考えるための哲学エッセー集




      「思考」は超えられるか   第二部


                                             1997/6.




           第二部  目次


         1. 思考が自分を傷つけている

         2. 他人とは、「わたし」である

         3. 「過去」はどこにも存在しない

         4. 目に見える世界は、実在しない?

         5. 精神と思考という虚偽を見抜く――クリシュナムルティの思想

         6. ケン・ウィルバー――「影」の部分をとりもどす試み





  1. 思考が自分を傷つけている



       不安や悲しみ、悩みがあったらわれわれはどうするだろうか。

      ふさぎこみ、じっとして、ものを考えつづけるだろう。

      動きをとめて、われわれはその不安や悲しみ、悩みの光景をなんども思い出しては、

      これからどうなるといったことや、どうしよう、といったことを考えつづける。


       だが、この最善と思われるやり方も、

      「思考の原則」からいうと、最悪のパターンなのである。

       火の中に、薪をくべるようなものだ。


       なぜなら、否定的なときには否定的な思考しかうみだせないし、

      不安なときにものを考えると、もっと不安になる思考を思いつくだけなのである。


       ますます、みずからを不安におとしめる結果におちいってしまうのである。


       われわれはこのような原則を知らない。


       だからとにかく問題があったら、思考をフル回転に活動させる。

       ともかく考えることでしか、解決策を知らないからだ。


       そうすれば、どうなるか。

       ますます不安な思考がうみだされ、悲しみは深くなり、

      悩みはもっと深刻になり、問題はもっと複雑になる。



       われわれは、思考のこのような原因と結果――因果関係を知っているだろうか。

       われわれが良かれと思っている思考という方法は、

      じつは問題をもっと大きくしているものではないだろうか。


       問題を解決しようと思って行っている方法が、

      問題をもっと大きく複雑なものにしていることに、誰が気づいているだろうか。


       不安や悩みがあるときに考えることは、

       みずからを傷つけていることに等しいのである。


       自分で自分の傷を大きくしているのである。



       だが、われわれは「思考」に価値と信頼をおいている。

       そのためにどんなに不安になったり、不快になったとしても、

      われわれは考えつづける。

       自分の傷をみずから引き裂いているようなものだ。

       なぜそのような愚かなことをおこなうのか。

       傷口を引き裂いているのが、「思考」だということを知らないからだ。



       不安や悲しみなどの感情は、じつは外界にそのような出来事がおこっているのだ、

      と考えるよりか、思考にしがみつくことによってひきおこされている、

      と考えたほうがよいのではないだろうか。


       つまり、サインを送っているのだ。

       これ以上、不快な気分や悲観的になる思考は、

      もう捨てるべきだというメッセージなのである。


       感情というのは、「痛み」に相当するのではないだろうか。

       鋭く痛む傷口に、わざわざ塩をすりこむような人はいない。

       だが、不安や悲観的な気分のときに、思考しつづける人はいくらでもいる。

       自分から、苦しみの傷口を開くのである。


       そうして酒を呑み、憂さ晴らしに興じるのである。


       たしかにこういうときの不安や怖れの思考は、とまらない。

       つぎからつぎへと、不安になったり、怖れたりするような、

      映像や思考は、頭のなかにやってくる。

       これは止めようがないかもしれない。

       あるいは深呼吸したり、からだをリラックスさせればいいかもしれない。


       このような思考は、たんなる幻想として、無視すればいい。

       頭を「空っぽ」にすればいい。

       ただ、むりやり思考をとりのぞいてはならない。

       ここのところがひじょうにむつかしくて、わたしもうまくできるのかわからないが、

      むりやりはぶく思考は、舞い戻ってくる思考に怖れをなしたり、

      制御できない悲しみをつくりだしてしまうことになる。


       むりやりとりのぞこうとすると、どこかに無意識のうちに力を入れてしまうことになる。

       それは息をとめたり、肩や腕に力が入ったり、また顔の緊張をもたらしたりする。

       そしてこのことに気づかなかったり、緊張をとく方法がわからなかったりして、

      多くの苦しみや痛みを自分自身につけ足すことになる。

       ともかく基本は、流れるままにまかせておくことだ。


       思考の「バス」に乗りこまなければ、「恐怖のツアー」は始まらない。

       いちど乗りこめば、あなたは出口のない恐怖のなかに閉じ込められるだろう。



       不安や悲しみ、悩みがあるときには、まず思考を捨てるべきではないだろうか。

       もちろん、問題が解決するわけではない。

       だが、切羽つまったときの思考はろくなものではないし、

