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■020930断想集





    私が文学を読めないワケ      2002/9/30


 小説には純文学と大衆文学があるとされているが、私は人のいう高尚な評価に弱いので、ついつい純文学の本を読もうとする。あるいは評価の定まったむかしの外国文学であったりする。

 それで小説の楽しさになかなかめぐりあわない。文学を読んでいて、おもしろくてたまらないといった思いを抱いたことがない。わからない、わからない、ばかりつぶやいて、本を閉じることになる。

 小説というのははじめはおもしろさを見つけるべきだと思う。しかしどうも小説には高級なものと低級なものがあると教えられるから、評価に弱い私はすぐに高級なものを手にとってしまう。おもしろさより、高尚なものを選びとって、ろくに意味もわからずに終わる。小説から遠ざかるというわけだ。

 文学というのはいまの読者にとってひじょうに不幸な出会い方をしていると思う。おもしろい小説に出会う前から、学校で近代の有名な作家を教えられ、読まされる。読むべき作家のガイドを与えられるのはけっこうなことであるが、読者には成熟度とか段階がある。いきなり歴史にのこった高名な作家から読まされるのは読者の成熟度をまったく無視している。

 映画でいえば、『スターウォーズ』とか『ET』を観るまえに、先に高名で芸術的なワケのわからない監督の映画を観るようなものだ。映画はさいわい視覚でおもしろいかどうかは楽に判断できるし、大昔の映画を勧められるということもないから、新しいおもしろそうな映画を見ることができる。

 文学は大昔の高名な作家を勧められるから、たいへん不幸な出会いをしていることになる。しかも同時に大衆文学への軽蔑も教えられるから、その視点が固定したまま、本を選ぶことになる。文学の楽しさはわからないままだろう。

 純文学に対して軽蔑されている大衆文学をすんなり読める人というのは私にはうらやましい。おもしろいだけの小説には読む価値がないという偏見が、私の中にあるからだ。このろくでもない偏見のために私は素直に小説を楽しむという技術が身につかない。

 日本の文学というのは輸入された時期が悪くて、物語の楽しさより告白体の私小説のほうが高く評価される傾向になってしまったそうだ。ストーリーを楽しむ小説が低く見られ、日記みたいな個人的な記述が高く評価されるようになってしまった。これはつまらない。狭い個人の私生活なんかそうそう興味がわくものではない。それで私小説は人の眼目をひくスキャンダルとか大胆な性とか、深刻な悩みというものが主題となったのか。

 小説というのはそもそも人の人生をのぞきみるものである。たいていの人は他人の人生なんか興味がない。自分のことにしか関心がない。それでも他人の人生をのぞいてみたいと思わせるには、スキャンダル性か、波瀾万丈の人生ということになるだろう。または自分に似ているとか。物語の楽しさを封じられた近代文学はひたすら陰鬱で、人の興味の向かないほうに沈んでいったみたいである。

 私はあまり個人的な生や日常といったものは興味がないほうだ。自分の日記をつけようとも思わないし、歴史上の個人の行動にはかなり興味がないし、社会の一般的・法則的なことに興味が向かうほうだ。だから私の興味は社会学や哲学になる。個人の物語というものにはあまり興味が向かない。個人がどうこうより、社会の流れみたいなもののほうが好きだ。だから文学というのはなかなか興味がひかない。

 それでも私はもう一度文学を読んでみたいと思っている。文学の楽しさを味わいたいと思っている。学問を読む人より文学を読む人のほうがよほど多いし、人をそれほどひきつけてきたものを通り過ぎるのはもったいないと思うからだ。ということで文学がつまらないワケを解明して、そこから脱出する道筋をたぐりよせてみようと思ったわけだ。私は人生をゆさぶられるような文学といつか出会うことができるだろうか。







   文学はいろいろ読んでみたけれど    2002/10/1


 10年まえほどは私もかたっぱしから文学の名作を読んでみた。ものすごくいいという出会いがないまま、私の興味は現代思想にうつった。社会や人間のナゾを探るほうが楽しかったからだ。

