カッコいい人がいなくなった
                     ――カッコよさから未来を探る――


                                            1997/11/3.





      稚拙に聞こえるかもしれないが、人間はカッコよさをめざす。

      人や社会からカッコいいと思われる行動や格好を見せびらかすことが、

     これまでの人間の歴史や社会をつくりだしてきたといっても、過言ではない。

      カッコよさをめざして、社会は動いてきた。


      今世紀では、車を乗り回したり、電化製品をたくさんもっていたり、

     器用に操ることが、カッコよかった。

      人々はそんなカッコよさに憧れて、がむしゃらに働き、それを手に入れようと努力してきた。


      だが、人々の大半がそれらをもち、使いこなすようになると、

     なんのカッコよさも憧れも感じなくなる。

      そんなカッコよさは打ち捨てられ、せいぜい未開民族たちの驚きをバカにできるだけだ。


      カッコよさとは、男にとっては女にモテることであり、

     女にとっては男にモテることであり、あるいはそれぞれ、同性に羨望されることである。

      異性獲得の戦略といっていいかもしれない。

      人間社会あるいは文化は、異性獲得の戦略が極度に肥大した結果、

     できあがった産物ともいえる。

      人間行動のほとんどを性に帰することは、いやな印象を与えてしまうものだが、

     それがあちこちに顔を出していることは、やはり否定できないことではないだろうか。


      現在、カッコいい、憧れるような人がいなくなった。

      それは消費社会が新しいライフ・スタイルを提示できなくなったことにその一因がある。


      最近、出てきたパソコンやインターネットに興じる人というのは、

     人々の強迫観念を駆り立ててはいるが、よだれが出るほど、カッコいいというわけではない。

      携帯電話は、街中で人々に見せびらかすことができるという点で、

     これまでのカッコよさの延長線上にあり、憧れる人も多いのだろうが、

     そんなにあちこちに用事があることがそんなにカッコいいのか、疑問である。


      これまでの社会は、車や家電をもつことがカッコよかった。

      アメリカや日本では、車がないことには女性をデートに誘うことはできなかったし、

     テレビやエアコン、洗濯機、冷蔵庫などをもつことも、いまではなにも感じないだろうが、

     当時はカッコよく、女性たちの憧れの的になったことだろう。

      女性たちはそんなライフ・スタイルをもつことができる月給制のサラリーマンに憧れ、

     かれらの妻となり、団地やマンションの中に入っていった。


      最近までは、女性たちはサラリーマンのなかでも、とくに高学歴や大企業に

     属するブランド人間をカッコいいと思い、そのような相手を結婚相手にもとめた。

      だが、結婚してみるとそのようなサラリーマンはただ会社の奴隷のような存在であり、

     保守的でなんの気概もなく、マザコンであることに驚いた。

      しかも現在、大企業のトップの犯罪がぼろぼろと噴出しており、

     また大企業の市場は成熟化しており、これからさらなる成長が見込まれるとは思われない。

      つまりサラリーマンは落ち目なのである。


      サラリーマンはもうモテなくなると日下公人はいっている。(『これからの10年』PHP)

