考えるための哲学エッセー集




      「思考」は超えられるか  第一部



                                          SINCE 1997/6.



        第一部  目次


     1.なぜ、思考は超えられなければならないのか

     2.恐怖や悲しみなどの感情は、思考によってひき起こされる

     3. 虚構によって組み立てられている、われわれの社会

     4. 人はなぜ「シンボル」を欲するのか

     5. 思考と言葉を「実体化」すること

     6. 感情の性質とその捨てかた





    1.なぜ、思考は超えられなければならないのか




       現代人は、ものを考えることに価値をおいている。

      朝から晩までたえず何か考え事をしている。

      きのうや過去のことであったり、これから起こることや将来のこと、

      また、ここにいないだれかのことや他人のことを思い出しては、

      頭のなかの世界にどっぷり浸かっている。


       なにか問題があったり、ものごとに対処するさい、

      われわれは考えることによって、その解決策を編みだそうとする。

       教師や親には、トラブルや問題にぶつかると、

      「どうしたらよいか、考えなさい」といわれてきた。

       考えることでしか、われわれは問題を解決することができないと思い込んでいる。

       ほかに解決策を知らない。


       思考には、なんの問題もないし、どこにも問題がない、とあなたは考えるだろう。

       そればかりか、思考の存在しないわたしなど考えられないだろう。

       思考とは、「わたし」なのである。

       思考こそがわたしの生きている証しであり、存在の証明なのである。


       思考を捨てれば、わたしは「理性」を失い、

      狂人か白痴になってしまうと、思い込んでいる。

       また行為や予定すら、遂行することができないと思っている。

       思考は、もう手放せないし、わたしと一心同体であると、

      われわれは思い込んでいるのである。


       ヨーロッパの近代社会は、「知識」に価値をおいてきた。

      文字を読み、書物を読み、多くの知識を得ることによって、

      さまざまな物事をうみだし、問題を解決し、文明を進歩させてきた。

      このような社会では、頭脳が発達することにとうぜん価値がおかれる。

       われわれは先人たちの知識をたくさん詰め込められ、

      ほかの人たちの情報を毎日、脳ミソにほうり込まれ、

      まだまだ、たくさんの知識を欲している。

       たしかに知識には多くの得ることがある。



       だが、それは技術や知識にたいしてだけ、言えることではないだろうか。

       われわれ個人の精神や心にとって、はたして知識や思考というものは、

      「安らぎ」をもたらすだろうか。

       精神は、思考や知識の押し寄せる機械のような循環に、

      心の安らぎや穏やかさを感じることができるだろうか。



       明日や未来のことを心配し、不安になり、

      他人や社会との関係に悩み、脅え、不安に駆られ、

      また自分の性格や能力にたいして批判や嫌悪、改善を思い起こし、

      きのうや過去のことを思い出しては、くよくよしたり、悔恨の念に満たされたり、

      恥ずかしくなったり、恨みや怒りの激情に押し流される。


       これはすべて思考のはたらきによるものだ。


       思考が、明日のことを想像し、他人や自分のことを考えさせ、

      また過去の思い出をよびおこし、反省と悔恨を迫る。

       思考はわれわれに技術や進歩の恩恵をもたらすが、

      同時に、われわれに未来や現在、過去の「重荷」を、

      たっぷりと背負いこませてくれる。


       われわれは思考によって、自分を一日中「かきむしる」ことを覚えてしまったのだ。


       それは明らかに、思考に価値をおいているからその地獄ははじまるのである。

      ものを考えたり、思ったりして、頭のなかの世界に一日中憩うことに、

      価値がおかれているから、われわれは頭のなかから離れない。


       考えることが善いことであり、知識をたくわえることが良いことだから、

      われわれは一日中、頭のなかでものを考えている。

       頭のいい人が、われわれの社会では「偉い」人なのである。

       そのような価値観があり、子どものころからそれを叩き込まれてきたのなら、

      われわれは、頭のなかで考えつづけるだろう。

       少しでも頭が良くなるのなら、なんでもかんでも

      頭のなかで考えるに越したことはない。


       ではわれわれはなにを考えるか。

       自分の欠点であったり、短所であったり、明日の不安や心配、

      うまくいかない他人の関係や家族との関係、

      きのうや過去の失敗や過ちであったりする。

       このような習慣におちいった思考が、安らぎや楽しみをもたらすだろうか。


       思考とは、わたしを苦しめ、傷つけ、恐怖に陥れ、悩ませ、

      不安に駆らせ、脅えさせる、張本人ではないのか。


       思考とは、わたしを怒らせたり、悲しませさせたり、怨ませたり、

      憂鬱にさせたり、落ち込ませたり、不幸にさせるものではないのだろうか。


       思考とは、われわれの毎日――腹をたてたり、嘆き悲しんだり、

      恐怖や不安に脅かされたり、、憂鬱になったりする、その原因ではないのだろうか。




  2.恐怖や悲しみなどの感情は、思考によってひき起こされる



       われわれはふつう、怒りや悲しみ、憂鬱などの感情や気分は、

      まわりの他人や出来事から、ひき起こされるものだと漠然と思っている。

       他人が腹の立つことをしたから、わたしは怒ったり、腹をたてている、

      他人や出来事に悲しいことが起こったから、わたしは悲しんでいる、

      世の中はあまりに悲惨で酷いことばかり起こるから、わたしは憂鬱になるのだ、

      というようなことだ。


       だが、そうではないのである。

       はたして、感情や気分はどこからやってくるのだろうかと

      疑問に思ったことはないだろうか。

       感情というのは腹のたつ他人がひき起こしたものでもなく、

      悲しい出来事がひき起こすのでも、暗い世の中がまき起こしたものでもない。


       それはまさしく、自分自身が創り出したものにほかならないのである。

       自分の思考――「考え方」や「捉え方」といったものが、

      怒りや悲しみなどの感情をひき起こすのである。

       思考が、感情をひき起こすのである。

                      *
       このことをわたしは、春秋社刊のリチャード・カールソンの

      『楽天主義セラピー』を読むまでほとんど知らなかった。

       このエッセーの前半で書かれていることはほとんど、

      この本の知識から得たものであり、多くをこの本に負っている。

       きわめてすばらしい本なので、ぜひ読んでいただきたい。

       また思考と感情のつながりについては、

      講談社文庫、マーティン・セリグマン『オプティミストはなぜ成功するか』や、

      デビッド・バーンズ『いやな気分よ、さようなら』星和書店刊などに多くを学んだ。

      BOOK REVIEW「心理学は心を癒すことができるか」で紹介しています。

       論理療法のアルバート・エリスや、

      自己啓発書のウエイン・ダイアーなども参考になった。

       (くわしくは、BOOK REVIEW

      「トランスパーソナル心理学は恐怖や悲しみを終焉させることができるのか」で――)


