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010921断想集
若者は「脱所有」「脱消費」をめざすのか





  団塊ジュニアは「脱所有」をめざすのか    01/9/16.


 戦後の人たちは多くのモノを所有することをめざしてがんばってきた。しかし生まれたときから豊富なモノに囲まれて育ってきた団塊ジュニア世代には「脱所有」をめざす動きがあらわれてきているという。

 家も買わず、冷蔵庫も洗濯機も自動車ももたず、結婚もしない、そんな生き方が求められているという。それを三浦展は「ホームレス主義」とよんでいる(『マイホームレス・チャイルド』クラブハウス)。

 かれらはモノを蓄積しつづけた親の団塊世代から、ほかの耐久消費財と同じように専有され、息苦しい体験をしているから、所有が自由ではなく、束縛や拘束として苦しめられるというのだ。

 所有の自由は、かわりに本当の意味での自由が束縛されることを感じとっている。だからかれらはあえて所有せず、定住せず、街に生き、ストリートに生きる。この「ホームレス主義」こそが現代若者の価値観と行動を読み解くキーワードだと三浦展はいっている。

 私はもう世間の流行にはとんとうとくなったから、おもに団塊ジュニアを中心とした若者を分析したこの三浦展の『マイホームレス・チャイルド』はけっこう楽しませてもらった。バイクとか車に汚れや傷をつけることが流行っていたり、生業のある風景にひかれたり、ガングロは史上はじめて上の階層をめざさない格好だとか、いろいろな解説分析はひじょうに心踊らされた。

 いまの若者が私の世代と違うなと思うのは、ストリート・ミュージシャンや所かまわず地べたに座ること、携帯電話をもっていることなどだ。公共の空間を、たとえば駅やデパートなどの空間を陣取り、たむろすることなんて、少し前まではほぼなかったことだ。前までの世代はちゃんとおとなしく商業空間のなかにおさまっていたものだ。

 かれらは三浦展がいうようにほんとうに「脱所有」や「ホームレス主義」をめざし、実践するのだろうか。私だってこの価値観はひじょうに共鳴する。豊かにモノを所有するためにはウシのように働かなければならないから、私もできるだけ脱所有でありたいと思ってきた。

 ただホームレス主義なんてものは新しいものでも何でもなく、ヒッピーもまさにそうだったし、古来から仏教僧もそれを実践してきた。これが多くの若者に支持され、若者の生き方のスタンダードになり、世間の常識までに受けいれられるようになるかは、いまのところかなり微弱に思える。

 しかし「ポスト豊かさ」「ポスト近代」の時代にはそういう流れが出てくるのは当然である。消費・所有の楽しみがなくなれば、所有の苦痛と束縛しか見えてこなくなる。ホームレスのほうが自由だと思うようになるだろう。

 ただ上の世代には所有の蓄積がないことは「ミジメ」や「劣等」という思いがこびりついているため、なかなか「脱所有」には踏み込めないものだ。それを団塊ジュニアはあっさりと飛び越えていってくれるのだろうか。ガングロのように階層ダウンを笑ってやり過ごせるような、そんな雰囲気の社会になるのだろうか。

 だとしたら、若者にめばえはじめているホームレス主義はおおいに歓迎したいものだ。所有や世間体のために会社や労働に縛られる不自由な時代は、一刻も早く葬り去られてほしいものだ。

 これからは所有や富の喜び・楽しみの側面を見るのではなく、そのための労働の苦痛や会社の拘束・束縛を見る人のほうが多くなるということだ。






  マスコミの流行がまるで聞こえない     01/9/18.


 十代のときは音楽を聴かない人なんて信じられなかった。映画を見ない日々なんかありえないと思っていた。ファッションの流行から遠く隔たった人はなんてセンスがないんだろうと思っていた。

 三十を過ぎてまんまになった。音楽はべつになくても平気になったし、ヒット曲は知っていてものめりこむことはないし、映画はほとんど期待して見ないし、ファッションや商品の流行、最先端の話なんか、そんなものあったのかくらいに、信じられないほど聞こえてこない。

 十代のころには信じられない生活を私は送っている。そんな大人たちを軽蔑していたが、なってみると、逆に十代の私はどんなにマスコミ漬け、マスコミ埋没の価値観をもっていたか、思い知らされるというものだ。けっきょくのところ、マスコミに洗脳された価値観でしか優劣やモノゴトを測れず、そんなせせこましい価値観で悦に入っていただけである。産業に踊らされている姿が見えなかったのである。

