会というのは、まともではない。

      それほどまでに企業や消費というものは、不自然なものだ。

      このゆがみを暴力的に圧しつけたきたのが、戦後企業社会だ。


      このような不自然な社会を存続させてきたのは――

     つまり企業中心社会をつくりだしてきたのは、

     おそらく政府の産業政策にその根があるのではないかと思う。

      「生産者」保護と生活者無視の政策である。

      企業活動を保護ばかりしたために、家族を守ったり、

     育児をしたりする時間や余裕が、労働者から奪われてしまったのだ。

      これらの役割は専業主婦のみに押しつけられたが、

     父親不在の育児や家族が、うまく機能したとは思われない。

      社会や共同体の存在しない真空地帯で、

     育児や教育がうまくできるわけなどないのだ。


      また、われわれ自身のなかにも、産業保護や経済成長への

     強い要望や願望があったのはたしかだ。

      働けば働くほど儲かる、給料がアップする、地位が上がる、

     テレビや車が買える、マイ・ホームが買える、このような夢を描いて、

     戦後の日本人はがむしゃらに働いてきたのだろう。

      退職金も増える、年金も増える、年功賃金だといって、

     サラリーマンたちはますます企業活動に熱心になった。

      あるいは、退職金や年金を「人質」にとられて、

     仕方なく一企業に釘ヅケにされた面も否めないと思うが。


      だがそのために、この社会の病理面はどんどん蓄積されていった。

      企業共同体に男たちが埋没してしまい、家族が崩壊し、地域社会が壊滅した。

      学校では校内暴力や登校拒否、いじめ、といった問題が噴出した。

      そしてオウム真理教事件や神戸小学生殺人事件、

     官僚や一流会社の汚職や不正――腐るところまで腐ってしまったという感じだ。


      企業活動が、この社会のすべてを覆いつくしてしまった結果と思われるが、

     それだけではなく、戦後の目標――アメリカ的消費生活や経済大国になるという夢が、

     実現されてしまったことにもある。

      つまりは、経済活動の目標や目的がなくなってしまったのだ。

      70年代のはじめにはほぼそのような夢は終わっていたと思われるが、

     なんとか抑えつつもここまで来れたかもしれないが、

     バブル経済のような投機経済がみごとに目的なき経済を露呈させた。


      いったいこの日本社会はどこに漂ってゆこうとしているのだろうか。

      北朝鮮の飢餓やソ連の崩壊といったものは、社会主義ゆえに起こったのではなく、

     この日本にも同じようなことが近いうちに起こることすら考えられる。


      これはもしかして、「消費社会の終焉」を表わしているのだろうか。

      企業活動が家族や地域社会を壊滅させてしまい、

     消費においても、べつにさしたる目標も欲しいモノもなくなって、

     ふんづまりを起こしてしまったのだ。

      つまり消費社会のタネが絶えてしまったのだ。


      これはとんでもないことではないだろうか。

      現在の不況というのは、経済や経営の問題ではなくて、

     もっと大きな地盤――消費の目的というものがなくなったことに

     起因するのではないだろうか。

      豊かさや富といったものが目的ではなくなったのだ。

      社会はなんの意味もなく、漂ってゆくしかない。


      われわれが勤勉に働いたのは、欲しいモノがあったからだ。

      日下公人がはっきりと教えてくれたのだが(『悪魔の予言』講談社)、

     文化の喜びがあってはじめて、人は働くのである。

      自動車とかアメリカ映画とかマイ・ホームとか欲しいモノがあってはじめて、

     人はまじめに働く。


      だが現在そのような働く原動力となるものがまったくなくなってしまった。

      せいぜいクルマやブランド品、カラオケ、アニメやゲーム、海外旅行といった

     ものだけになってしまった。

      日本人はほとんどオリジナルな文化をつくらなかった。

      わたしはいま本がほしいだけであって、どう考えても、長い会社勤めと

     釣り合わないと思っている。

       ほかのクルマやらブランド品なんかまったく眼中にない。


       こういう若者はどんどん増えていっており、

      海外で放浪する若者も多い。

       日下公人はむかしの人のようにラム酒や酒をのめれば、

      あとは働かないといった人たちが、日本人の中にも出てくるといっている。

       大阪には日雇い労働者の西成という町があるが、

      わたしは昼間から酒を飲んでいるかれらにみじめさを感じると同時に、

      昼間からなにものにも拘束されない自由なかれらに憧憬を感じたものだ。

       日本はこれまでの気が違ったような労働社会から、あまり極端になるべきではないが、

      このような、ある意味ではまともな社会に回帰するほうがよいのではないだろうか。


       それには年金や年功賃金などがかなり足カセになる。

       だが、けっきょくのところ、年金という制度は高度成長を維持しないと

      破綻してしまうのだし、その経済の原動力となる文化がもう若者の前にはない。

       緩慢にこの経済は沈下してゆくのか、あるいはとつぜんにクラッシュしてしまうのか、

      わからないが、国民を駆り立てるような文化のヴィジョンを提示しないことには、

      この経済が減速してゆくのは確実である。


       現在の長期不況や閉塞した状況は、ほしいモノがなにもないのに、

      長時間労働や会社に釘付けられる現在の状況に、

      なんとやり切れない気持ちを抱いているからではないだろうか。