      ますます最悪なことを思いつくことになってしまう。


       気分の悪いときに問題を考えるのではなく、

      そのようなことをすっかり忘れて気分がよくなったときに、

      問題に対処するべきではないだろうか。


       カールソンは安らかで穏やかな気分になったとき、

      問題を解決する「知恵」が働くといっている。

       これを「答えを考えずに答えを見つけ出す能力」といっている。

       つまり余裕のあるときのものの考え方は、

      せっぱ詰まったときの思考能力より、

      はるかに優れた答えを見出すことができるのである。


       せっぱ詰まっているときには、われわれは息を押し殺している。

       息の止められた人間が、余裕のある答えを見出せるだろうか。

       息が苦しいときに、楽観的なものの考え方をできるだろうか。



       ともかく思考を捨てて、安らかな気分をとり戻すことだ。


       そのときには問題を大きな視点からながめることができたり、

      ふいに、わたしを悩ませている問題なんか大したことではない、

      どうってことはないではないか、と肩の力を抜くことのできる展望が開けるかもしれない。

       そもそも問題などではないではないか、と思えるかもしれない。



       思考とは、空想である。

       悩みとか問題というのは、空想によって組み立てられているものだ。

       もし、いま自分からそれを捨て去れば、どこにもなかったことになる。

       どこに問題なんかあるのか。


       禅の公案によく似たものがあるが、

      「問題があるのなら、いまこの手の上に見せてくれ」ということである。



       ただ、われわれの問題の大半は、人間社会の「約束」の上におこっている。

       だれかとのこじれた関係や、金銭問題、仕事の問題、

      こういった問題は、相手が空想のとり決めを守ることによって成り立っている。


       「空想」だと一蹴するわけにはゆかない。

       ただ、そういう問題は継続するかもしれないが、

      わたしはそのことを一日中、思いわずらうことなく、

      思考を捨てて、穏やかな、安らかな一日を過ごすことができる。

       そのような自分側の変化は、おそらく相手側との関係を軟化させるだろう。

       またこちらの対応も変わってくる。

       なにごとも余裕のある対処のほうが、せっぱ詰まったときのほうより、

      数段、優れた結果をもたらすのではないだろうか。


       もちろん、きれい事だけでは物事が進まないし、

      こじれた関係を修復するのは、かなり困難である。

       でも四六時中、問題を考えつづけるより、

      安らかで穏やかな気分に満たされたほうが、よほど、いいのではないだろうか。



       わざわざ自分を苦しめたり、痛めつけたりすることはない。

       自分の首をしめつづけるのは、やめよう。






    2. 他人とは、「わたし」である




        ここでは、他人にたいする怒りや恨みを考えてみる。


        われわれのたいていは、だれだれがどのようなことをしたとか、

       あいつはムカつくだとか、こんな失礼なことをしただとか、

       他人のことやゴシップを噂しあったり、考えつづけたりしている。


       他人のムカつくところや腹のたつところ、気に食わないところ、いやなところ、

      そんなことばかり思い出したり、考えたりして、一日を過ごしている。


       たしかにその相手はムカつくだろうし、失礼な行いをしただろうし、

      屈辱や侮辱をわたしに与えたかもしれない。


       だが、そのムカつく相手のために、一日中、頭に血を上らせているのは、

      ちょっとおかしいとは思わないだろうか。

       ムカつく相手のことを寝ても醒めても考えつづけるということは、

      まるでその嫌いな相手を「恋人」のように抱きしめて離さないことを意味する。

       ただでさえ、嫌いな相手なのになぜそんな気持ち悪いことをするのだろうか。



       問題を解決しようとするからだ。

       つまり、相手との関係を「改善」しようとするからではないだろうか。

       または、相手を「裁こう」としているのである。


       だが、そのために怒りつづけたり、悲しみつづけたりして、

      自分の気分は一日中、最悪なものになるのではないだろうか。


       腹のたつ相手は、自分の怒りと関わりなく、のほほんと過ごしている。

       それなのに、わたしの頭と心臓はかっかと燃え上がりつづけている。

       なんとか相手を懲らしめてやろうと、ますます頭に血が上ることになる。


       思考の原則によると、怒っているときにはもっと、

      怒りに火の注ぐような思考がつぎつぎと生み出されることになる。

       思考とはそのような性質をもつものなのである。


       感情と気分は怒りに煮えたぎり、心臓は早鐘のように鳴り続け、

      息は苦しく、最悪な気分である。

       身体も感情と同様、思考にしたがって反応するものだからだ。

       怒りのときには、身体は、野生の中で生活したときと同じような、

      「戦闘体勢」に入るのである。

       全身を筋肉の鎧に固めるのである。