 文学というのは、明確な答えがあたえられるわけではなく、物語から茫漠とした印象を与えられるだけという感がつよかったのである。メッセージやテーマははっきりといってもらったほうがわかりよい。

 ながらく思想や学術のほうに興味がむかってきたが、またすこし文学にチャレンジしてみようという気になってきた。10年まえと比べて私は社会や歴史のこともだいぶ知識量がふえ、活字の読解能力もましたことだし、とりあえずは危うい社会での経験もつんだことだし、文学評論も読みつつ、またよい文学と出会いたいと思っている。

 私が文学を読みだしたのは村上春樹の『ノルウェイの森』のブームからだ。映画やマンガで育った私は文学を読みたいけど、読めなかったので、現代的感覚のつよい村上春樹のブームはよいきっかけになった。シニカルなユーモアがたいへんよかったが、ほかを探しても村上春樹のような現代的感覚のすぐれた作家は見当たらなかった。宮本輝や遠藤周作、安部公房、連城三紀彦なとが現代作家としては気にいったが、村上春樹を超えるような「カッコよさ」はなかった。

 ついでに海外の名作とよばれるものを新潮文庫でかたっぱしから読んでいった。スタインベックやヘミングウェイ、モームなどが気に入った。しかし明確なメッセージをうけとったとはいいがたい。カフカはワケがわからないし、ドストエフスキーはほとんど話の筋さえつかみかねたし、バルザックもディケンズもそうそう読みたくならなかったし、とりあえずは有名作家の一冊は読んだけど、なにも身につかないといった具合だった。この時期はなんていうか、二宮金次郎的に文学を読んだけど、味気のないガムをかんでいたみたいだ。

 ヴォネガットはおもしろかったり、サリンジャーも感銘したりと、アメリカの現代文学はなかなかよさそうだったので、ポストモダンの文学とか興味をもっていたのだが、ピンチョンとかバースとかまるでわからない。トム・ロビンスはめちゃくちゃおもしろいと思ったが、日本での人気はイマイチみたいだった。ポップな文学というのは期待しているのだが、活字がどれだけポップなものになれるかは怪しい。

 日本の近代作家というのはなかなか読みたくはならなかった。言葉は古いし、感覚は古いし、むかしの人の生活や人生はなかなか興味の向くものではなかった。三島由紀夫が現代に近いので読みやすかったが、それだけだった。

 そうこうするうち、私は社会のありようを明確にしようとする現代社会論などに興味がうつっていったわけである。文学というのは個人の心情や行動をあらわしていて、なかなか社会のありようや問題のナゾを明確にするということがない。ということで文学とはながらくおさらばになった。この10年、アメリカの読みたかった作家の本が翻訳されたり、日本の新しい作家が出てきたりしていたけど、私は文学に帰ることはなかった。

 私は子どものころ手塚治虫のマンガで育ったのでSF映画好きである。『猿の惑星』とか『2001年宇宙の旅』、『ブレードランナー』など、切りがないほどSF映画浸けになった。だからSF小説は比較的に読みやすい。しかし推理小説にはまったく興味がない。なんであんな殺人のナゾをとくことがおもしろいのかまるでわからない。歴史小説もほとんど興味がない。恋愛小説も10年をへだててかなり興味が減退した。

 なんとか私がおもしろいと思う文学と出会いたいと思っているが、自分の「純文学」嗜好から脱却して、ストーリーの楽しさに目覚められたらなと思っている。今回は文学評論も参考にしながらすばらしい出会いがあればいいなと思っている。あるいはすぐに学術書にもどってしまうかもしれない。よい文学にはどうしたら出会えるのだろうか。






   SF映画『マトリックス』は神秘思想ではないのか     2002/10/6


 『マトリックス』は仮想現実から脱け出そうとする人たちを描いたSF映画だが、これはまったく神秘思想ではないかと思った。この現実と思われている世界を仮想のものだと「悟った」とき、主人公は超人的な力を手に入れる。これは神秘思想や仏教、禅で大昔からいわれてきた世界観である。

