富、栄誉、権力についての名言集




   戦後の人たちは富や栄誉、権力を無条件の目標としてきた。いまではだれも疑問をもたず、
  そのための人生コースが幾重にも整備されている。しかし果たしてこれらはすべての人が
  目指し、すべての人が手に入れなければならない絶対的なものだろうか。これらを全国民の目標
  にしたがゆえにどんな害悪や腐敗がこの社会を覆っているか計り知れない。以下の名言集は
  これまでの目標についての考えなおす契機にしていただきたいと編まれました。




                         ――ヘンリー・ソーロー『森の生活』 

   たいがいの人間は、比較的自由なこの国においてさえ、単なる無知と誤解からして、人生の
  人為的な苦労とよけいな原始的な労働とに忙殺されて、その最もうつくしい果実をもぐことが
  できないのである。……じっさい労働する人間は毎日真の独立のための閑暇をもたない。

   大部分の贅沢は、そして多くのいわゆる人生の慰安物は、人類の向上にとって不可欠でない
  ばかりでなく、積極的な妨害物である。贅沢と慰安に関しては、最も賢い人々はつねに貧乏人
  よりもっと簡素で乏しい生き方をしてきた。

   どうしてわれわれはこうもせわしなく人生のむだづかいをして生きなければならないのか。われ
  われは空腹にならない前に飢え死にすることに心を極めている。……仕事仕事というが、われわ
  れは大切な仕事なんかしていない。われわれは舞踏病にかかっているので頭をしずかにしておく
  ことができないのだ。 

                         *
                ――ジャン・ジャック・ルソー『人間不平等起源論』 

   彼は自分の卑しさと彼らの保護とを得意になって自慢する。そして自分の奴隷状態を誇り、
  それにあずかる名誉をもたない人たちのことを軽蔑して語るのである。

   おのおのが他人の不幸のなかに自分の利益を見いだすというような商業について、人々は
  なんと考えてよいのだろうか。……自分の同胞の損害のなかにわれわれの利益を見いだし、
  一方の損失はほとんど常に他方の繁栄となるのである。

                          *
                                        ――洪自誠『菜根譚』
   豪奢な人は、いくら富裕であっても、(ぜいたくをするので)、いつも不足がちである。ところが、
  倹約を守る人は、いくら貧乏であっても、(つつましいので)、いつも余裕がある。

   世人は名誉や地位があるのが楽しみであることを知っているが、名誉も地位もない者の方が、
  もっとも真実な楽しみを持っていることを知らない。また、世人は飢えとこごえで衣食にこと欠く
  のが憂いであることは知っているが、衣食にこと欠かない富める者の方が、いっそう深刻で憂いを
  抱いていることを知らない。

   富貴の家の中で生長した者は、その欲望は猛火のように盛んであり、権勢に執着することは
  激しい炎のように盛んである。

   栄位のゆえに我を人が尊ぶのは、この身につけた高い冠や大きな帯のためである。微賎のゆえ
  に我を人が侮るのは、この身につけたもめんの衣服とわらぐつのためである。そうとすれば、もと
  もと我を人が尊ぶのではないから、どうして喜んでおられようぞ。もともと我を人が侮るのではない
  から、どうして腹を立てておられようぞ。

   権力の強い者に従い、勢力の盛んな者に付くという人生態度のわざわいは、(権勢の座から
  失脚したとき、当然であるが)、非常に悲惨なものであり、またその報いも非常に早い。(これに
  反して)、心の安らかさを住み家とし、気楽な生活を守るという人生態度の味わいは、(一時的な
  濃厚さはないが)、きわめて淡白であり、またその楽しみも最も永続きするものである。

