会社はなぜこんなにつまらないのか?
             ――親のようには生きたくない――


                                             1997/9/24.





     会社というものはものすごくつまらない――若いころのわたしはそう思っていたし、

    いまの若者はもっと強く、潜在的に思っているだろう。


     現在のわたしはもう30歳過ぎで、さすがにそんなことは言ってられなくなってきたが、

    なぜなら現実問題として、食べてゆくことができないからだ。

     ただこれからの若者たちはもっと企業を嫌ってゆくと思うし、

    サラリーマンの親たちを軽蔑しながら育ってゆくだろう。

     豊かになればなるほど、牢獄に閉じ込められるようなサラリーマン生活に

    嫌気をさすのは確実だろう。


     若者や学生たちは企業やサラリーマンを嫌い、

    企業に首輪をかけられた親の二の舞になることをとても恐れている。

     だから大人になりたくないと思っているし、親をとても軽蔑している。


     わたしは20代をそのような気持ちで過ごしたが、

    だけど、食べてゆくためにはそんなことを言っておれない。

     いまは生活や将来のためにサラリーマンを全面的に否定することはできないが、

    (生活の糧を得るのは、企業に就職するしかないのだから)、

    これからの若者たちがいまのような、つまらない企業社会に呑み込まれてゆくことは、

    なんとかして避けるようにすることが、先行世代のせめてもの努めだと思う。

     このままでは子どもたちがあまりにもかわいそうだ。


     企業社会を批判し、反省し、人間や社会がいきいきと生きれるような、

    楽しい、豊かな社会を、われわれは切り開いてゆくべきだ。

     そのためにはなぜ企業社会はこんなにつまらなく、おぞましく、

    恐ろしいのか、分析してみるべきだと思う。


     企業というのはなぜ、こんなにもつまらないのだろうか。


     わたしが学生のころ、もっていた会社にたいするイメージというのは、

    大人たちをロボット集団や羊の集団のように盲従させるところだというものだった。

     つまり人間を統制のとれた奴隷にしてしまうところだと思っていたのだ。

     これはテレビや写真などでよく写される通勤ラッシュのサラリーマンの姿から、たぶんに、

    思い浮かべていたところもあるだろう。

     大人たちを宗教信者のように盲従させてしまい、

    そんなところに呑み込まれてしまうしかない自分の将来をわたしは怖れた。


     いまから思えば、このようなサラリーマンにたいするイメージというのは、

    あまりにもステレオ・タイプ的で、実際を知らなかったともいえるかもしれない。

     なにしろ、学生というのは一般社会から隔離されており、

    つまり塀のなかの刑務所に閉じ込められているようなもので、

    マスコミからしか、じっさいの経済社会の様子を知ることができないからだ。

     たとえていうなら、学生にとって、企業社会というのは外国のようなものだったのだ。

     塀のなかから、こわごわと奴隷のようにこき使われている異国の人たちを

    ながめるような感じで、サラリーマンたちを見ていたのだ。


     だいたいマスコミから与えられる情報というのは、否定的なものばかりで、

    サラリーマンの悪い面や悪い行いなどが露出されがちだ。

     企業犯罪や過酷な労働条件、残酷なノルマ、そういったものばかり、

    マスコミに与えられて、脅えない子どもたちはいないだろう。

     われわれはこのような親の状況をみて、なぜかれらは黙々と会社勤めに通い、

    なにも言わず、じっと耐えつづけるのか、ふしぎでならなかった。

     ふしぎを通り越して、奴隷のような境遇に埋没する親たちにいらだちを覚え、

    そのふがいなさにあきれかえり、軽蔑した。

     子どもたちが親をバカにするのは、このような去勢された姿があるからだろう。


     ほかに子どもたちが影響されるものに、ロックがある。

     たいがいのロックの歌手は、サラリーマン社会をぼろクソにバカにしているし、

    あんな人生には生きがいがないと叫んでいる。

     代表的なところでは、尾崎豊や浜田省吾などがいる。

     かれらの叫びにはものすごく共感するところがあるのだが、

    若者向けのみのマーケットになっているからか、社会を変えるような力はほとんどない。

     どうして大人たちはあんなつまらない人生を送れるのだろうかと、

    子どもたちはふしぎに思わずにはいられないだろう。


     ワイド・ショーなどの宗教パッシングもある意味では、

    企業社会との類似性を感じさせる。

     教祖に洗脳されたり、盲従したりする信者の姿はものすごくおぞましいのだが、

    このような批判のまなざしはとうぜん、この形態とよく似たかたちの企業に向かうだろう。

     なにからなにまでそっくりで、「会社教」に洗脳されることを

    若者たちがなんとか避けようとするのはとうぜんだろう。

     むかしの人は企業成長に夢を託すことができたのだろうが、

