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 ■051106断想集



 ■マスコミが儲かる「下流社会」             2005/11/6

 

 三浦展の『下流社会』(光文社新書)がベストセラーの上位に食い込み、20万部を越えたそうだ。『さおだけ屋はなぜ潰れないか』(光文社新書)が100万部、『バカの壁』が400万部。新書が爆発的に売れる時代になったみたいだ。小説の文庫ばかりが売れた時代より進歩である。フィクションが「教養だ」なんておかしい。

 『下流社会』はインパクトがあるタイトルである。「一億総中流」を耳にたこができるくらい聞かされた世代にとっては、とうとうそういう時代がきてしまったかと嘆かせるに足るネーミングである。

 基本的にこの本は「下流」であることを脅す本である。「生活能力が低い」、「300万では結婚できない」と恐怖を煽る「商法」である。「恐怖商法」というのはマスコミや広告社会の常套手段である。

 というか基本的に商売は人の恐怖を煽ることによって儲けをつくるものである。宗教もしかり、医学もしかり、学校もそうである。だからそういうからくりに過剰に反応しないほうが身のためというものである。たぶんこれからもマスコミが「下流」の脅しで一儲けしようとするのかなあ。

 私の立場としては、「階層」なんかあるのかという考えである。だいたいこの本も階層「意識」というあいまいなもので調査されており、自分は「上中下」のどこに属するか「意識」しているかというやつで、まったく明確な基準ではないわけだ。

 それから階層という価値観の前提もまったく問われていないのが問題だと思う。金持ちや暮らし向きがよいのを「上層階級」とよぶとするのなら、ある程度は豊かになったこの社会において、その序列のモノサシを使いつづけることに意味があるのかと思う。なんだかこれは「3C」(カー・クーラー・カラーテレビ)が憧れだった高度成長時代の古すぎるモノサシである。

 この本はそういう上昇志向がなくなった時代の問題を、すべて「下流階層」に押し込めているヤバさを感じる。「夢のなくなった時代」「ほしいモノが新たにつくれない時代」のいいわけを、下流階層に転嫁してしまっている。こういう時代になぜ階層という問題を問われなければならないのか。マルクス・エンゲルス的階級観というものが新聞記者や学校教師あたりにいまだにウケるからなのか。

 問題は下流社会が生み出されることではなくて、豊かになった時代の「生き方」や「目標」、「哲学」なのである。階層という古い問題に足をひっぱられるのは、ポストモダン社会には大迷惑である。若者は新しい価値観をつくらなければならないのに。

 階層という問題が人びとに怖れをもよわせるのは、人間の社会が権力や地位を競い合う世界だからである。それはマイカーやマイホームや会社によって競われてきた。「中流社会」や民主政治、平等が平和だったのは、そういうむき出しの権力闘争が覆い隠されてきたからである。

 もしみんなが同じという幻想が崩れ去れば、むき出しの権力闘争があらわれることになるだろう。「下流社会」のインパクトはそののろしなのである。平均化されえない、多様化された価値観の競争はたいそう疲れることだろう。アナクロでもいいから階層の古巣にもどりたいということである。

 ▼参考リンク
 若者は「脱所有」「脱消費」をめざすのか 01/9/30. 三浦展は団塊ジュニアの脱所有を支持したのではなかったのか。

 





 ■はじめての反則金とスリップ転倒       2005/11/6

  交通反則告知書と納付書

 きょうは最悪でした。雨上がりにバイクで外に出たのですが、反則金をとられ、はじめてのスリップ転倒をしました。

 羽曳野市の古市駅前で巡査によびとめられ、一方通行とのこと。おとなしく指紋捺印をして、二点をひかれ、罰則金五千円を払うことになりました。原付って弱いものいじめとカモになるというのを実感。標識にてんで気づかなかったのですが、あとで見に引き返したら青の斜め線の「終わり」の標識しかなかったような。。 その一方通行の道を原付がなにごともないようにフツーに走っていました。チクショ〜。

 おまけに帰りの道でははじめてのスリップ転倒をおこしました。ゆるいカーブだったのかよくわかりませんが、右側に倒れるかたちですってんころりん。「はじめてこけたー」と思いました。さいわいなんの痛みもなく、右手の手袋がすこし破れた程度。哀れそうに自動車が通り過ぎてゆきます。