   (人間の欲望には限りがない)、物を得たいと欲ばる者は、金を分けてもらっても、その上に玉を
  もらえなかったことを恨み、公爵の爵位を与えられても、その上の領土を持つ諸侯にしてくれなか
  ったことを恨む。このようにして権門豪家でありながら、我からこじき同然の心ねに甘んじている。
  (これに反して)、ほどほどで満足することを知る者は、あかざのあつものでも、よい肉や米よりも
  ごちそうであると思い、布で作ったどてらを着ても、高価な皮ごろよりも暖かいと思う。このように
  して貧しい庶民でありながら、心ねは王侯貴族よりも満ち足りている。

   財産の多い者は、莫大な損をしやすい。だから金持より貧乏人の方が、失う心配もなくてよい
  ことがわかる。また地位の高い者は、つまずき倒れやすい。だから身分の高い者よりは身分の
  ない庶民の方が、(つまずく心配もなく)、いつも安心してられてよいことがわかる。

   高い冠に幅広い帯をつけた礼装の士人も、ふと、軽いみのに小さなかさをつけた微服の漁夫や
  農夫たちが、いかにも気楽に過ごしているのを見て、(気苦労の絶えないわが身と比較して)、
  うらやましいと思わないでもなかろう。また、豪家なじゅうたんの上で暮らしている富豪も、ふと、
  竹すだれの下で小ぎれいな机に向かって読書している人が、いかにも悠然として静かに過ごして
  いるのを見て、(気苦労の絶えないわが身と比較して)、慕わしい気持を起こさないでもなかろう。
  それにもかかわらず、世人はどうして、尻尾に火をつけた牛を駆り立てるように、また、さかりの
  ついた馬を誘い寄せるように、(功名富貴を求めることに血まなこで)、そうしてばかりいて、自分の
  本性にかなった悠々自適の生活をすることを思わないのであろうか。

                          *
                        ――マルクス・アウレーリウス『自省録』 

   それともつまらぬ名誉欲が君の心を悩ますのであろうか。あらゆるものの忘却がいかにすみや
  かにくるかを見よ。またこちら側にもあちら側にも永遠の深淵の横たわるものを、喝采の響きの
  空しさを、我々のことをよくいうように見える人びとの気の変わりやすいこと、思慮のないことを、
  以上のものを囲む場所の狭さを。 

   死後の名声について胸をときめかす人間はつぎのことを考えないのだ。すなわち彼をおぼえ
  ている人間各々もまた彼自身も間もなく死んでしまい、ついでその後継者も死んで行き、燃え
  上がっては消えて行く松明のごとく彼に関する記憶がつぎからつぎへと手渡され、ついにその
  記憶全体が消滅してしまうことを。

   もうしばらくすれば君は灰か骨になってしまい、単なる名前にすぎないか、もしくは名前ですら
  なくなってしまう。そして名前なんていうものは単なる響、こだまにすぎない。人生において貴重
  がられるものはことごとく空しく、腐り果てており、取るにたらない。

   名誉を愛する者は自分の幸福は他人の行為にあると思い、享楽を愛する者は自分の感情の
  中にある思うが、もののわかった人間は自分の行動の中にあると思うのである。

   昔さかんに讃めたたえられた人びとで、どれだけ多くの人がすでに忘却に陥ってしまったことで
  あろう。そしてこの人びとも讃めたたえた人びともどれだけ多く去って行ってしまったことだろう。

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                         ――ショーペンハウアー『幸福について』 

   対外的な利益を得るために対内的な損失を招くこと、すなわち栄華、栄達、豪奢、尊称、名誉
  のために自己の安静と余暇と独立とをすっかり、ないし、すっかりとまではいかなくてもその
  大部分を犠牲にすることこそ、愚の骨頂である。

   他の人たちに見られるような、単に実際面だけの生活、単に一身の安寧をめざしただけの生活、
  深みの進歩がなく単に延長的な進歩しかなしえない生活は、この知的な生活に比べれば悲惨
  な対照をなすものだけれども、彼にとっては単なる手段にすぎぬこうした生活を、世の常の人は、
  それをそのまま目的と認めざるをえないのである。