                      *

       もし、わたしのなかに思考がなければ、いったいだれが感情をもりあげるのだろうか。

       感情は、なにもない空白の頭にわきあがってくるだろうか。


       空を見上げていて、なにも考えないで、腹をたてることができるだろうか。

      だれか腹のたつ人や、むかつくことを思い出さないと、腹をたてることはできないだろう。

      なにも思い出さないで、電信柱を見ているだけで腹をたてられる人はいない。


       道を歩いていて、なにも考えないで、いきなり笑い出すことなんてできるだろうか。

      なにかおもしろいことを思い出さないと、笑えはしない。


       ぼんやりとイスに座っていて、なにも考えないで、急に悲しむことはできるか。

      悲しことを考えたり、思いだしたりしないと、悲しむことはできないだろう。


       もちろん思考と感情のつながりに気づかない人は、

      急に怒りや悲しみ、笑いなどがこみあげてくると感じているかもしれない。


       だが少し気をつけて観察しておれば、その前に過去の映像や物事を

      一瞬、思い浮かべていることに気づくはずだ。

       その瞬間の思考や映像が、われわれに気分や感情をもよわさせるのだ。

       ほんの一瞬でも、われわれに怒りや悲しみをわきあがらさせるには十分なのだ。

       たぶん、一瞬にして結びつく回路ができあがっているのだろう。

       ちょっとなにかを思い出したり、考えたりするだけで、悲しみや怒りなどの

      感情が瞬間的にわきあがるようにできている。



       思考という「フレーム」、物事の見方の「枠組み」が、

      われわれに感情をもよわせるのである。


       われわれはこの思考というフレームにまったく気づかずに、

      外界の他人や出来事から、ダイレクトに感情を喚起されると思っている。


       だが、この思考のフレームが、悲しみや怒りをもよわせるのだ。


       たしかにこの思考のフレームに気づくのは、なみたいていのことではない。


       腹を立てているときにどのようなものの考え方をしているのか、

      冷静に観察するなんてほとんどムリだし、

       憂鬱になったとき、どのようなことを考えていたのか、思い出すのもむづかしい。


       まずなによりも、自分がどのようなことを考えているのか、

      客観的に捉えるのさえ、なかなか困難だろう。

       自分の思考内容を意識的に捉えようとしない限り、

      思考の対象に首をどっぷり浸かっているので、

      第三者的に思考の内容を観察するのはむづかしいだろう。

       だがこれは訓練や習慣によって、いつのまにか慣れてゆくものと思う。



       思考が感情をわきあがらせていることを知るには、

      新聞のニュースなどで理解することができるのではないだろうか。

       新聞でニュースを見るまでは、楽しい気分だったのに、

      なにかいやな事件や酷い事件がおこっているのを読んだら、

      たちまち不快感や憤りに変わるだろう。


       事件やニュースというのは、わたしが知る前に起こっていたものだ。

       だが、事件が起こった瞬間にわたしは不快になるのではなく、

      事件を読み、それについてなにかの感想を考えたときに、不快になるのである。


       つまり事件の不快感というのは、ある意味では、

      文章や言葉による「想像」によって、ひき起こされるのである。

       それをどう考えるか、捉えるか、ということにかかっているのである。

       たんなるデータや事実の羅列なら、わたしは不快にならない。

       それを酷いだとか、悲惨だとか考えたときに、感情はひき起こされるのである。

       わたしの想像力――つまり空想が、わたしを不快にするのだ。


       思考とは、「空想」ではないだろうか。

       「言葉」で捉えた――ある意味では――「絵空事」ではないだろうか。

       そしてその絵空事によって、われわれは感情を喚起させるのである。


       映画でもドラマでも、小説でも、おなじことだ。

       これらはすべて、「絵空事」である。

       この世の中のどこにも登場人物は存在しないし、物語も実在するものではない。