 バイクを点検してみると、前の方向指示灯がゆがみ、ブレーキ・ペダルのステップ部分が見事に後方にゆがんで、削れていました。衝撃をほとんどここで受けたという感じです。つぶれてしまったかなと思いましたが、ふつうに走ることができるようでした。ただステップがゆがんでしまったので、足をのせにくいのと、ブレーキが踏みづらくなっていました。なんか心持ち左右にふらつくように感じるし。

 バイクに乗りはじめて三週間がすぎ、慣れてきて放漫になってきたことと、交通規則に不注意になっていることの戒めがいっぺんにやってきた感じです。このくらいの痛みですんだことを幸運だったと思うほうがいいのでしょう。慎重に交通規則に注意深くあるよう運転をこころがけたいと思います。ほかの原付ライダーにあまり見習わないようにしよう。それから狭い車線だと車に遠慮してついスピードを出しすぎるので、その点ももう少し改めないといけない。



 捕まったところは日本武尊(ヤマトタケル)の白鳥神社のあるところでした。しっかり願をかけておいたのですが。。







 ■感情はなんの解決ももたらさない         2005/11/9

 たまに気分が落ち込むようなことを考えることがある。不快なことやいやなことを考えることもある。十代の私は一度そういうことを考え出したらとことん考えつめたものだが、いまの私は気分が悪くなるなと思ったら、そういうことはほぼ考えないようになった。

 私は考え出したらその思考をやめようだとか、クラくなるのはやめようという気分の変換法をまったく知らなかった。だから一度考え出すと、一日じゅう気分が落ち込んだままという状態がながくつづいた。不快な気分におちいるのはやめようという切り替え法をまったく知らなかったのである。だからクライ考えに支配されていたといえる。

 いまはそんな不快な自分に差し向けているのは自分だと知っている。またはそういう不快さは自分の意志できれいさっぱり捨て去ることができることを知っている。気分が落ち込むような考えをいっさい捨てることができるのである。いわば考えに支配されるのではなくて、自分は考えを支配できること、捨て去ることもできることを知ったわけである。

 感情というのは思考によって起こる。自分の考える内容が感情である。いやなことを考えればいやな気分になるし、楽しいことを考えれば楽しい気分になる。だから自分で楽しい世界か、悲しい世界かを選択できるわけである。

 私は頭の中で勝手にしゃべり出す思考を押しとどめるためにむりやり「頭をまっ白にする」だとか、「頭を空っぽにする」だのの言葉を何度も頭の中でくりかえした。そういう思考をむりやりに断ち切る方法を身につけてから、私はネガティヴな思考を支配できるようになった。方法としては思考を傍観者的にながめる方法を身につけるほうがいいらしいのだが、むりやりでもけっこう効いているように思うが。

 私たちはおそらく思考をコントロールするという方法を知らないと思う。頭が勝手に考えたり、思ったりすることの奔流に身をまかせているだけだと思う。思考はこうやってコントロールするだなんてことは、学校でもTVでも家族も教えてくれない世の中であるからだ。そうやって悪く考えたり、悲観的にものを考える習慣から解放されることも知らない大量の人たちが生み出されることになっているのだと思う。

 心はコントロールできるということを教えない社会なのである。そういう知恵はうつ病に陥った人だけが教えられる知識にすぎないか、または宗教的知識としてのみ人びとに知られているにすぎない。自然に放っておいても明るく生きられる知恵をもつ人が多くいるからでもあるのだろう。でもそれはせっかくの知識がありながら、運任せのいきあたりばったりの愚かな社会を放任しているともいえるだろう。

 多くの人はいやな感情をつづけていれば、なんらかの解決が見い出せるかのような習慣にひたっていると思う。あるいはただ不快な出来事から逃れる術を知らないだけなのかもしれない。感情は問題のなんの解決ももたらさないのである。問題の延長と継続だけはもたらしてくれるのだが。

 不快な感情はすぐに捨て去ること――それを覚えただけで、私の人生はかなり軽いものになったと思うのである。

 ▼感情を捨てるためのリンクとベスト・プック
 思考を捨てる技法 01/12/2編集
 「トランス・パーソナル心理学は恐怖や悲しみを終焉させることができるのか」
 『思考は超えられるか 第一部』 1997/6.