   富や権勢をこそ唯一の真の美点と見て、自分もその点で傑出してみたいと願っているのだから、
  人物評価や尊敬ももっぱら富や権勢にのみによって測ろうとする。――ところでこういったことは
  すべて夫子みずから精神的な欲望をもたぬ人間だということから出てくる帰結である。

                           *
                                            ――荘子 

   お前さんは名声をとうとばれているようだが、名声というものは公共の道具、財産であり、自分
  だけが欲ばって多く得ようとしてはならないものだ。
   富をよしとして追求するものは、自分の財産をゆずることができず、高い地位にあることをよし
  とするものは、人に名誉をゆずることができず、権力を愛するものは、人に権力の座を与えること
  ができない。これらのものを手にしているときは、失うことを恐れて震えおののき、反対にこれを
  失えば嘆き悲しむ。しかも、このあわれむべき状態を反省することもなく、休むひまもない営みに
  目を奪われているものは、天から刑罰を受けてとらわれの身となっている人間だというほかない。

   会うものは必ず離れ、成功するものは必ず失敗するときがあり、きまじめで角のあるものは挫
  かれて辱められ、地位が高くなれば批評の的になり、何事かを行なおうとするものは妨害を受け、
  賢明であれば謀略にのせられ、暗愚であれば欺かれるという始末である。これでは世のわずら
  わしさからのがれようとしても、どうしてそれができようか。あわれというほかない。

   小人は財貨を追い求めて身を破滅に陥れ、君子は名声を追い求めて身を犠牲にする。

   天下の人びとは、こぞって外物のために自分の身を犠牲にしているといってよい。ところが、
  仁義のために身を犠牲にすれば、世間ではこれを君子とよび、貨財のために身を犠牲にすれば、
  世間ではこれを小人とよぶ。自分の本性を犠牲にしていることでは同一であるのに、君子と
  小人の区別をつけるのである。

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                                            ――老子 

   欲望が多すぎることほど大きな罪悪はなく、満足することを知らないほど大きな災いはなく、
  (他人のもちものを)ほしがることほど大きな不幸はない。ゆえに(かろうじて)足りたと思うことで
  満足できるものは、いつでもじゅうぶんなのである。 

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                                   ――寒山 

   貪欲心の旺盛な人間は好んで財産を集めるが、これはあたかも梟が子供を愛するようなもの
  である。その子供は成長すると母親を食べてしまう。財産が多くなればなるほど、かえって自分
  の身を害することになる。財産を人に恵むなどして無くすれば福が生じ、財産を蓄えるのであれ
  ば災難が起って来る。財産も無くまた災難も無ければ、青空の雲の中で翼を自由にはばたくこ
  とができる。 

   世間の人がうまく体裁をつくろうのを別に羨ましく思わない。世間の人が心身を使い果たして
  いるのは名利のためであって、あらゆる貪欲をもってして自分の体を前進させている。夢幻の
  ようなはかない人生は、あたかも燈火の燃え残りのようなもので、末は墓の中に身を埋めるこ
  とになりはしないか、そうなるに決まっている。

   俗世間の人々を見ると、塵や埃が立ちこめてぼうっとしている道を気忙しく歩いて行く。人生
  における究極または肝心なことが何であるかを知らずに、いったいどうして船着き場を見つけ
  ようとするのだろうか。栄華というのはいつまで持続するのだろうか。親族というものはほんの
  暫くの間の血のつながりである。たとえ莫大な黄金が自分の所有になるにしても、林の下での
  貧困な生活にはとても及ばない。
  
                         *
                            ――吉田兼好『徒然草』 

   財宝を持っていると、自分の身を守る上に、事を欠くようになる。と同時に、害を引きよせ、
  煩を招く媒介となるものだ。利欲に迷うのは、とんでもなく馬鹿な人なんだ。

   蟻のように集まって東西に急ぎ、南北に走ってい人間ども。彼らがせわしそうにしていること
  はいったい何だ。生命を貪り求め、利欲を求めて、飽きるときがない。待ち受けているものは、
  結局、老と死にすぎない。