       ジェラルド・G・ジャンポルスキー『愛と怖れ』(VOICE)によると、

      このようなときには、「許す」ということが必要だといっている。

       つまり、怒りに対して、「意識的に忘れる」ことが肝要なのである。


       怒りを捨て去れば、わたしの心は、外界でどのようなことがおこっていようが、

      安らかで、穏やかな気持ちに戻ることができる。


        つまり外界とは、わたしのものごとの「捉え方」――「思考」なのである。

        腹のたつ人というのは、外界にはじめから存在しているわけではない。

        わたしが相手のムカつくところに「注目」して、「腹のたつ人」が誕生するのである。


        つまり、わたしの思考、捉え方が、腹の立つ人を生み出したのである。

        自分自身が、みずからを腹立たせているのである。


        このような意味で、他人とは「わたし」なのであるといえるだろう。

        他人とは、わたしの「見えかた」「捉え方」なのである。

        そしてその認識は、感情と気分に直結している。


        他人とは、わたしの感情や気分なのである。


        視覚でみると、わたしと他人ははっきりと区別されているように見える。

        だが、他人の捉え方や怒りというのは、わたしの内側に属するものである。

        感情の世界に、わたしも他人もない。

        すべて「わたし」であり、わたしのなかの「感情」なのである。


        それなら、わたしは他人のどのような面を見、

       どのような面は忘れるべきなのか、なにを選択するべきなのかわかるだろう。

        他人への感情はみずからがつくっているのである。


        だからシャカやキリストは、許すことを奨めたのではないだろうか。

        他人のためというよりか、自分のためにそれはよいことなのである。

        同様に、愛や感謝の気持ちを他人にもつことは、

       自分の気分を幸せにたもつということで、優れた方法なのである。

        ただわれわれ凡人は、かれら聖人のようには、

       すべての怒りや不満を受け流すことはなかなかできないだろう。

        ついつい思考や怒りにしがみついて、なんとか相手を裁こうとしているのである。
       


        たしかに相手はひどいことをしたり、怒りに値することをおこなっただろう。

        だが自分を怒りによって、みずから苦しめたり、傷つけたりすることはないだろう。

        まずは自分の怒りの思考を意識的に捨てて、

       安らかな気分をとり戻すべきだ。

        他人を裁くより、自分の安らぎや穏やかさを保つことが、

       人生にとってもっとも大事なことではないだろうか。


        それから相手との関係を考えなおしてみるのもよいかもしれない。

        思考の原則によると、怒りのときには怒りの思考しか生み出されないから、

       残酷で、容赦ない解決策しか考え出せないものである。

        相手もそのことに反発して、もっと対立が深刻化するだろう。


        わたしの考え方や捉え方が、相手の反応をつくり出したり、

       引き出したりしているということに、気づかなければならない。



        だが、すべての怒りや不満を受け流すことは、とてもわたしにはできない。

        この世の中には、不正や搾取、暴力などが、たくさんまかり通っている。

        これらのすべての怒りを捨てて、なにもしないというのは考えものだろう。

        キリストやシャカはこのようなことも「許そう」としたのだろうか。


        ヨーロッパ近代のなんでもかんでも支配し、コントロールしようとする、

       考え方からは、あまりにも「無力」で「奴隷的」にみえるかもしれない。

        だが、この見えかたもわたしの捉え方であり、わたしを苦しめさいなます。

        思考を捨て穏やかさを保つか、それとも自分に苦痛を与えつつも、

       他人や社会を思い通りに動かそうとするべきなのか。



        新興宗教でも、やはりこの思考を捨てるという方法を使って、

       信者たちから金をまきあげるようなシステムをつくりあげている。

        このような不正には警戒しなければならない。

        おそらくそれは、組織や集団に必然的にともなう結果なのだろう。

        組織ができあがると、構成員を養っていかなければならず、

       それは必然的に、目的が、金儲けへと転嫁してしまうのである。



        思考は、われわれの精神の健康を損ねるようなときには、

       捨て去るべきなのだろう。

        だが、社会の暴力や搾取などには、断じて思考を捨てるべきではないのだろう。

        言葉や思考によって組み立てられた社会の仕組みには、

       それらによって、対処するべきである。

        ただ、復讐や報復だけに費やすような人生は、

       精神の健康から考えて、まちがっても選択してはならないと思う。


        外側の世界と思っているものも、じつは自分の感情と直結するという意味で、

       「わたし」の内側の世界なのである。

        たしかにこのバランスのとりかたはむつかしいと思うし、

       どうすればいいのか、いまのわたしには判断できない。

        たとえ外界にどのようなことがおこっていようが、