      女性に好まれるのは実業家やデザイナー、コンサルタント、巧なしとげたフリーターなどに、

     移り変わっているといっている。

      たしかにサラリーマンはもうカッコよくないだろう。

      たんに会社にこき使われるだけのなんの反骨精神ももたないような、

     ふにゃけた従順な人間が、とても女性にモテるとは思われない。

      これまでのサラリーマンは驚くほど、おとなしく、奴隷的になりすぎた。      

      たしかに将来や老後のことを考えてかなり堅実に生活しているのだろうが、

     これならおもしろ味もなん魅力もないばかりか、ただ貧弱すぎるだけである。

      男に魅力がなくなったのである。

      こんな情けない男が、女にモテるわけがない。


      じじつ、女たちも腹を立てている。

      キャリア・ウーマンの夢もしぼんでしまったし、結婚して所帯のなかに入れば、

     退屈でよどんだ家庭と地域社会が待っているだけであり、なんの夢もない。

      夢のない生活に彼女たちが、不倫に熱狂するのはとうぜんである。

      毎日同じような日々がつづく男の会社生活もとても退屈だが、

     女性の家庭生活も想像以上に退屈で息詰まるようだ。

      若い女性たちは、やはり母親の家庭に釘づけられ、父の言いなりになった生涯を、

     たいそう軽蔑しており、そんな人生を送りたくないと思っている。

      だからキャリア・ウーマンが憧れられたり、結婚年齢が遅くなっているのだろう。


      カッコいい人も、憧れるような行動もなくなってしまった。

      若者たちはファッションを着飾ることに熱中しており、

     そのようなことがカッコいいと思っているようだ。

      だけど、表面的なことをそんなにとりつくろったとしても、

     たんに演技したり、カッコいいように演出しているだけで、

     ほんとうのカッコよさがそこからにじみ出ているわけではない。

      ファッションを着飾るということは、中身は空っぽであると表明しているようなものだ。


      現代人のなかには社会体制に反抗するものや、反骨精神をもったものは、

     表面的にはほぼいなくなってしまった。

      既存の社会体制や権力構造に異議をとなえ、果敢に挑戦していった人は、

     とてもカッコよかっただろうし、ヒーローだっただろう。

      ヨーロッパにはロビン・フッドとか、権力に挑戦するヒーローがいた。

      だが、いまの日本人にはまったくいない。

      ふぬけた、権力や体制に盲従する家畜ばかりが、

     ぼうふらのように大量に発生している。

      カッコいいわけがないし、子どもたちが大人や社会に魅力を感じないのはとうぜんだ。


      長い歴史のなかでは、カッコいい男とは、軍人ではなかったのではないか。

      アレクサンダー大王とかナポレオンとか、チンギス・ハーンとか、

     広大な大地を侵略するものが、英雄ともてはやされた。

      今世紀は多くの残虐な戦争の歴史から、平和を切望したり、

     あるいはサラリーマンや商業に従事する人が多くなったから、

     そういう暴力的な英雄は、水面下に抑えこめられたのだろう。

      だがこれからそういう荒くれ者のカッコよさがいつ復活してくるかもしれないし、

     人間とは、残念ながら、そういう暴力性を抱えもっている存在なのかもしれない。

      それに現代はあまりにも従順な者ばかりが増えてしまい、

     息がつまりそうだ。

      極端におとなしくなりすぎたから、ゆり戻しもそれだけ極端になるかもしれない。


      知的であることが、カッコいいという時代でもない。

      かつては私小説であるとか、哲学することがとてもカッコいい時代もあったのだろうが、

     いまはあまりカッコよくない。

      むかしは夏目漱石や芥川龍之介、太宰治、川端康成などがカッコよかったのだろうか。

      サルトルやマルクスがカッコよかった時代があったのだろうか。

      テレビ・メディアのような目に見えるもので判断されるような時代になったから、

     知的で、抽象的、会話的なものは、あまり人の目を惹きつけはしないし、

     カッコよくも映らないのだろう。

      現在は人前でなにか目立つパフォーマンスをするほうが、カッコいいようである。


      わたしは読書が好きであり、知的なものを好むが、

     やはり大勢の人を惹きつけるカッコよさは、もうこのジャンルにはないのだろう。

      村上春樹はカッコよかったが、ほかにそのようなカッコいい人はなかなかいないし、

     立花隆や司馬遼太郎という人たちはとてもカッコよくはない。

      一時期、わたしはフーコーであるとか、ドゥルーズ、ニーチェなどの現代思想家を

     カッコいいと思っていたときもあったが、この人たちが一般受けすることはない。

      ドストエフスキーやトルストイ、ゲーテなどの世界文学や教養主義がかつてのように、

     カッコいいということはまずないだろう。

      読書を趣味とするわたしは残念であるが、ただこれからの時代、混沌と模索の時代が、

     やってくると思われるので、知的なことに株が上がる可能性もある。

