書物の現実、テレビの現実、マンガの現実



                                              1997/7/10.





      わたしは昭和42年生まれだが、この世代は、

     テレビ番組やアニメ、マンガによる影響がことのほか大きい。

      子どものときにはこのような「現実」に囲まれて、成長してきた。

      「仮面ライダー」や「ウルトラマン」やコミック・マンガなどである。

      このようなジャンルは、上の世代からは軽蔑されたり、バカにされてきたりしたが、

     われわれ子どもにとっては、ものすごく重要な世界だった。

      われわれはこの空想の世界を吸収しながら、大人になった。


      われわれの世代――つまりテレビ、マンガ世代――が社会に出るようになって、

     犯罪の質が大きく変わってきたように思われる。

      オウム真理教事件や宮崎勤事件、さいきんの神戸須磨小学生殺人事件などである。

      事件のなかに色濃くマンガとかオカルトとかの要素が認められる。

      わたしにはなぜ空想を現実のなかに混入させようとしたのかよくわからないし、

     なにか「ちぐはぐ」な印象を受けてしまう。

      虚構の世界を、現実の世界のなかに投げ入れてしまう――

     あるいは対抗してしまおうとしているからだろうか。


      これまでの現実の社会に、サブ・カルチャーとして成長してきた、

     虚構の世界が、抗おうかとしているかのようである。

      そのもくろみはいずれも失敗し、なにかがひじょうにズレているといった感じがする。

      空想や虚構によって力を得ようとしている者が、みごとに現実の世界に

     肩透かしを食らったという感じだ。


      だが、このマンガ世代というのは、着実につぎの世代にもひきつがれているし、

     より一層、大きなマーケットにまでなっている。

      わたしが古本屋を見つけたと思ったら、コミック・マンガ専門の店であり、

     子どもたちが、かじりつくようにマンガに読みふけっている姿をよく見かける。

      確実に子どもたちはマンガの世界に浸っている。


      わたしも子どものころはマンガに熱中したほうであり、

     非難する気は毛頭ないし、いまはそういう時代でもないと思うし、

     マンガはこの世界を理解するという意味でも重要な役割を果たしていると思う。


      ただこういうマンガによる世界の理解の仕方と、

     ほかの書物や活字などによる世界の理解の仕方には、

     かなり違いがあると思われるのだ。

      なにが明確に違うのかはっきりとは言えないが、

     物事の捉え方は違っていると思う。


      たとえば現実の世界でなにか物事が起こったら、

     マンガの映像が一瞬に思い浮かぶ人と、新聞や小説の活字を思い浮かべる人とでは、

     物事の捉え方が違ってくるだろう。

      物事を、新聞や活字などで解釈する人と、マンガで解釈する人では、

     かなりの断絶があるのではないだろうか。

      物事の捉え方の土台がまったく違う人たちでは、

     現実はなかなか噛み合わない。


      これまでのメディアで育ってきた人たちと、マンガのメディアで育ってきた人たちの、

     新旧交代のようなものが静かに進行しているのではないだろうか。

      マンガというのは虚構だからとバカにするわけにはゆかない。


      なぜなら近代の議会制民主主義というのも、

     書物のなかの「虚構」から、生み出されたものではないだろうか。

      社会主義思想も、マルクスに空想だと一蹴された思想の群れによって、

     生み出されてきたものではなかったのか。


      ヨーロッパの近代社会というのは、書物や新聞というメディアによって、

     生み出された世界ではないのだろうか。

      はじめに虚構であったものが、現実のものとして生成されていったのである。


      われわれは現在の社会的組織や機関ができあがったあとに生まれてきたから、

     それらがあたかも大昔から存在しつづけ、あたり前のようにこれからも

     存続しつづけてゆくと思っているから、なかなか理解しづらいと思うが、

     それらはもともとは人々の頭の中にあるだけであり――それもはじめは

     たった一人の独創的な人間の頭の中にしかなかったということに気づかない。


      哲学やジャーナリズムはマンガのような虚構の物語ではない。

      だが宗教的世界においては、確実に虚構の物語が、

     社会の現実として迎え入れられている。

      われわれ無宗教の人間たちから見れば、どうしても信じられない絵空事に見える

     世界観も、かれらにとっては立派なリアリティーあるものとして感じられている。

      それがかれらにとっての「現実」の世界なのである。


      マンガの世界も、リアリティーを感じることはできないということはできないだろう。


      マンガの世界が、これから社会をつくってゆくかどうかはわからない。

      だが、書物や新聞によって現実を捉えてきた世代と、

     なにか違った現実を捉える世代が確実に増えてゆくと思われるのだ。


      若者が書物や新聞より、マンガに強く惹きつけられてゆくのは、

     これからの社会の方向を示唆しているように思われる。

      言葉や活字より、マンガや映像に反応することの多い人たちが増えてゆくのだ。

