考えるための哲学エッセー集




       日本経済社会崩壊のとき


                                                   1997/7.




       毎日、会社や学校に行き、夕方になれば、ベッドタウンのわが家に帰ってきて、

      つかの間、家のベッドで休息しては、つぎの朝に同じことを延々とくり返す。

       週末にはレジャーや旅行をし、夏期休暇や正月には慣習に従った行動をする。


       この「終らない日常」はいつまでもつづくのだろうか。

       学生のころのわたしは、こんな息のつまるような、不自然な社会なんか、

      いつか、影も形もなくなっているだろうと漠然と思っていたが、

      いつまでも終わる気配はない。

       こんな人間のためでない社会は変わって当然だと思っていたのだ。

       いつまでもつづいてゆくのだとあきらめかけのころ、

      ――社会や経済はものすごく固定的なものだと思いかけていたころ、

      どうもこのシステムがぼろぼろに綻びはじめていることに気づいた。


       ベルリンの壁の崩壊やソ連の崩壊、冷戦の終焉が起こったとき、

      それがなにをもたらすのか、わたしにはぜんぜんぴんとこなかった。


       じつは、戦後の繁栄というのは、社会主義というライバルがいたからこそ、

      資本主義圏は見せびらかし消費に熱を入れたのであり、

      また冷戦という「戦争」状態は、物価の上昇と好況をもたらした。

       冷戦が終わるということは、これらの繁栄の条件がなくなるということである。


       バブルが崩壊し、莫大な不良債権が、

      銀行や証券、保険会社など、金融業界に残された。

       浅井隆はこれが引き金になって1930年代のような大恐慌が起こるといった。

       だが政府がそれを押しとどめ、爆発寸前の金融システムはかろうじて糊塗された。

       返ってこない大量の借金を背負った銀行を、またまた莫大な借金体質を

      やめれない日本政府が、丸抱えにしたのである。

       スーツの下に破裂しそうな水風船を隠しながら、

      ぽつぽつと小さな水風船を落としてゆくのが、これまでの政府のやり方である。


       右肩上がりの経済は終わってしまった。

       大量に生産すれば、売れるという時代は終わったのである。

       それは多くの消費財が、ひとびとの手に渡っていない時代に、

      可能な生産形態である。

       マイ・カーやテレビ、洗濯機、冷蔵庫、電話といったものが、

      すべての家庭に行き渡ってしまえば、その有利さは消える。

       安いコストで大量に造っても売れ残るのなら、なんの効用もない。

       それは豊作や大漁のときの値段の暴落となんら変わりはない。


       このような大量生産には、大企業のほうが適していた。

       だが市場が飽和してしまえば、大企業の有利さはなくなる。

       いままでの最高の条件であったものが、最悪なものに転化してしまったのだ。


       大企業は市場がまるで永遠に拡大してゆくかのように、

      大量の従業員を雇用し、しかも終身雇用、年功序列の神話によって、

      かれらの全人格や時間を奪ってきた。

       市場が頭打ちになったとき、はたして、

      大量の社内失業者が出るのはとうぜんである。

       企業に全人格を捧げつくすように洗脳されてきたかれらが、

      さまざまな特典や権益といったものを享受できないと知ったとき、

      どのようになってしまうのか、恐ろしい気がする。


       このような時代がはっきりと終わったのだという、

      サラリーマンたちの意識の変化は、まだ起こっていないように思える。

       そもそもそんな約束や契約なんか明確には、交わしてこなかったのだろうが、

      この約束がまったくの空約束だとわかったとき、かれらはどう思うのだろうか。

       やっぱり日本のサラリーマンらしく、無力にうなだれきって、

      「シカタガナイ」とあきらめてしまうのだろうか。


       日本のサラリーマンが励みにしてきた年金や年功序列といったものは、

      あくまでも右肩上がりの拡大経済において、成り立つものである。

       経済成長や若年層の増加が見込まれないこれからは、

      はたしてこの仕組みは、耐えてゆくことができるのだろうか。

       これから高齢化社会になりつつあり、しかも経済は停滞しつづけるとなったら、

      この制度も破綻してしまうのではないだろうか。


       政府や企業はこの年金という制度を守れるのだろうか。

       子どもの数は減りつづけ、経済は成長してゆくとは限らず、

      へたをすると、国家財政破綻や金融恐慌の起こる可能性すらある行く末に、

      だれがなんの保証をできるというのだろうか。

       それらを保証する公務員でさえ、リストラの憂き目に遭うご時勢である。


       過去にカネがなんの値打ちもなくなった例も、何回もあっただろうし、

      たとえば敗戦時の占領国での日本円や、

      第一次世界大戦で負けたドイツなどは天文学的なインフレが襲ったそうだ。