       社会はもっと柔軟にわれわれの気持ちに対応するべきではなかったのか。


       世代間において、現実に対する認識はかなり違っており、

      わたしのような若者は、勤勉や長時間労働にものすごいイラ立ちを感じる。

       何十年も前に時間が止まったようなジジイばかりが、

      この社会の行方を決めたり、既得権益をにぎりしめて離さなかったりするからだろうか。


       企業があまりにも人間の自由な時間を拘束しつづけた結果、

      この国には、労働の原動力となる文化をまったく創造できなくしてしまった。

       働く原動力をなくした若者を、むかしの人たちの勤勉労働社会に

      むりやり封じ込めようとしたために、文化や活力が枯渇してしまった。

       つまり企業社会が自社の金儲けのためだけに、若者を囲い込んだ結果、

      次なる経済の原動力となる文化を創造できなくしてしまったのだ。

       子どもを育てる暇はないわ、カネを使ったり、バカンスを楽しんだりする時間はないわ、

      文化や創造力を育むゆとりはないわ、もう最悪である。

       けっきょくこの日本人は、金持ちになる資格もなく、なんのためにカネを使うのか、

      なんのためにカネを稼ぐのかもわからなかったのである。

       スカスカの空洞化した金持ちニッポンだ。


       日本人は金持ちになり、豪遊したり、豊かになる生活をめざしたのではないのだろう。

       ただ、団結した、凝り固まった集団として、

      企業集団のなかで、ひとかたまりになりたかっただけだ。

       カネの使い方や楽しみかたも、ゆとりもわからず、

      あいかわらず、幼稚園児の群れのようにこり固まりつづけている。


       いったいなんのための富だろうか。

       日本人はなんのためにがむしゃらに働いてきたのか。

       せめて経済的にゆとりが出てきたら、社会に自由やゆとりを

      もたせるべきだったのだ。

       そのような自由な社会から、文化や創造力が育ったのではないだろうか。

       すべての男女が産業ロボットのように企業に囲い込まれたら、

      とても文化や創造力の生み出る余裕はない。

       人生を楽しむ暇も、稼いだカネを有効に使う時間すらない。

       時間がない労働者相手にいくら商売をしても、

      新しい産業も文化も育たない。

       そもそも文化を受容するゆとりも教養も育む余裕すらない。

       文化が枯渇して、経済が減速するのはとうぜんである。


       とにかく休みを増やさなければならない。

       企業は従業員をすこしでも長く拘束したほうが利益が上がると考えるよりか、

      従業員の休みを増やし、社会に戻したほうが、けっきょくは自社の利益になると

      考えなければならない。

       いくら商品やサービスを売り出しても、それを買ったり、受けたりする消費者が

      いないことには、利益は上がらない。


       フォードが従業員の給料を破格に設定したり、週休二日にしたりしたのは、

      自動車の購買者層を増やそうとしたからだ。

       日本の企業はあまりにもがめつすぎる。

       少しでも多く従業員を拘束して、利益を生み出さそうとするから、

      けっきょくは、みずからの客を絶滅させているのだ。

       従業員の時間をすべて奪い去ろうとする企業ばかりだから、

      未来の消費者や顧客がぜんぜん育たないのだ。

       企業の利益を生み出すのは従業員だけではなく、

      消費者や顧客の存在であるということに気づかないのだろうか。

       客のいない生産者国家が成り立つわけがない。


       休みが増えてもすることがないというのは、古い世代のサラリーマンばかりだ。

       若い世代はもっと休みを望んでいるし、いくぶんオタク的だが、

      みずからの趣味を大事にする傾向をもっている。

       そのようなオタク的な趣味が、未来のマーケットを広げるのだ。


       旧世代はまた間違って、ゴルフやリゾートのような

      時代遅れのオヤジ向けのレジャーばかりつくりだしてしまう。

       美術館や音楽ホールなどのハコものばかりつくっても、

      それを受容する文化風土がないから、ぜんぜん心が躍らない。

       若い世代はこんなものになんの魅力も感じない。

       みんなが同じようなことをすることにたまらない不快感を感じている。

       個性的で、人とは違ったオタク的な要素に惹かれるのが、現在の若者だ。


       人生の目的を生産から、消費や生活のほうにふり向けなければならない。

       人生を生き、人生の楽しみや豊かさを享受できる生き方が、

      可能になる社会を模索しなければならない。


       この社会は人生を楽しむためにあるのではなく、

      労働や金儲けのためだけの窮屈な社会になり下がってしまっている。

       人生を楽しめる方向に社会を転換してゆかないと、

      この社会は息苦しさや閉塞感のために、窒息死してしまうだろう。


       なぜこの社会はそのように転換できなかったのだろうか。

       明らかに時代遅れになった目標によって、

      社会をがんじがらめにしばりつけている。

       生産至上主義という、戦時下経済に似た体制だ。


       なぜ転換が遅れたのか。

       なぜ時代遅れになった体制によって、若者たちを苦しめているのか。

       生産至上主義という目的が、なぜある程度豊かになった段階で、

      見直されなかったのだろうか。


       社会の変化を見抜けない学識者ばかりいるためなのか、

      それとも社会を変えるシステムがどこにも備わっていなかったからだろうか。


