漂泊の人生に癒しを求めて

                                               1998/10/12.






     仕事が強烈に忙しくて心も体も疲れ果てていた。

     その疲労からか、むしょうに漂泊の人生を送った人たちの生涯を知りたくなった。

     あるいは自然とか森林、旅などから受ける癒しを求めていたのかもしれない。

     自分でもよくわからない、ただそういった種類の知識をむしょうに渇望したくなった。


     たまたま読んだ中野孝次の『清貧の思想』にものすごく感動したせいもある。

     「持たない生き方」「心の平安と高雅さをもとめる心」というものに強烈にインパクトを受けた。


        


     それまでわたしは仕事と会社だけに呑みこまれるサラリーマン人生から

    なんとか遁れたいと模索していたから、ヘンリー・ソーローなどの影響によって、

    稼がない生活というものを、(ほんのちょっぴりだけ)、目指していた。

     『清貧の思想』も同じようなことをいっているのだと、

    先入観で思い込んでいたのだが、この本はかなり違った。

     なにが心の豊かさなのか、心の高雅とはなにか、過去の日本人の中に見出し、

    そのために現代日本人の卑しさや醜悪さを強烈に逆照射していた。

     高雅や高貴さに生きた人たちの系譜を示されると――しかもこの日本という同じ国に

    かつて生きて暮らしていた人たちなのである――現代日本人はなんて醜いんだと

    呆れ返るほかない。


     持たない生活、貧困のなかでの清廉、静謐な生き方、そういった人たちを目の当たりに

    されると、欲望と情欲のみに生きる現代日本人は酒池肉林の地獄絵みたいだ。

     かつての日本人には欲を断ち切った生き方、心の高雅さをもとめる精神、

    清らかな心をめざす生き方、世俗からの隠遁といった生き方が存在していたのである。

     鴨長明や吉田兼行は世俗から隠遁し、西行や芭蕉、良寛は旅や漂泊に生きた。

     考えてみたらこの国には漂泊や隠遁に生きた人たちは仏教の影響からして、

    数限りなくいたはずなのである。

     昭和に入っても日本人の漂泊や隠遁の想いは強いらしく、

    寅さんや木枯らし紋次郎、子連れ狼、カムイといった人たちがヒーローになったし、

    ムーミン谷の隠遁者スナフキンもカッコよかったことを思い出した。


     しかし社会に出て仕事に縛られた毎日の中で「隠遁」や「脱俗」という言葉すら忘れていた。

     そういう人生の選択肢も――転職の選択肢だけではなく――あるのだと思い出した。


     現代のわれわれは「一流大学」に入って、「一流企業」に入ってというような、

    狭くて偏ったサラリーマンの人生コース・人生観しかもっていない。

     そういう生き方と人生しか知らない。


     欲望や情欲にしてもそうだ。

     マイホームであるとか新車であるとか新製品であるとかブランド品であるとか、

    あれもこれも欲しい、地位や権限、世間体、金銭は際限なくもとめろ、

    女や豪華な食べ物はいくらでも手に入れろ、欲のない人間はツマラナイ、

    カネを欲しがらなくなったら人生オシマイだ、みたいな世界観しかもっていない。


     欲望の留め金を放した生き方が賞賛され、それ以外の生き方、人生観を知らない。

     世界はそこで閉じている。

     人生のモデルはひじょうに狭く、偏っている。

     ほかの生き方を知らないし、知らされもしないし、可能性すら及びもつかない。


     なぜこんなに醜く卑小な人生観だけになってしまったのだろうか。

     やっぱりテレビなんだろうか。

     タダほどコワイものはないメディア――それがテレビだ。

     テレビというメディアに頭からどっぷりと浸かり、その世界観を客観的に、

    距離をおいて(それを異様なものとして)、見ることができなくなってしまっている。

     新興宗教の信者たちの世界は異様に見えても、われわれテレビを観る者たちも、

    じつは異様な世界に住んでいるかもしれないということにはまず思いもつかない。

     慣れとは恐ろしいものだ。

     テレビの価値基準だけが「世界」なのである。


     テレビというメディアは四六時中、新製品・商品の宣伝を流している。

     こんな広告タレ流しの世界ばかり観ていて頭がイカレないほうがオカシイ。

     広告宣伝の価値基準だけの世界のみがわれわれの「世界」であり、

    それ以外の価値基準の世界があるということすら忘れている。

     われわれは完全にテレビ界の住人なのである。


     ここでは欲望の蛇口に栓は、当然ない。

     欲望に栓をするのはこの団体では最高の犯罪である。

     禁止要項を破った者に対しての罰則は、イジメや世間からの疎外、仲間外れである。

     ニュースやプロ野球の結果、人気番組を見なかったあなたは次の日、

    仲間や職場の人たちから仲間外れになっていることを知るだろう。


     欲望の無際限の解放は、知識や科学によってそのドアを開け放たれたのだろう。