 『マトリックス』では人々はコンピューターに思い描かれた仮想現実の中で暮らしており、現実は培養管の中で生きている。人々が暮らす現実と思われる世界はコンピューターの仮想現実なのである。

 われわれはこの世界の現実性をまず疑うことはない。この現実のほかに世界があるはずがないと思っている。『マトリックス』はそのような自明性を疑う契機を随所にあたえる。はたしてわれわれの住む世界は現実のものなのか。

 仏教や神秘思想はこの世界のほかに世界があることを示唆する。それは霊や輪廻の存在する世界であったり、他者や生命、宇宙と一体化する世界であったりする。または天国や地獄も思い描かれてきた。この世界を知るために人々はさまざまな修行法を編み出してきた。

 科学観がさかんな現代ではこのような世界観は絵空事として排斥されてきた。しかしヨーロッパでも19世紀後半になるとインドの神秘思想が流入し、ニューエイジやトランスパーソナル心理学といった霊魂観をふくんだ世界観が勃興した。『マトリックス』はそういった流れをとりいれており、SFという手法でこの世界観が提示されていたとは驚きである。輝かしい未来と古来の神秘思想の合体である。

 霊魂の世界観が信じられないとしても、われわれ人間は五感を通してしかこの世界を知り得ない。生命はみずからの五感の限界に閉じ込められている。つまり五感でつくられた仮想の世界を見ているに過ぎない。われわれが現実だと見なす世界は絶対的なものといえず、あくまでも人間にしか見えない世界であり、世界は見られるものの数だけ世界があるといえるだろう。

 神秘思想は五感を超えた世界が人間にも見えるという。それは宇宙と一体化した世界であったり、霊界であったりする。とうぜんのごとくふつうの人間には見れず、人々からベールをへだられた世界は修行をへた少数のものにしか覚醒できないとされる。

 このような世界はどこにあるのだろうか。深層意識や魂の内奥にあるといわれたりするが、たいての人には知り得ない世界である。その実在を垣間見たいと思う人は精神修行に励もうとするかもしれないし、あるいはそのような世界を絵空事や精神の慰めと拒絶することだろう。私もこの世界をまったく知り得ず、ただ人々の言葉から知るのみであり、世界一般では不快感と拒絶を示すのがマナーとされている。

 『マトリックス』はそういうオカルトの世界観を提示しながら、近未来というSFを装い、現実の懐疑をあらわしたという点でたいへん驚いた。この現実はほんとうの現実ではないかもしれない、そういった疑いの目を植えつけることが主目的だったのかもしれない。われわれのこの世界は幻想のものである、だからほんとうの世界を探せ、といくたもの宗教はいってきたことと重なるのである。

 私も霊界や神界の世界というものにはやはり抵抗がある。しかしわれわれが知り得る五感の世界のほかの世界も知り得るかもしれない、という線までは神秘思想を信じる。『マトリックス』はそういう慎ましい神秘思想を提示したのかもしれない。

 「この現実の世界はほんとうの現実ではないかもしれない」――『マトリックス』はそれを疑えといっているのだろう。







    35's BLUE       2002/10/26


 35歳になると仕事の求人はだいたいなくなる。私はもうその歳になってしまい、いまだに一生をつづけたいと思う仕事にめぐりあっていない。

 もう私の人生はおしまいだという気持ちになる。これから先、つまらない仕事に縛りつけられて、辞めるにも辞められないと思うと、崖から落ちるような気持ちになる。

 いまやっている仕事が自分にとって価値があり、意味があるという気持ちにはとうていなれない。しかしほかの会社の面接に受かる可能性もほとんどない。いまの仕事にしがみつくしかないのである。ほかの仕事に変われる見込みがないことが、私の気持ちをたいそう落ち込ませる。転職できる可能性が断たれることは、私の自由の感覚を根こそぎにもぎとる。

