暴力と騒乱の時代がやってくるのか

           ――鈴木啓功『国家の終焉 国民の逆襲』を読んで――



                                             1997/10/5.





     鈴木啓功という人は1956年生まれの経営コンサルタント。

     この人が書いた『国家の終焉 国民の逆襲』という本は、

    「超サイクル理論」という理論をつかって、大胆に未来を予測した本である。

     国会議事堂が爆破されたり、サラリーマンが反乱をおこしたりと、

    常識では考えられないような物騒な予測がされている。


     たしかにそういう時代がやってくるのかもしれない。

     これからの時代は、昨日までの安定した、秩序の保たれた時代が、

    延長されて存続できる時代とは、限らないからだ。

     これからも、いままでのような秩序のたもたれた時代がつづくはずだと思いがちだが、

    そんな貧困な想像力では、これからの時代は読めないのかもしれない。


     歴史の教科書でしか見たことがないような、

    暴力や騒乱の時代がやってくるのかもしれない。


     著者によると、歴史は180年のサイクルによって動いているという。

     最初の90年は大構築の上昇の時代、残りの90年は大逆転の下降の時代。

     各90年はそれぞれ30年単位で、社会、経済、政治を構築してゆく、

    もしくは順番に政治、経済、社会が大逆転(崩壊)してゆく時代にあたるという。


     現代日本は明治以降から大構築の時代に入り、

    その構築されたものが崩壊してゆく大逆転の時代に1960年の安保闘争から入り、

    30年間で政治が崩壊し、90年代から経済の崩壊してゆく時代に入ったという。

     最後には2020年から社会が崩壊してゆく時代に入り、

    2050年には明治以降構築してきた社会体制が崩壊してしまうということだ。


     著者は現代の大逆転してゆく時代と共通した時代を、

    江戸幕府のおこった1603年からの時代と、

    1781年からの幕末に求めて、それぞれの時代に起こった事件を参照して、

    未来に起こるであろう事件や事柄を予測している。


     このようなサイクルがほんとうに歴史とぴったりとあてはまるのか疑問であるが、

    現在のような混沌とした時代には、自分たちのいる場所や位置をたしかめるという点で、

    この超サイクル理論はなんらかの手がかりを与えてくれるだろう。

     なにせ、経済成長だとか消費拡大という目的を失ってしまった時代は、

    進むべき方向も行方もまるで見えないからだ。

     地図がなにもないよりか、少しでも参考になるような地図があるほうが、

    気休め程度にはなる。

     もちろんこの超サイクル理論が絶対確実なものだとは思わないが。


     これからは経済だけを視野に入れた未来予測は不可能になるかもしれない。

     そういった意味でこの本は暴動や内戦などを視野に入れた予測として、

    とっぴに過ぎるかもしれないが、重要な示唆を与えていると思われる。


     これまでの時代はあまりにも予定調和的に安定しすぎていた。

     会社勤めやサラリーマンとしての将来を計算するだけで、

    人生設計は事足りていた。

     経済や景気だけを視野に入れておれば、ある程度将来のことは予測できた。


     だが、そのような安定した社会はもう終わってしまうのかもしれない。

     人生のまっすぐなコースはなくなってしまい、

    道端のあちこちから横ヤリを投げられるような人生になってしまうのかもしれない。

     毎日が同じことのくり返しの「終らない日常」はたまらなく息苦しかったが、

    そういう時代がうらやましくなる時代がやってくるのかもしれない。


     現代と共通する経済が崩壊する時代にあたっていた室町時代には、

    京都で土一揆がおこったり、応仁の乱がおこっている。

     応仁の乱というのはそれまでの日本人を断絶させるほど、

    大きな変化をひきおこしたものである。

     近い将来(2007年)にこれまでの日本人を断絶させるような、

    大きな変化がおこるのだろうか。

     著者によるとこの年には国民の怒りが沸点に達し、内戦がおこり、

    2025年には国民の反乱がはじまるといっている。


     2025年というのは、精神医学者の稲村博のとなえた、

    若者のアパシー化による80年周期説で予測されたカタストロフィー的状況の年と

    偶然にも重なっている。

     この説によれば、80年サイクルで社会は構築され、崩壊するとみているわけだが、