       それとはまったく無関係に、心の安らかさや穏やかさを得られるのなら、

       まず第一にそれらを選びとるべきだとは思うが――。





   3. 「過去」はどこにも存在しない



        耳をすませば、あなたのまわりには多くの音が聞こえるかもしれない。

        テレビの音やラジオ・CDの音楽、だれかの話し声、エアコンの音、冷蔵庫の音、

       家の外では車やバイクの音、風の音など聞こえるかもしれない。

        ちょっとそれらの音を聞きながら、考えてほしい。


        過去の音は、聞こえるだろうかと。

        さっき聞こえていた音や、5分前の音はいま、聞くことができるだろうか。


        いまの音しか聞くことができない。

        さっきや過去の音はもう二度と聞くことはできない。


        動くものもそうである。

        あなたの前を人が歩いているとする。

        一分前のその人の歩いている姿を見ることができるだろうか。

        不可能である。


        車もそうであり、電車も、雲も、そうである。

        ちょっと前までのそれを見ることはもうできない。


        われわれの知覚は、一瞬の「いま」しか知覚することはできない。


        まわりの止まっているように見える物も、同じように、

       「いま」のすがただけを見ている。

        止まっているからわかりづらいと思うが、同じ性質なのである。


        いつだって、いましか見ることも、聞くことも、感じることもできない。


        この世の中のすべては、ずっと流れつづけていて、

       一瞬たりとも、とどまることはない。

        川の流れの水は、二度と同じものではない。



        それなのに、われわれの頭のなかの大半は、

       過去や未来のことでいっぱいである。

        もはや見ることも、聞くことも、さわることもできないものに、

       充たされている。


        そしてわれわれの怖れ、悲しみ、苦悩のほとんどは、

       過去や未来のことがらではないだろうか。

        もうどこにも存在しない過去や、あるいはまだ起こらない未来の心配に、

       われわれは苦しめさいなまされているのである。


        なぜ、存在しない過去や未来に苦しめられるのか。

        それは過去を思い出したり、未来を考えたりすると、

       いま、起こっているかのように、われわれは怒ったり、悲しんだり、

       苦しみ悶えたりすることができるからである。


        つまり過去も未来も、「いま」の上に進行してしまうことになるのである。

        あるいは頭のなかにあることは、過去も未来も関係なく、

       「現実のもの」「実体あるもの」として、感じられるからかもしれない。

        頭のなかの世界は、すべて「現実」なのである。


        映画や小説は、「虚構」であることがわかっている。

        だがそれらを見ているとき、現実のことのように悲しんだり、

       腹を立てたり、どきどきしたりするだろう。

        われわれの頭のなかでは、現実も虚構も、

       あるいは過去や未来、現在という区切りはまったく意味をなさなくなっているのだ。


        映画や小説のばあいは、社会的に「虚構」であるという「約束」が成り立っている。

       だが、過去に対しては、虚構であるという見解がない。



        過去は過ぎ去ってしまえば、虚構と同じ性質のものになる。

        言葉で説明しないかぎり、過去は甦らない。

        つまり過去は消滅してしまったのである。

        もはやどこにも存在しない。


        われわれは過去があると思っているし、

       過去があったのは、自明であると思い込んでいる。


        もちろん、過去はあった。

        あなたはきのう、会社や学校に行っただろうし、

       何ヶ月か前には旅行に行った記憶をありありと思い浮かべることができるだろう。


        だが、それは「過去」なのだろうか。

        過去ではない。

        なぜなら、われわれはいつだって一瞬のいましか経験できないからだ。


        それは過去ではなく、「記憶」なのである。

        記憶というのは、外界にあるものではなく、頭のなかだけにあるものである。

        もはや、現実としてどこにも存在しないものである。

        つまり、一種の「虚構」としか存在しないものである。


        過去はもはやどこにも存在しないのである。


        古来、哲学者たちはこの過去が「奈落」のように、

       消滅してしまうことに気づいて、恐れおののいてきたという。

        中島義道『時間を哲学する』(講談社現代新書)によると、アウグスチヌス、

       デカルト、ヒューム、マクタガートといった人たちがこのことに気づいてきたそうだ。


        あなたは後ろをふりむけば、一瞬ごとに過去という足場が、

       崩れ去ってゆくのを見ることができるだろう。

        同様に未来はまったくの「想像」でしかないし、

       現在も、やはり一瞬一瞬に過去になってゆくという点で、

       「奈落」の底に消え去ってゆく。