       だが、われわれはそれを見て、悲しんだり、腹をたてたり、どきどきしたり、

       憂鬱になったり、楽しくなったりするのではないだろうか。


        われわれの日常の現実的な体験も、じつは、

       このような虚構をとらえる捉え方とまったく、同じではないのだろうか。


        つまりわれわれの現実の認識というのは、

       空想や想像によって、組み立てられているのではないだろうか。

        そしてその空想によって、怒りや悲しみなどの感情がひき起こされる。


        われわれは空想によって、悲しんだり、腹を立てたりしているのである。

        映画や小説だけが虚構ではないのだ。


        われわれの日常的なものごとの捉え方も、

       「虚構」によって捉えられているのである。


        ものごとの事実とか真実というのは、

       映画や小説のなかでの正否を問うているのと同じであり、

       一歩引き下がってみれば、それは「虚構」であることには変わりはない。


        ただ、ひとびとのなかでの真実が問題になるに過ぎない。


        なぜ、このことが大事かというと、

       われわれの怒りや悲しみなどが、じつはこの空想することによって

       ひき起こされているということを、知ることができるからだ。


        つまりわれわれを嘆き悲しまさせたり、はらわたを煮えくり返させているものは、

       頭のなかの「空想」――「思考」でしかないのである。


        このような思考は、捨て去ったり、忘れてしまえばいいのである。

        あなたには、怒りも悲しみも不安も、なにも残らない。

        (もちろん疑問や問題点もあとに残る。

         暴力や侮辱を与えた人になにもできないのか、といったことや、

        経済や宗教などの搾取に対して、なんの抵抗もできないのか、

        といった問題があるのだが、のちほど検討します。)





  3. 虚構によって組み立てられている、われわれの社会




         われわれの捉えている物事のすべては、空想であるかもしれない。


         だが、すべては空想だといってしまえば、

        多くの人は、疑問に思うだろう。

         目の前にあるパソコンや机、本棚、テレビ、部屋、

        あるいは外に出て、建物や道路、月や星も、

        またわたしの身体や手足も、空想なのかと考えるだろう。


         もちろんこれらは空想ではない。

         現実に存在するものだ。

         ただ、唯識などの仏教は、この世界は現実に存在するのではない、

        物体も存在するのではなく、心の現れに過ぎないといっているが、

        この件は、第二部で検討しています。


         わたしが言っているのは、視界以外のものごとについてだ。

         物事の捉え方、考え方や意見、感想といった、

        思考のフレーム、枠組みだ。

         人間にとっては、視覚のほうが大事だから、ついつい忘れがちになるが、

        頭のなかでものを考えたり、思ったりすることが、

        われわれの行動や決定の多くを、支配している。


         頭のなかの考えや捉え方が、われわれ人間にとっては決定的な意味をもつ。

         そしてこの思考が感情をもよわせ、

        またわれわれの身体の筋肉や血液の流れなどを左右している。


         しかしそれは、空想や想像ではないのだろうか。



         われわれの社会においても、虚構や空想がものすごく大きな意味をもっている。

         いわば、社会も虚構によって組み立てられているのだ。


         これを人々は、「共同幻想」といってきた。

         わたしの知る限りでは、このようなことを言ってきたのは、

        岸田秀や竹田青嗣、養老孟司、フリードリッヒ・ニーチェ、

        ルートウィヒ=ウィトゲンシュタイン、ジャン=フランソワ・リオタールなどである。

          (くわしくはBOOK REVIEW

         「社会は、「共同幻想」によって成り立っているのか」でごらんください。)