 マスコミや流行から遠く隔たるようになったのは、やはり産業に踊らされているだけだという気もちが強くなったこと、マスコミがおもにターゲットにする若者年齢をこえたこと、老荘とか仏教のような知足安分の考えのほうが気に入ったこと、そして消費不況という時代の気分もあるのだろう。仕事に時間をとられて暇な時間がなくなったということもあるかもしれない。

 ほんとうに流行とか最先端の話とかがまったく耳に入らない。いまはトレンドとか若者の流行現象のようなものはなくなったのだろうか。世間一般にもそのような流行はなくなってしまったのだろうか。

 若者年齢をこえてしまうと、ヒット曲はなんて子供向けなんだろうと思わざるをえないし、着飾ってカッコつける場所なんかもほとんどないし、他人の見た目のために努力する気なんか失せるし、若者向けの商品やマスコミなんかとんと興味を失ってしまう。多くの商品やマスコミは十代や若者をターゲットにしていることにあらためて気づく。

 その渦中にいるときは流行や最先端を追うことはとても価値あることだと思っていた。でもいまはそんなことはなんとも思わない。流行っているものすらほとんど耳に入ってこない。努力して雑誌や情報を仕入れようという気もちにすらならない。

 ただ気になるのは、これは私ひとりにおこったことなのか、それとも全社会的に進行しつつあることなのか、どちらなのかということだ。世間一般の人たちもマスコミや産業のわだちから離れて、脱俗的な流れに入っているのだろうか。もはや産業やマスコミは魅力をつくれなくなっているのだろうか。

 これは成熟や成長というおめでたいことなのだろうか。それとも産業・経済的には不況や破綻をまねく災厄なのだろうか。成熟が経済的災厄だとしたら、成熟してはならない資本主義はなんて出来損ないのシステムなのかと思わざるをえない。われわれは成熟にともなう不況を喜べる考え方をやしなってゆく必要があるのかもしれない。





  携帯電話はなにを変えたのか       01/9/21.


 この不況下の二、三年のうち、携帯電話だけが爆発的に増加した。もうすでにもってないのはヤバイという感じになってきている。

 私は携帯電話はもっていない。必要ないからだ。話す相手もいない。でもどこでも見かけるのが携帯片手にしゃべったり、メールを打ったりする若者や女性たちのすがただ。すでに必須のアイテムになっているようだ。

 携帯はなにかを変えたのだろうか。浅羽通明によると、かつて消費という孤独を選んだわれわれは、携帯によって直につながる回路を手に入れてしまったゆえに、生産や消費という迂回路によってつながる必要はなくなったといっている。

 もともと人は人とつながりたいのである。それがこれまでの時代は生産の職場共同体によって連帯感をもつことができたり、80年代的な流行の最先端を消費することによって人とつながるという回路があったりしたのだが、生産−消費社会の成熟化によりそれらは崩壊したり、色褪せたものになった。

 そういうときに直に人とのつながりをつくりだす携帯電話が爆発的に迎え入れられた。生産や消費がもたらす人とのつながりという迂回路を必要としなくなったのである。生産や消費の旗色はますます悪くなるいっぽうだ。

 おまけに携帯は場所に固定される必要がますますなくなる。家に帰らなくても若者は友達と連絡がとれる。家という固定したものに縛られる必要はなく、そうなるとそこに貯め込んできたモノの数々は移動のための足カセになるばかりである。まさに「ノマドロジー的(遊牧民的)」になってゆくのかもしれない。

 これまでは所有財産を蓄積したり、所属を固定化することが、われわれ多くの目的であった。しかしそれが不自由や拘束に転化したと感じられたときから、若者たちは所有や所属をつきはなしはじめる。

 車だって家や土地のくびきから切り離されるための道具だった。音楽もいまでは持ち運びできる。携帯は定住や固定という慣習から、ますます人々を遠ざけてゆくつぎのステップになるだろう。

 われわれはこれまでの人たちが必死に追い求めてきた消費や所有、所属をどこまで捨てて、携帯できるものだけにゆだねてゆくことになるのだろうか。





  モノを持たないほうがかっこいい?      01/9/23.


 若者たちはほんとうに「脱所有」の生き方をめざそうとしているのだろうか。マーケティングをやっている人によると、そういう流れがひしひしと感じられるそうだ。

 これは革命的なことである。モノを所有することが人生の目的であった戦後の価値観れが完全にとぎれることになるからだ。価値基準や価値序列も大きな変革を余儀なくされるだろう。そもそも個人消費によって組み立てられていた生産や経済がたちゆかなくなるのは、明らかだ。

 モノをできるだけもたないシンプル生活をよしとする価値観はいつもあった。これまでのステータス消費の時代にもトランクひとつで移動できる生き方がかっこいいとされたこともある。