       ロシアやメキシコでも、また歴史上の国家が滅ぶときもそうだったのだろう。

       これからの日本にそのような惨劇が襲い、いつわれわれの蓄積してきた金銭や、

      年金や保険といったものが、ただの紙クズになってしまうかもしれないのだ。


       カネというのはふだんわれわれはそれが何なのかまったく意識してもみないが、

      相手やまわりの人がそれに値する価値のものを返すと保証する限りにおいて、

      保証されるものだ。

       つまりそれはたんなる保証や信頼でしかないのだ。

       保証する当の本人が、なんの責任ももてないとなると、金の値打ちは急降下だ。

       日本だけではなく、アメリカや世界経済すらも、壊滅してしまうと、

      だれもカネの値打ちを保証してくれるものはいない。

       でもこのことだけはなにがなんでも回避されるだろう。

       これでは文明社会の看板を下げて、野蛮社会へ逆行だからだ。


       カネというのは人々の保証によって成り立っているのだが、

      金持ちや多くの人は、少しでも多く自分の手元に蓄積しようとする。

       これはほかの人々を未来永劫まで働かせたり、サービスを受ける権利を

      得ることであるが、わたしはこの仕組みがなにか危ういように感じられる。

       みんながこの権利を得ようとおおぜいがつめかけると、

      どこかで不均衡が生じ、壊れてしまいそうな気がするからだ。

       カネというのは、ひじょうに危ういガラスの権利ではないのだろうか。

       どこかで貯めこんだり、流れをせきとめたりすると、

      けっきょくは、その価値や権利さえ消滅してしまうものではないだろうか。


       経済が成長しているころには、そのような心配はまったく不要だった。

       だが経済が停滞もしくは低成長のとき、これまでのような未来の安心を手に入れようと、

      めいめいが蓄積に走ると、たちまちカネの循環はストップしてしまうのではないだろうか。

       拡大成長のような未来の保証はだれもできないからだ。

       過去の延長が明日もつづくと思われているときにのみ、

      カネの蓄積は役に立つのではないだろうか。

       明日の保証ができない時代に、将来の自分を守ろうとする、

      カネの蓄積は意味をなすだろうか。


       われわれの社会は、老後までを計画して働く社会である。

       若くから定年後の年金や退職金のことなどを計算しながら、働く。

       これが現代の若者たちに将来に対するものすごい不安感や

      重みを感じさせる原因であろうし、学歴競争の加速する根底にあるものだろう。


       この将来や老後までを考えて計画する人生というのは、

      若者や学生にとっては、ものすごく重苦しいものである。

       親や中高年の世代は、安定や将来の安心をものすごく渇望するのだろうが、

      人生がはじまったばかりの学生や若者は、未知数であるがゆえに、

      この押しつけがたまらなく重苦しく、息苦しいものだ。

       人生を生きようとしているのに、いきなり棺桶のなかが安心だと、

      年老いた親や社会に連れ込まれるのは、たまったものではない。


       だが、このような人生設計は、経済が拡大成長しているときにだけ成り立つものだ。

       この経済や企業が、自分が年老いても永遠に好調につづいていると

      保証されるかぎりにおいてのみ、このような計画は成り立つ。

       経済成長が下り坂になったとき、この将来設計はご破算だ。


       それは退職金や年功序列による給料アップを前提にして、

      マイ・ホームのローンを何十年も組んだサラリーマンが、

      定年前にとつぜん解雇や失業、倒産の憂き目に遭うようなものだ。

       現在の日本経済は、返せる当てのない借金を背負った、

      ローンづけのサラリーマンのようなものだ。


       日本の社会は、ことごとくこの前提のもとに組み立てられている。

       つまり拡大成長、給料アップ、過去の延長拡大だ。

       年金や退職金による老後の生活、マイホームのローンというのは、

      すべてこれらを前提にして組み立てられているのではないだろうか。


       だが、そのような経済成長の時代が終わった現在、

      頼みの綱にしていた年金や退職金を、だれが保証してくれるというのだろうか。

       目指していた年金や退職金が、企業の消滅や経済の下り坂によって、

      いつ、なくなってしまうかわからないのだ。

       つまり将来や老後の安全までを計ろうとする計画は、

      もう立てれないということだ。

       この計画は、経済全体が右肩上がりの繁栄を享受しているときにのみ、

      叶うことができる計画ではないだろうか。

       もうそのような時代は終わった。


       もしこのことが確実なら、若者にとっては願ってもないことではないだろうか。

       つまり若いうちから将来や老後の保身を願って、

      がむしゃらに勉強したり、決められたレールの上を走らなければならない、

      という、これまでの強烈なプレッシャーを投げ捨てることができるからだ。


