考えるための哲学エッセー集




   「経済」、「仕事」、「会社」の価値観をひき下げろ


                                              1997/6.





       われわれの社会は、経済や仕事、会社などにものすごく価値をおいている。

       一流会社の会社員になることや、役職につくこと、金持ちになること、

      朝から晩まで勤勉に働くこと、仕事がばりばりとできること、

      こういったことにものすごく価値がおかれている。


       その反対に、失業することや、貧乏になること、しょっちゅう転職することや、

      まじめに働かないことに対する非難や怖れ、うしろめたさは、すごいものがある。



       戦後のわれわれは、仕事や経済だけに価値をおいてきて、

      がむしゃらに働いてきて、この国を経済大国にのしあげてきた。

       車やテレビ、ビデオや電化製品、ファッション、グルメ、レジャー、

      ありとあらゆるモノや消費、レジャーにあふれ返っている。


       だが現在、かつての人々の夢であった「消費天国」が実現されたのに、

      なんの喜びも楽しみももたらさないことを、われわれは知ってしまった。

       ありあまるモノやレジャーに囲まれても、せんぜん心はうきうきしないのである。

       それどころか、心のどこかでどんどんすきま風か吹きすさびつつある。


       企業社会は、学生や若者にとっては、「墓場」のように魅力のないものに映るし、

      テレビや雑誌などのマスメディアは、われわれを「踊らせる」ような吸引力をもはや、

      失いつつあると思われるし、学校は目的や意味を失ってしまった「容れ物」のみを

      守らせる監獄に化しているし、地域社会といったものは壊滅してしまった。


       われわれは気づくべきである――経済はもはや、幸福をもたらさないと。

       たしかに戦後のある時点までは、「富」の実現が幸福であったと思われる。

       あるていどの経済基盤がないと、ほかの楽しみまで追求することができない。


       だが、いつからか経済や金儲けだけが、人生の目的や全てのようになってしまった。


       経済や仕事というのは、ほんらい、われわれが豊かに生き、楽しく暮らすための、

      「手段」や「道具」でしかないのに、これが人間の「目的」や「全て」になってしまった。


       「本末転倒」である。

       経済は、われわれが生きるための「手段」でしかない。

       だが、この社会では、この経済だけが、人間を測るゆいいつの、

      「モノサシ」になってしまった。

       「大きな会社」に勤めているか、安定した経済生活を送っているか、

      品行方正な職業経歴をたもっているか、りっぱな肩書きをもっているか、

      ということだけが、われわれを測るゆいいつの基準なのである。


       われわれは経済の「道具」という観点からの評価しか、もたないのである。

       この国がどれだけ貧しく、窮屈な生き方しかできないか、わかるというものだろう。


       貧しい人間は、貧しい「評価基準」しかもたない。

       このような基準しかわれわれはもたないから、

      ひじょうに貧しい生き方しかできないのである。


       「モノ」や「カネ」だけでは人間の豊かさは測れない。

       さまざまな価値基準をもち、さまざまな楽しみや生き方を独自にもち、

      独自に追求することができる社会こそ、ほんとうに「豊か」ではないのだろうか。


       この国の心の貧しさは、モノやカネの量にあるのではない。

       経済のほかの評価基準――まなざしをもたないということなのである。

       人を測るモノサシが、経済という一本しかもたないことに、

      この国の貧しさが現れている。


       われわれが貧しいのは、自分の心のなかに、人生の楽しみや価値を、

      経済のほかに、測る基準をもたないからなのである。



       このような社会は、企業から選別されるというサラリーマンの条件によるものだ。

       評価したり、選別したりするまなざしというのは、企業しかもっていない。

       企業の選別力があまりにも強大になりすぎ、人間はおしなべて、

      その価値観だけで測られるようになってしまったのである。


       どこかにこれに代わるような評価基準の土台となるものをもたなければならない。


       われわれはこの経済の一本のモノサシの下で、悶え苦しんでいる。

       子供たちは、この価値観の下で、あえいでいるのではないだろうか。


       人間はこれだけの価値観では測れないとはわかっているのだが、

      ほかの価値観で満足したり、自足することは、なかなかむつかしい。

       そうして、経済の価値観の下になぎ倒されることになるのである。



       昔はもっといろいろな価値観でひとびとが評価されていたはずだ。

       「経済」の成功だけで、人間の価値が測られていたのではないと思う。

       われわれの親や祖父母の時代には、もっといろいろな人たちが、

      多様なすがたで、その良さを認められてきたのではなかったのだろうか。

       面倒見のいい人や、太っ腹な人、あるいは善人など、

      それぞれの独特のその人なりの価値なり良さなどを認められたのではないのか。

       経済の成功だけが、ゆいいつのモノサシではなかったのだ。

       いまではこのような価値がすっかりとなくなってしまった。

       