      思想や哲学がふたたび若者のカッコいいものになるだろうか。


      いまの若者や子どもはマンガやアニメをとても好む。

      でも、マンガはカッコよくない。

      マンガは「オタク」と軽蔑され、気持ち悪がられ、ときには犯罪者呼ばわりされる。

      しかしいっぽうではものすごい熱中を呼んでおり、だからこそ、

     このジャンルは忌避されるのだろう。

      あまりにも魅惑がありすぎるから、ほかの人たちはそれを恐れているともいえる。

      もしかしてこの構造は、新興宗教と社会に近いものがあるのかもしれない。


      自動車というのはいまでこそ一般大衆のものになっているが、

     はじめのころは車オタクと金持ち連中の道楽でしかなかった。

      これはマンガと社会の関係にも当てはまるのではないだろうか。

      それをフォードが大量規格生産により、一般大衆のものにした。

      産業革命の数々の発明も、はじめはマンガ・オタクのような忌避の段階をへて、

     一般大衆にその恩恵が受け入れられていったのではないだろうか。

      それまでの手工業産業の既得権や権力をもっていた人たちには、

     それは脅威にしか見えなかったかもしれないが、歴史はかれらを押し流していった。

      マンガはこれからの時代、どれだけの力をもつようになるのだろうか。

      アジアやヨーロッパでは、日本のマンガはそうとう受け入れられているようである。


      ロックはカッコいい。

      だけど、ロック歌手は子どもや若者向けのみに限られており、

     大人になるにつれ、その熱中度を失うようである。

      ロックはゆいいつ、若者の悩みやイラ立ちを代弁する内容をもち、

     支持されるのだろうが、年をとっても支持する人は少ない。

      子供向けばかりであり、あるいは恋愛ばかり歌って、

     その殻から卒業しようともしない。

      なぜロックは大人にならないのだろうか。

      大人になると、その意義を失ってしまうのだろうか。

      ロックは子どものカッコよさは体現するが、大人のカッコよさは体現しない。

      ただ、子どもや若者の絶大の支持を誇っている。


      タレントはカッコいいのだろうか。

      映画ではカッコいい人はかなり少なくなった。

      むかしはヤクザ映画とか、トラック野郎とか、(寅さんも?)、

     生き方やライフ・スタイルを提示するようなカッコいい人はいたのだろうが、

     現在のところ、アーノルド・シュワルツェネッガーとかブルース・ウィリスとか、

     アクション映画の非現実的なことばかり流行っている。


      テレビ・ドラマではトレンディ・ドラマとかで、

     おしゃれな関係とかが提示されているのだろうが、

     じっさいのところ、どれほど本気にそれらを若者がカッコいいと思っているか疑問だ。

      ひじょうに造られた、演じられたものだという感じがするのだが、

     いまの若者たちは彼らを本気でカッコいい、真似したいと思っているのだろうか。


      お笑いのタレントなんかも、いまはスマートで、なかなかカッコいい。

      みんなと楽しくするという技術は、ともだち関係や職場のなかで求められたりするから、

     かれらはかつてなく支持されるのだろう。


      テレビに出てくるような人はほとんどカッコよさを体現している。

      われわれはほとんど、テレビのなかからカッコよさを見つけ出してくるくらいだ。

      若者たちはテレビ・タレントのカッコよさに憧れたり、真似したりする。      

      男性ファッション雑誌ではスタイルのカッコよさ、女性誌では生き方のカッコよさまで、

     指導してくれている。

      われわれは表面的な飾りつけのカッコよさを限りなく追求しているといえる。

      テレビや写真時代には、「見かけ」が必要以上に大事なのだ。


      日常の中ではほとんどカッコいい人が見つけられず、

     ただテレビ・メディアや雑誌だけが、そのカッコよさを示してくれる。

      そのために若者たちはかなりテレビや雑誌メディアの言いなりになっている。

      このようなマス・メディアの操り人形のような若者たちを、

     わたしはひじょうになさけなく思うが、メディアはそれだけ魅力的なのだろう。


      メディアのなかにはカッコいい人だらけなのに、

     日常や現実のなかを見れば、色褪せた人間ばかりに見えてしまう。

      とくに親なんか、流行やメディアからまったくとり残されており、

     みっともらしく思えるのだが、メディアの提示するカッコよさにも疑問を呈するべきだろう。


      日常のまわりで見る人はカッコ悪い人ばかりに見えてしまう。

      会社のサラリーマンのなかでカッコいい人なんかほとんどいないし、

     社長や部課長がカッコよく見えるわけでもない。

      かつては経営者のなかでも、松下幸之助とか本田宗一郎とかヒーローがいたのだろうが、

     いま、そんな人たちに憧れるのはかなり少なくなっているのではないだろうか。

      政治家をカッコいいと思う人はまず皆無だろう。


