考えるための哲学エッセー集



      われわれはなんのために働くのか



                                                1997/6.




      われわれはなんのために働くのか、といった疑問をもったことがあるだろうか。

      あまりにもあたり前すぎて、そんなことを一度も考えたことがない人もいるかもしれない。


      だが働くことの意味が、どんどん薄れていっているように思える。


      時代は変化している。

      戦後の間もないころは、働かないと食べることもできなかっただろう。

      高度成長期には、マイカーやマイホームなど欲しいものがたくさんあって、

     人々はしゃか力になって働いたのだろう。


      だが、そのような原動力は、豊かな時代になるにつれて、

     どんどん薄れつつある。

      豊かになれば、べつにがつがつと働く必要もないし、

     商品やサービスにそんなに多くを求めなくなる。


      これはとうぜんのことであって、怠け者と非難するのはあたらない。

      たんに必要がないだけなのである。

      必要もないもののために、がむしゃらに働く必要などない。


      だが、一昔前のひとたちは、条件がこのように変わっているのに、

     働くことや勤勉に価値をおきつづけている。

      経済的条件と、社会的な認識において、ギャップが生じつつある。

      時代が変わっているのに、そのことに気づかず、

     過去のやり方や常識が正義だと思いこみ、それを若い世代に押しつけつづけている。


      たしかドラッカーがいっていたと思うが、バブルが起こったのは、

     消費の主役が勤勉貯蓄型の世代から、戦後生まれのベビー・ブーマーの世代に

     変わったことを、政策者たちが気づかなかったからだということである。


      なぜこんなにギャップが生じるのだろうか。

      社会的認識が、いつからか時間がとまっているとしか言いようがない。

      過去の認識のまま、現在を捉えているのである。

      暗記型の学校教育が、このようなところにも顔を出しているのかもしれない。


      時代の変化を早く捉えて、それに対応した経済の仕組みや労働条件、

     社会的観念といったものを形成しなければならない。

      現在は、過去の終った時代にしがみついているだけだ。

      しかも過去のやり方や常識を、正義や道徳にしてしまっている。

      そんなものはただ、過去の経済の条件にしか過ぎないのだが。


      日本はもうお手本も、師匠もない時代に突入していることに気づかなければならない。

      過去の反復だけでは、もう先へは進めないのである。



      われわれは近代史上はじめて、お手本のない時代に突入してしまった。

      ヨーロッパという、先をゆくお手本を失ってしまったのである。


      日本はヨーロッパの陰に隠れて、顧みることもなかった問題に、

     はじめて直面しなければならない。

      なんのための「経済」なのか。

      なんのための「豊かさ」なのかという問いだ。


      お手本があれば、そのような問いを発する必要はなかった。

      ただ豊かなもの、すばらしいモノなど、西洋が見せびらかすものを、

     真似さえすればよかったからである。


      そのために現代の日本は、かたちやハードだけをとりそろえるという、

     経済偏重の社会をつくってしまった。

      そのほかの多くの切り捨てられてきた部分――社会や文化といったものから、

     いくつもの問題が生じている。

       あるいは、個人としての幸福や、なんのための生なのか、といった問題すら、

      なおざりにされてきた。

       われわれは豊かなモノにとり囲まれて、とてつもない空虚感に置き去りにされている。

       経済偏重の社会をつくってしまったツケは、

      どんどんわれわれ個人の心を蝕みつつある。


       近代以降はじめて、われわれは哲学的な問いに、

      直面しなければならないのかもしれない。

       なんのための富なのか、なんのための人生なのか、人生の目標とはなんなのか、

      社会やそのありかたはどのようにあるべきなのか、といった問いだ。


       これからはただ経済面だけを充実させておれば、

      問題はないといった時代は終ってしまったのである。

       その先の、社会や人生の幸福や目標はなんなのか、といったステップに、

      踏み入れてしまったのである。


       かつての日本も、中国文化の輸入が完成したとき、

      現代の日本と同じような問いにぶつかったのかもしれない。

       このときにはどのよう答えをみいだしたのだろうか。






       われわれはなんのために働くのか――個人の目に転じてみよう。

       まずは生活の糧を得るという、とうぜんの答えがあるだろう。

       だが、われわれの労働は、生活の糧を得るためだけにあるのではない。

       マイ・カーやファッション、あるいは趣味やレジャーといったものに、

      われわれは収入の大半をつぎこむ。

       生存に必要なものだけのために、労働しているわけではない。

       ほとんどがこれら娯楽や趣味のために費やされる。


       これはいったいなんなのだろうか。

       つまり趣味や娯楽を得るために、われわれの人生の大半の時間は費やされるのだ。