       将来の安心を計れない経済はとても不安なことかもしれない。

       だが、若者や学生にとっては、そのことがものすごい重圧の原因になっていた。

       寄り道や放逸、遊びややりたいことが、将来の安定や保身のために、

      すべて禁止されてきたのである。

       これでは人生を楽しもうとしている若者にとっては、死ぬほど苦しいことだ。


       だが、高い経済成長が見込まれなくなった現在、

      ――きのうの延長が未来にあると約束されなくなった現在、

      そのような計画的な人生設計は意味をなさなくなるのではないだろうか。

       若者は一流大学や一流企業に入ったら、老後まで安心だという、

      これまでの共同の幻想は、バブルのように破裂してしまったのである。

       若者が翼を伸ばせるような環境が生まれ出したのかもしれない。


       だが、この社会はこれまでの過去のやり方をずるずるとつづけてゆこうとしている。

       すべてが拡大成長の時代の産物によって、まだまだ動いている。

       右肩上がりの意識が、ほとんど拭い去られていないのである。

       これまでと同じ経済社会の仕組みが、ずっと温存しつづけている。


       なぜこのように足踏みをしているのか考えると、

      おそらく過去の延長がこれまでどおりつづいてゆくはずだという、

      漠然とした認識をもっているからではないだろうか。

       まだまだ拡大成長の時代は終わっていないのだと思っているのかもしれない。


       つまり急激な経済条件の変化に気づいていないのではないだろうか。

       急にこれまでの経済条件が変わってしまったり、

      頭打ちになってしまったということが、理解できないのではないか。


       これまでの時代が完全に終わってしまったという、「目印」や「象徴的事件」と

      いったものが明確に現われ出ていないということに原因があるのかもしれない。

       早期退職制度やマイホームのローンが返せない中高年サラリーマン、

      管理職の自殺の増加などはぽつぽつと出始めているが、

      それが社会全体の出来事までになっていないのだろう。


       まだ、これまでの経済社会はもちこらえている。

       なぜこの仕組みが足元から崩れ去ってしまわないのか、ふしぎだが、

      この崩壊を恐れる政府や企業が必死に押しとどめているのが、

      現在の状況ではないだろうか。


       誰もがこの経済システムが崩壊してしまうことに、

      ひやひやしているのではないだろうか。

       これまで蓄積してきた富や権利、権益といったものが、

      一晩であっさりとなくなってしまえば、だれだってたまらない。

        そうしてこれまでの経済システムを、

       かれらは必死に支え合っているのではないだろうか。


        だがこの経済システムはいつか崩壊してしまうことを避けれない運命だと思う。

        浅井隆がいっているように、世界経済は世界を支配する覇権のパワーが弱まると、

       どうも一時的に経済の調子が悪くなるようである。

        1929年以降の大恐慌は、大英帝国のパワーが落ちたときに起こった。

        現在もアメリカのパワーが転がり落ち続けている状況にある。


         富が一ヶ所に蓄積されすぎたというのもあるだろう。

         自分の保身や安定のためにカネを貯めた人が集まりすぎると、

        その将来に約束された富を、だれも返せなくなってしまう。

         つまり未来に返されるであろう富を、だれも支払えなくなってしまうのだ。


         経済の繁栄や成長がとまってしまったというのもあるだろう。

         成長経済のなかでは富を稼いでも、将来帰ってくるという保証があったが、

        成長が鈍化してしまうと、蓄積された富のみが虚空にとり残されてしまう。

          カネや富というのは、未来にそれに値するものを返してくれるヒトやモノが

         あってこそ、成り立つものではないだろうか。

          もしこれまでの工業社会が完全に完成してしまったとするのなら、

         蓄積された富は、なにによってその見返りを得ようとするのだろうか。



         なによりも、工業社会の夢が終わってしまったというのがあるだろう。

         マイ・カーやテレビ、洗濯機や掃除機、電話などの、

        戦後の人たちが夢見た「アメリカン・ウェイ・オヴ・ライフ」が、

        完成を見てしまったのである。

         目標に達してしまったということは、それが終わってしまったということであり、

        もはや目指すものも、夢も何もないということだ。


         だれかの言葉にこんなものがあった。

         「不幸には二種類がある。

          夢が叶わない不幸と、夢が叶ってしまった不幸である」


         社会はもっと早くからこの状態に達していたはずだ。

         つまり、「大きな物語」はとっくに終わっていたのだ。


         西洋列強にならぶ軍事大国や経済大国になるという大きな夢や、