          人間の社会というのは、ほとんど「空想」や「言葉」、「想像力」によって、

         組み立てられているのである。

          われわれが「事実」や絶対的な「常識」と思っているものは、

         じつはたんなる言葉や空想によって、決められたことではないのだろうか。


          それはたしかにかなり確実な事実かもしれないが、

         一歩引き下がって考えるなら、頭のなかで捉えたということは、

         すべて「空想」の性質をもつのではないだろうか。

          
          われわれのもっている世界観や、世間にたいする捉え方、生き方、

         人生設計、会社との関係、会社という共同体、家族や友人、

         恋人などとの関係、ものごとやことがらに対する捉え方、常識といったものは、

         すべて、共同幻想という空想によって、とり決められているのではないだろうか。


          事実とか常識といったレベルを問題にしているのではない。

          これらはすべて、頭のなかだけの「取り決め」ではないのだろうか。


          われわれの社会はこの頭のなかで決められた「取り決め」を守り、

         みんなで常識や慣習を信じ、その「約束」や「役割」を守ることによって、

         成り立っているのではないだろうか。


          われわれはそのような「原初的」なことや「起源」を知らない。

          だから後に生まれてきた者たちは、

         このあくまでも「約束」によって守られている「共同幻想」が、

         もともと人類のはじめから自然にそなわっているもの――

         自然に適った、原初からあるものだと思い込んでいる。

          「超自然的」なものに決められたものだと、ぼんやり思い込んでいる。


          思考や言葉、空想などによって、創られたものであるということを知らない。


          だが、家族や親子はどうなのか、と人は言うだろう。

          「生物学的」に決定された事実ではないのかと。

          根本的なことはそうかもしれない。

          だが、家族というのは、時代を経るごとにどんどんその形を変えているし、

         国や社会によって、その関係はかなり違うものだ。



           農家の大家族の関係と、都市の核家族の関係はかなり違うだろうし、

          妻を何人も持つ婚姻制度と、われわれの社会の制度とは、

          まるっきり違ったものだろう。

           恋愛という観念も、ヨーロッパ中世に発明されたものであり、

          共同幻想といえるだろう。

           子どもも、歴史学者のアリエスがいったように、

          近代の発見ではないだろうか。


           家族というのは、かなりのていど、「共同幻想」によって、

          その役割や関係が、とり決められているのである。


           われわれはこの共同幻想によって、ものごとを決定したり、

          行為をおこなったりしている。



           頭のなかで決められたり、創られたりすることが、

          現実の社会に出現させられてゆくのである。


            養老孟司はこれを「脳化社会」とよんでいる。

           つまり、脳の中の世界が、現実に創り出されることをいう。


            建物や道路、鉄道などは、頭のなかで考え出されたものが、

           現実に創り出されたものである。

            企業や学校、団体、国家といったものは、

           頭のなかでその役割や用途が決められ、

           じっさいに社会のなかでその機能を果たしている、

           「取り決め」である。


            学校というのは、どこにも存在しない。

            建物が学校ではないし、グラウンドが学校でもないし、

           職員室や教室が、学校であるのではない。

            学校が存在するのは、われわれの頭のなかだけであって、

           現実に存在するのではない。


            ネコやイヌには学校が存在するのではなく、

           ただ建物と、子供たちのたくさん集まるところがあるだけだ。

            人間の共同幻想が、学校を出現させているわけである。



            社会の役割も、共同幻想である。

            男と女もかなりそうであり、男と女の役割というのは、

           共同体や時代によって、まったく違うものである。

             今世紀の男女分業という家族のかたちは、

            おもに鉄道と工場というものができあがってからの、

            対応策でしかない。


            警察官や店員、会社員、社長、課長、係長などさまざまな役割があるが、

           これも頭のなかで決められた役柄を演じているに過ぎない。

            ほかの人たちがその根拠を守っているから、

           守られているに過ぎない。

            役割の根拠の支えをとっぱらわれたものは、

           たとえ「王」であっても、「王」でなくなる。

            たんなる共同幻想なのである。


            現代のような分業化がすすんだ社会では、

           おおくの役割や機能が、ぶちぶちに分断される。

            細分化された役割は、われわれにどんな弊害をもたらしたか。


            たとえば、頭脳や手、足だけに特化した人間をつくりだしたし、

           職業に専門化した知識は、ほかの人たちを寄せつけないようにしてしまった。

            自分のものである身体の知識や知恵を、

