欲望社会と賢者にみる人間の品位


                                                1998/12/4.







     現代では人間の品位や品格を誉めたたえることがなくなってしまった。

     人徳や高雅さ、高貴さといったもので人が評価されることがまるでない。


     現代では金持ちになったり、高いブランド、モノをたくさんもったり、事業を成功させたり、

    大企業に属したり出世したり、地位をもったりすれば、人々から誉めたたえられる。

     いずれもその人格や人間そのものではなく、その人がつくりだしたり、

    もったり得たりする対象にその評価・称賛が寄り集められる。

     あわれででもある。


     日本社会は戦後の五十年間、貧困から立ち直るという大義名分のもと、

    経済的繁栄というただひとつの大目標のみを追い求めた。

     人々はより多くのモノを、より多くのカネを、より大きな地位と名誉だけを追い求めてきた。


     物欲や金銭欲、名誉欲を戒めたり、非難するような社会的雰囲気は皆無であった。

     欲望を抑制する、欲を卑下する、といったような美徳はまるでなかった。


     TVでは人々の物欲は無限に引きだされ、企業内では無限の拡大欲と出世欲、

    所得向上だけが吹きこまれ、めざされている。

     家庭でも同じことだ。

     母親は子どもにエリートコースを歩ませようと受験戦争に叩き込み、

    父親には所得向上と地位向上、家屋拡大の欲望を日ごと押しつける。


     こういう欲望の無際限の肥大化をだれも咎めないし、卑下も非難もしない。

     だれもそれを白い目で見たりしない。


     このような社会状況の中で、だれが政治家たちの終らない汚職を非難できるというのか?

     だれが官僚たちの支配や不正を非難できるというのか?

     教職につく者たちの頻発する性犯罪をはたしてわれわれは裁けるのか?