      たしかこんなことは、マクルーハンがずっと前から言っていた。


      批判するとか、非難するという意味でこんなことをわたしはいっているのではない。

      確実に社会はこのような者たちが多数を占めることになるという現実を

     見つめるべきだと思っているだけだ。


      いったいかれらはどのような世界観と現実のなかに

     生きてゆくことになるのだろうか。


      書物とか活字が力をもち、権威をもっていた時代は確実に終わった。

      わたしはこの権威みたいなものに惹かれてか、いくらか哲学などをかじってきたが、

     もうこのような知識で、権威や力をふりかざすことなどできない。

      なにか空を切るような感触しか得られない。


      書物が多くの人の現実であった時代――かなりリアルな世界観であったときは、

     もう終わってしまったのである。

      わたしにはよくわからないが、マルクス主義が盛んなころは、

     おそらく、「書物」の現実が、最盛期だったのだろう。

      一冊の書物が、「バイブル」のように力をもつ時代もあったのだ。


      だが現在は、テレビやマンガの現実のほうが力をもっている。

      テレビの現実は現在ではものすごく力をもっていて、

     ニュースやスキャンダルでパッシングされた個人や組織は、

     社会的にすさまじいばかりの目に合う。

      行動や流行の面でも、テレビがかなりの強制力をもっているということに、

     日常のさまざまな経験で、思い知らされることがある。


      あるメディアが力をもつということは、共同体の人々の心のありようを、

     すべてひとつにまとめるということでもあるのだろう。

      つまり現実の世界観としての力をもつということだ。

      その力や権力、強制力といったものはすさまじいものがある。


      わたしはこのようなメディアの強制力に腹を立てて、

     社会学や現代思想などを読みあさるようになったのだが、

     このような力がなぜメディアに備わるのかよくわからない。


      現実をコピーできるというのがあるかもしれない。

      テレビや書物は、現実の捉え方や環境をみな同じものにすることができる。

      一時的に現実を共有させるのだ。

      みなが捉え方を同じにするのなら、その力は強大なものになるだろう。

      つまり同じ考え方をして、同じ行動・言動をする人間を大量にコピーしてしまうのだ。

      テレビや書物はそういう力をもってきた。


       『聖書』なんてものは、その究極の姿ではないだろうか。


       なぜ人々は、ほかの人たちの現実や環境を共有したがるのだろうか。

       だれだって、魅力的な現実・世界観に包まれていたいと思う。

       たとえばヒットする映画とか、ドラマ、音楽、マンガなんてものはそうだろう。

       魅力的な環境に、包まれていたいのである。


       人間はずっと昔から、このような魅力的な現実を創ろうと努力してきた。

       町や都市なんてものはそうだろうし、鉄道や車、船、飛行機もそうだ。

       書物や雑誌、新聞、ラジオ、映画、テレビ、インターネットというのは、

      魅力的な現実をつくろうとする努力と、人々との現実や環境を共有しようという試みから、

      生み出されてきたものだ。

       「仮想現実」や「空想」の世界の中に入り込もうとしてきたのだ。


       ひとりひとり違う頭の中の世界を、同じものにしようとしてきたのだ。

       つまり頭の中の世界を、共有しようとしてきたわけだ。


       しかしこのようなメディアは画一的な人間類型や行動を生み出してきたし、

      多様性や自由を抹殺する暴力まで生み出してしまった。

       また違う現実や世界観をもつ者や社会にたいしては、

      すさまじいばかりの暴虐や対立をくり返してきた。

       宗教の世界観や、資本主義・社会主義の世界観もそうだった。


       メディアによる現実の共有化は必然的にそのような結末をもたらすのだろうか。



       われわれの社会では、テレビが強い力をもっている。

       テレビでは見た目やパフォーマンスといったものがとても重要になる。

       このような影響をわれわれは濃厚に受けているだろう。


       これにたいしてマンガは閉鎖的な傾向が強い。

       書物や新聞といったものもこのようなタイプだった。

       そのページを開けてみないことには、どのような世界が広がっているのか、

      皆目見当がつかない。

       わたしも最近、マンガをぜんぜん読まなくなったので、

      この世界がどのようになっているのかよくわからない。


       しかしこの世界がいつ哲学や政治、宗教を語り出しても、

      おかしくないと思う。

       宗教的世界観を呈示して、それがリアルに感じられる者も

      生み出される可能性もあるだろう。

       こんな子どもじみた虚構がそこまで力をもつわけはないと思うだろうが、

      アメリカの黄金期のハリウッド映画は、ライフ・スタイルを誘引してきたし、

      トレンディードラマや流行歌が、われわれの恋愛や異性との間柄を、

      つくりだしていると思われるのである。

