職業貴賎と軽蔑


                                                 1999/8/21.



    あまり気分のいい話ではないし、いまの社会ではタブーなのだろうけど、わたしは仕事や

   働くことにたいして、みじめさやあわれさを感じてしまう。街中でいろいろな働く人たちに出会う

   のだが、ついついみじめさを感じて目をそらしてしまう。いったいなぜなんだろうかと思うが、

   その不可解な感情について考えてみることにする。


    これはまったくわたしひとりだけの特別な感情なのだろうか。たぶんそうではないと思う。

   わたしの感情や思いの多くは社会やマスコミ、親、知人といった人たちから刷り込まれ、

   まったく独立孤立でつちかわれたわけではないはずだから、ほかの人も同じようにこのような

   感情をもつと思う。


    職業の貴賎を論ずることはこんにちではタブーになっているが、自分の感情を省みてそういった

   感情がないという人はまずいないだろう。ある種の職業を軽蔑したり差別したり、または優越や

   羨望を感じるのがうそ偽りない心情というものである。羨望するのは流行や花形産業であったり、

   大企業であったり、華やかな職業であったりする。軽蔑するのはその逆であるわけだ。人はこの

   ような基準をもってある企業や仕事に群がり、選択するわけである。


    このような職業貴賎やランクがあるためにわたしにはすっかり仕事をみじめやあわれと感じる

   心性ができあがったのだと思う。ふつうだったら人はそのように軽蔑されることを恐れて、その

   エネルギーを利用して優越や勝つことを目指すものである。しかしわたしの場合、軽蔑だけが

   肥大したようである。そしてそのような軽蔑のまなざしをわたしは恥じているし、また自分の

   仕事へのみじめな気持ちを拭い去れない居心地の悪さを感じている。


    職業の貴賎、ランクといったものは自分のアイデンティティを決定する重要なものである。

   人が一流大学や一流企業に20年近くもかけて競争するのはその恐れがあるからだ。哲学者

   の内山節は人から軽蔑されないために人は競争し、勝つことは優越感をもって人を軽蔑する

   ことであるといっている。つまり勝ち負けというのは優越と軽蔑の奪い合いというわけだ。


    勝つということは人を軽蔑するために努力することだという言葉はかなりキツイ言葉である。

   スポーツやなにかの競争に勝つということは負けたものを軽蔑することであるというのは、

   勝利を無邪気に喜び、賞賛するものにはずいぶんショックな認識である。ほんとうに勝ち負け

   というのは、イコール優越と軽蔑なのだろうか。他人を軽蔑するためにわれわれは勝ち負け

   を競うのだろうか。だとしたら、われわれの人生の目的はあまりにも哀しい。


    わたしが仕事を軽蔑するような思いをもつようになったのは、おそらく職業貴賎の観念が

   あったからだと思う。あまりにも多くの軽蔑感をもったがゆえにたいがいの仕事にみじめさや

   やり切れなさを感じるようになってしまった。ひとつの仕事を選びとることは自分の人格の

   可能性の否定に思えてしまうし、たったこれっぽっちでしかないのかという思いも拭い切れない。

   モラトリアム的な心性と職業の軽蔑感がみょうに絡まってしまっているようである。


    できれば、職業貴賎とか軽蔑するまなざしというのを自分から拭い去ることができたならと

   思う。人々や仕事をランクづけ、順位づける色メガネは捨て去りたいと思う。もしこのような

   優越と軽蔑がなかったら、わたしの気持ちはずいぶん楽なものになっただろうし、自分のいる

   地位や立場に苦しむこともないだろう。


    そのような自明となっている順位や優劣の色分けを、ただの「観念」として、「虚構」として

   捨て去ることは可能かもしれない。そういった意味付けや固定観念をまったくなきものとして、

   ゼロとして世の中を認識すればいいのである。かんたんそうでもあり、ひじょうにむずかしい

   ものでもある。無意識に色分けされた世界を捨て去ることはひじょうにむずかしい。


    われわれはそういった色分けされた世界のなかで生きている。他人や世間がそのような

   まなざしでわたしを評価し、優越と軽蔑のまなざしでわたしを見なすことだろう。こういった

   評価づけのまなざしを、悟った仏教者のように無きものとして見なせたら、どんなに救われるか

   わからない。どんなに自分の心が平安になるかわからない。


    われわれはいやになるくらい優越と軽蔑の世界に生きているのだろう。職業から学力、知識、

   能力、容姿、人間関係、車、マイホーム、ファッション、すべては優越と軽蔑の秤にかけられて