    いまの若者にとってはそのような夢のパイがずいぶん小さくなったから、

    ただ支配−服従の関係だけが浮きあがって見えてしまうことになるのだ。


     企業と個人の利益がぴったりと重なるという時代も終わってしまった。

     国家と個人の利益も同様だ。

     国や企業が富めば、自分も富み、幸せになれるという幻想は破産した。

     カネやモノを際限なくほしがった時代は終わり、

    若者たちは自分の時間や趣味を大事にするようになったのである。

     利益が重ならないから、企業はただ個人の幸福を収奪する存在にしか、

    見えない時代になったのである。

     この大きな変化に企業や経営者は気づかなければならない。


     このように塀のなかの子どもたちは、大人たちの企業社会を、

    どこか異国のおぞましい世界としか見ていない。

     学校教育の期間が長引きすぎ、じっさいの経済社会との接点が

    あまりにもなさすぎるから、必要以上に企業活動を嫌ってしまう、

    というところがあるのかもしれない。


     わたし自身は企業社会をかなり嫌って、サラリーマンになることにためらいを感じており、

    ほかの友人たちもてっきりそのような気持ちを抱いているものだと思っていたが、

    社会に出るときにはみんなあっさりと就職していったことには少々驚いた。

     なんのためらいも嫌悪感も抱いていないのだろうかと思った。

     ただ入社してもすぐに辞める若者たちが急増しており、頼もしいかぎりだ。

     若者たちはもっと反骨精神をもち、これまでの腐った企業社会を変え、

    人間らしい社会を、自分の人生と後続世代のために、構築してゆく努力をすべきだ。

     どうも親の世代には、若者たちのこのようなつもりにつもった不満が

    見えないのかもしれないが、世代によって認識する環境がかなり違うことを

    理解してもらいたい。

     もうがむしゃらな労働に生きがいがあるような時代ではないのだ。

     それは奴隷の人生にしか見えないのだ。


     なぜ若い世代と中高年の世代にこれほどの違いがあるかというと、

    やはり貧しい時代と豊かな時代に生まれ育った環境の違いだろう。

     豊かな時代に育った若者たちは、旧世代のような勤勉に働く必要もないし、

    だいいち、物質的豊かさが達成された現在、目標や価値観は変わらざるをえない。

     物質的な豊かさを手に入れるという目標は終わってしまったのだ。

     そのような目標がないのに、旧世代のように若者を長時間労働に縛りつけることは、

    まず不可能といっていいだろう。

     働く必要がないのである。


     これまでの世代の人は、働くことに生きがいを見出せたかもしれない。

     われわれ若者は働くことに生きがいなどまるで求めないし、

    自分の時間や人生、交遊、趣味などを大事にする。

     どちらかといえば、仕事や会社に生きがいをもとめる人を軽蔑している。

     ひとつの会社に忠誠心を捧げて、朝から晩まで仕事、

    家に帰れば、空っぽで、自分がなにもない人生――われわれはそのような親の姿を見て、

    怖れおののき、嫌悪してきた。


     だから仕事や会社に生きがいをもとめる生き方というのは、まるで理解できないのだ。

     そんなのは、自分の人生を捨てるに等しいのだ。

     われわれがもう何十年か早く生まれていたら、そのような勤勉な生き方も

    じゅうぶん理解できたかもしれないが、生まれ育った時代環境がまるで違う。

     仕事が人生の目的であるような段階はもうすでに過ぎ、

    仕事は人生を楽しむための、あくまでも手段にしかすぎない段階にきているのである。


     社会が経済的に成熟すれば、そのような段階に意識が進むのは当然だ。

     だが、この企業社会はなぜか、前段階にとどまりつづけている。

     貧しい時代の経済体制・企業体質のまま、時間がとまってしまっている。

     年金や退職金を鼻の先にぶらさげられて、サラリーマンがあまりにも

    おとなしくなったからか、それとも企業社会を矯正するようなシステムが、

    政治や社会世論のなかにまるで育たなかったからだろうか。


     このような歪みは、貿易黒字や貯蓄ばかりが貯まる国民性、

    働いてもなにも使うことがない日本人といった姿に表われている。


     なんのためにカネを稼ぐのか、なんのために働くのか、

    といったいちばん肝心な問いが、日本人のなかからすっぽり抜け落ちている。


     日本人は金持ちになって人生を楽しもうとしたのではなく、

    ただ働いたり、会社を大きくすることだけを目的にしてしまったのである。

     食事を楽しむより、獲物を追うことばかりに熱中し、

    食べることを忘れてしまった哀れな日本人の姿がここにある。

     これでは、個人は幸せになれないし、人生を楽しむこともできない。

     自国民の消費マーケットが成熟しないから、とうぜん経済活動も冷めてしまう。


     われわれ若者たちは自分の人生を大事にする生き方を志向している。

     それなのにあいかわらず企業社会は、われわれから人生を奪いとろうとしている。

     親のような自分がない人生を怖れているのに、