 私はいまだに自分にはどの仕事がいちばん合っているのかよくわからない。いまやっている仕事が自分にぴったりだという自覚はほとんどない。でもほかの新しい仕事に変われる可能性もほとんどないのである。

 私はこれまで自分に合った仕事を見つけようとして、いろいろもがいてきた。そのたびに自分の経験と経歴の壁にぶつかって、元の道にはねかえされてきた。ただ35歳まではまだなんとか転職の道は開かれていたから、気持ちの余裕はわずかにはのこされていたが、35歳になったいま、道は完全に閉ざされてしまった。

 いまは人生の限界を思いっきり味わわされている気分である。35歳というのは、人生の限界を感じる歳なのかと思い知らされた。これってもしかして中年クライシスというやつなのだろうか。少年のころには希望に満ちていた人生がもはや限界のあるものとして立ちふさがる年齢になったということなのだろうか。転職の可能性は私にひとつの希望をもたらしていたのだが、この国の定年はあまりにも早く、残酷だと思う。

 仕事の面接では独身かとかならずチェックされた。たしかに35歳というのは家庭や子どもをもっていてもおかしくない歳だ。私はひとりが好きだし、家族というのはもう終わりかけていると思っていたから、結婚願望はほとんどもたずにこの歳まできたのだが、世間はそれに一瞥をくわえるのだと思った。あまり他人の目は気にしないが、家庭をもたないままこのまま行くのかと思うと、ちょっと生命としての役割を果たし終えていないのかなと思う。

 私はどのような人生をのぞんでいたのだろうか。いまの人生は私がもとめてきたものなのだろうか。私が願ったものとしての結果がいまの人生なのだろうか。

 子どものころ、私はマンガや映画が大好きだった。時間がもったいないので、毎日夜遅くまでそれらにふけった。音楽も好きで、一日じゅう流しっぱなしにしていた。でもいまはマンガや映画、物語などに深く没入することはなくなったし、音楽はべつに聴かなくても平気になってきた。子どものころ親は映画や音楽にぜんぜん興味がなくてつまらない人だなと思っていたが、いまの私はそういう気持ちがわかりだしてきたということである。

 35歳で転職の可能性がなくなるというのはたいへんつらい。40歳や50歳の人がどうやって生きているのか、とんでもない偉業に思えてくる。でもふつうの人はひとつの会社を長く勤めるのが当たり前であり、いつもほかの仕事の可能性を思い描いたりしないのだろう。同じ会社、同じ仕事をよくつづけられるものだと私には思えるが、たぶんそれがサラリーマンの王道、常識なのだろう。私はそんな人生は退屈だと思っていたが、それが職業人にもとめられる資質なのであり、最低条件であるということを、私は知らずにきたみたいだ。

 まあ、35歳で人生は終わりだという気持ちはもう捨ててしまおう。落ち込んだところでなんにもならないし、条件は抗うより受け入れるしかない。決めつけるのもよくない。仕事の可能性は断たれたとしても、ほかの希望や自由はまったくなくなるというわけではないのだ。ひとつの可能性は失われたが、ほかの可能性をもとめるしかないのだ。私は転職がいくらでも可能だからやり直しはいくらでも効くという幻想に酔っていただけかもしれない。そんな可能性は夢だったのかもしれない。






   なぜ仕事についての本は少ないのか    2002/11/2


 働く人としての気持ちを語った仕事の本というのはなぜこうも少ないのか。いろいろな職種についている人がどのようなことを思い、感じながら、仕事をしているのか、そういったことを語った情報がひじょうに少ない。

 たとえばコンビニの店員がどのような気持ちでレジを打っているのか、コンビニに荷物をはこぶトラックの運転手がなにをしんどいと思っているのか、長距離のトラック運転手がなにを思って仕事をしているのか、路傍にたたずむガードマンは暑さ寒さをどう思っているのか、郵便配達人は自分の仕事をどう思っているのか、ライン作業に従事している人は時間をどうやってやり過ごしているのか、などの情報というのはなかなかほかの人の耳につたわってこない。