           すべてほかの人に「外注」してしまうというのは(医者に)、

           あまりにも愚かではないだろうか。


            このような役割を絶対的な真実だと思いはじめると、

           カースト制度や江戸時代の身分制度などができあがる。


            社会制度を絶対的なものと思い込んでいる時代には、

           社会は多くの暴力や搾取を生み出しつつ、秩序を保つだろう。

            国家同士の闘いというのは、共同幻想のぶつかりあいかもしれない。


            だが、経済や社会的状況は、秩序ある共同幻想を、

           砂の塔のようにあっさりと押し流してしまう。

            ソビエト崩壊の理由はよくわからないのだが、

           社会主義という共同幻想の根底が、

           意味をなさなくなったからではないだろうか。


            いまの日本も、これまでの共同幻想が崩れるような、

           大きな転換期に立たされているのではないだろうか。

            「役割」や「機能」が、うまく働かない時代にきている。


            それは、経済の条件が変わったからにほかならない。

            これまでの共同幻想では対処しきれない、捉え切ることができない、

           新しい経済社会がはじまっているのかもしれない。

            「石頭」になってしまった共同幻想(=パラダイム)には、

           この変化にたいして、対応することができないのである。


            アルヴィン・トフラーはこれを工業社会から情報社会への転換と

           捉えたが、これまでの共同幻想というのは、工業社会を足場に、

           その建物をたちあげてきた。

            そのしっかりした足場がいま、「ぬかるみ」に

           変わりつつあるような時代に立たされているのである。






   4. 人はなぜ「シンボル」を欲するのか




          共同幻想の問題の根本には、思考と言葉の「実体化」という、

         むづかしい問題が横たわっている。

          われわれは、「言葉」によって象徴されたものを、

         「実際」に、「現実」に存在するものだと思い込んでしまう。


          言葉という「絵空事」でしかないものを、

         「実在」するものだと勘違いしてしまうのである。


          これは「国家」という約束や機能を、実在のものだと思いこみ、

         殺戮しあったり、命を投げ打ってきた歴史が、それを物語っている。

          そんなものはどこにも実在しなく、ただ人間の頭のなかで守られている、

         ルールや約束でしかないのだ。

          だが多くの人は、この「絵空事」のために多くの命を失ってきた。


          人間はじっさいの命より、「シンボル」のほうが大事なのである。


          われわれはこの「シンボル」のほうを大事にする。

          それは「金持ち」であったり、「一流会社のサラリーマン」であったり、

         「有名大学出身者」、「豪邸や高級住宅地の住民」、

         「高級車のオーナー」、「ブランド品の持ち主」であったりする。


          われわれはこのシンボルのために、なにもかもを投げ捨ててまで、

         それを手に入れようとする。

          こんな下らないシンボルのために、われわれは朝から晩まで年中、

         働きつづけ、子どものころには、おもしろくもなんともない、

         暗記知識をつめこんでいる。

          われわれはこの「シンボル」のために生涯を費やし、

         生涯をむだに終えるのである。


          シンボルというのは、「絵空事」でしかない。

          たんなる「虚構」である。

          そんなものはどこにも存在しないし、実在するものではない。

          いったいどこに「シンボル」なんてものは存在するのだろうか。

          人々の頭のなかに存在するだけである。



          なぜ「シンボル」という虚構が、これほどまでに人間にとって、

         価値のある、生命を賭すものにまでなってしまったのだろうか。



           おそらく思考が、人間にとって重要になったからだろう。

           思考というのは、ともかくおのれを残せるなにかを残しておこうとする。

           それは墓であったり、歴史に残る名前であったり、日記や書き物であったり、

          写真であったり、芸術作品であったりする。

           思考というのは、存在した証しをこの世の中になにか残しておこうとする。


           なぜなのか。

           思考はみずからの消滅を怖れるからではないだろうか。

           消滅を怖れるものは、みずからをコピーするなにかを残しておこうとする。

           つまり、死をまぬがれようとしているのである。


          人間は身体の死を避けようがないが、

         言葉や思考の証しを生き永らえさせることができる。

          そういうことで、「シンボル」は大事になったのではないだろうか。


          ここでわたしは、思考という言葉に「人間」という言葉を入れなかった。

          人間も死を恐れるという意味では、同じことだと思うだろうが、

         わたしの身体は、思考の存在の前から存在している。

          わたしがなにを考えようが、身体はすでに存在しており、存在しつづけている。

          思考の意志とかかわりなく、身体は先に存在しているのではないだろうか。

          思考がなにをわめこうが、怖れようが、身体は存在しており、

         自然に存在しつづけている。