                         *
                               ――アンゲルス・シレジウス『瞑想詩集』
      最も貧しい人こそ最も自由な人
   財産の乏しい人は何より自由である。だから正に心貧しい人ほど自由な人はないのだ。

     放念した者は損をしても悩まない
   この世にまったく所有欲をもたない者は、たとえ自分の家を失ってもその損失を悩むことはない。

     平穏無事を求める者は、多くのものを見逃す
   人よ、けちけちと自分の財産だけを守ろうとすると、あなたはもはや真の平安の中に住まなく
  なるだろう。

     欲の深い者は足ることを知らない
   足ることを知っている者はすべてをもっているのだ。欲深く多くを求める者は、どんなに多くの
  ものを得ても、まだまだ足りないと思うのである。

     賢明な集め方と愚かな集め方
   守銭奴は愚かな者だ。彼は滅びゆくものを集めようとしている。施しを好む者は賢明な人間だ。
  彼は滅びぬものを得ようとしている。

     賢者と守銭奴の金のしまい場所
   賢者は賢いから金が入ると寄金箱に入れてしまう。ところが守銭奴はその金を心の中にしまい
  込もうとするから心の休まる時がないのだ。

     富は心の中にもつもの
   富はあなたの心の中になければならない。心の中にもたなければ、たとえ全世界を所有したと
  しても、それはあなたの重荷になるだけだ。

                         *
                             ――ウィリアム・ジェームズ『宗教的経験の諸相』
   私たちは、昔の人々が貧乏を理想化したのが何を意味したのかを想像する力さえ失っている。
  その意味は、物質的な執着からの解放、物質的誘惑に屈しない魂、雄々しい不動心、私たちの
  所有物によってではなく、私たちの人となりあるいは行為によって生きぬこうという心、責任を問
  われずともいかなる瞬間にでも私たちの生命を投げ出す権利、――要するに、むしろ闘志的な
  覚悟、道徳的な戦闘に堪えるような態勢、ということであった。

   たいていの場合には、富を得ようとの熱望と、富を失いはしまいかという恐怖心とが、おもに
  臆病を生み、腐敗を広めているのである。貧を恐れない人が自由人となっているのに、富に縛
  られている人が奴隷たらざるをえないのである。

                          *
                       ――ジッドゥ・クリシュナムルティ『未来の生』 

   この財産は自分のものだ、他の誰にもそれを渡したくないと思うから、私たちの所有物を保護
  してくれる政府を作り上げてしまうのである。……君たちが権威を生み出してしまうのは、安全な
  行動のしかた、確実な生き方を求めているからだ、ということだ。まさに安定を追求すること自体
  が権威を生み出し、そしてそれゆえに君たちはたんなる奴隷、機械のなかの歯車になり、何も
  考える力も創造する力もなしに生きる羽目になるのだ。


   私たちは、自分に確かさを感じさせてくれるものを望み、多種多様な保護手段を備え、内面的
  ならびに外面的な保護物で身を固める。自分の家の窓と戸を閉めて内にこもると、私たちはとて
  も安心し、安全で、煩わされないでいられると感じる。……私たちが恐れ、自分自身を閉じれば
  閉じるほど、それだけ私たちの苦しみはつのる。

   君が野心的なとき、宗教的にまた世俗的な意味で君がひとかどの者になろうと努力している
  とき、もし君自身の心をのぞきこんでみれば、君はそこに恐怖の虫がいるのを見出すことだろう。
  野心的な人間は、誰よりも一番恐れている人間である。なぜなら彼は、あるがままの自分であ
  ることを恐れているからである。彼は言う。「もし私がいまのままの自分だったら、私は何者でも
  ない。それゆえ、私はひとかどの人間にならなければならない。知事、判事、大臣にならなけれ
  ばならない」