        立身出世だとか、社長や高いポストにつくという夢が、

        終わったり、まったく魅力のない、つまらないものに化してしまっていたのである。


         このような夢はほんとにもっと早くから、溶け出していた。

         ただ生活したり、老後の生活を確保するためや、生きるためだけに、

        この経済社会を惰性的につづけてきたのである。

         そのためにこの社会はものすごく硬直化してしまっており、

        魅力のない、つまらない、過去を強迫的にくり返す自動循環機械に、

        堕してしまった。

         人間の幸福や楽しみといったものが、

        まったく顧みられない社会になってしまったのである。


         あるいは西洋化をはじめた時点から――物質消費をおこなうことが幸福だと

        勘違いしたときから、この社会はほんとうの幸福をみいだす努力を

        排除してきたのかもしれない。

         それが現在の腐りかけた経済システムと社会を置き残していったのだ。


         いまはじめて、消費社会が完成して、これが幸福や豊かさを

        もたらすわけではないことを、社会的な共通認識として得ることができたのだから、

        人間にとってのほんとうの幸福や豊かさとはなんなのか、

        と問い直さなければならない時期なのかもしれない。


         かつての人たちが憧れた消費社会は到達してみれば、

        企業や労働が、全人格や人生を支配するシステムだった。

         また家族や地域社会、人々のつながりといったものを、

        破壊したり、断絶するものだった。

          われわれは経済システムの歯車として、人間でない、

         まるで機械のような毎日のくり返しをリピートさせられているだけだ。

          憧れた消費社会は、われわれを機械の一部品にしてしまったのだ。


         このような経済システムや企業社会にたいする批判や不満、

        不快感や不安といったものはこれまでもたくさん出てきただろう。

          だがなにひとつ、このシステムを変えるようなことはできなかった。


          しかし、社会精神といったものは確実に腐敗してきていた。

          目標や目的をもてない若者たちがどんどん増えてゆき、

         一流企業も社会の倫理と抵触する犯罪を平気でおこなうようになった。

          昨今の官僚のトップの逮捕や、一流企業のトップの逮捕などは、

         このポストをめざした学校教育の屋台骨をみごとに揺るがすものだろう。

          いったいどこの子どもが、犯罪を犯すトップの地位を、

         教育に十数年も費やして、目指そうとするのだろうか。

          消費社会のシステムや形だけが残り、

         そこに求めるわれわれの夢や精神といったものは、

         まったく空っぽになってしまった。


          だれも楽しみを求めようとしない、動き続ける遊園地のようなものに、

         現在の経済システムは、なってしまったのである。

          だがその遊園地を動かしつづけないことには、

         われわれ個人はメシを食えないことを知っている。

          だからわれわれは精神的にゴーストになってしまった遊園地を、

         運営し続けるほかはないのである。


          だが、社会の精神が「空洞化」しはじめると、なぜか、

         経済システムはいろいろなところで影響をうけて、

         活力や魅力を失ってゆき、メルト・ダウンする方向に進んでゆくようである。

          もはや新しい魅力をつくれない社会は、

         底辺から崩れざるを得ないのである。


          アーノルド・トインビーはかつて文明というのは、

         魅力をつくれなくなった創造的支配者が、

         力で大衆を支配することになり、それによって滅ぶことになるといった。

          文明というのは、創造的少数者がつくりだす魅力にひかれて、

         おおぜいの人がそれを模倣することによって成り立つのである。

          魅力という言葉はあまり明確なものではないが、

         われわれはこのようなものに惹かれて、文明の運営を助けるのである。


          この戦後経済社会は、若者たちにとっては明らかに、

         魅力のない、権力でねじふせる形だけのシステムに成り下がってしまった。

          あるいは工業社会、資本主義社会というのは、

         昔からそういう性質をもっていたのかもしれない。

          だが、昔はアメリカ的な消費生活だとか、会社での地位や収入が上がるだとか、

         経済大国になるだとか、ちゃんとした学歴をもっていれば将来は安定するだとか、

         そういった吸引力や魅力が、建て前では、存在していた。

          そういう牽引力がどんどん失われていったとき、

         若者はドロップ・アウトや登校拒否、いじめ、モラトリアム、アパシー、精神病理、