   いる。そしてそのような価値観を固定的、絶対的なものと見なして、われわれは他人を軽蔑

   するために努力し、あるいは劣等感にさいなまされるというわけだ。


    このような嵐のような感情がなかったなら、われわれはみんなと同じ服、同じ家、同じライフ

   スタイルで満足できたことだろう。流行もなかっただろうし、市場の進歩もなかったかもしれな

   い。みんなは人と同じであることに満足し、優越したり特別でありたいという感情を発動させる

   こともなかっただろう。


    社会主義や平等主義というのはこういう人々の意識を抹殺して、それらの目標を達成しよう

   としたことに無理があった。人と違いたい、優越したいという気持ちは抑え切れるものではない。

   また社会主義が発生した時代というのは、貧富の差があまりにもかけはなれた時代であった。

   そういうときには人と同じでありたい、対等でありたいという願望が、優越願望より優るわけだ。


    いまはそういう政治的政策がいくらかうまくいき、人々があまりにも平等になったから、たいへ

   んつまらない時代になった。だからいま保護と規制を撤廃して、市場化による優越願望のとき

   放ちを画策しようとしている。


    優越願望と対等願望というのは人間のかなり根源的な欲求であり、それが流行現象をつく

   りだすといわれているし、歴史を動かしてきたものだといえる。ただわれわれはこのような感情

   のあやつり人形と化すだけでよいのだろうかという思いがある。人間はそのような感情にふり

   まわされたまま、競争や努力、あるいは優越感や劣等感にたえずさいなまされるのが、理性

   ある人間として正しい道なのだろうかと思う。それらの嵐のような感情に支配されるままで、

   人間の成長と成熟がありうるのだろうか。   


    このような感情とどのようにつき合えばいいのだろうか。人から軽蔑されたり、どこにでもいる

   ふつうの人と思われるのもいやだし、かといって人を見下すために努力したり、またその努力

   が企業や産業にうまく利用されたり搾取されたするのも腹立たしい。社会や世間の秤にかける

   まなざしをまったく無視して、優劣の感情や評価づけを自分の心のなかから捨て去ることなんて

   できるのだろうか。


    優越や軽蔑という評価づけを、つくり事として、絵空事として、解体できればひじょうによい。

   ひとつひとつそれを検証して、それがどれだけ虚構や絵空事でできているか、見抜けるように

   なれば、われわれはこの色メガネにさいなまされることはないということだ。


    このようなことは可能なのだろうか。まずは自分の軽蔑する心というものを点検しなければ

   ならない。この軽蔑という感情が多くの優越や評価、差別といったものをつくりだしている元に

   なっているものだ。この感情への恐れがわれわれを哀しき競争や努力へと駆り立てる。軽蔑

   という感情には気をつけろというわけだ。それを心のなかで固定化したり、絶対化したり、

   持続させたりしてはならないということだ。


    もしそれを捨て去ることができたのなら、世の中には案外、優越や軽蔑といった厳然として

   あるように思えた世界の分け方は、あいまいで幽霊のような存在だったと思えるようになる

   かもしれない。


    自分の心のなかの軽蔑という感情がいちばんの曲者なのだろう。もうひとつ言えば、世間

   とのフィード・バックがあるとしても、そのような感情をつくりだし、なおかつ強化しているのは、

   自分の軽蔑する心にほかならないわけである。







   優越願望と対等願望についての鋭く、ほかにまず見当たらない分析は、フランシス・フクヤマの
   『歴史の終わり』(三笠書房知的生きかた文庫)で読むことができます。ニーチェも探し出すのが
   たいへんだが、そういうことを語っている。

   リンクです。香子の日常という日記のなかの一ページ「職業の貴賎」 「職業の貴賎2」
   小学校でのザンコクな父親の職業蔑視についてひじょうにリアルに描かれている。そういえば、
   小学校のときのわたしはボケーっと生きていて、友だちの父親の職業なんてほとんど知らなか
   った。(わたしの父は小さな事業をおこし、社長の息子ということでけっこう自慢に思っていたと
   同時に、それを誇りにする父を軽蔑もしていた。でもそのあと事業は失敗し、貧困へと没落する
   ことになる。) 先生から職業に貴賎はないという話を聞いた覚えはあるが、自分のなかに職業
   貴賎の観念が歴然として育っていたことは、ほかの人もみな同様だと思う。

    |BACK99-97|TOP|断想集|書評集|プロフィール|リンク|

inserted by FC2 system