勤勉と享楽と経済的繁栄


                                           1997/12/7/SUN.





      勤勉に働かなければ、生産性はあがらない。

      享楽的な生活をおくらないことには、経済は繁栄しない。


      このふたつの矛盾はひじょうにむつかしい問題だ。

      ひとつの人格のなかにこのふたつの傾向が同居することはかなりむつかしい。


      わたしはかなり怠け者の心性をもっている。

      長時間労働に拘束されたり、親の世代のような会社だけの人生を忌み嫌っているし、

     サラリーマン的奴隷根性をひじょうに嫌っている。

      朝仕事に行かなければならないとき、まっ青の空をみあげて、

     きょう一日がすべて自分の自由であったら、どんなにすばらしいかとため息をつく。

      わたしは金銭的富より、時間的自由と自由な人生をのぞむ。

      もちろんそれでは生活できないから、心を抑えて働くしかない。


      わたしはこういう気持ちを抱えたまま、20代をフリーターとして過ごし、

     この自分の望みがなぜ叶わないのかと疑問を呈しながら、働いてきた。

      なぜこの社会は勤勉だけに価値をおき、

     遊びや怠慢に価値をおかないのだろうかと、ずっと疑問を感じてきた。

      わたしは30歳だが、現在の若者はもっと怠け者の心性をもっているように思うのだが、

     表面的にはこの日本的勤勉社会に呑み込まれているように見える。


      わたしはなぜもっと労働や企業に拘束されない人生を送れないのだろうかと

     ずっと模索してきたが、いくつかの要因が考えられる。


      ひとつはサラリーマンの年功賃金、退職金、国民年金といった、

     会社勤めを長く勤めれば勤めるほど有利になる制度が複合的にあるからだと思われる。

      退職金や年金といったものはひとつの会社に長く勤勉に勤めないことには、

     その大金を手に入れることができない。

      そのために日本のサラリーマンはものすごく勤勉になり、

     おとなしい、もの言わぬ従順な奴隷になった。

      現在の若者はこれら将来の巨大なアメのために、

     幼少時代からその人生を台なしにし、その安心を手に入れられない巨大な恐怖に駆られて、

     日本的勤勉社会に巻き込まれてゆく。


      もうひとつは、政府の供給者保護の政策も、

     このガチガチの勤勉社会をつくりだしていると思われる。

      個人に金が集まらず、企業に金がプールされるような仕組みができあがっている。

      または個人より、企業のほうが守られる政策が多くとられている。

      国家の富が目的だった高度成長期まではこの政策は功を奏したのだろうが、

     現在は個人の暮らしを苦しめ、幸福を収奪する政策にしかなっていない。

      企業があまりにも力をもちすぎ、個人は企業という、暴力的なまでに横暴な

     「宗教団体」にむちゃくちゃに蹂躪されているといったすがたが、

     現在の個人のありかただ。


      そしてもうひとつはわれわれ一般の人たちが、

     物質消費への限りない欲望、科学技術社会への期待と望み、

     富や社会的地位の向上、将来や老後の安定といったものを、

     かぎりなく求めたからだろう。

      このような一般の人たちの押しとどめられない、人生を安定・向上させようとする欲望が、

     現在の供給者保護、企業至上社会、経済至上社会をつくりだしたといえるだろう。

      われわれ自身がこの、個人が幸福に生きられない社会を、

     期せずして擁護していたということになるだろう。


      これら消費や富の欲望はそれを得ようとすれば、反面で、

     かぎりない生産への勤勉さを必要とするのである。


      この問題はひじょうにむつかしい。

      一方では勤勉な労働が要求されるし、一方ではギャンブル的な、

     あるいは富を散財するような享楽的な価値観も必要となってくる。

      なぜなら金持ちが金をたくさん使わないことには仕事は生まれないし、

     経済は繁栄しないし、金が回らない。

      一方では勤勉な労働観をもたないことには、富をもつことができない。


      わたしは労働に拘束されない自由な生活を得ようと、

     ヘンリー・ソーローの労働観に影響をうけて、カネで買えるものをあまり多く

     欲しがらなければ、そんなに働く必要はないのだと悟って、

     「省エネ」で生活していたことがある。

      カネで買えるものをあまり欲しがらなければ、