     知識や科学はわれわれに無限大の可能性を信じさせ、

    人間にはなんでもできるのだという神のごとく全能感をもたらした。

     同時に欲望の無際限の解放というドアも開け放った。

     近代の科学・知識信仰は、そのすばらしい表面とは裏腹に

    欲望の無条件の追求をも人間にもたらしたのである。


     知識の追求それ自体が欲望にほかならないのだから。

     欲望は知識の追求という想像力によって点火される。

     知識はわれわれの欲望社会、消費社会のベースにほかならない。

     われわれの欲望は知識や情報などによって――つまり「知る」ことによって

    わきあがるのであって、なにも知らないところに欲は立ち上がらない。

     まさに知識は欲望である。


     科学や知識が悪いものだという認識をまずわれわれはもたない。

     この社会では最高善や無条件に賛美されるものになっている。

     しかしそれはカネや名誉、地位などの欲望の無条件の賛美にも通底しているのである。

     ブランド品、電化製品、カネ、地位をもとめる人々の欲望は、

    知識人たちの世俗版・一般ヴァージョンにほかならない。

     
     かつての日本人には欲を捨てて心の高雅さや安らかさにいちばんの

    価値をおく生き方が尊敬され賞賛もされた時代の流れがあった。

     カネやモノを多くもてば幸福になれるのではなく、それは逆に心の自由を

    奪うカセになることを先人たちは知っていた。


     現代のわれわれは欲望がもたらす因果関係を結果論的に知り得るまでには至っていない。

     大半の人は、欲望がもたらす結果の苦しみ、欲望があるがゆえの苦悩といったものを

    ほんとうの意味で体験していないのだろう。

     だから欲望の無条件の賛美と称賛が危ぶまれることはない。


     それはそうだろう、戦後の日本社会は経済の絶頂期にあったのだから。

     働けば働くほど儲かる、経済や会社は大きくなる、車や電化製品もいくらでも手に入る、

    といって欲望の無限に充足できる時代環境がそろっていた。

     欲望ゆえの苦悩・苦痛を経験しないですんだ。

     しかしこの経済満帆期はたまたま戦後の経済復興と市場マーケットの拡大、

    それと冷戦という擬似戦争状態がもたらした幸運にほかならなく、長くはつづかない。

     これから日本人は欲望がかなわない苦悩と直に直面することになってゆくだろう。


     これは先人たちがいっていた、快楽はそれの得られない苦痛をかならずもたらす、

    といってきた経験をわれわれに与えることになるのだろう。


     けれども若者たちはもっと早くから欲望がかなわない事態に直面してきた。

     ではなくて、欲望の目標や対象がない事態だ。

     これまでの経済成長期の欲望や目標がことごとく魅力のないものや

    ツマラナイ、目指すべきものでなくなっていて、それでもその社会制度・風潮が

    つづいているこの社会で生きてゆかなければならなかったのである。

     この苦悩、憂うつ、やり切れなさは大変なものである。

     いまの大人たち、既得権益を握っている社会層にこのやり切れなさが理解できるだろうか。

     若者たちは彼らよりはるかに早く欲望の苦悩という問題と格闘しなければ

    ならなかったのである。

     欲望がかなわない苦悩ではなくて、中身のない欲望を押しつけられる苦悩だ。


     個人的な話に戻るが、わたしは会社に呑み込まれる人生、

    仕事しかないサラリーマンというものに怖れを抱いていた。

     こんなのは人間の人生じゃない、人間らしい生き方ではないと思っていた。


     だけど現代ではそのような社会で生きるてゆくしかない。

     出世欲なんかまるでゼロだし、自分ではない「会社」を自慢する大人をケイベツしているし、

    稼いでもぜんぜん使うことがないことに気づいたし、牛のように働かされるなんてまっぴらだと

    思っているわたしが、この会社社会で生きてゆくのはかなりシンドイ。

     ほしいモノもあまりないし、マイホームなんか買う気もしんどすぎて捨ててしまったし、

    所帯をもつ気もあまりおこらないし、そもそも仕事にたいするモチベーションが

    ほとんど立ち消えになっている。


     そんなわたしが忙しい仕事に巻き込まれるなかで、

    漂泊放浪の人生に心の渇きを癒そうとするのはとうぜんの帰結である。

     最近はほんと書店に行って漂泊流浪の本ばかり漁り回っていた。

     でもじつのところわたしは案外、定住民的な生き方がからだに合うみたいで、

    一時の宿にするつもりだったアパートにはもう10年近く住んでいるし、

    旅行はほとんどしなく、海外旅行といえば、四国?くらいだ。

     大阪からほとんど離れなく、西は山口、東は東京、北は富山くらいまでしか

    行ったことがなく、それもそれらはあまり本格的な旅ではない。

     旅行というのは行ってみてもぜんぜんおもしろくなく、かつての小学校時代の

    観光名所巡りにはあまりにもくだらなくて、憎悪!を燃やしていたくらいだ。

    