        つい、さっきのあなたを思い出してほしい。

        パソコンの前に座ろうとしたさっきのあなたはもう存在しないし、

       食事をしたり、トイレにいっていたあなたはもう存在しない。

        この文章を読みはじめたときのあなたももう存在しない。



        われわれは一瞬たりとも、現在を捉えることができない。

        あなたが捉えている世界というのは、すべてが過去や未来であり、

       それらはすべて「虚構」になってしまう。


        これはつまり、「夢」の性質となんら変わりはない。

        夢というのは、「虚構」である。

        だが、われわれは夢を見ているとき、その体験を現実に起こっているかのごとく、

       反応するし、夢の中の対象に怖れたり、脅えたりする。

        われわれの日常の経験も、まったくこれと同じ性質なのではないだろうか。



        われわれは毎日、「悪夢」に脅かされながら、

       日常の生活を送っているのである。

        なぜなら、われわれを脅かせたり、不安にさせたり、怒らせたり、

       悲しませたりすることは、すべて過去や未来であり、

       それらは、どこにも存在しない虚構なのである。


        存在しない虚構に脅かされるということは、

       まったく「悪夢」と変わりはないのではないだろうか。


        悪夢から解放されるのは、目を醒まして、それが夢であることに気づいてからだ。

        われわれの日常の怖れや悩みは、悪夢なのではないだろうか。

        そしてそれがどこにも存在しない悪夢であることに気づいてはじめて、

       われわれはこの長い眠りから、目を醒ますことができるのではないだろうか。



        ただ、われわれの社会は「言葉」や「過去」、「未来」を実体化し、

       それらを守ったり、約束したりすることによって、成り立っている。

        経済や社会関係は過去をつみ重ねることによって、関係をとり結んでいる。

        いわば、社会全体が、夢のなかで成り立っているといってもいいかもしれない。

        一瞬ごとに過去が消滅してゆくと考えるのなら、

       いかなる社会関係も成り立たない。

        そのために、悪夢を現実視し、悪夢のなかで追い立てられる毎日を、

       われわれは送らなければならないのかもしれない。


        経済や仕事などの社会的な部分は忘れることはできないが、

       個人的な、心理的な生活では、過去を一瞬たりともひきずらないことが、

       肝要なのではないだろうか。

        そうしないと、あなたはホラー映画『エルム街の悪夢』のように、

       悪夢の中に閉じ込められて、生きて出られないかもしれない。


        個人生活のなかで、仕返しや報復といった行為は、

       ひんぱんにおこなわれると思うが、いちど味わった感情や屈辱などは、

       たとえ相手に制裁を加えようが、解消することはできない。

        そもそも過去やわたしの感情は消滅してしまったからだ。


        だが、われわれは商取引の考えを適用して、相手に仕返ししようとする。

        その結果、われわれの感情は怒りや恨みに燃えたぎり、

       心が晴れわたることはない。

        つまりみずから過去の傷をひきずったために、

       みずからを傷めつづけているのである。

        返さない借金に対して腹をたてて、利子を上乗せして、

       ますます頭に血が昇りつづけるばかりなのである。


        なんらかの意志表示をしたあと、そのことはいっさい忘れてしまうのが、

       心の青空をとりもどすためには、必要なのである。


        「過去に対して、刻々と死ぬこと」――クリシュナムルティはこう言っている。






  4. 目に見える世界は、実在しない?



         目に見える世界の実在性は疑いようがない――

        われわれはこう思っている。

         わたしの目の前にあるパソコンや部屋の壁、窓、カーテン、

        本棚やテレビといったものは、絶対に実在するものに思える。

         さわれば、ちゃんと物体としての感覚があるからだ。


         だが、仏教思想ではこのような自明と思われることも、否定する。

         物体は実在するのではなく、心がつくりだしたものにほかならないと。


         「一切の形あるものは本来、心にほかならないから、

        外界の物質的存在は真実には存在しない」


         「一切の現象は心のみであって、外界の対象は存在しない、そして、

        そのように思う心自体もまた、固有の相ではなく、刹那ごとに生滅し、

        知覚できない(と考えること)と知るべきである」

         ――アシュヴァゴーシャ『大乗起信論』(岩波文庫)



         「もし外界の対象が存在しないとすれば、このわれわれの表象は、

        いったいなにを表象しているのであろうか。

         実にこの表象は、無限の過去から流れ続けている心の誤った習慣性から

        起ってくるのであって、決して対応する外界の対象をもっているものではない

        と考えられる」

         ――モークシャーカラ・グプタ『認識と論理』/『大乗仏典』(中公バックス)