 でもたいがいの若者は最先端や新製品などのモノを、業界の優等生よろしくせっせと買い集めたものだ。つい最近でもGショックとかナイキとかの爆発的ヒットがあったから、若者たちも消費所有主義に染まっているものとばかり思っていた。

 バブル崩壊の不況いらい、消費にたいする気分がひどく落ち込んだ。百貨店やスーパーの売り上げは落ち、いくつもつぶれている。不況だし、ほしいモノがもうないという声はいくらでも聞こえたが、景気がよくなれば、人はまた消費主義に返ってゆくものだとぼんやり思っていた。

 だが若者は脱所有の動きに身をまかせつつあるようだ。これがほんとうのことかデータが少ないのではっきりわからないし、短期的な兆候で終わるのかはわからない。しかしそれが人々の主流の意識となったとき、この社会はどのような様変わりを見せるのか、まるで想像できない。

 私はバブル前夜に十代を送った新人類の終わりのほうの世代だから、あやうくワンランクアップ消費の波にのりそうだった。だけど産業に踊らされて悦に入れるのはムカつくし、モノを買うためにカイシャに縛られてウシのように労働しなければならないのは心底ぞーっとしたし、バブル崩壊いらい消費の価値観が急激に冷え込んだから、私はさっさとステップアップ消費から降りた。

 私は労働や所属の不自由感、拘束感をひじょうに嫌ったから、消費の抑制をおこなう生活におちついていった。個人的な選択だと思っていたが、いまの若者たちは脱所有の価値観まで掲げてゆくのだろうか。

 モノをもてないのはかっこ悪い、ミジメな時代から、モノをたくさんもつことがかっこ悪い、拘束されてあわれ、という時代はもうそこまで来ているのだろうか。いまは所属と所有をはっきりともつことが堅実・安定のあかしとされているが、これすら「重い」「だるい」として、若者はその価値基準をあっさりとゴミ箱に捨ててゆくのだろうか。

 消費所有主義という戦後の大きな山の流れは、もう終わりつつあるのだろうか。それによって支えられてきた生産・経済の構造は総クラッシュをおこしてしまうのだろうか。それともこれは情報知識社会の到来を、オールド・ジャパンから見ているにすぎないのだろうか。

 モノに縛られない生き方は好ましいことに違いない。モノを得ようとする生き方は企業や所属の拘束・束縛を究極までにおしすすめるからだ。モノをもつことは喜びと同時に、企業や所属への隷属化でもある。

 若者はこれに気づいて、自分の身をこれらからひきはなしてゆくことだろう。戦後の人たちの過ちを鋭く見抜き、のりこえてゆく流れがあらわれることは、たいへん好ましい、期待をよせる動きである。





  戦後の価値観はどこまで崩壊するのだろうか      01/9/27.


 マーケティング・プランナーの三浦展によると現在の若者に「脱所有」や「近代的価値観」の崩壊などの動きが見られるそうだ。これが社会全体の趨勢にいますぐになるとは思われないが、長期的にみて崩壊してゆくのはまずまちがいないだろう。

 崩壊するとどこまで戦後価値観の対極へと向かうことになるのだろうか。いちばん極端なところでは、消費や労働の拒否、物質的価値観の蔑視、ホームレス、野垂れ死に、などの自発的選択をよしとする価値観があるだろう。

 戦後の人たちはこうなることを怖れて、がむしゃらにつっ走ってきたのだ。それは「怖れ」や「憐れみ」の記号そのものだった。それがどこまでもまとわりついて、偏執したために、「安定」や「終身保護」という生き方を際限なく求めざるをえなかったのである。

 これが「会社中心社会」「生産マシーン国家」「社畜」などの弊害をもたらしたのである。貧困やモノがないことを忌避したあまり、逆に人々は会社や労働、消費などにどこまでも縛られ、拘束される羽目におちいったのである。皮肉なことだが、求めたものがいまわれわれの重荷となり、束縛となったのである。欲望や所有とはいつもこのような終局をもたらすものなのである。

 若者にはもはや戦後の人たちが抱いた恐怖の対象をもたない。逆にいまわれわれを縛りつける安定や保障、消費の代償がうっとうしくて、重苦しいものにしかみえない。戦後価値観が脱ぎ捨てられるのは時間の問題だ。

 しかしこの安定・保護の価値観というのは日本の大人のあいだではびくともしないようにみえる。なぜなんだろう。日本の大半の人には安定と保護の側面しかみえないためだろうか。せっかくここまでがんばってきたのだから、いまさらそれを失えないという既得権益の面もあるのだろう。得るもの、失うものしか見えていない。だから大人の意識は堅くて、てこでも動かない。しかしリストラや倒産、デフレなどの転げ落ちる経済状況が、それを許してくれないことだろうが。