     われわれはそんなに働く必要はないのである。


      たとえばマイ・ホームなんか買おうとも思わない、賃貸で充分じゃないかとか、

     マスコミに煽られてブランド品を買ったり、海外旅行なんかしなければいい、

     そういう余分なものを捨てれば、生活費はそんなに必要ではないのである。


       だけどギリギリの生活費の生活は、やはり年金やら健康保険などが――

      破綻寸前であるけれども――なければ、やはり不安になるものだ。

       老後の不安といったものも、若いうちから背負わされているし、

      とてもじゃないけど妻子を養うことなんかできない。

       職業生活においても、キャリア的なものは蓄積されない。


       われわれはこのサラリーマン社会において、自由な生活を送れない。

       就職・転職するにも、過去の経歴というものに拘束されているし、

      年金や退職金といった老後の不安にも拘束されて、

      この勤勉な会社生活に釘づけられている。


       生涯にわたってこんなにも人生を拘束されておれば、

      すこしでもこの人生のコースから踏み外すことはできない。

       若者のなかにはこの日本社会をさまざまな理由で嫌って、

      イギリスやアメリカの若者のように、世界中を旅してまわる人たちがいるが、

      かれらはこの人生設計の不安からどのように逃れられているのだろうか。


       過去と未来にわたって人生をこんなに拘束されておれば、

      自由や放浪をとても望みたくなるのはわかる。

       アメリカでは60年代にヒッピー・ムーヴメントが起こり、

      ハーレーでアメリカ中を旅し、あるいはインドやチベットにおいて仏教やヒンドゥーを学んだ。

       映画ではフーテンの寅さんが日本中を旅し、

      『裸の大将放浪記』の山下清も放浪し、『木枯らし紋次郎』もあちこちをさまよい、

      『マッド・マックス』は荒野をひとりでさまよった。

       「猿岩石」がユーラシア大陸をヒッチハイク横断し、

      「ドロンズ」が南北アメリカ大陸を横断している。

       沢木耕太郎の『深夜特急』は旅のバイブルになっている。

       仏陀にしろ、キリストにしろ、達磨にせよ、空海にせよ、みんな放浪している。

       漂泊と放浪の人生はわれわれの憧れをたまらなく駆り立てる。

       だがわれわれ日本人はこぢんまりとひとつの会社や地域に閉じ込められて、

      農耕民のように、一生をせこせこと終えることになるだろう。


       放浪や自由な生活はわれわれの憧れでもあるが、

      マクロ的な経済からみれば、このような生活は経済を回さない。

       この現代の資本主義社会というのは、モノやサービスをつくり、

      それによってカネと経済が回るものだ。

       多くの人がサイフのひもを閉め、カネを使わなくなったら、

      たちまち不況になるし、経済が回らなくなる。


        現代の日本はモノをつくる勤勉な人間は数多く産出されてきたが、

       享楽的にカネを使いまわるような――つまり経済を繁栄させるような価値観を

       あまりもつことができなかった。

        平等政策により、ダントツの金持ちといったものが存在しない。

        よって均一的な人間のなかから、金を散財するような憧れの対象は生まれないし、

       そしてそれは消費の衰退をもたらす。

        勤勉の価値観だけに一本化された日本は、生産をとめることができず、

       海外に集中豪雨的に輸出して、海外から非難される。

        この日本は享楽や散財といった、経済を回す根本的な価値観を、

       社会的に醸成・容認することができなかったのだ。


        金持ちが経済を回す。

        享楽や奢侈の価値観が、われわれに仕事をもたらす。

        だが日本では勤勉の価値観しか育たず、享楽や怠慢の価値観を容認できず、

       せいぜい毛のはえたていどの消費やレジャーだけが許されている。

        これではなんのための人生かわからない。


        勤勉だけの価値観では、需要はうまれない。

        供給者がモノばかりつくっても、買うものがいなければ、まったくのムダ骨だ。

        経済を繁栄させ、回すには、金をもったものがおおいに散財し、

       多くのところに金を落とすことを容認する世の中にならなければならない。

        金をおおいに使うものが人々の憧れをつくり、その模倣のために、

       技術や知識は進歩してゆき、経済は回ってゆく。