     それでも束縛や忙しさからなんとか逃れようとして、わたしの心は漂泊や脱俗、

    隠遁などの生涯を送った人たちの生き方を渇望した。

     生活や仕事、世俗から、身も心も断ち切った生き方にひかれたのである。

     束縛や忙しさの生活のなかで満たされない心を、じっさいに漂泊や放浪は

    できないかもしれないが、心だけでも満たそうとしたのである。

     心の癒しがあるかもしれないと茫漠と思ったのである。


     世俗を捨てた生き方、持たない生活、漂泊に生きる人生――そういった生涯を

    送った人たちは、代表的なところでは空也や西行、一遍、良寛、

    山頭火といった人たちがいるようだ。

     隠遁、脱俗という生き方では鴨長明や吉田兼行、蕪村といった人たちがいる。

     ただあまりくわしいことはわからなくて、書店ではあまり漂泊や隠遁についての

    まとまった本は少なく、またかれらの生き方を紹介した本もたいしてわたしの渇きや癒しを

    満たしてくれたわけではないので、自分の中で知識が根づかなかった。

     一遍と西行の漂泊の人生を読んでみたが、ほとんど心の渇きは癒されなかった。

     自分でもどんなことに癒しを求めているのかもよくわからない。


     なにもかもを捨てた人生を現代に生きるわたしでも送ることができるのか、

    といったことを知りたいと思ったのだろうか。


     捨てれば捨てるほど心の安らぎは得られる。

     財産や名誉、地位は求めれば求めるほどその苦悩をも倍加する。

     快楽は得られない苦痛や不安をかならず与えるからだ。

     心の平穏は得られないだろう。


     逆に名誉や財産、地位を捨てた生き方はのぞむものが少ないから心が苦しむことは

    少ないし、しかも返って生きていることやただ存在していることにすら

    喜びを見つけられるのだと先人たちはいっている。

     それが人間の最高の宝なのだとかれらは語っている。

     捨てる生き方、清貧の思想、シンプルライフ、そういった生き方が過去の聖人や賢人に

    求められてきたのは、そこに心の充実がいちばん多くあるからなのだ。


     現代人なら名誉や財産、地位を捨てる生き方は、願いがかなわなかった挫折や

    敗北ゆえの敗者の怨み言にしか過ぎないと一蹴するだろう。

     負け犬のたわごとに過ぎないとかれらはますます闘志を抱くみたいである。

     これが欲望社会の優劣価値なのだから、劣者に蹴落とされないために――

    かれらは負け犬になることの恐怖や哀れを感じて――ますますその心の痛みを

    カバーするために欲望の充足を求めることになるわけだ。

     かれらは負け犬を哀れだと思ったがゆえにその怖れる心に追い立てられるわけである。

     どうやら地獄というのは自分自身でつくりだすもののようである――

    人をけなしたがゆえに。


     欲望というのはそもそも劣等感や欠損感というものからわきあがるものかもしれない。

     足りない部分、欠けている部分を補おうとして欲望は生まれ、

    しかしその苦しみや悲しみはたえず心から離れることはないから――

    つまり心の判断基準はいつまでもつきまとうから、欲望が満たされようが、

    どうなろうが、悲しみはついてまわることになる。


     われわれは自分のものごとの捉え方、判断というどこまでもついてくるものに

    苦しめられていることに気づかずに、どこまでも欲望を追い求める。

     欲望は達成されたり充足されたりしていつか必ず終わるときがくるが、

    わたしの心の捉え方や判断はいつまでも終わることはない。

     それがわれわれを苦しめるのである。


     捨てる生き方は自分を苦しめる心というものに濁りなしに近づくための

    方法なのかもしれない。

     心の充足は心それ自体のなかにあるのだ。


     漂泊の生き方は人生のほんとうの豊かさとはなにかを問いかけている。

     なにかを所有しようとする生き方はいつも心乱される。

     そもそもなにも持たないでも人間は十分満たされており、

    そのほうがなおいっそう心安らかに生きられるようである。


     捨てる生き方はいちばんシンプルで、いちばん幸せな人間のあり方や

    心の平穏さを教えてくれる。


     現代のがしがしに縛られ、いまにも窒息しそうなこの経済社会は、

    多くの所有を――それがモノであれ安定であれ保険であれ知識であれ――

    際限なく求めたがゆえの不可避的な苦しみなのかもしれない。


     漂泊の生き方のなかに人間存在そのものに自足する心の豊かさがある。





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     リンクです。隠遁と世捨てについての貴重なホームページ「隠者の森へ」
     荷風や芭蕉、般若心経などの文章、旅についてのページがある。
     このページを読んで隠遁と世捨て、厭世の心構えと誇りをもてたらいいのだけれどね。


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