       いつからこのような価値観が、蔓延してしまったのだろうか。

       消費やレジャーの価値観も、一昔前なら、どちらかといえば、

      白い目で見られるものではなかったのだろうか。

       それがいまでは、大手をふって認められる価値観となっている。

       高度成長期以降の、それまでの貯蓄勤勉型の世代とまったく違った、

      豊かな時代に生まれ育った世代たちが、消費の主役になっているからだ。

       現在の価値観というのは、ずっと昔から永遠につづいてきたというわけではないのだ。


       そもそも経済なんて、「卑しい」ものとされた時代もあったのではないだろうか。

       宗教とのかかわりにおいて、ヨーロッパでは、一段と低い価値として、

      おとしめられてきた時代もあったのではないだろうか。

       日本でもよく働く人間は、自分の利益だけを追求する金の亡者として、

      非難されるような風潮の時代もあったのではないだろうか。


       勤勉に働くことや、企業で出世することが、偉いことなんて、

      ものすごく「卑しい」、「利己的」な価値観ではないだろうか。

       いつのまに、こんなえげつない価値観が、

      「まじめ」だと認められるようになったのだろうか。


       どこから他人や共同体のために奉仕するような精神を、

      軽蔑するような価値観を、みんなが認めるようになったのだろうか。

       異常としか言いようがない。

       こんな異常な価値観のなかでわれわれは生きてきて、

      すっかりそれが「まとも」でないという感覚を失ってしまったのである。

       さいきんマスコミをにぎわせている企業や政府の不祥事なんかは、

      そんなところにその深い根があるのではないだろうか。


       自分の金儲けや消費だけの価値観が、至上のものになってしまった。

       ほかの価値観で認められる人を評価しようだとか、賛美するような風潮を、

      すっかりと失ってしまった。

       自分自身の心の中にも、集団や社会の雰囲気のなかにおいても、

      それがまったく消え失せてしまったのである。


       おかげで、社会は自分の金儲けや保身だけにどんどんつき進み、

      全体の利益やほかの人の貢献といったものをすっかりと忘れてしまった。

       この利己的な価値観の裏にはやはり、だれも助けてくれない――

      めいめいが自己の利益だけにかまけている、といううら寒い認識があるのだろう。

       他人や社会を信頼できないから、自分の安心を捜して、

      ますます自己の金儲けや保身に、重きをおかざるをえないのである。



       このような社会はけっきょくのところ、カネやモノのスムースな流れを

      押しとどめてしまい、全体の循環を阻害してしまうのだろう。

       銀行や保険会社などの不良債権問題、国家財政破綻、長年の経済不況、

      というのはこういうところにもその原因の発端があったのかもしれない。


       バブル以降の経済不況というのはやはり、

      これまでの経済大国や消費社会の夢というものが、終ってしまったからだろう。

       もうこれまでの車やマイホーム、電化製品、あるいは会社のポスト、

      といったものだけでは、人生の目標にはならないのだ。

       もっと早くからこのような時代は終焉していたと思われるが、

      なんとか差別化やブランド化などで隠蔽されてきたが、

      最後には株や土地などに目標のないカネは集まってしまって、

      これまでの時代の終わりをはっきりと告げることになった。


       浅井隆やラビ・バトラなどの悲観的な人たちは、

      これから大恐慌がやってくるという。

       そんなものがほんとうにやってくるのかはわからないが、

      不良債権問題、国家財政破綻、大企業の時代の終焉、消費の飽和状態、

      といった問題から、これからの社会がことごとく下り坂に転げ落ちてゆくことは、

      まず間違いはないだろう。


       覚悟しておかなければならないだろう。

       これはいままでの価値観の「ツケ」だともいえるだろう。

       またこの価値観が終っていたのに、なんとか過去のやり方をつづけてきたことにも、

      その問題の根があるのだろう。

       もっと早くから新しい価値観、やり方を模索しておくべきだったのかもしれない。


       古い世代が旧来の成功体験にしがみつき、これまでの継続をつづけようとしたから、

      大きく転換しようとする社会のうねりを抑えつける結果になってしまったのかもしれない。

       この頭打ちのよどみが、社会や経済の活力を奪い去る原因ではないのだろうか。

       若い世代はともかくこれまでのやり方をつづけさえすれば、

      将来は安泰であると信じ込んできたから、活力にかけるし、

      自分からなにかをしようとする気概をほぼもたないし、無気力である。

       そのような新しい芽を根こそぎにするような社会をつくってしまったから、