       これまでのマンガによっても、たとえば柔道ものやバレーボール、野球ものなどに

      憧れて、じっさいにそのスポーツにのめりこんだ者もいるだろう。

       虚構だからといってバカにするわけにはゆかない。

       虚構こそが、われわれの実社会を形成している要素も強いのである。


       マンガというのは戦後の手塚治虫などの少年漫画からはじまって、

      青年向け、大人向けとどんどん広がっていった。

       いまでは中年になっても、マンガを手放さない人もいるだろう。

       幼稚になったというよりか、マンガのレベルが上がったと考えるべきである。


       このようなマンガによって捉えられた現実・世界観とは、

      従来の人たちとどのように違うのかよくわからない。


       だが現在、これまでつくられてきた現実の枠組みや蝶番が

      どんどん緩みつつあるように思われる。

       権威やリアルさといったものが失われている。

       人々の擬集力といったものが、どんどんなくなりつつある。


       社会とはもともと虚構によって成り立っている。

       その虚構によって、分業し、役割を果たすのが、社会のありかただった。

       だがこのような社会は、物質的な豊かさを得るという目標のもとに

      組み立てられたものであって、かならずしも頑丈なものではない。

       もしその目標がなくなったり、魅力の乏しいものになれば、

      この社会の仕組みは腐蝕してゆくことになるだろう。


       これからの社会はそのようなことが起こってゆくことになるのではないだろうか。

       なにか現在の社会に、権威やしっかりとした現実のつなぎ目といったものが、

      存在しないように思われる。

       空中分解してしまいそうな、危うい社会になってしまっているのではないだろうか。


       書物や活字で組み立てられた社会は、「理性」や「知性」に信頼をおく社会であり、

      「知性万能主義」に根ざした社会だ。

       それは計画し、計算し、分配し、予定や予測をたてる社会である。

       これは将来の安定や安心をもたらしたし、

      豊かな、食糧や商品に満たされた、すばらしい社会を生み出した。


       だがそれは未来まで計画され、拘束される、

      ものすごく息苦しい、陰鬱な社会をつくりだしてしまった。

       未知数なもの、衝動、感情、気分、本能といったものが、

      まったく排除される社会だ。

       この計画主義の社会は、頭のなかに「牢獄」をつくりだし、

      そのなかに一生閉じ込められる、「地獄」の社会をつくってしまった。


       言葉や思考は、人間のすべてを内包するものではなく、

      その一部分にしか過ぎない。

       この頭脳に信頼をおき、すべてを託すようになれば、

      多くのもの――とくに制御できない自然――を排斥するようになる。

       この社会は、頭脳だけで計画する人間を生み出してしまったのである。


       計画する人生に信頼をおけば、われわれはこの未来まで決定された社会から、

      逃れることはできない。

       なぜなら、未来の人生設計がまったく狂ってしまって、

      将来の生活や老後の生活が保てないと不安に駆られるからだ。

       そうしてわれわれはやめたくてたまらない会社勤めを辞めることもできないし、

      加熱する受験戦争から降りることもできない。

       知性万能主義は、頭の中に「牢獄」をつくりだしてしまったのだ。


       この頭のなかの地獄から逃れるのは、

      将来の設計や不安を抱かないしか方法はない。

       未来なんか人間に予測できるわけなんかないと、

      予測や未来を捨てるしかない。


       現に終身雇用や年功序列で人生を計画してきた中高年の人たちは、

      いまその幻想が音をたてて崩れているのを垣間見ているだろうし、

      一足早く、計画経済のソ連は崩壊してしまった。

       はたして人間の知性が、この社会や未来をすべて制御することなんて

      できるのだろうか。


       われわれはこの知性の計画主義を部分的にでも投げ捨てて、

      自分の感情や気分を大事にできるような社会をとり戻すべきではないだろうか。


       テレビやマンガの現実は、この知性万能主義に、

      風穴を開けることができるだろうか。

       未来を計画するのではなく、現在の楽しみや享楽に価値や生きがいを

      みいだす人々を生み出させるだろうか。


       知性主義は、未来や現在の牢獄をつくりだしてしまった。

       だがこの社会はどんどん緩みつつあり、形骸化しつつある。


       テレビやマンガでこの世界を捉えてきた者たちは、

      これまでの計画社会と違った社会を生み出すことができるだろうか。

       未来や将来の不安を抱かない生き方やシステムを

      選択することができるだろうか。


       未来や将来なんかわれわれの手で操ることなんてできない、

      そう悟ったとき、われわれはこの頭の中の牢獄から逃れられるのではないだろうか。




                           (終わりです)




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