    ちょうどその中間の40年目あたりから、登校拒否や無気力な若者たちが

    急増しだすといっている。

     明治のころのアパシーは夏目漱石の小説に「高等遊民」として現れているが、

    現在のアパシーはその比ではない急増ぶりである。

     明治から昭和の敗戦までちょうど80年、そして敗戦から2025年までが

    ちょうど80年目にあたるわけだ。

     現在、将来の社会を担ってゆく若者たちの精神の無気力化が、

    じょじょに進行しつつある。


     わたしはこの点に関してはまったく非難する気はないが、

    なぜなら社会が構築されてゆく時代と違って、

    社会が完成された時代はもう目標や夢がジリ貧になってゆくから仕方がないと思うのだ。

     もはや欠点や弊害ばかりが目立ちはじめ、

    若者たちはその体制に情熱や意欲を注げなくなる。

     どちらかといえば、祖父や親のつみあげてきた積み木を、

    嫌悪するほど、ブチ壊したくなっている。

     自分たちがつみあげられず、ただできあがってしまった積み木を

    壊さないよう守り続けるだけの役割は、あまりにも不満のエネルギーが蓄積され過ぎる。

     社会はこうして崩壊に向かうのだろうか。


     鈴木啓功の話にもどると、現代と共通した大逆転の時代のもうひとつのサイクルは、

    江戸幕末であり、天明絹騒動や大塩平八郎の乱、ペリー来航などがおこっている。

     つまりは民衆の暴動や政府の崩壊などがおこるというわけだ。

     現在の政府や役人のモラルはかなり目を覆うほどになっているが、

    このまま役人のしたい放題がつづけば、これまでの時代では予想もできなかった、

    暴動や反政府活動がおこるかもしれない。


     これまでの日本人はものすごくおとなしかった。

     沈黙の民であった。

     なぜここまでおとなしかったのか、なぜここまでなにもものを言わないのか、

    不思議であったが、それは不満のエネルギーが経済成長や安定に、

    転嫁されていたからだと思いたい。

     もしそうでなければ、ただ奴隷として訓化されすぎたと考えるしかなくなってしまう。

     日本人は骨の髄まで、不満や批判を失った奴隷になり下がってしまったのだろうか。


     ただこれからの時代は経済はますます悪くなってゆくと思われるし、

    生活や経済が安定できるとは限らない。

     そのような時代にはこれまでどおりの、おとなしい、体制順応の日本人ばかりが、

    生産されるとは考えられない。

     経済や生活が安定できなくなると、人々の精神は荒廃し、

    多くの不満や批判が噴出し、あるいは犯罪が多発するだろう。

     モラルが低下するというよりか、生活を維持できない人間は、

    犯罪でも犯すしか仕方がない状態に追い込まれる。


     日本人がおとなしかったのはやはり大部分がサラリーマンだったからだと思うが、     

    著者によると、1960年から30年ごとに日本株式会社が崩壊し、日本的経営が崩壊し、

    最後にサラリーマンが反乱をおこすという。

     国家総動員法による「日本株式会社」は1990年までに崩壊し、

    それから30年、日本的経営はどんどん崩壊してゆくことになる。


     このような時代になると、サラリーマンはこれまでどおり、おとなしくしてるとは限らない。

     上司や親会社の人がブスリと刺される物騒な時代になるかもしれない。

     江戸時代におこったような豪商の打ち壊し騒動や、

    暴動がおこらないとも限らない。


     ほんとうにこれまでのサラリーマンはおとなしすぎた。

     なぜ自分の人生を奪われてもおとなくしているのか、

    なぜ長時間労働や滅私奉公を押しつけられても黙々と従ってきたのか、

    不思議でならなかったが、これからは会社が従業員の生活を保障するとは限らないので、

    一筋ならぬ物騒な時代がやってくるかもしれない。


     どちらかといえば、そのほうがわたしはまだ健常ではないかと思っている。

     平和や秩序がたもたれないことは悲しむべきことであるが、

    不満や批判がまったく表わされない時代はあまりにも異常過ぎる。

     そういった意味でわたしは少々物騒な時代でも、

    不満や批判が表出されるのは、まともではないかと思う。

     それらを全部呑みこんで秩序立てられた社会や企業は、

    異常であり、病的なものであると思う。


     これまでこの社会はそんな異常な時代がずっとつづいてきた。

     いわば親の言うことをよく聞く「いい子」ばかりが育ってきた。

     だが、親のしつけや約束に反発や反乱をおこす人が増えてくるだろう。