       この社会は老人たちが制度やシステムを決定する社会である。

       あるいは、年齢の高い世代が権力をもつ社会である。

       おそらく若者や若い世代にはなんの決定権もないし、

      若者や子どもの感じる現実というものが、

      社会を決定するシステムになんの反映もされない。

       このような世代間のギャップや、世代による現実認識の違いが、

      若者たちにひじょうに息苦しい社会をつくりだしているのかもしれない。


       たとえば、医学界や学界という世界では、出世やポストを得るためには

      権威ある人や上司にあたる人の推薦や抜擢がなければならない。

       そうであるとすれば、できるだけ彼らの学説に反旗をひるがさないような、

      無難な説を唱えなければならないだろう。

       年老いた人たちの現実認識ばかりが大手をふるうようになり、

      現実の変化を見抜けなくなるだろう。

       こうなってしまえば、現実からますます乖離してしまう。


       このようなことは学界だけではなく、企業や官僚などの組織のなかに

      どこにでもあるものではないだろうか。

       上司や上役が出世や昇進を決定するのなら、

      かれらの現実認識や方法論にかぎりなく、なびかなければならない。

       そうでないと、上のポストには引き上げられないだろう。

       これでは組織があまりにも現実から乖離するのはとうぜんだ。

       組織や社会はこのようにして、現実から遅れをとり、対応を誤るのだろう。

       社会のパラダイムはこのようにして、動脈硬化をおこし、

      ほかの新しい革新の波に洗い流されてゆくのだろう。


       官僚は現実に15年遅れていると堺屋太一はいっている。

       現在、二度のオイル・ショックを乗り切った人たちが、

      現在のトップの座に座っているのだろうか。

       現在、官僚から拡大成長の体質が抜けきっていないそうである。

       こうして大昔の現実認識のまま、政策が決められるのだろうか。


       生産至上主義の社会を、早急に変えなければならない。

       企業や生産者ばかりが存在して、消費者や生活者の存在しない社会が、

      いつまでもつづくわけがない。

       この社会はこのままでは、だれも欲しくない商品をつくりつづける、

      奇妙な生産工場になってしまう。


       生産至上主義が終わるのは、われわれの心のなかにある物質消費主義、

      金儲け主義、超安定・貯蓄志向というものがなくなってからだろう。

       自分たちから商品やカネをいくらでも望みつづける体質をやめるのなら、

      この社会は必然的にペースダウンを起こす。

       もう欲しいモノもめざすべきポストや目的もあまりないのだから、

      モノをつくりつづけても仕方がない。

       生産至上主義を維持する条件がなくなりつつあるのである。


       企業や社会はこのような変化にいち早く気づき、

      そのような社会体勢に変えてゆくべきなのである。

       若者が入った会社をすぐに辞めてゆくのは、欲しいモノもべつにあまりないし、

      既得権益や年功序列がやたらに強い企業に残る魅力がほとんどないからだ。

       年金や退職金がアテにならないのは、中高年のリストラを見ていたら、よくわかる。

       もうこれまでの企業は、昔打ち捨てられた遺跡のようなものになっている。


       がむしゃらに生産しつづけるのではなく、ゆとりや休みをとり戻し、

      そのなかから新しい文化や欲望が育つ土壌を整えなければならない。

       この社会はあまりにも労働や生産に傾斜しすぎて、

      生産を約束する文化や欲望をつくりだせなかったのだ。

       欲しいモノや新しい欲望がない社会に、

      どんな未来が約束されているというのだろうか。


       現在の日本社会が抱えている問題というのは、

      大量消費社会の終焉という事態である。

       社会や人々がめざしてきた目標や目的がなくなってしまったのである。


       われわれはいくぶん貧しくなるかもしれないが、

      企業や金儲けだけに縛られない、ゆるやかな社会をめざすべきかもしれない。

       気違いのような生産者社会から、家族や社会に回帰してゆくべきなのだ。


       そのような転換は、敗戦のような明確なカタストロフィーを経験しないと、

      日本人は気づくことができないのだろうか。

       そこまでの傷を負わないことには、日本社会は変わることはできないのだろうか。

       壊滅状態になるまで戦争をやめれなかったように、

      現代も経済において、同じような惨禍を経験しないことには、

      その過ちに気づかないのだろうか。


       現代の日本社会は変わるためのメカニズムがあまりにも欠如している。

       戦後の復興経済一本槍で、ゆとりや余裕がもてなくなってしまっている。


       経済壊滅のようなあまりにも高い授業料を支払わないことには、

      この社会は変わることはできないのだろうか。


       エドマンド・バークはいっている。(『フランスにおける革命の考察』――
                           (ウィリアム・ブリッジス『ジョブ・シフト』から)


       「なんらかの方法で変化を加える手段をもたない国家は

      自己を維持する能力をもたない。」




                                    (終わり)



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