      現在の停滞社会はつづいているのだろう。



       経済はとてもヤバイ状況に転がり落ちてゆくかもしれない。

       だが、これらにたいする不安や恐怖というのは、

      経済に価値をおいた考えから出ているものだ。

       われわれは経済や消費のみが、しあわせをもたらすわけではないことを、

      バブル期前後に学習したはずだ。


       ちょっとくらい貧しかったり、プライドが傷ついたりしたとしても、

      落胆することはない。

       そのような価値観は、富がしあわせをもたらすという幻想の上に成り立っているものだ。

       もしそうなら、なにも貧しさに引け目を感ずることはないのではないか。


       むしろ新しい価値観や目標をみつける良い機会だとして、

      経済や富の価値をひき下げる――もしくは見なおす時期だと捉えるべきではないだろうか。


       日本人はこれまでの価値観や生き方を見なおさなければならないのではないか。

       そのために、現在の大不況や、あるいは将来に口をあけている破滅的状況は、

      用意されているのではないだろうか。

       これまでの価値観やそのシステムでは、

      もうこの社会を継続してゆくことはできないということだ。

       これまでのシステムが現在の結果をもたらしているのである。


       子どもたちはこのことに敏感に気づいてきたはずだ。

       みずからを登校拒否やいじめ、校内暴力、中退などに追い込み、

      この社会のやりきれなさや閉塞感を訴えつづけてきたのだ。

       かれらはなぜ自分がこれほどまでに不快で、気分が悪いのか、

      明確な認識をもっていない。

       だから、いっけん不合理で、不可解な行動に出ざるを得ないのだ。


       われわれだって、現在の社会がなぜこんなに調子が悪いのか、

      現在の閉塞状況はなぜ起こっているのか、明確に捉え切れていない。

       現在の状況を、すっきりと言葉で認識することはできないのである。

       あるいは過去の成功体験や、幸福の図式でしか、

      世界を捉え切れていないのではないだろうか。


       冷戦が終ったからだとか、東アジアの工業化がめざましいからだとか、

      情報知識社会への移行が起こっているからだとか、いろいろ言われている。


       なによりも、全国を「ショッピング・センター」にするための、

      鉄道や道路、車の普及が、終ってしまったからだろう。

       これまでの目標――イギリスの産業革命前からはじまった、

      大衆消費社会の完成がなされてしまったからだ。

       あるいはもっと前――スペインやポルトガル、ヴェネツィア、

      もっと前のイスラムからはじまっていたかもしれない。

       人類の有史以降からかもしれない。


       ともかくこれまでの時代は終ってしまったのだ。

       明治以降の日本のヨーロッパ化は、いちおうの完成を見たのである。

       お手本のなくなった日本はこれから自分の足で立ってゆかなければならない。

       自分たちでものを考え、ものごとを決め、方向を定めなければならないのである。


       日本という国は、異様なまでに国民をひとつの価値観にまとめこんでしまう国である。

       これまでは経済の価値観だけにつき進んできたし、

      戦前は軍事の価値観だけにこりかたまり、破滅的状況を迎えた。

       現在の経済不況は、日本にとっての「第二の敗戦」を迎えたのである、

      ――つまり経済至上主義という「国家主義」においてだ。

       まだまだ破滅的状況はこれからが本番かもしれないが。


       これまでの時代はもう終ってしまったのだ、

      ということに多くの人が気づかなければならない。

       きのうの安定や保身にしがみついているようなら、

      社会の変化を滞らせ、ますます停滞の道に陥ることになってしまうだろう。


       経済や仕事、会社などのこれまでの至上価値を――

      戦後の日本が軍国主義をすっぱりと捨てたように――、

      捨て去らなければならないのかもしれない。

       さもないと軍国主義にひた走った愚かな戦前の歴史を、

      またもやくり返すことになってしまうかもしれない。


       もう消費やモノなどに多くの望みや、財をうみだす可能性を

      求めるべきではないのだ。

       また、まちがっても、がむしゃらな「勤勉主義」で

      この時代を乗り切ろうなどと、過去の成功体験をくり返してはならない。

       けっきょく、それは消費者から、余暇や自由な時間を奪いとることになり、

      需要はますます冷え込むことになる。

       雇用者を、勤勉な労働のなかに囲いこむべきではないのだ。


       知識や情報といったものに活路を見出すべきではないだろうか。

       このような社会では、長時間の勤勉な労働より、

      自由な余暇のなかで、多くの果実をうみだすことができるのではないだろうか。