     なぜなら、国家や企業が人々の生活や安定を保障できなくなってきたからだ。

     そういった権威にそっぽを向くのは時間の問題だろう。


     経済がうまくいき、生活や安定を保障できるときには、

    人々は国家や企業に唯々諾々と従ってきたのだろうが、

    これがうまくいかなくなると、さまざまな不満や対立が噴出しだすだろう。


     わたしはそういったことを期待している。

     いままでの社会、とくに企業社会は腐敗し、疲弊し、

    人間を幸福に生きられない社会をつくりあげてしまったし、

    時代の精神とあまりにもかけ離れすぎている。


     個人と社会の方向があまりにもズレすぎてしまったのだ。

     制度と個人がそこまで乖離してしまったのは、

    おそらく国家総動員法などによる「経済軍国化」の役割がすでに終わってしまったのに、

    それをとめることも、やめることもできないからだ。


     われわれは軍人のように企業戦士化し、生活や個人を喪失してしまった。

     そのような生き方は、貧しい時代や国家全体が豊かにならなければならない時代、

    企業が富めば個人も富むと信じられていた時代には、功を奏した方法なのだろう。


     だが、いまの時代はまったくそうではない。

     すでに豊かさを実現し、モノあまりや目的なきつぎの段階に達してしまっている。

     われわれは次なる時代の豊かさを求めなければならないステップに踏み入れているのだ。


     それなのに、国家や企業はあいかわらず国家総動員法の時代のまま、

    この戦闘体勢をそのまま存続しつづけようとしている。


     このような大幅な乖離はどうして生まれてしまったのだろうか。

     これまでの体制のなかに、官僚や政治家、財界に、

    大きな利益や既得権益ができあがってしまったからではないだろうか。

     かれらはこのウマ味を手放せず、ますます国民と乖離しつづける。


     こうして国家や企業と、個人とのあいだに深いミゾができあがり、

    対立が――かつての歴史に現れてきたように――激化してゆくのだろうか。


     このままでは、歴史のような民衆暴動や反乱がおこってもおかしくない

    状況になってしまう。

     これまでの日本人では考えられないくらい、日本人は変貌してしまうかもしれない。

     国や企業のいうとおり、おとなしく従ってきた日本人は、

    ついに武器を手に持って立ち上がりはじめるかもしれない。


     経済的な豊かさを手に入れる目的がなくなり、

    経済的な右肩下がりの時代のために、

    企業や国家が社会保障を保証できなくなる時代になり、

    多くの人の生活が困窮するような事態にたちいれば、

    これまでおとなしかった人たちもさすがに怒りが爆発するだろう。


     現在の官僚、政治家、企業のトップのモラルの低下を見ていると、

    国民の生活を真摯に考えようとする姿勢はまるで存在しない。

     国民が信頼してきた役人や経営者たちの腐敗が目に余るようになれば、

    国民たちはついにその信頼の絆を放棄してしまうだろう。


     そのときには、暴力や騒乱の時代がやってくるのだ。


     もうこれまでのような、物質的豊かさを追い求める時代は終わってしまった。

     かつて戦前の日本は、先進国がとうに放棄してしまった植民地化を、

    いつまでも継続させて、先進国から非難された。

     現在の日本も、戦前と同じように経済軍国化を手放せずにいる。


     大きな方向転換が必要なときに、あいかわらず

    過去の成功体験をくり返してしまうのだ。

     いま必要なのは、国家総動員法による経済軍国化の体制をとくことだ。

     これをやめないかぎり、国家と国民の利益はますます乖離しつづけるだろうし、

    個人は企業や国家に搾取されたまま、幸福な生活を送れない。


     時代にそぐわなくなったものは、経済至上主義なのだ。

     これをやめないかぎり、歴史にたびたび現れてきたような、

    国民の暴動や反乱という事態が、現実のものになってしまうだろう。


     だが、いまの官僚や政治家、経営者たちは、

    とてもこの方向転換をできるとは思われない。


     鈴木啓功が指摘するような愚かな歴史のサイクルは、

    ふたたびくり返されるのだろうか。

     われわれは歴史から学ぶことはできないのだろうか。




                              1997/10/11.. (終わり)



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