         このように仏教思想では、外界の実在性が否定されている。

         頭の中の考えが実在しないことはわかることができたが、

        視覚の対象すら存在しないというのは、なかなかわたしにはわからなかった。


         わたしなりに答えをひねり出してみると、

        視覚というのは、「鏡」に似ているのではないかということだ。


         鏡というのは、じっくり見つめてみると、わたしの視覚となんら変わりはない。

         じっさいに物があり、実在しているように見える。


         ひとつ違う点はその中に手をのばしてみても、さわることができないという点だ。

         われわれの視覚では、じっさいに手をのばしてみると、

        ちゃんと対象にさわることができ、物体として感じることができる。


         だが、さわっているものはじっさいに、その視覚の対象だろうか。

         たしかになんらかの物体を触っているのだろうが、

        視覚「そのもの」の対象ではない。

         つまり、「目に見えている物」をさわっているのではなく、

        視覚の外側の物をさわっているのではないだろうか。


         なにを言っているのかわかりづらくなったから、言い方を変えると、

        視覚の対象というのは、わたしの「外側」にあるのではなく、

        わたしの目の中、あるいは頭のなかに写った「像」にしかすぎないのではないか。


         つまり、われわれの視覚というのは、鏡や写真のように、

        たんなる光景を写しとった「仮の像」でしかないのではないだろうか。


         なるほど視覚は対象に貼りつけられているように見えるが、

        それは錯覚なのであって、自分の頭のなかの像にしか過ぎない。

         頭のなかの「映像」なのである。


         しかしわれわれはそれを頭の中ではなく、外側にあると思い込んでしまう。

         これはあくまでも頭のなかの「映像」がそう見させているだけで、

        じっさいの事物がそのようなものかはわからない。


         生物というのは、その知覚器官による世界を認識しているに過ぎない。

         たとえば嗅覚で世界を捉えている動物はその感覚で世界を把握するだろうし、

        聴覚だけで世界を捉える動物は、世界をその知覚で認識するだろう。

         コウモリは超音波によって、まわりの地形を捉えているし、

        モグラはまわりにふれるもので世界を捉えている。


         世界や環境と思われるものは、じつは生物が外界を認識するために

        つくりだした、生存に必要な、便宜的な「像」ではないだろうか。

         知覚される世界というのは、生物の知覚が「創造」したものではないだろうか。

         われわれが、世界を「創り出している」のである。


         われわれの目に見える世界も、人間という特有の生物が創り出した、

        外界を認識するための「像」にしか過ぎないのではないだろうか。


         つまりそれはあくまでも人間の知覚がつくりだした「認識」なのであって、

        この知覚される世界は、人間が頭の中で創り出したものにほかならない。


         対象というのものは、いっさい存在しない。

         それはすべて人間の知覚や認識のなかに含まれるものだ。


         目に見える物や、遠くに聞こえる音、匂い、触覚というものは、

        すべて人間の内側にあるもので、それは自分の知覚が創り出したものだ。


         こういった意味で外界の対象は実在しないといえるだろう。



         われわれは目に見える、美しいもの――異性や風景、美術品などを

        追い求めているわけだが、これは外界に実在すると考えるよりか、

        人間の知覚が創り出した「像」にしか過ぎないといえるだろう。

         このようなものは、じっさいに存在しないのである。

         これらの幻想を追い求めることによって、われわれは得られない幻滅を味わい、

        苦しむのではないだろうか。


         われわれは知覚が創り出したものにしか過ぎない「仮像」に恋し、

        しがみつき、追い求め、苦しめられるのではないだろうか。

         つまり、われわれの「知覚作用」に恋するのである。


         外界の対象は存在しない。

         それは人間の知覚器官が創り出した「仮像」にしか過ぎないのだから。



         仏教ではこのようなことを知って、なにになると言っているのだろうか。

         すべては心にしか過ぎない(唯識)として知って、いったいどうなるのだろうか。

         すべては空性――実体あるものではないと知って、

        悩みや苦しみから解放されることができるのだろうか。


         頭の中だけで、把握していてもだめだ。

         われわれはいつのまにか、悩みや苦しみの出口のないトンネルに

        閉じ込められていることに、ふっと気づく。

          これまでの習慣というものが、根強くしがみついているのかもしれない。


          心の習慣は、からだの呼吸や筋肉の緊張といった、

         われわれがまったく気をくばらない領域に、習慣として根づいている。

          それらの習慣は、怖れたり、不安になったりしたときに、

         無意識に息を殺したり、筋肉を締めつけたりして、

         われわれを過去の呪縛から解き放さない。


          われわれはこのような無意識のからだの働きに

         自覚的にならなければならないのである。

          このような習慣に気づかなければ、

         われわれはコントロールできない身体の緊張や息苦しさ、痛み、

         体調の不和、病気などに悩まされることになるだろう。

          これは現在のわたしの課題だが、第三部で検討するつもりである。

         
         

              