 ハローワークや求人情報誌の求人票とかを見ていると、こんな少ない給料でどうやって生活をやっているのかと心配したりするが、こういう情報もほとんどつたわってこない。みんな給料をいくらくらいもらい、どのように使い、どのくらい必要としているのか、足りないときにはどうしているのか、といったこともまったく聞こえてこない。

 ビジネス書はたくさん出ているが、How toモノや評論っぽいものだりして、仕事の内実についての本はなかなか少ない。そもそもこういう本を書く人はおもに著述をなりわいにしている人であって、じっさいの仕事にはあまり関わっていないのだろう。

 仕事の内実についての本はなんでこんなに少ないのだろうとずっと思ってきた。もし働く人の仕事についての思いがまるごとわかれば、職種選びもイメージもしっかりしたものとなると思うのだが、そういう本はなかなかない。

 とくに現代のような働く意味が不確かになり、フリーターやパラサイトで過ごす若者がふえているように、仕事の情報はもっと求められるはずだと思うのだが、なぜかそのような本がふえることはない。

 人は他人の仕事なんかに興味をもたないのだろうか。他人の職業の悩みや苦労なんかに興味をもちたくないのだろうか。人の苦労なんか背負いたくないということなのだろうか。

 この世はみんながそれぞれ分業することで効率的な社会がなりたっている。食料はスーパーに行けばだれかが揃えてくれているし、郵便物もだれかが家のポストまで運んでくれるし、服もだれかがつくってくれている。カネさえ払えればそれらが苦もなく手に入れられるのだから、他人の仕事の苦痛なんか垣間見たくないということだろうか。カネを与えるのだから、かれらの苦痛はご免罪になると思っているわけだろうか。

 職業というのは他人の苦労をかわりにひきうけるものなのだろうか。職業というものはだから、人の気持ちまで知りたいとは思わないということなのだろうか。働く人の苦痛を知ってしまえば、この分業社会は崩壊してしまうのだろうか。われわれはアフリカの飢餓民には憐れとボランティア精神を与えるが、となりの苦悩する職業人には愛の想いは送り届けないということか。

 ともかく仕事についての本は少なすぎる。個人の仕事観なんてつまらないと思うのか、仕事や生活の情報をあつめた本というのはあまりにも興味をひかないのか、こういう本を見かけることはほとんどない。私としてはいろいろ参考や知識の幅をひろげることができると思うのだが、人々はあまり必要としていないということなのだろうか。

 職業が研究の対象になることもないし、文学の題材にもなることも少ない。われわれの大半の人が従事し、一生の多くを費やす作業なのに、仕事というのは驚くほど無視されている。儲け方、How to、経済状況についての本はあふれるほど出ているのに、仕事についての感情はほとんど無視されている。なぜ職業をとりまく知識の量は貧困で、お寒い限りなのだろう。

 ぜひとも「職業学」とか「ある職業についての心理状況」とかの研究分野をつくってほしいものだ、働く人が幸福で快適に生きるために。そしてこれから仕事につく人があやまった選択をして不幸な生涯を送らないために。







   生活費はいくらかかる?    2002/11/3


 私はだいたい一ヵ月を切りつめたら11万12万くらいで生活できる。家賃がワンルームで5万3千円、光熱費は合計で一万以内、あとは食費4万くらいともろもろ。趣味は本とハイキングの電車賃にかけるくらい。みなさんは最低でどのくらいで生活できるんだろう?