    そのような人生を生きなければならないわれわれは、将来をたいそう悲観している。

     子どもたちの鬱積した不満は、このようなところにある。


     子どもたちは将来の生活の安定のため、早くから一流大学の入学、

    一流企業の就職をめざして、受験勉強がおこなわれる。

     だが、そのような過当な競争も、はたして子ども自身がほんとうに望む人生なのか、

    はたしてかれらが成人し、あるいは中高年になったとき、

    このようなコースがほんとうに成功した人生となるのか、

    といった問いが不問のまま、受験競争がおこなわれている。


     今日の花形産業が、明日には衰退しているのが、経済というものであり、

    親たちは何十年も前の成功体験を子どもたちに押しつけている。

     何十年か先のことを予測して、子どもの将来のことを考えているのだろうか。


     子どもたちはほんとうにかわいそうだ。

     一流企業に就職したからといって、ほんとうに幸せな人生を送れるかわからないし、

    自分が定年退職するころには、入社したころ一流だった企業も、

    リストラをおこなうほど、衰退しているかもしれないのだ。

     なぜ母親たちは子どもたちを受験戦争に放り込むのだろうか。

     学歴こそが、将来の人生を幸福にしてくれる唯一のパスポートと信じているのだろうか。


     子どもたちは一流企業に就職するために、少年期の大半を勉強に費やす。

     そういうコースしか、人生の勝利者になる道はないと思いつめて、

    必死に将来に備えての勉強をする。

     そういうコースから一歩でも踏み外すことを極端に怖れる。

     人生のいちばん好奇心に満ちた時代を、未来のプレッシャーのために、

    台なしにしてしまうのである。

     かれらは未来を怖れすぎた親たちの犠牲者なのかもしれない。

     そしてよい大学、よい企業に入ったからといって、

    一生安泰に暮らせるとは限らないのだが。


     親たちは安定企業や公務員などになれと、

    子どもたちに安定志向をひじょうに押しつけてくる。

     わたしはそのような親を、依存ばかりして、しみったれているように思えた。

     なぜ、依存とか安定とか、そんな情けない生き方を、

    さも正当な生き方のように、親たちは押しつけてくるのだろうか。


     親たちは企業を営利団体というよりか、福祉団体のように捉えているところがある。

     安定企業に入れば、一生食べさせてくれるという親心からだろうが、

    そのような精神が企業を衰退させることにつながるのではないかとわたしは思っている。

     活力やフロンティア精神が失われてしまうのだ。

     貧困が激しすぎる社会は悲惨だが、あまり守られすぎる社会も、

    人々は新しいことや革新に手を出せなくなり、経済が停滞してしまうことになる。


     親たちがこのようなことを言うようになったのは、

    大きな企業こそが、福利厚生などの保障面を充実させてきたからだろう。

     企業が福祉面をどんどんつけ足してゆくから、

    そのようなところで企業を判断するようになった。

     福利厚生がしっかりしている企業が、よい企業になったのだ。

     企業が生涯の面倒をみるという姿勢を表わしたから、

    多くのサラリーマンは会社人間になり、滅私奉公してきたのだろうが、

    残念ながら、企業活動は経済にほかならず、何十年も先のことまで保障できない。

     とくに現在のように多くの市場が成熟化してしまった転換期には、

    企業は終身雇用も年金も保障できなくなってしまった。


     それなのにこれまでの人たちは企業に人生を奪われ、

    それを許してきた。

     なぜかれらは奴隷のようになってしまったのか。

     けっきょくは、年金や退職金を「人質」にとられていたからということになるだろうか。

     定年まで勤めないことには、大金を手に入れることができない。

     そういうことでサラリーマンたちは、もの言わぬ羊になったのだろうか。

     子どもたちにはこのようなところが見えないから、

    去勢されたような大人たちの姿にいらだちを覚えたのである。


     むかしの人はほんとうに企業や仕事に生きがいを求められたのかもしれない。

     終身雇用を約束されているのなら、サラリーマンはがむしゃらに恩のある企業に

    報いようとするだろう。

     だが、いまの若者から見える彼らの姿は、ただの企業の奴隷集団だ。

     北朝鮮のマインド・コントロールされたような集団と同じに見える。


     時代が変わってしまったのである。

     あるいは価値観が変わってしまったのである。

     企業は魅力あるところでなくなり、人生を収奪する場になってしまった。

     利益が、個人と企業とのあいだで、まっぷたつに分かれてしまったからだ。

     もう個人と企業の利益がぴったりと重なるような幸福な時代は終わってしまったのだ。


     これから個人と企業の対立する時代が始まるのかもしれない。

     まだまだ不満の臨界点には達してはいないのだろうが、

    企業が雇用者にたいして、なんの社会保障もできなくなるような時代がくれば、