   5. 精神と思考という虚偽を見抜く――クリシュナムルティの思想



         クリシュナムルティという人はすごい人である。

         思考というものの否定的な側面を、これほどまでに理論的に

        捉えた人はほかにいないだろうと思う。

         思考の性質を、知悉しているのである。



          「説明や原因の暴露、分析的な問題の解剖といったものは、

         少しもそれを解決することはない。――精神は、よりいっそうの問題を

         生み出しうるにすぎない。

          精神それ自体が、その中で諸々の問題や葛藤が育ち、

         そして繁茂する畑なのである」

          ――J.クリシュナムルティ『生と覚醒のコメンタリー 1』春秋社



          クリシュナムルティという人は、思考や精神の問題といったものを、

         生涯にわたって説きつづけた人である。


          精神世界やニューエイジといったものをあまり知らない人や、

         近づきたがらない人は、このクリシュナムルティという人を知らないだろう。


          クリシュナムルティは1895年インドに生まれ、14才のときに

         神智学協会のリーダーとして迎えられ、イギリスで教育をうけた。

          「星の教団」のメシアの座を与えられたが、教団や組織といったものを

         否定し、それを解散して後は、世界中で講演をおこなった。1986年没。


          ちょっとあやしかったり、いかがわしい経歴ではあるけれども、

         かれの思想――心理学、心理療法といってもいいかもしれない――には、

         一点のいかがわしさもあやしさもない。


          ヨーロッパにかれのような精神や思考に対しての、

         鋭い心理学者は、存在しないだろう。

          ヨーロッパでは、真実か偽かという問題はひんぱんに

         とりあげられてきたが、それを捉えている精神や思考、言葉といった、

         根本的なことにはどうも最近まで、ほとんど注目してこなかった。

          カメラに写った写真はよく検討するが、

         カメラそのものを点検することはなかったのである。




          クリシュナムルティは、われわれの苦悩や苦痛のすべての原因は、

         思考にあることに見抜き、その解明に生涯をかけた。

          思考が悲しみや恐怖の原因であり、それは過去や時間によって

         うみだされると考えた。

          だが、問題はその苦悩の創造主である思考が、

         またもや問題を解消しようとして、問題を構築してしまうことである。


          たとえば、わたしが貪欲であることに気づいたら、

         それをどうにかしなくては、と思う。

          それを生み出したのも思考であり、思考がそれを排斥しようとして、

         「思考」と「思考する人」を別々に生み出してしまう。

          われわれのなかには、貪欲があるだけなのである。


          こうしてコントロールする主体「思考する人」を生み出してしまうと、

         われわれはその安心を脅かすものを、ことごとく怖れるようになる。

          「自分」を守ろうとして蓄積してきたものが、恐怖や苦痛を生み出すのである。

          問題は、自分を守ろうとしたり、制御しようとして、

         「あるがまま」に抵抗することから、起こるのである。


          ではどうすればいいのか。

          思考や精神のはたらきを、批判や比較せずに、ただ受動的に

         見つめることによって、それらの全体を知ることであるという。

          ここのところがとてもむつかしくて、わたしにはこの感覚がつかみにくいのだが、

         努力や闘い、抵抗、逃避といったものなしに、精神を見つめることだという。

          このときに精神は、「思考する人」を生み出さないのである。



          どうもわたしは、クリシュナムルティのすべてを噛み砕き、

         消化しているわけではないので、このような解釈でよいのか心もとないが、

         思考が問題を生み出していることに気づいたのなら、

         クリシュナムルティほど深く追究し、究明している人はほかにいないと思う。


         この人の言っていることは面食らうし、あまりにもわれわれの常識や、

        よかれと思ってやっているさまざまな行為や選択と抵触するので、

        理解することや受容することは、とてもむつかしい。


         ほんとうにそう思う。

         われわれが知らず知らずのうちにおこなっている、

        精神や心の防備やおこない、趣味や行為の選択、蓄積といったものが、

        ことごとく苦痛を生み出すものでしかないということは、かなり気づきにくい。

         なにせ、われわれはそれが最善と思ってやっているし、

        ある程度はそれが成功したり、ここちよかったりするわけだから、

        クリシュナムルティの言うことは、なかなか受容しにくい。

         あまりにもわれわれの価値基準と違うので、

        その言っている意味さえ、つかみにくいかもしれない。


         だが、遅かれ早かれ、われわれの人生の途上において、

        つまづきや挫折、苦悩や苦痛に出会い、クリシュナムルティの正しさを悟るのだろう。

         いまはこれまでの思考や精神のやり方でうまくやってこれたのかもしれないが、

        いつかはこの精神の壁にぶちあたることになる。