          思考だけが、死を怖れているのではないだろうか。

          そして思考とは、想像ではないのだろうか。


          仏教や神秘思想では、わたしは生きているのでも死ぬのでもなく、

         存在しているのでも、存在していないのでもない、という。

          悟りや神秘体験では、われわれが永遠の存在であることに気づくという。

          わたしにはとてもこのような境地にたどりつくことはできないが、

         それはもしかして、思考の世界を滅却させたところに、

         そのような境地を垣間見れるのではないだろうか。


          思考はわれわれの行為や行動を支配しているが、

         身体の誕生や死を、コントロールすることはできない。


          思考はそのかわり、われわれの代替物をこの世に残しておこうとする。


          それが「シンボル」ではないだろうか。


          現代のシンボルは、その消滅を怖れるというよりか、

         人から評価されなかったり、認められなかったりすることを怖れるようだ。

          他人の評価というシンボルが、とても大事なのである。

          だから、「ブランド企業」や「ブランド大学」というシンボルを得るために、

         多くの人たちが群がる。


          でもそんなものはどこにも存在しない。

          ひとびとの、頭のなかに存在するだけである。

          ひとびとがそれを約束して、演じ、役割を遂行しているだけである。

          そしてこんなものは、時代の価値観とともにうち捨てられてゆく。

          たんにわれわれは社会の価値観を欲しているだけなのである。


          それはすべて、頭なかの「幻想」である。






   5. 思考と言葉を「実体化」すること




          われわれは言葉や思考を実体化する。

          言葉というのは、どこにも実在するものではない。

          それでもわれわれは言葉で捉えた世界を実在のものだと思いこむ。


          言葉で捉えたことを、対象そのものと勘違いしてしまうのである。

          たとえば、事件やニュースなんてものは、すべて言葉である。

          これでわたしは事件を知ったと思うが、事件そのものを見たわけではない。


          われわれは言葉という虚構によってしか、ものごとを知ることができない。

          だから、言葉を対象そのものだと思い込んでしまうのではないだろうか。

          言葉がなかったら、他人から教えられる過去はなにひとつ知り得ない。

          空っぽである。

          言葉によって想像したものを、事実そのものだと思いこむのは、

         このほかの方法で知り得る方法が皆無だからではないだろうか。


          たとえば、歴史なんてものは、すべて言葉によって伝えられるものだ。

          もう歴史事件そのものを見聞きしたり、体験したりすることはできない。

          すべては他人の言葉から伝えられる、「想像」としかわれわれに知り得ない。

          われわれはうっかりとこの想像でしかないものを、

         実在のものだと思い込んではいないだろうか。


          われわれの捉える物事というのは、すべて想像ではないのか。


          「一流会社のサラリーマン」や「有名大学の卒業生」というのは、

         言葉による想像の実体化である。

          それはひとびとの頭のなかや、口のなかでしか存在しない。

          実体あるものとしては、どこにも存在しない。

          ただ、ひとびとの「取り決め」や「約束」でしかない。

          そのような価値あるものと思い込むものを、だれもが追いかける。

          言葉を実体化しているのである。


          言葉は実在するものではない。

          あなたの「部屋」に「パソコン」があり、「時計」があり、「本」や「雑誌」、

         「テレビ」や「CDプレーヤー」があるかもしれない。

          でも、そんなものは実在しない。

          なぜなら、これは頭のなかだけの「言葉」であって、

         「対象」そのものではないからだ。

          言葉で指し示されたものは、対象そのものではない。

          言葉は頭のなかで自閉し、対象となにひとつつながりはない。

          つながりも、わたしの頭のなかにあるだけである。


          先にあげた「モノ」というのは、じつは、「われわれ」にとっての、

         「使い方」や「役割」「機能」といったものを説明しているにすぎない。

          犬やアリにとっては、これらはただの「物体」や「障害物」でしかない。


          言葉そのものは、すべて「実在」するものではない。

          だがわれわれは、言葉そのものを実体化してしまうのである。

          言葉は想像や空想という性質を脱け出して、

         「実体」なみの座を獲得してしまったのである。


          他人の話すことがかなり重要になったこともあるだろう。

          われわれはテレビで他人の話に耳を傾け、

         新聞や雑誌などの他人の書いた言葉を読み、

         また家族や友人、会社や学校の人たちの話を聞く。

          それらをすべて「空想」や「想像」だと片づけていたら、

         とてもこの世ではやってゆけない。

          他人の話の内容を実体化する能力によって、

         われわれは社会生活を送れるのではないだろうか。


          空想を実体化することが、社会での生存の条件なのである。


          だが、その言葉の実体化がなにを生み出してきたか。