 





 ■長須正明さんへのメールです。           2005/11/11

 ありがたいことに『子どもがニートになったなら』で対談されている長須正明さんからメールをいただきました。さっそくメールを送信したのですが、サーバーに拒否されるようなので、しかたなくこちらのほうに載せることにしました。お目をお通しください。

 

 ▼私の書評はこちら(すんません、下のほうです)。  050903書評集 2005/9/27


長須正明さまへ
 
 
ありがとうございます。
 
『考えるための断想集』の「うえしん」といいます。
書評集を読んでいただき、たいへんありがたく思っています。
 
『子どもがニートになったら』でいちばんおもしろい人だったと思った長須正明さんから
メールが来るなんて、うれしいかぎりです。
 
前のめりの価値観をあっさりと否定する姿勢には笑わさせてもらいました。
そして肩の力が抜ける気がしました。組織とか家族をあっさり捨てるなんて(気もちの
上でですね)、すばらしい人(笑)だと思いました。そういうメッセージは伝わる人には絶対に伝わっていると思いますよ。
 
森毅さん的な価値観の落とし方が共通する人だなと思いました。
森毅さんもみんなが最高の価値だと思っているものを、いともあっさりとかんたんに
落とす人で、ずいぶん胸がすく思いがしたものです。
 
世の中の最高とされる価値観なんて宗教みたいなものですから、それを否定しても
かなり反発されるものだと思いますが、自己実現とか仕事なんてつまらないという
現実や経験は大人がちゃんと伝えていってほしいと思っています。
 
ニートの問題はほんと難しいと思います。
仕事や親の生き方に対する感情的な不快感がもつれているという感じがします。
好景気や人手不足ならそんな疑問に拘泥するまえにさっさと働いていたと思うの
ですが、いまは若者が切り捨てられているか、アルバイトでしか雇用されない時代
ですよね。雇用環境がよくなれば解決する問題にも思えるんですが、そうならない
からこそ難しいんですよね。
 
ニートの問題は親自身が自分の生き方を考える上で、自分自身のことのように
考えるべきなのだと思いますが、企業とか経済に年金とか退職金を人質にとられて
いるもので、ほかの生き方を考える余裕もないのですね。それらを捨てないと、
企業に組み込まれた人生から逃れられないと思いますが。親と社会のシステムが
変わるべきだと思うんですが、まずは社会が変わることもないでしょうね。
 
長須さんにはぜひ働くことや人生に関する若手に向けたメッセージ本を書き下ろして
ほしいと思っています。世の中の至上価値を笑って突き落としてほしいと思います。
 
これからもよろしくお願いします。
 
                               うえしん




 ■山里風景の魅力。              2005/11/13

 大阪から奈良の大塔村までバイクで行ったのですが、とちゅうに見える山里の風景に思わず目を奪われました。都市ではない、山村の暮らしとはどんなものなんだろうかと想像力をかきたてられます。

緑の濃淡に囲まれた山里の風景は安らかさをもたらしてくれます。自然に守られた、調和した暮らしがそこにあるからでしょうか。
山のふもとにぽつんとある集落。まわりに人の住家がたくさんある都会と感覚はどう違うのかと思います。
車が通る国道ができるまえまでは、この地はどんな辺境の地だったのでしょうか。
吉野川の流れる五条市の風景です。
山あいに囲まれた集落に暮らしていると、閉ざされた世界という思いはあるのでしょうか。または外の世界など気にならないものなんでしょうか。
山あいの川は水かさがすぐに増すから、川沿いの住居は石垣の上に築かれるんですね。
奈良の大塔村は「維新胎動の地」であるそうです。司馬遼太郎も南の十津川村を時代の転換期にいつもあらわれる村だととりあげていますね。

 




 ■疑問をもつことの大切さ             2005/11/16

 

 養老孟司が『ハウルの動く城』のCMで、「物語はわからないほうがいい。疑問を起こさせるのが大事。おまえで考えろ」というようなことをいっていた。まったく同感である。

 疑問をもつことで、人は自分でものを考えようとするし、いろいろな本を読んでみようという気になる。疑問が多くの知識を引きつけるのである。

 対して世の一般の人は、「世の中のたいていのことはもうわかっている。難しい問題でも科学がとうに明かしているはずだ」、もしくは「科学者が明らかにしてくれる」とでも思っているのではないだろうか。こういうふうに考える人はまず自分で考えようとか、自分で問いを明かしてみようという気にはならないだろう。

 世の中の多くの人に共通する問題ならだれかが考えていてくれるかもしれないが、人生でぶつかる数々の問題というのはまったく個人的な事柄が大半である。自分で解かなければどうにもならない問題ばかりなのである。もし自分で問題を考えるという習慣をもたなければ、おそらくその問題の最善策はいつまでたっても得られず、同じ失敗をくりかえすことだろう。