 家賃5万3千円は高いと思う。駅からは近いが、日当たりは悪く、前はマンション、つまり道路の反対側を向いており、景色はまるでのぞめない。もう12年は住んでいるからけっこう暮らし好いのだろうが、家賃は毎月いるものだからもっと安く抑えたい。市営住宅とか安いところを探したいと思っているけど、入れるのだろうか。でも民営でベッドしかおけないような安いところは避けたいと思うけど。

 ロケーションは大阪市の南端で、自転車で大和川河敷や長居公園、堺市の大仙公園(仁徳天皇陵)などの緑の多いところに行けて、まあ気に入っている。大きな書店のある天王寺や難波までは20分くらいで行けて、ある程度は便利だ。快速にのらなくてもすむから郊外行きの混雑は避けれてとてもありがたい。

 食費4万はもっと抑えれればいいけど、男のひとり暮らしで料理の節約はなかなかむずかしい。惣菜とかレトルト、コンビニとかに頼ってついつい高くなる。さいきんは百円ショップで食べ物を買うことが多くなった。1リットル・コーヒーやレトルト、チャーハンの素とか、かんづめで安く抑えることを覚えた。コンビニは定価販売で高いことにさいきん気づいた。百円ショップの安さのせいでコンビニの没落はもうはじまるのだろうな。

 月12万円で生活はできるが、国民健康保険が2万も3万もするようになると、銀行引き落としのため、口座からお金を退散させる。国民年金はあいかわらず払えていない。払いたいと思っているのだが、正社員の仕事になかなかありつけず、生活の安定と余裕のめどがいつつくかわからず、ずっと払えずにいる。25年以上払わないと年金はもらえないので40歳までには継続的に払わないとヤバイのだが、生活はいつ安定できるようになるだろうか。

 もし年金がもらえなくなったら老後の生活はどうしたらいいのだろうかと不安に思う。働けばいいと思うのだが、ただでさえ高齢者の雇用は少なく、はたして職は見つかるのかと思う。ガードマンとか駐車場の管理の仕事にありつけるだろうか。あと30年後、はたして年金は破綻しているのか、それとも高齢者の雇用はもっと増えているのか、いったいどうなっているのだろう。それどころか、その歳までちゃんと生活できているのかすら不安だ。

 私は経済力がないので、結婚はほとんどあきらめているが、所帯をもつには給料が月どのくらいあればいいのか、だれかに聞いてみたい気がする。ハローワークの求人票とか見ていると20万、15万もない仕事も多いが、この給料で妻や子を養っていけるのかと思う。どうやって生活のやりくりをしているのか教えていただきたい。いまは男だけではなく、妻もパートに出たりして共働きするから、男の給料が少なくてもやっていけるのだろうか。でもパートの給料って時給が700円800円で、ほとんど儲からないのだろうな。

 月12万くらいで生活して、のこりはできるだけ貯金にまわしたい。私の将来は不安だらけだ。仕事はまたいつ辞めてしまうかもわからず、雇用保険もないので失業期間中の生活費のたくわえがぜったい必要だ。でも35歳を越えた私につぎの仕事が見つかる保証はかなり少ない。いまの仕事を辞めることはできないと思っているのだが、どんなツライことが待っているかもわからず、忍耐力がどこまでもつかもわからない。私の将来はかなりヤバく、転職の定年を越えた私には、不安と絶望感が襲いかかっきてたまらない。

 私は若いころ労働が少なくなることをずっと夢見てきた。仕事や会社の重要性を少しでも減らすことが理想だった。でもきちんと働かないことに生活できないし、将来の安定はのぞむべくもないし、過去の経歴をまともなものにしないと、生きてゆくことすら困難であることがわかりだしてきた。

 いったい私の夢はなんだったんだろうと思う。なぜそのような理想をいだけたのだろうか。若かりしころの無知のゆえだったのだろうか。職業やカネについてのカンがあまりにも現実離れしすぎていたのだろうか。転職の可能性が閉ざされる年齢になるにいたって、仕事とカネの厳しさをひしひしと身をもって感じるしだいである。労働を少なくするという夢は、現実の厳しさのまえに泡と消えるしかないのだろうか。。。 ああ、レ・ミゼラブル。




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『マトリックス 特別版』

   
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