          国家の争いや、民族や宗教の対立、ふだんの人間関係の争いの根も

         そんなところにあるのかもしれない。


          社会のなかでは、言葉による空想の実体化が必須なのである。

          それは歴史や過去をうみだし、経済関係や商取引きをつくりだし、

         法律や慣習をあみだし、刑罰や犯罪をうみだしてきた。

          言葉による実体化がなかったら、この社会のどんな秩序も成り立たない。

          社会のなかでは、言葉の実体化は必要だろう。



          だが、われわれは個人の精神の健康を考えると、

         言葉や思考の実体化は避けるべきと考えた方がよいのではないだろうか。


          なぜならきのうや過去の後悔や悩み、問題などを実体化して苦しんだり、

         明日や将来の不安を実体化して、苦悩することになってしまうからだ。


          これら過去や未来の後悔、不安は、すべて空想でしかない。

          過去は終ってしまって、もうどこにも存在しないし、

         想像することによってしか思い出せないし、

         未来はただ空想することによってしか、知ることはできない。

          すべては空想ではないのか。


          思考が実体のあるものではないのなら、感情もそうではないのだろうか。

          不安や怖れ、悲しみ、怖れというものは、実体のあるものではない。

          たんなる「感覚」でしかないのではないか。

          感情を実体化してしまうと、問題をつみあげてしまうことになる。


          つぎの章では、感情というものの性質を検討してみたい。





    6. 感情の性質とその捨てかた




          われわれは憂鬱や悲しみ、落ち込み、不機嫌などのいやな感情が

         やってきたら、どのように対処するだろうか。

          もし物事や対象を実体化していたり、実在のものと思いこむと、

         われわれはこの感情から逃れ切れないのではないだろうか。

          きのうのことや、終ったこと、あるいはまだやってこない明日のことを、

         実体化し、いま起こっていることのように思いこむと、

         悲しみや怒りの奔流に、「われ」を忘れることになるだろう。


          逃れる方法は、酒を飲んだり、テレビを見たり、だれかと遊びに行ったり、

         電話をかけたり、旅行に行ったり、レジャーやドライブに出かけたり、

         あるいはショッピングで衝動買いをしたりするかもしれない。


          この社会は、「憂さ晴らし」の機会に事欠かない。

          「憂さ晴らし」のための文明といっていいかもしれない。

          そしてその他人の憂さ晴らしのために労働する人たちが、

         また憂さ晴らしの方法をもとめて、商売や経済はなりたってゆく。

          無限地獄の循環のようなものだ。


          これを経済や文明の進歩とよんでいいのだろうか。



          ともかくこの社会は、「自分」から少しでも遠く離れることによって、

         憂鬱や落ち込みなどのマイナスの感情から逃れようとする。

          それはある意味では、経済にとっての必要条件かもしれない。


          
          外側に逃げるのではなく、

         自分の内側を見つめなおすことが、大事ではないだろうか。

          われわれを外へ外へと駆り立てる精神の中身を

         しっかりと把握することが、求められているのではないだろうか。



          リチャード・カールソンの『楽天主義セラピー』(春秋社刊)という本は、

         ものごとを深く考え、極め尽くすことに価値をおいていたわたしに、

         このことを教えてくれた。

          そのころのわたしは、社会批判の、とびっきり否定的な本ばかり読みこみ、

         かなり陰鬱になっていたから、

         この本の意味がものすごくわかったのである。


          否定的な世界観は、わたしの心の中をまっ暗なものにしてしまっていた。

          またそれまでのわたしは悩みや問題があったら、

          とにかくそのことを一日中考えて最悪な気分になることが多かったし、

          きのうの失敗や過ちを、何度も思い出してはいやな気分になっていた。


          とうぜんなのである。

          感情は、考える内容にしたがって、わきあがるからである。

          気分が最悪になるのは決まっている。


          われわれはこのことを知らずに、いやなことや不快なことに、

         思いを巡らせて、気分を最低なものにしているのではないだろうか。


          思考と感情のつながりを知らないからだ。




          この本のなかであげられている思考の原則は、次のようなものである。


          @思考が、現実や気分をつくる。

          A注意を向ければ、その思考は大きくなる。

          B否定的なときには、否定的な思考や気分しか生み出せない。


          われわれはこのような思考の性質を知らずに、

         まさにこの思考の最悪のコースを毎日たどっているのではないだろうか。



          とくに気分の最悪なときの思考は、ほんとうに最悪なものである。

          でもわれわれは考えることによってものごとを解決しなければならないと

         思い込んでいるから、ますます最悪な気分に陥ってしまう。

          カールソンいわく、それは「炎をあおる」ことなのである。

          われわれはこの思考の性質を知らないばかりに、

         最悪な気分で毎日を過ごすことになるのである。


          気分が落ち込んでいたり、憂鬱になっているときに、