       時間や土地の拘束からとき放つとき、

      より多くの創造性をうみだせるのではないだろうか。

       明らかにこれまでの価値観は、この原則を封じ込めることになるだろう。


       われわれは「創造」の時代を生きているのではないだろうか。

       新しくなにかを生み出さなければ、この経済は壊滅してしまう。

       産みの苦しさを味わわなければならないのかもしれない。


       わたしは学生のころから、この企業社会はなんてつまらなく、

      魅力がないのだろうと思ってきた。

       歴史家のトインビーは、魅力のない文明は滅ぶといっている。

       けっきょく、魅力を創造することのできなくなった支配者たちは、

      力で支配することになり、その文明は滅んでしまうのだという。

       魅力のない企業社会は、衰退してゆくことになるのだ。


       ソ連の崩壊や北朝鮮の飢餓問題などは、社会主義だからという理由ではなく、

      この消費社会の問題点を、先取りしているだけではないだろうか。


       現在の若者たちはどのようなことに魅力を感じるか。

       映画やテレビ、ロック、ゲーム、マンガ、コンピューターといったものだ。

       これはある意味では、現実はあまりにもつまらないので、

      空想の世界に逃げ込んでいるともいえるだろう。

       だが、この流れが人間の豊かな可能性を示唆しているのではないだろうか。

       われわれはこのようなジャンルの中に、未来を見出すべきだ。

       じじつ、われわれはあまり聞かされることはないのだが、

      日本のマンガやアニメは世界中で読まれたり、評価されている。

       ソフトや文化面でも、日本人はりっぱな仕事をなしとげている。


       つぎの時代は経済や勤勉に価値をおくべきではない。

       文化や芸術といったジャンルに、多くの価値を認めるべきなのだ。

       ただし伝統的なものや権威的なものにそれを求めてはならない。

       それなら、若者たちにとっても、魅力的な社会をつくれるだろう。

       水を得た魚のように、かれらは生き生きとなるかもしれない。


       このような創造的な社会では、これまでの工業社会むけの

      規律や規格といったものは、多くの害をなすことになる。

       朝から晩まで拘束され、ほかの従業員たちとの画一的なチームワークを強制され、

      単一的な学歴・人生設計を余儀なくさせられるような仕組みは、

      創造の意欲をつみとることになる。


       若者たちを野に放ち、好きなように、自分の思い通りに、

      生きさせるべきではないだろうか。

       そうでもしないとこの社会は活力を失い、ますます停滞してゆくことになるだろう。


       もうこれまでの時代は終ってしまったのである。

       いま必要なのは、新しいことや、なにか創造的なことを、

      生み出す力ではないだろうか。

       ちまちまと親や上の世代のいいなりになっているだけの若者たちには、

      創造的なものも魅力あるものも生み出す力はないだろう。


       これまでの価値基準で、若者たちを縛るつけるべきではないのである。

       もうキャッチアップの時代は終ったのであり、

      新しく魅力を創造する力が重要になったのである。

       そのような土壌を生み出すためには、多くの見えない「禁止」というものを

      とり払わなければならない。

       学歴や単一コースの人生設計、年功序列、そして勤勉の価値観、などである。

       会社に入ったら、「あれもしてはならない」「これもしてはならない」といった

      禁止だけらけである。

       上の世代の既得権で守られた「聖域」ばかりにぶつかってしまう。

       従来の価値観で組み立てられた多くの鉄条網は、

      社会をますますつまらなく、魅力のないものにするばかりなのである。

        それは時代の流れを阻害することでもある。


        いまだに日本が魅力的に映るのは、物質的豊かさを味わったことのない、

       東南アジアや中近東の人たちだけだろう。

        いまでは、赤ん坊でさえ、この日本に生まれ出るのをいやがっているのだ。






        このエッセーはこれで終わりである。

        いささかわたし個人の願望で語っていたり、

       独断と偏見でものごとを決めつけているかもしれないが、

       これまでの価値観がいつまでもつづくわけはないと、わたしは考えている。

        願わくは、早くこの価値観が終ってしまえばいいと思っている。

        時代の流れは、どんどん進んでいっているのである。


        最後まで読んでいただけまして、ありがとうございます。

        意見や感想などを送っていただければ、うれしいです。




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