      いま、カッコいい人はほとんどメディアが独占状態だ。

      なぜ、マス・メディアに出てくる人はこんなにカッコいいのだろうか。

      虚像であるし、カッコいいところだけを見せる、カッコいいように見せかけるのが、

     メディアなのだろうが、これでは現実があまりにも色褪せてしまうし、

     また自己主張のないメディアの操り人形のような人間だけが生まれてしまう。


      メディアのなかの人たちはたしかにカッコいい。

      だが、いまはもう人々をひきつれて、消費のリーダーとなるには、

     あまりにも神話的魔力が褪せてしまった。

      かつては自動車や電化製品の神話的魔力というバック・ボーンがあったから、

     国民はひとつにまとまり、マリリン・モンローやエルヴィス・プレスリー、ジェームス・ディーン、

     ビートルズ、石原裕次郎、美空ひばりのような国民的ヒーローが生まれたのだろう。

      だが、いまはもうそのような国民的ヒーローは皆無だ。

      それだけ国民や社会をひとつのまとめるような夢は失われてしまったのだろう。


      カッコいい、真似したいような人がいなくなったとき、

     消費が落ち込み、世界的に景気が悪くなるのはとうぜんである。

      新しいカッコよさを提示できなくなったとき、社会は全般的に沈下する。

      この社会はすさまじいばかりにカッコよさをなくし、均一化してしまった。

      かつてのカッコよさには、神秘的で未知な、

     自分たちの手には届かないという憧れがあったと思う。

      そのような神秘的、あるいは未知なるもののカッコよさをふたたびもたらさないことには、

     この生産−消費分業社会は成り立たないだろう。


      もうアメリカを向いていても、このようなカッコよさはやってこないのかもしれない。

      日本ももしかして、ビデオやらファミコン、カラオケ、ウォークマン、

     マンガなどを生み出しながら、ついにその最盛期を通り過ぎたのかもしれない。

      これからカッコいいライフ・スタイルはアジアから生み出されてゆくのだろうか。

      もう前から学ぶ時期ではなく、後進のものから学ぶ時期なのかもしれない。


      いつの時代も金持ちの国から、文化は生み出されてゆくものだ。

      イスラムしかり、イギリスしかり、アメリカしかりだ。

      われわれは金持ちの提灯にたまらなく食いつくようだ。

      金持ちというのは、モノやヒトを多く持ち、自由に操っているようにみえる。

      人々はそれを見て、おこぼれや威信に少しでもあやかろうと、その猿まねをする。

      こうして経済の覇権は、イスラム、イタリア、オランダ、イギリス、アメリカと、

     ぐるぐると世界中をめぐり回ってゆく。


      だが、そのモノを多くもつという金持ちはその威信を失ってしまうかもしれない。

      物質消費社会は、環境や資源問題からその限界に近づきつつある。

      金持ちが憧れられなくなるというのは、

     物質消費社会のひとつのバロメーターかもしれない。


      インターネットのなかの文化や知識が、尊重されるような時代がやってくるのだろうか。

      それをカッコいいとみんなが思うような時代になるのだろうか。


      鉄道や車というのは、モノを最大限に遠距離まで運ぶための道具である。

      進歩はある時点まで、遠くの空間を縮める方向に進んでいた。

      モノを大量に所有するためにはそのような仕組みが必要だったのだ。


      しかし電話やテレビ、インターネットはその空間の短縮をないものにしてしまった。

      情報が居ながらに向こうからやってくる時代になった。

      こんどはこの情報空間のなかでの進歩が進んでゆくものと思われる。

      そこは文化や芸術、音楽などの知識や情報が花開く場所である。

      これらのなかにカッコよさを見出す人が増え、

     この世界を中心に人々の生活は回ってゆくようになるだろうか。

      モノの多寡によって、地位やヒエラルキーが測られる時代は終わり、

     これらの知識や文化によって、その社会的地位が測られるような時代になるだろうか。


      わたしはそのような時代はとても魅力的だと思うし、

     そのような時代がきてほしいと思う。

      文化や芸術が花開くことはとても高級であり、

     モノの多寡で人間が測られていた時代より、よほどすばらしいことだと思う。


      だが、はたしてこのようなことに人はカッコよいと思うだろうか。

      われわれがメディアに感じる魅力というのはすごいものがあるので、

     この延長線上に未来があるのはたしかかもしれない。

      いまのところ、このインターネットのなかからヒーローは生まれていない。

      もしインターネットのなかからヒーローが生まれれば、

     このメディアは新しいカッコよさを人々に提示できることになるだろう。




                                         (終わり)



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