   私たちはより多くを望む。成功を望み、尊敬され、愛され、見あげられること、強くなること、
  有名な詩人、聖者、雄弁家になること、総理大臣や大統領になることを望む。……この切望は
  私たちが不満であること、満足していないことを示している。……そしてより多くの衣服、より
  多くの力等を手に入れることによって、自分の不満から逃避できると考えていることを意味して
  いる。……私はただ、衣服や権勢、車といったものでそれをおおい隠したにすぎないのだ。

   自分が重要だということの気持は、必然的に葛藤、苦闘、苦痛をもたらす。なぜなら、君は
  たえず自分の重要性を維持しなければならなくなるからだ。





      Special Thanks!

   ヘンリー・ソーロー『森の生活』 神吉三郎訳 岩波文庫
   ルソー『人間不平等起源論』 小林善彦訳 中公文庫
   洪自誠『菜根譚』 今井宇三郎訳 岩波文庫
   マルクス・アウレーリウス『自省録』 神谷美恵子訳 岩波文庫
   ショーペンハウアー『幸福について』 橋本文夫訳 新潮文庫
   『老子 荘子』 小川環樹 森三樹三郎 中公バックス
   『寒山拾得』 久須田文雄訳 講談社
   吉田兼好『徒然草』 今泉忠義訳 角川文庫ソフィア
   『シレジウス瞑想詩集』 上田重雄・加藤智見訳 岩波文庫
   ウィリアム・ジェームズ『宗教的経験の諸相』 桝田啓三郎訳 岩波文庫
   ジッドゥ・クルシュナムルティ『未来の生』 大野純一訳 春秋社



   後記
    富や栄誉、権力の戒めを語った人、もしくは読んだ本はもっと多くあったように思いますが、
   残念ながらこの程度くらいしか見つけられず、わたし自身としてはちょっと心惜しい気がします。

    自分の記憶をたよりに、またむかし読んだときに引いた赤線をたよりに、このテーマについて
   書かれた文章を探し出すことはとても手間がいり、しんどいものです。ワープロで文章を打ちこ
   むさいにも、文庫のページを両手で押えながらキーボードを打ち込むのはこれはツライ(涙)。
   インターネットの検索ならもっとかんたんになるのだけれど。

    わたしのなかでは栄誉のむなしさについて書かれたものではマルクス・アウレーリウスの
   ものがいちばん印象に残っています。死んでしまったらなんの栄誉も残らないと何度も言われ
   れば、ほんとうに心によく残ります。キリスト教や仏教ならすぐこの文章のあとにそれゆえ神や
   仏をもとめなさいとなるのだけど、そうやすやすと信者になれないのが現代人というものです。
   それにしてもショーペンハウアーは辛辣ですね。金持ちの内情については『菜根譚』がいちば
   んくわしいみたいですね。

    さて戦後日本はなんの思想もなしに富や栄誉を求めてきました。これがみんなの約束事に
   なり、みんなの目標となり、有無を言わさぬ強制や慣習となってきました。この結果による
   腐敗や堕落は上はエリートから下は「ふつう」の人まであらゆる人々・階層にまで広がって
   いるのはいうまでもないことです。

    われわれは生まれたときからそういう目標や人生コースを背負い込まされていて、ほとんど
   疑問に思う余裕もなかったし、またそういった価値観に否や疑問をつきつける世論や人々と
   いったものはひじょうにわれわれの耳に入りにくかったのも事実です。だからそれについて、
   批判や疑問をつきつけた文章をここに集めてみたというしだいです。 

    これらの一文でもいいからテレビのコマーシャルに流されればいいのになと思います。
   なんでもほしがることが肯定される世の中は、これらの賢者には大笑いと嘲笑の世の中で
   しかないでしょう。       99/9/18.


    もしほかにも富や栄誉の戒めの文章がありましたら、ぜひ紹介してください。

                        ues@leo.interq.or.jp 



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