     かれらはまさにわれわれ自身の鏡であり、われわれ自身そのものの姿である。


     われわれ自身がかれらの出現を容認するような社会の下地をつくっている――

    もっといえば、かれらを「褒め称える」ような社会風潮をつくりだしているのである。


     カネやモノだけがめざされた社会の帰結はとうぜん、人間の堕落である。

     品位や品格の失墜である。


     たたえられるべき賢者も、賞賛されるべき人物もいない。


     経済的繁栄の下で犠牲にされたものはまさしく人間の品格そのものである。


     このような欲望の垂れ流し社会において、下卑た支配者、エリートたちが

    跋扈するのは当然の流れである。


     このような社会的空気を胸いっぱいに吸い込んで育ってきたわれわれはおそらく、

    この世界がどんなに異常で、逆立ちしたもなのか、なかなか気づきにくいだろう。

     汚れた川に住む魚たちがその汚濁を知らないように。


     かつての日本や中国の賢者たちは、みずからの欲を捨てることによって、

    人々から褒め称えられてきた。

     カネやモノ、名誉に囚われる生き方を捨てて、いさぎよく、

    飢えや貧困、超俗、隠遁の中で、その生を生きた。


     流れとしては仏教のブッダや数々の名僧たち、中国の隠遁や老荘思想、

    およびそれらに影響をうけた中国文学者、日本文学者たちなどがいる。

     かれらは貪欲や欲望を捨て、世俗の栄達や名誉も捨てて、自然を愛で、

    清澄な心のもと、その生を全うしようとした。


     みずから欲を捨てる生き方がかつてのこの国で褒め称えられてきて、

    人々の憧憬の的になっていた時代もあったのである。

     欲望を解き放った現代日本からは信じられない話だが。


     かつての賢者たちは人々に欲を断ち切った生き方のモデルを指し示すことで、

    いつの時代でもそうであっただろう――欲に流れがちの人間の心を戒めてきたのである。


     といってもかれらはもともと人々の貪欲さを戒めるために

    そのような生き方をしたのではない。

 
     そこに心の平穏――心の安らぎ、心の清らかさがいちばん多くあるからなのだ。


     欲望を追い求める生き方は多くの苦しみ、苦痛をもたらす。

     多くを求めるがゆえの苦しみに直面しなければならない。


     心が穏やかで晴れ晴れと澄み渡った様子になるには、

    そのような波風立たせる欲望は大いなる災厄である。

     ゆえにかれらは欲を断ち切ろうとしたのである。


     そのような脱欲・脱俗の生き方をした人たちを社会の上位に立てていたということは、

    社会全体もそのような生き方を志向してきたのである。

     欲に駆られて生きるより、欲を捨てる生き方が賞賛されてきたのである。


     現代社会の上位者、称賛される人たちと比べると鮮やかな対比をなす。

     現代では欲望の達成、名誉の獲得、地位の拡大をなした者のみが、

    賞賛、崇拝される。

     社会的価値を体現した者たちがそうなら、下位の者たちも押しなべてそうである。

     貪欲と欲望の無限拡充がこの社会の合言葉である。


     欲望の解放は、西洋的な科学技術、消費社会の進展をもたらしたのは確かだ。

     そのようなモラル・バリアをうち破らないことには、

    われわれが現在享受するこの技術文明の進展をもたらさなかっただろう。


     ただこの欲望解放社会は、やはり人間の心の荒廃をももたらした。

     人間の品位や尊厳の堕落である。

     下卑た犯罪、貪欲な人々の行動にこの社会が満たされたのは、

    やはり欲望の無限拡大がはじめから内包していたものだったのだろう。


     文明や技術発展、経済的繁栄のもとに犠牲にしなければならなかったものは、

    われわれの心の美しさや清らかさだった。


     犯罪やゴシップにみられる現代人の醜悪さは、

    われわれ自身そのものが心の清澄さを失ってしまったからにほかならない。


     貪欲の汚濁にまみれた現代人はこのまま心を汚染しつづけるか、

    それとも心の浄化をおこなう道に踏み入れるのだろうか。


     ただ古来の賢者たちもやはりまったく欲を捨てたわけではないようである。

     賢者と褒め称えられること、歴史に名をとどめること、あるいは書物や文書を残すこと、

    そういったことはやはり名誉欲を極限にまで捨てたわけではない証拠である。


     隠遁にしろ、脱俗にしろ、名前や文書が残るようでは、

    まったくの世俗を捨てたことにはならない。

     名誉や名声を希求しているわけだ。


     現代では夢や目標という欲をもつことは基本的に善とされるが、

    かつては欲を捨てたと「見られる」ことに評価が集まった。


     欲を捨てて脱俗するという「名誉」があったわけだ。


     カネや社会的地位は捨てるが、それらを捨てることの「名誉」である。

     いわば社会的地位に積極的に殴り込みをかけるような名誉ではなく、

    逆にそこから消極的に逸脱することに名誉があったわけである。


     世俗的価値観にギラギラと生きるより、

    それらからあっさりさっぱり身を退くことに称賛が集まった。


     こういう欲から降りる生き方は、社会や文明が成熟期から衰退期に向かうころ、

    にわかに脚光を浴びる思想や生き方なのだろう。

     ギリシャでもディオゲネスやエピクロス、ゼノンといった「後ろ向きの経済思想」を

    もつ人たちが現れたし、中国でも儒教に代わる老荘思想、仏教思想などは、

    無為自然や出家などという経済世俗からのドロップアウトを説いた。

     下り坂の社会はギラギラとした欲を嫌い、心身ともにあっさりと生きたくなるものなのだろう。


     ヨーロッパ=アメリカ文明、および日本はそのような段階に

    踏み入れようとしているのだろうか。

     技術的、経済的な壮大なフロンティアの夢を描けなくなった社会は、

    自然と心の油ギッシュな欲望を敬遠するようになってゆく。


     のぞましいことでもある。

     欲望に生きた社会はとうぜんその完成期には夢が潰えた分だけ、

    醜悪で悲惨なまでの貪欲な人たちがクローズアップされやすくなるのだろう。

     目につくのは我と我が身の欲望と保身、栄達利欲のみ――。

     なんじゃ、このエゲつない世相とは……?となってしまう。


     それがまさに現在おこっていることではないだろうか。


     そういった時代には逆に欲に生きない、欲を捨てた人々に称賛が集まる。

     金銭欲や物欲に囚われない、それらを捨てた人たちに名誉が付与される。


     名誉の型が積極的な面から消極的な面へと移り変わるのである。


     皮肉なことでもあるが、欲望を捨てるという「名誉欲」が人々にわきあがるのである。


     だけれども貪欲な人々に満たされた社会に食傷気味になった人たちは、

    とうぜん欲を断ち切った人たちのその清廉さ、潔さを感じるだろう。

     少なくとも目の色を変えて自分を利用したり、むしゃぶりつくそうと貪欲にこり固まっている

    人より、欲と世俗を捨てたあっさりした人のほうが安心できるだろう。


     いまのところこの社会はそのような兆しをほとんど見せていないが、

    心の高雅さに生きた人たちの系譜をたどった中野孝次の『清貧の思想』はベストセラーとなり、

    貪欲にこり固まった現代人に心の反省を迫った。


     衝撃でもあった。

     汚い水しか知らなかった魚がはじめて清らかな流れを知ったようなものである。


     ただ、欲を捨てたり、世俗から離れ住んだり、隠遁するといった生き方は、

    どうも究極に欲望を捨てたというわけではなくて、欲を捨てるという名誉欲まで

    捨て切ったわけではないようである。


     難しいところである。

     その欲まで捨ててしまうと世間にはぜんぜんその生き方、思想はつたわらず、

    世人はまるでかれらの潔い生き方のモデルをも知り得ない。

     損失でもある。

     そして名誉もない。


     人間というのはどこまでも世間や社会の名誉や評価を求めてやまないものなんだろうか。


     世間に少しもその見聞が知られない欲を捨てた人というのは無数にいたのだろうか。


     でもこうなると「世を捨てた人」と「世に捨てられた人」の区別は

    ひじょうにつきにくくなる。

     はたしてわれわれは「世に捨てられた人」に賢者の相を見るだろうか。

     現代では地下街や繁華街に寝そべるホームレスたちに、

    すこしでも賢者の面影をうかがうことができるだろうか。


     「世を捨てた人」であるからこそ、われわれはかれらを賞賛するのであって、

    「世に捨てられた人」を賢者と認めるわけではないだろう。

     ただ欲を捨てるという欲すら捨てた人をわれわれは見分けることはできるだろうか。


     いずれにせよ、真の賢者にとってそんなことはどうでもいいことだ。

     かれらには世俗の価値判断、評価などどこ吹く風である。

     だれがどう評価しようが、見下そうが、非難しようが、まるで意に介さないのが、

    賢者というものである。


     人間たちがことごとく切り分ける事物の世界を超越している。

     そのような煩悶なき心の境地をめざしたのがかれらである。


     安らかさ、平穏、清らかさ、清澄さ――そういった心の世界に賢者は住まう。


     人々の考え、意見、判断、噂や悪口、分別、そんなものはどうでもいいことだ。

     それらがみずからの心を汚し、心を苦悩の大海につき落とすことを知っている。

     賢者の心は空っぽである。


     できれば欲や煩悶に流されがちなわたしもかれらの心のように清澄になりたいものだ。






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