 若者たちはオヤジたちが必死にしがみつく戦後価値観をつぎつぎと踏み倒してゆくことだろう。若者たちはどこまでそれを捨て去ってゆくのだろうか。「もたない」ことの怖れをどこまでふっきってゆけるのだろうか。

 会社や所属の拘束感をまずまっさきに抜ぎ捨てるだろう。そうすると金がない。金がないから、安定や保護の人生も送れなくなるし、消費や所有ものぞんでも少なめのものになるだろう。戦後の価値観によるとこれはミジメであわれなことであったが、若者はオヤジたちが卒倒するような生き方をみずから選ぶだろう。戦後の価値観はもはや魅力をもたず、拘束と呪縛の塊なのである。

 戦後の人たちがと集めてきた価値観を、つぎつぎと捨て去ってゆくことになるのだろう。戦後の上り坂に集めてきたモノを下り坂に降ろしてゆくのである。モノを捨て、労働を捨て、安定や保護を捨て、いろんな拘束や束縛を脱ぎ去ってゆくことだろう。未来の人はなにをもつのだろうか。






  豊かさの満足、豊かさの苦しみ、あなたはどちらが見えますか?     01/9/30.


 憧れのものをもっている人が、それゆえに苦しみを抱えているとは他人には理解しがたいものだろう。いまの日本は世代ごとにこの断続を抱えている。

 大人たちは豊かさの満足しか見えない。若者は豊かさのなんともいえない閉塞感、苦しみを感じている。若者はこの苦しさが大人に通じず、もどかしさばかりを感じることになる。

 大人たちは豊かさの満足を味わった世代だ。若者はそれが当たり前、自明な時代にうまれそだったから、豊かさの満足はあまり感じられない。かわりに豊かさを維持するための労力や努力、規則的・機械的な毎日に縛られ、息もたえだえになっている。これが大人には理解できない。いまの時代の大きな不幸だ。

 豊かさというのは、とてつもない機能性・機械化をうみだすようだ。生活をすべて規則性や機械化に縛りつける。父は郊外から毎日会社に通い、母は専業主婦、子どもは学校、まるで機械のような毎日が永遠とつづく。規則性に縛りつける強度があまりにも強大なのである。豊かさはその満足の裏側で、われわれに監獄の中の機械のような生活をもたらしたのである。

 ルーティン化した毎日を、大人たちは惰性や習い性として生きられるだろう。若者には豊かさの満足という目的がないゆえに、手段である機械的な毎日に耐えられない。また耐えうる意味も見いだせない。登校拒否やひきこもり、フリーターなどに逃れるしかないだろう。

 このことに大人たちが気づけないのが現在の最大の不幸であり、対策をうちだせないのが現在の閉塞感へとつながっているのだろう。大人たちは豊かさは憧ればかりではなく、苦しみや呪縛があることに気づくべきなのであり、ここから解放される方策を見出さないかぎり、現在の閉塞感は打破できないだろう。

 われわれは生活の基本である規則性や機械化をもっとゆるやかに、ゆるい、緩衝的なものにしなければならないのだと思う。ここでの流動化や液状化をすすめることがわれわれの解放につながるのだと思う。

 学校や会社、郊外の拘束性や束縛性をゆるめる必要があるのだろう。登校拒否やひきこもり、フリーターはそれらの拘束から逃れてきたのである。豊かさを約束したり、維持したりするものが、もはや苦しみの元凶でしかないのである。

 あれもこれも欲張った大人たちは、子どもたちに大きな借金と維持にかかる労力と苦痛を強大なものにした。ほしいモノがたくさんあったときにはそれらは耐えられただろう。しかし目的がなくなった現在、学校や会社などの手段のみが若者たちを拘束し、苦しまさせている。

 欧米や豊かな人たちと比較して、まだわが国は足りない、後進国だ、ミジメだという視座はもういい加減に捨てて、得るモノに付随する苦しみや重みをもっと軽やかに、ゆるいものにしてゆかなければならないのである。

 大人たちは豊かさの代償、苦しみ、重みに気づき、理解してやらなければならないのである。そこから現在の若者が抱える閉塞感や苦痛からの解放がひらけるのだろう。




 ■こないだ、自転車で宙を舞った。前輪にカサがひっかかってしまい、前のめりにつんのめってしまった。おそらく大車輪みたいなかたちになったのだろう。飛んでいるとき、時間がとまったみたいに落ちるのが遅いな、と感じられた。さいわい、リュックに朝の土砂降りに濡れたジーンズやら靴が入っていたため、てんで痛みはなかった。夜道にふたりの女性に見られていて、声をかけたくれたが、前も女性の前で歩道の障害物にぶつかったことがある。


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