         といったかたちで、この社会から無意識に逃れるようになってきた。

          自分をそういう病的状態に追い込むほか逃げ道のない、

         がんじからめの社会になってしまったのである。


          この経済システム、企業社会は、そういった若者にふたをすることによって、

         これまでずっとやってきた。

          だが、ひとつの共同体においては、外部に起こることは、

         かならず成員たちの個人の内部においても、同じことが起こっている。

          モラトリアムやアパシーは、多くの若者たちに共有された心情であるし、

         犯罪者の生い立ちや環境は、われわれとまったく同じ性質のものである。

          かれらを自分たちとは違うのだ、自分の中にはそんなものはない、

         と排斥することによって、われわれはかろうじて平常心を保ってきたといっていい。


          社会はもはや目的や目標を失いながら、

         精神のなくなった経済システムだけをむりやりつづけている。

          勝つことも、完走することの目標もなくなったマラソンを、

         むりやり走らされているようなものだ。

          走るのがとめられないのは、経済が壊滅したり、

         生活の糧を得ることができないからだ。

          だがわれわれひとりひとりのこのような怖れる心が、

         この非人間的な経済システムを継続させているのではないだろうか。


          だが、けっきょくのところ、このような精神の内部から崩壊してゆくような

         システムというのは、遅かれ早かれ、機能不全に陥る。

          人間の社会や共同体といったものは、個人の心や精神といったものが、

         もっとも大事な要になるもので、「大きな物語」や「神話」「宗教」といった、

         共同のヴィジョンが失われてゆくと、社会システム全体が、

         瓦解してゆく方向に進む。

          精神のなくなった形骸化したシステムは、

         もはやその崩壊を押しとどめることができない。


          稲村博はその著『若者・アパシーの時代』のなかで、

         明治の終わりころから、現代の無気力人間と共通する若者たちが、

         夏目漱石の「高等遊民」などに現れているといった。

          そのあとの日本がどうなったかというと、昭和恐慌や戦争などをへて、

         焼け野原というカタストロフィー状況を迎えるのである。

          著者は今回は2025年にそのような状況に陥るとしたが、

         現在のシステムはとてもそこまでもちこたえられるとは思われない。


          日本社会はおそらくこのような壊滅状態にならないと、

         このシステムを変えることも、動かすこともできないのだろう。

          壊滅状態になっても、現在のような個人や会社の利益や保身だけを

         追求することになると、この社会はもっと酷い目に陥るだろう。

          江戸時代の飢饉というのは、不作のときの金儲けをたくらんだ人たちが、

         食糧を買い占めた結果、おこった「人災」だとも考えられる。

          このような自分の利益や保身を守ろうとする心が、

         この共同体を壊滅状態に陥れたのだということに気づかなければ、

         それはもっと過酷なものになるだろう。


          この社会はいつも、「なにか」が起こらなければ、対処しようとしない。

          事件や事故、災害などは、起こってから後追いに処理されるものだ。

          個人で言えば、病気になってはじめて治療にいく。

          だがもっとも大事なのは、病気になる前のわずかな兆候に気づき、

         その予防につとめることではないだろうか。


          この社会は、瀕死の重病になるまで手をつけれない。

          なぜかというと、批判や改善の意志を、

         徹底的に削ぎ落とす仕組みをつくってきたからだ。

          それは「反社会的」なことであった。

          予防的なことまで、反社会的だとして、徹底的に抑制されてきたのだ。


          経済や社会はものすごいスピードで動いている。

          批判や改善のできない社会は、時代の流れにとりのこされてゆく。

          ましてやこのような批判精神を反社会的だと決めつける社会では、

         なおさら大昔の制度は幅を利かせつづける。

          ソ連の製造品があんなにまで古臭いのはこれでわかるというものだろう。


          なぜ、われわれの社会は、ふだんの友達関係から始まって、

         批判的な会話ができないのだろうか。

          若者たちにとって、政治や社会、宗教、心理、哲学といったものを、

         会話することは、ものすごいタブーであった。

          おそらくいまだにこのようなことを話せば、友達から冷笑されて、

         相手にされなくなるだろう。