 だからわからないことに対して疑問をもちつづけ、考え抜くという習慣がとても大切になってくるのである。

 本を読むという行為も同じである。疑問があるからこそ本は読まれる。というか、その疑問に吸い寄せられるように知識や本はやってきて、本は読まれるのである。私が本を読んでいるというよりか、「疑問」が本を読んでいるという状態になるのである。

 そうなると不思議なことに難解で読めそうもない堅物な本と思っているものでも、すらすらと手にとるようにわかるようになるものである。疑問の力が難解な本を読ませるようになるのだといっていいだろう。

 おそらく本を読まない人は「世の中はわかりきっている」とだとか、「学者がなんでも知っているだろうから私は考える必要がない」と思い込んでしまっているのだろう。学者や教師が世の中の知識を完成させてしまっているのだと思っているのである。

 とんでもない。世の中はわからないことだらけである。そして学者は穴だらけである。知らないことだらけである。間違いばっかである。学者も同じひとりの人間として、わからないことだらけの世の中にかろうじて対峙しているにすぎない。だいたい自分がぶつかった問題の壁は自分ひとりのみが解かなければならない問題なのである。だれかが自動機械のようにぽんと答えを出してくれる装置などないのである。

 疑問が人に本を多く読ませたり、ものを自分で考えようとする人間に育てあげるのである。世の中は疑問だらけでわからないことばかりだと不思議に思った者だけが、自分でものを考えたり、本を読む習慣を身につけるのである。どこかで頭のいい人たちが答えを見つけてくれるはずだと思い込んでいるたち人は、おそらく本を読んだり、考えたりすることもないのだと思う。

 世の中に疑問をもつ力のみが、人の読書の習慣や思考力を鍛えるのである。科学や学者がすべてを解き明かしているいるはずだなんて思い込みは、とんでもない「迷信」である。





 ■学校が育てるニート               2005/11/17

  港で働く子どもたち(明治中期)

 学校が教えている価値というのは、「いい大学を出ていい会社に入れ」というものではなくて、じつは「働かないものがエライ」という価値観ではないのかと思う。

 早くに学校を出たりしたら、貧しくてかわいそうだとか、頭がよくなくてかわいそうと世間ではいわれそうである。よって高等教育の期間はどんどんのびてゆき、しまいにはぶらぶら子どもが有閑階級であることが親の常識になってしまった。

 学校は実社会で働くための機関ではなくなって、たんに子どもをぶらぶら扶養させるための機関になってしまったのではないか。私が学校にいたとき、働いたり、稼いだりするために勉強するという価値観や教えをまったく感じたことがないような気がする。たんにそこに行っていただけの感じがする。

 学校教育も稼いだり、自立するための教育ではなくて、実生活にほぼ役立たない知識ばかり教えられる。工業高校や商業高校より、普通科高校のほうが格上とされるし、大学でも理工系より文系のほうが人気があったりする。メシを食うための技術より、いかに実生活に役に立たない知識を学ぶかが格上であるかのようになっている。まったく有閑階級の価値である。

 むかしの日本人は働き手の子どもが必要なために小学校すら通えない生徒も多くいた。農業や漁業、または商業に学校教育なんか必要なかった。じっさいに働くことが仕事の教育になった。現代の仕事にしても、高度な専門知識ならともかく一般的な業務に高等教育はほぼ必要ないと思う。

 なぜ高等教育に通わせなければならないのか。企業が知識の競争を勝ち抜いたものを選別するという狭き門があったからだろう。それ以上に未成年に労働をさせてはならないという法律や不文律があったからではないかと思う。空白の期間の中に過剰なデッド・ヒートがおこなわれてしまったのである。

 おおむかしに教育機関に通えたのはひとにぎりの富裕層だけだっただろう。ご子息を働かせないで教育に通わせる富裕層はたいそうな身分に見えたことだろう。そういう専業主婦のような有閑階級を囲うことが、国や社会のステータスと感じられるような時代がやってきたのだろう。教育は国家の豊かさの見せびらかし消費であったのである。

 学校は教育を受けさせるための機関ではなかったのだと思う。それは富裕層のステータスであったのである。メシを稼がないご子息を囲うことが富裕層のシンボルとなった。実社会に出るための養成機関ではないだろう。職業なんてものは現場で学ぶほうがよほど身につく。学校では職業から縁の遠い知識が学ばされるのである。