    その対立は表面化し、噴出するだろう。


     ただ、われわれは企業に就職しないことには生活の糧を得ることができない。

     企業と対立ばかりしていても、メシを食えるわけではない。

     利益が重ならない時代に、個人と企業は妥協点をどこいらに求めるだろうか。


     戦後50年、社会の価値観はどんどん変化している。

     人々は国家と自分の幸福は同じだという幻想の崩壊を見、

    いま人々は、企業と自分の幸福の食い違いを垣間見ようとしている。

     企業はけっして温情的な家族でもないし、われわれに幸福を与えるものでもない。

     企業はわたしの生涯を保障してくれる場ではなく、

    企業にとってのわたしとは、ただ使い捨てられる商品にしかすぎないのだ。

     それが経済や営利企業というものであり、

    生涯を保障する企業という幻想から、目を醒まさなければならないのではないだろうか。


      企業が化けの皮をはがすとき、われわれはいま一度、

     この企業という存在を冷静に見つめ直すべきである。

      企業はわれわれの生涯を保障したというよりか、

     われわれの人生を幻想によって収奪してきたのではないだろうか。

      そして社会的つながりを断絶させ、社会的規律やモラルを崩壊させたのではないか。

      自然環境を収奪したように、人間の内なる自然も、

     ――出生率の低下に見られるように――収奪されてきたのではないだろうか。


      企業は社会的存在として、その責任を果たさなければならない。

      個人や地域社会、育児を収奪するような行為は、

     社会的存在としての責任を果たしているとはいえない。

      社会の一員としての自戒ある行動が求められる。

      企業は人間のためにあるのであって、人間を支配し、収奪してはならない。


      企業への忠誠心という幻想から醒めたとき、

     人々ははじめて、企業の社会的役割を公平に見られるようになるのではないだろうか。


      企業はもうそこに幸福をもとめる場ではない。

      若者たちはもっとほかの場所にそれをもとめようと模索しはじめている。

      物質的満足が達成された現在、人々はつぎの段階に歩を進めたのである。


      まだそれがどのようなものかわかっていない。

      つぎの段階に進むために、企業は収奪してきた人間を解放しなければならない。

      企業は社会の住人として、社会への貢献をなすべきである。

      社会への貢献とは、人間の人生と時間をかれらに返すことである。

      生涯の保障という幻想のカーテンはもう通用しないのである。



       さてここまで、会社はなぜつまらないのかということを検討してきたが、

      会社がこれほどまでつまらなくなったのは、いつの時代もそうだったのか、

      それとも産業革命以降、とうとう企業が新しい物質的な夢を

      創造できなくなったからだろうか。

       企業というのは工業化時代に適応した役割を終え、

      なんらかの変貌をとげようとしているのだろうか。


       物質消費社会は大きな曲がり角にさしかかっている。

       会社のつまらなさはこのような点に起因しているのだろうか。


       わたしにはよくわからない。

       ただこの社会は生産至上主義の時代を脱し、

      生活者優位の社会に変えてゆくべきだと思う。

       このままではあまりにも人生がつまらないし、人々は幸福にはなれない。


       決められた人生、決められたコースしか生きられない社会は、

      活力や生きる気力を奪い去ってしまい、経済の停滞――

      もしくは社会の衰退を招くだろう。

       現在の心理不況とよばれるものは、人々の生きる気力の衰退にも、

      その原因があるのではないだろうか。


       人生があまりにもつまらなさすぎるのだ。

       このようにつまらなくしているものは、企業であり、

      企業や経済でしか、価値が測られないこの社会に問題があると思う。


       つまり幼年期から、企業があまりにも人間の人生を拘束しすぎているのだ。

       いまにも窒息しそうな人々が、活力ある社会を創造するのは不可能だ。


       活力をとりもどすには、企業の力をもっと弱めるべきではないだろうか。

       われわれはあまりにも企業に拘束されるから、

      人生がつまらなくなってしまうのではないだろうか。


       なんとかして、この企業専制国家――もしくは企業の恐怖政治から、

      われわれは脱け出すべきではないだろうか。

       さもないと、われわれは人生を幸福に生きられないだろうし、

      子どもたちや孫の世代は、ますます生きる気力を失ってしまうだろう。


       物質的豊かさを手に入れた現在、

      社会はそのような大きな転換を必要としているのではないだろうか。



                               (終わり)



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