        もちろん享楽や酒池肉林の価値観はとても容認できないという方もいるだろう。

        だが現実はこれらの価値観によって経済は回り、社会や国は発展し、

       多くの貧乏人たちの稼ぎ口をつくりだしてきた。

        このような享楽の価値観を嫌うということは、

       われわれの奥深くに勤勉の価値観が根強く巣食っているということだ。

        勤勉さに価値をおいているから、享楽が許せないのだ。

        だが、この享楽の価値観を容認しないことには、経済は成長しないのである。


        ただ、わたしとしては望むことは勤勉でも享楽でもなく、怠情である。

        労働や会社に縛られない、だけどカネをつかう享楽にも縛られたくない。

        もっと自由な時間、自由な選択のできる人生といったものが、

       可能になってほしいと思う。

        一日のうち半日だけ労働についやし、あとの半分は遊んで暮らせるような、

       江戸時代の町人のようなのんびりとした暮らしをしたい。

        一日の大半を労働に奪われるような人生は、

       いったいなんのための人生かわからなくなる。

        ただ食べるためだけに生きているのでは、ケダモノ以下だ。


        これからの日本はどのような道を選ぶのだろうか。

        経済至上主義、勤勉の価値観だけの社会はもはや不可能だろう。

        若者はこんな価値観をもう支持しないだろうし、

       自動車や家電のような大量生産のマーケットももう成熟化している。


        ではなにによって、カネや食糧は回ってゆくのだろうか。

        ヨーロッパ中世のような物欲にあまり関心を抱かない社会は、

       なにによって経済は回ってきたのだろうか。

        自給自足経済にわれわれはふたたび回帰することができるのだろうか。


        日本の歴史は、堺屋太一『日本とは何か』によると、

       飛鳥・奈良時代に物欲の強い時代を経験し、

       平安時代には物欲にあまり関心の抱かない、主観的美意識の世界――

       つまりヨーロッパの中世のような時代になったという。


        そして戦国時代には信長、秀吉の下劣なまでの物欲の時代を得て、

       元禄の時代以降、急激な下り坂を経験する。


        それ以降、金持ちの享楽を容認しない価値観が強くなり、

       享保の大不況、大飢饉へと転がり落ちてゆく。

        資産の蓄積を容認しない社会が訪れると、

       商人はなんのために勤勉に働くのかといった疑問を呈するようになる。

        地中海や中国の人々はこのジレンマに西暦3世紀から5世紀にかけて、

       ぶちあたり、内面的充実をはかる宗教と流れていったのである。


        現代日本、あるいはヨーロッパ、アメリカ社会もこのようなジレンマに、

       いままさにぶちあたろうとしている。

        物欲や消費の時代が終わり、なんのための勤勉かといった問題が、

       われわれの眼前に立ちはだかっている。

        人々の物欲を媒介にして、カネを回すような仕組みも、

       物欲がたち切れになってしまえば、うまく機能しなくなってしまう。

        生活の糧をみいだせない人たちを大量に生み出すことになるだろう。


        これまでの経済の仕組みというのは、自動車や家電といった

       大量規格製品を人々に行き渡らせるためのシステムである。

        それによって大量の人が生活の糧を得て、

       中流階級をやしなってきた経済的基盤である。

        この物欲が喚起されなくなったとき、われわれはいったいなにによって、

       生活の糧を得ようとするのだろうか。

        広告やマーケティングによって欲望を煽るような方法は、

       バブル時代にみごとにその化けの皮をはがされた。

        この経済の基盤自体がいまやもはや、用のないものになろうとしている。


        われわれはいったいなにによって、生活の糧を得ようとするのだろうか。

        物欲ではない、主観的美意識の世界、精神鍛練といった世界に、

       流れてゆくのだろうか。


        もはやわれわれは自給自足経済にはもどれない。

        自動車や家電の物欲の時代もとっくに終焉してしまった。

        ただ行き場を失った資産だけが、大量に日本人の貯蓄のなかに残されてしまった。

        それも目減りしてゆく一方である。