 学校で習う知識というのはたいてい実生活に役に立たない知識である。教養や知識を高めたところでメシは食えない。稼げない。そんなところで人生の長い期間をすごした子どもたちはすっかり実生活に役に立たない知識を学ぶことがエライ→働かないほうがエライという価値観を刷り込まれることになってしまう。

 霞を食べるような知識をもてあそぶことがエライという価値観を学校や教師は刷り込む。実業的な知識は軽蔑される。役に立たない知識、損にも徳にもならない知識にもっとたわむれなさい。学校教師はそういう価値観を叩き込んでいた気がする。

 学校教育ってほんとうに必要なのかと思う。働く子どもはかわいそうというが、働けなくなった大人になったらどうしてくれる?





 ■ホームページ・ビルダー10とブログ          2005/11/20

  こんな画面で作成しています。

 ホームページ・ビルダー10が12月2日に発売される。製品情報はこちら。買いたい気持ちはまったくおこらなかった。

 私はビルダーV9をつかっているが、いちばんの要望としてはブログのようなコメント欄とトラックバック機能をつけてくれることである。あと全ページに最新更新の情報が表示されることである。こんかいのバージョン・アップはビルダーで従来のブログの管理や編集ができるようになるそうで、ビルダー自体からブログ形式をつくれないみたいである。

 ビルダーを捨てて私もブログに移行しようと思ったこともあるのだが(このサイトは厳密にはブログもどきです)、過去のデータがあまりにも多すぎるので移せないからビルダーに踏みとどまることになっただけである。あと、やっぱりビルダーは長年つかってきただけあって、使い勝手がなじんていて手放しにくかったこともある。

 私は1997年からビルダー2.0をつかいはじめ、バージョン・アップはV9まで考慮することすらなかった。V9は私の念願であったロゴ文体がつかえることと、ブログのようなデザイン・プレートがあることであった。デザイン面の不満がここでようやく解消されることになった。つぎに使いたくなる機能が出てくるのはいつのことやら。またはブログにデータは移行できないものか。

 ブログがあたらしく出てきて、従来のホームページとどう違うのかとわかりにくいところがあるが、いっしょじゃないかと思わなくもないが、ブログの特徴は更新性と作成ソフトが不要であるということである。

 むかしのホームページは「本」のように考えられていて、一度作成してしまえば更新されない死んだサイトが多かった。ブログは日記サイトのような更新性をもち、かつ日記のような個人的な毎日のみではないという特徴がある。それとデザイン・テンプレートが用意されていて、文章をふつうに打ち込むだけで更新が可能になった。ふつうの人がかんたんにつくれるようになったということだが、従来も作成ソフトがあったのだから、かんたんであったのだけどなあと私は思う。

 インターネットが「ブロードバンド」とよばれるようになった流れと同じようなものである。ブログはホームページ作成の敷居が低くなったということだが、有名人ブログに典型のようにだれでも手軽につくれることや更新性はネットの楽しみを増やしたと思う。作成ソフトが不要になり、ネット上でつくれるようになったというのは、当初からのぞんでいたことのだが、やっとあたりまえのことができる時代になったと思う。

 ネットは更新性が大事だと思っている。新しく更新してくれないと楽しみがつづかない。私はいつも検索したいワードがあるわけではない。だれかが新しい楽しみを運んできてほしい。そういう更新報告サイトというのが日記サイトとテキスト庵くらいしかないというのはどうしたことだろう。ブログ更新も集約したサイトがないと思うし。ホームページは更新性が「いのち」である。





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■おすすめ
人生論の古典■

『自省録』 マルクス・アウレーリウス
岩波文庫
 

「心を消去せよ。さすれば何の悩みもない」

『キリストにならいて』 トマス・ア・ケンピス 岩波文庫
 

『聖書』につぐ世界第二位のベストセラー。

『老子・荘子』 世界の名著 中公バックス
 

逆説の中に真実がある。

『菜根譚』 洪自誠 岩波文庫
 

達観した人生観。

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栄達から脱落した生き方。

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競争的価値観を笑え。

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『インテレクチュアルズ―知の巨人の実像に迫る』 ポール・ジョンソン 講談社学術文庫
 

知識人の野望と欲望。

『夜這いの民俗学・性愛論』 赤松啓介 ちくま学芸文庫
 

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