       生活するためだけなら、一日何時間も長時間労働に拘束される必要はない。


       われわれは趣味や娯楽のために、労働するのである。

       もちろん働かなければ、メシは食えない。

       家賃も食費も払えない。

       だが、それの占める割合はどんどん減りつつある。


       「遊ぶ」ために「働く」という変な論理が成り立っている。

       遊びたいのなら、わざわざ働く必要などないではないか。


       たしかに企業や他人がつくった商品やサービスは魅力的である。

       だが、遊ぶだけなら、そのような力を借りる必要があるのだろうか。

       労働の目的が、どうも変なものに向かっている。


       かつては、世間的・平均的な水準を保つために、労働がなされてきた。

       つまり世間的に恥ずかしくない、標準的な暮らしをするためである。


       われわれは「世間体」といったもののために、人生の大半を捧げつくしてきたのである。

       それは一度しかない人生にとって、生きるに値する価値をもつのだろうか。


       子どものときには、母親からこのような価値観を頭から叩きつけられてきた。

       それはひじょうにしみったれた、哀れな価値観のように思えた。

       他人の見た目だけを着飾る価値観というのは、空虚である。

       表をとりつくろうことだけが、人生の目的なのだろうか。


       マイホームやマイカー、ファッション、ブランド品、学歴や勤め先、

      といったわれわれが人生の大半の情熱や収入をつぎこんできた対象は、

      すべてこれらのためになされてきたのではないだろうか。

       他人の見た目を着飾るために、われわれは人生の大半を費やすのである。


       なぜこのようになったのか。

       なぜ外側の体裁が、こんなに大事になったのだろうか。


       ヨーロッパの文化を輸入するさい、とりあえず外側を真似すれば、

      それだけで賛美されたというのもあるだろう。


       金持ちというのは、いつだって資本主義の歩く「広告塔」だった。

       われわれはこの広告塔に憧れて、マイホームやマイカーといったもので、

      外側を着飾ってきた。


       もっと単純化していえば、地位や優越を表示するために外側は着飾られる。

       未開民族が、飾りや道具などによって、その地位を表わしたように、

      われわれもマイホームやマイカーによって、地位や立場を表示しようとするのである。


       人間にとっては、集団の中での地位・順位といったものが、

      ひじょうに大事なもののようである。


       われわれが切り開いてきた大衆消費社会というのは、

      このような地位表示のために、必要となってきたのかもしれない。

       イギリスの産業革命も、ファッションによる地位・階層表示のために、

      起こったともいえるのである。


       集団での地位や順位を得ることが、人生の目的になってしまったのである。

       とうぜん外側を着飾ることが、ほかの人生のなにものよりも重要になる。



       人生のほんとうの目的や目標といったものはなんなのだろうか。

       すくなくとも、サル山の順位争いだけが人生の目的ではないのはたしかだ。

       サルの地位表示は、毛づくろいやマウンティング(交尾の格好)をすることによって、

      たしかめられる。


       人間はまわりにたくさんのモノを所有することによって、表される。

       モノの所有によって、その地位が表されるのである。


       だからわれわれはたくさんのモノを自分のまわりにかき集めてきた。

       集積したモノの量や質によって、われわれの地位は測られる。

       ヨーロッパ近代文明というのは、その表示のための生産や流通が、

      最大限に活用された仕組みなのだろう。


       われわれはサルではないのだから、なんのための地位表示なのか、

      といった内省をみずからに向けることができる。

       自分がなぜこのようなことをおこなっているのかという反省をすることができる。


       人生にとって、あるいはわれわれの生にとって、

      地位・優越表示がどれだけ重要であるというのだろうか。


       現代ではとてつもなく重要になり、われわれの人生の大半は、

      この競争に費やされる。

       近いところでは近所の家のあいだでの優越競争、学歴競争、

      会社内での順位競争、果ては企業間競争、そしてこの経済システムさえ、

      この地位・優越表示が根本にあるのではないだろうか。


       われわれのこの経済システムをつくっているのは、

      わが内なる地位・優越表示の欲望ではないだろうか。



       われわれはこの愚かな心の葛藤をやめるべきではないだろうか。

       果たして、人生の目標や意味といったものは、

      たったこれっぽっちのために費やされるべきなのだろうか。


       現在の経済システムが、われわれの人生の大半の時間を拘束するようになったのは、

      この制御できない心のためではないだろうか。


       われわれは怖れているのである――人から劣等に見られたり、蔑視されたり、

      落ちこぼれに見られたり、脱落者に見られることを――。

       けっきょくそれらの怖れや悲しみのために、われわれは人生のほとんどを費やして、