        日本人は一生懸命働いたが、貯めた金の使い道もわからず、

       そのうちにその蓄積すら消滅させてしまうのだろうか。

        
        これからわれわれはなにによって生活費を稼ぐのだろうか。


        物欲が薄れるということは、生産性の向上があまり必要なくなるということであり、

       勤勉な生活もいらないということで、かなり時間的余裕のうまれる社会が

       やってくる可能性もある。

        だがそのような社会は多くの人の生活の糧をうみだせない、

       超困窮社会かもしれないのだ。

        そのような経済にはその経済に見合った人口しか必要としない。

        われわれはこの経済の激動過程に生き残れるだろうか。


        現在、日本の10年先を行くと言われるアメリカは好況を経験している。

        日本もこの金融不良債権問題が片づいたら、

       アメリカのような景気がよくなるかもしれない。

        しかし長期的にはこの物欲の停滞という現象にかならずぶち当たる。


        そのときにわれわれは物欲に代わる、

       経済循環の媒介をなにか見出しているだろうか。

        あるいは飢饉や戦争のような最悪のシナリオを経験しているのだろうか。


        歴史はまさにいま転換期にある。

        日本人はこのことにたいする認識がひじょうに弱い。

        山一証券といった日本の巨大な会社が倒産しても、

       深刻な現状認識といったものが芽生えていないように思える。


        なぜこんなに危機意識が薄いのだろうか。

        われわれの最大の情報機関であるTVがいつもとなんの変わりもなく、

       明るいCMや羽目をはずしたテレビ番組を流しつづけているからだろうか。

        まあそんなに深刻になることはないのだが、

       いったいこれはなんなのかと疑問に思う。


        激動の時代がやってくると思われるのに、

       多くの人、とくに中高年の人たちの失業・ローン問題が深刻になってゆくはずなのに、

       この社会はいつもとかわらずあいかわらず通常に機能している。

        新聞やマスコミでつたわってくる恐慌不安は、

       ふだんの生活からはあまり垣間見ることはない。

        まだまだみんなこれまで蓄積した富をもっているからなのだろうか。


        後ろからふいに頭を殴られるようなショックを、

       われわれは覚悟しておくべきではないだろうか。


        そのときには日本人は大きな価値観の転換を図らなければならなくなる。

        日本人は会社に忠誠心を誓って、このまま勤勉なまま生きてゆくのか、

       それとも経済的繁栄を投げ捨てて、あらたなる価値観の模索をはじめるのだろうか。


        わたしは会社に忠誠心を捧げ、人生と家庭を投げ捨てたような価値観は

       絶対に捨てるべきだと思う。

        さもないとまたもや同じ過ちをくり返してしまうことになる。


        日本は戦前に戦争、戦後には経済という、

       価値一元化の同じような過ちを犯してしまった。

        われわれはこの結果を招来させた日本的体質、日本社会の性質といったものを、

       ぜったいに解明しなければならない。

        さもないとまたもや、日本国民をひとつの価値観で強迫的に駆り立てて、

       その結果によるカタストロフィーを経験することになるだろう。


        これから日本人は経済至上主義、供給者保護を捨てて、

       もっとゆるやかな個人が文化的に心理的に豊かにいきられる社会をつくるべきだ。


        日本人には価値観の転換が迫られている。

        だが多くの日本人は頭を殴られ、からだじゅうをひきずり回されるような目にあって、

       はじめてこれまでの価値観の崩壊を知ることになるのだろうか。


        捨てるべきは、勤勉と会社という至上価値である。




                                          (終わり)





      ちょっと勤勉と享楽の価値観、経済の繁栄、のんびりした生き方といった、

     いろいろな要素がこんがらがって、うまく整理できていないところがあると思います。

      またいつか、きちんと整理づけたいと思いますので、次回に期待しておいてください。



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