         そのときにはクリシュナムルティの言葉の深さに気づくことになるのだろう。



         わたしのつたないクリシュナムルティの紹介より、

        じっさいに著作を読んだほうが、はるかに理解しやすいと思う。

         わたしのいちばんのおススメ本は、『自我の終焉』(篠崎書林)であり、

        書店ではすこし見つけにくいと思うが、対談集の多い著作のなかで、

        系統立てて精神を説明しているので、理解が進むと思う。


          『生と覚醒のコメンタリー 全四巻』(春秋社)は多くの人との対談集だが、

         クリシュナムルティみずからの筆による手記であり、すばらしい本である。


          『生の全体性』(平河出版社)は、第U部にまとまった精神の説明があり、

         時間と思考の関係などについて、のべられている。

           第T部では、ボームなどの対談集がおさめられている。







   6. ケン・ウィルバー――「影」の部分をとりもどす試み



          ケン・ウィルバーの『無境界――自己成長のセラピー論』(平河出版社)は、

         とてもすばらしい本である。

          この本をはじめて読んだとき、驚くことばかりだったし、

         時間がたっていろいろなことを実感として気づいてゆくと、この本にすでに、

         そのことが書かれていたことに、何度もわたしは驚かなければならなかった。



          この本で書かれている主なことは、

         人間は成長してゆくたびに、いろいろなものを排除してゆくのだが、

         それらは問題や症状をうみだし、苦しみをもたらす。

         それら排除されてきたもの――影や身体、環境といったものを

         とりもどそうと試みているのが、本書である。



          われわれはさまざまな自分の「一部」を排斥している。

          社会的な制約や、自己の崩壊を怖れるために、われわれはカエルが、

         安全な丸太ん棒に飛び乗るように、安全な自分の一部に飛び乗ってゆく。


          まずは自分の一部である環境が、「身体」と区切られて捨てられ、

         崩壊してしまう身体が「自我」と区切られ、感覚のないものとされ、

         社会的に認められない自我が、「影」として抑圧されてゆく。

          さいごには、偽りの「仮面」のみで生きてゆくことになる。


          問題は、自分の一部に「境界」を生み出してしまったために、

         あらゆる「対立」、もしくは「影」に怖れを抱くことになることである。

          たとえば身体を排斥してしまうと、その不随意の身体が暴走をはじめ、

         制御できないわたしは、哀れな被害者のように思えてしまう。

          これはおそらく不随意の運動に抵抗してしまうからだと思われるが、

         「身体」を排斥してしまったわれわれは、なすすべもないのである。



          それら排斥された自己の一部をとりもどしてゆく試みがこの本の主旨であるが、

         「無境界の自覚」、「超越的自己」や「究極の意識の状態」といった章は

         驚くばかりであり、いまにも自分が「悟れ」そうに思えるのだが、

         そううまくはゆかない。


          ケン・ウィルバーの意識のスペクトル論というのは、

         西洋のさまざまな心理学や東洋の宗教などを、

         レベル別にすっきりと整理したものであり、

         どのレベルにどのレベルが合致するのか、わかるようにできている。

          フロイトや交流分析などは、仮面と影の統合をあつかったレベルであり、

         ローエンやパールズは自我と身体の統合、

         そして仏教や神秘思想は、全体の統合をあつかっているのである。


          わたしも自分なりに、このエッセーでのべられているとおり、

         「他人」や「目にみえる世界」が、自分のつくりだしたものであることに

         気づいていったが、このような自覚のとりもどしが、

         ケン・ウィルバーや、あるいは仏教、神秘思想などの目標なのだと思う。


          わたしはひじょうにのろいカメのような歩みで、ひとつひとつ

         気づいていっていると思うが、これらもこの『無境界』という本にすべて

         のべられているものだ

          ただこの本を読んだときには、実感として感じられなかったり、

         ぴんとこなかったりして、しばらくは忘れられているのだが、

         ちょっとしたきっかけで、理解と興味がいっしょにやってきて、

         初めてその意味の重要性に気づくことになるのである。



          われわれは境界によってうみだされた種々の幻想にしがみついている。

          そしてそれらがすべて幻想であると気づいたときに、

         世界との一体感を感じ、永遠の存在であることに気づくのだろう。


          われわれはもしかして、「想像力」や「言葉」といったもののために、

         いらぬ苦しみや苦痛にさいなまされているのかもしれない。

          これらを排除するのではなく、その性質の深奥を見極めたときに、

         その「幻想」から、解放されるのではないだろうか。


           そこにはなにもなかった、と気づいたときに、

          われわれは、世界「そのもの」になれるのではないだろうか。







         『思考は超えられるか 第三部』につづきます。


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