          わたしも学生のときにはこのようなタブーのなかで生きてきたのだが、

         知識の渇望のほうが強くて、タブーを働かせる集団や友達といったものと、

         つき合わなくなってしまった。

          表面的なショッピングやレジャーももう楽しめるわけがない。


          哲学的な話は、人が集まるようなところでは、あまりわたしはしなかった。  

          おそらく、わたしのなかには、「やましさ」や「後ろめたさ」があるからだろう。

          また個人で話し合っても、なんのメディアも影響力ももたないのだから、

         はじめから無意味であるとわかり切っていたからかもしもれない。

          黙ってマスコミや企業の言いなりになるしか、政治力や法的手段を

         もたないわれわれは、なすすべがなかったのである。


          けっきょくのところ、企業が人々の生存権をすべて握ってしまった、

         ということにあるのだろう。

          企業を批判したり、たてつくようでは、われわれは収入の口を見出せない。

          黙って従うほかないのだ。

          また、大量生産の時代には、規格型の人間が求められたというのもあるだろう。

          企業が決めた枠組みや鋳型に従うことが、

         工業社会での生き残る道だったのだ。

          われわれは批判の意志をもぎとられ、手足のない状態で、

         企業にゆだねるほかはなかった。


          だがこのような工業社会の仕組みが有利に働く時代は、

         もはや終わろうとしている。

          アメリカ的な生活――マイ・カーや電化製品といった大量生産品が、

         ほぼすべての家庭に行き渡ってしまったからだ。

          過去の規格化されたやり方が、まったく通用しない時代に入ってしまったのだ。


          まったく新しい発想を創り出さなければならない時代になったのである。

         このような時代には、批判や疑問を抱くことが、ものすごく大事になってくる。

          そうしないと新しいものはまったく生まれ出てこないし、

         ましてや現状に満足している者が、新しいものを考え出すわけがない。


          安価の労働力をもった東アジア、または東欧の国々が、

         工業化しようとしている現在――その到達のスピードはますます速くなっている、

         かれらと同じことをしておれば、やがてはかんたんに追い抜かれる。

          過去の成功したやり方を破壊して、

         創造的な力を生み出してゆかなければならないのである。


          だが、日本社会はおそろしいほど、規格品にぴったりとおさまる、

         大量生産型の人間を、大量に製造してしまっていた。

          あまりにも日本人は大量生産型の社会に適合してしまったがゆえに、

         これから必要とされている独創性・創造性の社会に、

         まったく適合することができないのである。

          目指すべき価値が、180度転換してしまった。

          規格品から、独創・創造型の人間と社会にである。


          そのような社会には果敢に現在のありかたに

         疑問や不満をいだく精神が、必要となってくる。

          現在の学校教育や企業社会の風土に、

         そのようなものが少しでも認められるだろうか。


          学校教育も、父母たちも、規格品型の子供たちを

         いまだに大量に創り出そうとしている。

          学校というのは、大量生産時代の産物なのだろう。

          官僚制度というものは工業社会の産物であるが、

         それがつくりだした学校制度も、同じく工場労働に適した人材を

         大量に生み出すシステムである。

          官僚や政府が守ってきた業界というのは、時代や変化にまったく適応しない、

         旧弊な、時代遅れのサービスに成り下がってしまっているが、

         学校制度も、その競争に適しない古ぼけたシステムなのだろう。

          銀行の横並び志向が問題になっているが、

         学校もビッグ・バンが必要なのかもしれない。

           いちばん早く未来に適応しなければならない若者たちが、

          いちばん古臭い官僚システムに呑みこまれてしまっているのは、

          悲惨な未来しか予想させない。

          企業の雇用条件も恐ろしく横並び志向だが、

         いかに時代に適合していないか、わかるというものだろう。


          だが、このような変化を社会のどれだけの人が気づいているというのだろうか。

          工業社会に適応した中央官僚統制の横並び社会をつくってしまったがゆえに、

         大きな時代の変化にまったく適応できなくなってしまった。


          現在の工業社会型のシステムの上部にいる人たちは、

         生活がかかっているし、家庭も守らなければならない。