         ものを考えることによって、ますます否定的・悲観的な思考がうみだされ、

         それによってますます気分が最悪になるのである。

          そもそも思考が気分を最悪なものにしていたからだ。


          では、どうすればいいのか。

          ただ、思考を手放しさえすればいいのである。

          これはふだんのわたしたちが知らず知らずのうちにおこなっているのだが、

          ――つまりいやなことは忘れるということだが、

          意識的にその方法をもちいているというわけではない。


          だから、われわれは外側のモノにたよることになるのである。

          たとえば酒をのんだり、テレビを見たり、予定をつくったりと。

          自分の精神から逃れる方法を知らないばかりに、

         自分から少しでも離れたところへと逃避しようとするのである。


          そういう外側に頼らずに、精神のみに対処する方法はないのだろうか。


          気分を最悪なものにするのは思考であるのだから、

         その根本にあるもの――思考を捨てさえすればいいのである。


          どうやって思考を捨て去ればいいのだろうか。

          その思考が捨てられないから、われわれは外側に頼るのではないだろうか。


          かんたんにいえば、忘れればいいのである。

          その不快になる思考に、注意を払わなければいいだけである。


          思考というのは、勝手にわきあがってくる。

          それはわたしの意志にしたがって、わきあがるのではない。

          つぎつぎと頭のなかに自動的にわきあがってくるものだ。


          その思考のはじまりに、飛びのらなければよいのである。

          その思考に飛びのってしまうと、「われ」を忘れてしまって、

         きのうの光景や不快な人間関係にどっぷり浸かってしまっている。


          ものを考えはじめると、まわりの景色や状況というのは、

         さっぱり意識に入らなくなっているし、

         自分の思考内容を客観的に見ることさえできなくなってしまっている。

          一度、飛びのってしまった思考は、

         ほかのことをすべて見えなくさせてしまうのである。


          だから、この思考を流れ去るままに放っておくことだ。

          放っておけば、思考は消え去る。


          そもそも思考というのは、空想である。

          絵空事である。

          頭のなかにある言葉や過去というのは、もうどこにも存在しない。

          実体化を避ければ、この存在の幻想性に気づくだろう。

          つまりそんなものはたんなる空想として、相手にしないことだ。


          思考とは頭のなかの「霧」のようなものであり、「蒸気」のようなものである。

          からだの「感覚」と同じようなものである。

          放っておけば、いつのまにか「蒸発」しているものである。



          落ち込んだり、悲しくなったりしたときには、

         もうものを考えるのはやめよう。

          ますます、落ち込んでゆくばかりなのだから――。







                         
          この思考を捨てるという方法は、ヨーロッパの精神分析のなかでは、

         あまりお目にかかれない考え方である。

          この思考の原則に照らし合せると、幼少期に問題があり、

         抑圧された無意識を意識しなおすことが必要という精神分析の考え方は、

         悲惨な気分をますます悲惨にさせるだけではないだろうか。

          ただなにかのトラウマは記憶や身体に組み込まれている可能性があるから、

         そのような無意識の回路をときはなつということは、必要かもしれない。


         
          わたしはこの考えをもっと深く知りたいと、本屋をたくさん探し回ったのだが、

         ほとんど類書を見つけられなかった。

          自己啓発のウエイン・W・ダイアーといった人が

         このようなことを語って大成功をおさめている。

          ほかの自己啓発の人たちも、考えたことが現実になるといっているが、

         客観の前に主観がまず先にあるということを言っている点で評価できるが、

         どうも世俗的な成功のために用いすぎているきらいがあり、

         ちょっと幻滅ものである。


          だがヨーロッパでも思考を捨てることの安らかさをうたった先人たちはいて、

         ローマ時代のストア哲学者、マルクス・アウレーリウスやエピクテトスと

         いった人たちがそのことを語っている。

          現代ではアランの『幸福論』(社会思想社教養文庫/集英社文庫)にそれを

         見ることができるし、ヒルティの『幸福論』(岩波文庫)でも語られているそうだ。


          思考を捨てろといっているのはやはり、仏教であり、

         現代のバクワン・シュリ・ラジニーシやクリシュナムルティ、

         といった人たちのなかに、この思想がひきつがれている。

          ただこの人たちは感情からの解放をうたったというよりか、

         悟りや変性意識状態をめざしているので、ちょっと目的はちがうかもしれない。

          だがこの方法のなかには、われわれの苦悩からの解放の方法が、

         たくさん示唆されている。


       BOOK REVIEW
       「トランス・パーソナル心理学は恐怖や悲しみを終焉させることができるのか」




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