      優越表示に追い立てられつづけるのである。


        われわれは振り回されてきた心の恐怖といったものを、

       コントロールできるようにならなければならない。

        恐怖を解消するために、外側のモノや地位表示に頼るのではなく、

       その怖れる心自体に手綱を張らなければならないのではないだろうか。


        われわれの怖れというのは、外側に頼るのではなく、

       それ自体を制御できるようにならなければならないのである。


        自分の心の仕組みやメカニズムを客観的に見られるようになり、

       それを自動車の運転のように、操られるようになるべきではないだろうか。

        われわれは自分の心や身体を、ハンドルのない自動車のようにしか、

       理解できなかったから、それに振り回されてきたのではないだろうか。



        価値観も一元的なものではなく、多くをもつことだ。

        あるいは他人の価値観にひれ伏さずに、

       自分独自の価値観をもつことが必要かもしれない。

        つまり自分の価値観をもてば、たとえある価値観のランクの最下位に

       位置づけられようが、気にすることはないだろう。

        わたしは自分の価値観において、充足しているからだ。



        自分はなんのために生きているのだろうか、といった疑問に

       真正面からとりくまなければならないのかもしれない。

        すくなくとも、地位をもとめるためだけに生まれたのではないだろう。


        あるいは現在、マイカーや電化製品といった地位表示が、

       一段落ついたために、ちょっとした空白期を迎えているだけかもしれない。

        そのあとすぐにインターネットなどによる知識や情報による、

       地位表示の競争がはじまるだけかもしれない。


         われわれは人生になにを求めるべきなのだろうか。


         これまでどおり、地位や優越に人生の目的を見出すほうがよいのだろうか。

         そうすれば、おそらくこの競争経済はどんどん激しくなる一方だろう。

         「敗者」や「貧困者」はとうぜん多く生み出されるだろう。

         なぜなら、優越や地位を表すためには、とうぜん「最下位」が必要だからだ。


         わたしやあなたが地位や優越を表すためには、

        まわりのだれかの「劣った」すがたを、浮きあがらさなければならない。

         つまり、わたしの怖れる心を慰めるためには、

        まわりのだれかをつき落とし、貶めなければならないのである。


         わたしの怖れる心が、この止まることのない競争経済を

        生み出しているのかもしれない。

          ほかのだれもかれもが、このような恐怖を抱えもち、

         この競争から逃れようとしているのなら、競争は激化するだろう。


         地位・優越表示は、この経済システムを生み出してきた。

         そしてわれわれの人生の大半の時間は、

        労働のために奪われるという帰結を示してしまった。


         これでは、いったいなんのための人生かわからない。


         われわれが楽しく、こころよく暮らすための経済や企業というシステムが、

        われわれから人生や大半の時間を奪いとってしまった。

         いったいだれのための経済や企業なのか、わからなくなる。


         すくなくとも、個人の幸せや豊かさのためにあるのではない。

         われわれを監獄や収容所のように捕らえる機関が、

        われわれに幸福をもたらすわけなどない。

         人間や社会、家族のためにあるのでもないだろう。

         いったいだれのためにあるのだろうか。


         われわれはこの巨大な経済システムから、

        どのようにしたら、人間らしさのある社会や生き方を、

        とりもどせるのだろうか。


         機械的な経済循環に振り回されて、

        われわれはなぜこのような生活を強いられているのか、

        その原因や根源を知ることができない。


         このような手のつけられなくなったシステムを、

        人間の手のうちに戻すことはできないのだろうか。

         システムに振り回されて、人間らしさがこの社会から

        どんどん失われつつある。

         なんとかこの制御力を手に入れて、人生の意味や価値を、

        人間の手の内にとり戻すべきではないだろうか。


         われわれはなんのために生きているのかわからなくなる。

         なんのために働いているのかすらわからない。

         ただ目的なき経済循環に振り回されているだけではないだろうか。



                             (終わりです)




         最後まで読んでいただけまして、ありがとうございます。

         この労働や経済システムに関する問題は、わたしにはわからないことだらけだし、

        なんとか解決したい問題が山積みになっていると思っています。

         これからもこのテーマについてのエッセーをつづけたいと考えています。




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