          とうぜんこれまでの権益や安定と、それをもたらすシステムを

         維持しつづけようとするだろう。

          時代の変化にすばやく適応できない社会システムというのは、

         自分の収入口を守ろうとする、あたり前の意識がつくりだしているともいえる。

          だから社会は明らかに時代に適合していなくても、

         その旧弊なシステムを守ろうとするのである。

          けっきょく、その犠牲は、未来にいち早く気づき、

         適応しようとしている子供たちにしわよせられるのではないだろうか。

          皮肉なことに守ろうとしている子供たちが、

         そのために犠牲になるのである。

          学校の登校拒否やいじめ、アパシーなどはその現れである。


          これからの時代変化に適応しようとするのなら、

         現在の中高年者層の労働力移動が、かなり自由にできるシステムが

         必要になるのではないだろうか。

          現在のような失業したら再就職先がまったく見つからない状態では、

         意地でも職場にしがみつかなければならないし、それはとうぜんの選択だ。

          まずはかなり自由な受け皿が必要になるのではないだろうか。


          でないと過去の旧弊な組織やシステムにますますしがみつく結果になるだろうし、

         変化できないシステムはますます子供たちをさいなめることになってしまうだろう。

          組織が中高年者に閉鎖的になるのではなく、

         もっとも開かれてなければならないのではないだろうか。


          だが皮肉なことに、組織は中高年に高い賃金を払うようにできている。

          ほかの会社に移れば給与がダウンするのなら、

         意地でも勤続年数の長い会社にしがみつくだろう。

          このような意識が組織のものたちにほとんど共有されているとなったら、

         なんとしてでも過去やこれまでのありかたを守ろうとするだろう。

          時代の変化に適応できないのはとうぜんである。


          工業社会にあまりにも適応しすぎたシステムが、

         時代の変化を頑固に拒もうとしているのである。


          けっきょくのところ、この日本社会はこの変化の波に乗ることに、

         失敗するだろう。

          変化を拒む人たちがあまりにも力を持ちすぎているのだ。

          かれらは過去の常識を守ろうとする人たちであり、

         それによって利益を得る人たちであり、

         そのために現実の変化を見ようとしない人たちである。


          社会はいつだって、このような変化を拒む人たちによって、

         時代の変化に適応することに失敗してきたのだろう。

          生活がかかっているのだし、力をふるえるポストにあるのだから、

         とうぜんそれを手放そうとはしないだろう。

          しかしそのような自分を守ろうとする意志が、ときには、

         現在の北朝鮮の飢餓問題や、崩壊前のソ連の経済停滞など、

         社会に多くの損害と被害をもたらすこともあるのではないだろうか。

          権力をもった人たちはおそらく過去を守ろうとして、

         けっきょくは、時代の流れに逆行してしまうのだろう。


          いまは世界的規模で大きな変化が起こりつつある。

          冷戦が終わり、車の時代の電化製品パラダイムが終焉し、

         東南アジアや東欧諸国が工業化に大量にのりだし、

         情報化社会や知識社会とよばれる時代が始まりつつあるところである。


          この変化に目をつぶり、拒もうとする人たちは、

         未来の経済社会を壊滅状態に導くのではないだろうか。




                                     (終わり)




          これまでのべてきた経済や社会に関するエッセーは、

         推察や予想にしか過ぎません。

          未来がどうなるだとか、現在の困難な状況の原因など、

         明確にわかるわけなどありません。

          あくまでも、わたしがこうではないかと予想したものでしかないのです。

          わたしにはわからないことだらけです。

          したがって、これはあくまでも一考察でしかありません。



          最後まで読んでいただけまして、ありがとうございます。

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         BOOK REVIEW
         「経済や社会は、これからどうなってゆくのだろうか」

           このエッセーを書くための参考にした書物はほとんどこの中にあります。

           とくに堺屋太一と浅井隆の書物には多くを得ています。



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