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■020824断想集





    作家のマーケティング論    02/8/24


 作家は作品だけではなく、人生や私生活も商品である。作家の人生を産業の戦略として読みなさいと猪瀬直樹はいっていて、なるほどなと思った。

 太宰治の自殺未遂も広告やキャンペーンみたいものである。こうなれば、産業の戦略とナマの人生は切り分けることができるのだろうかと思えてくる。

 読者も作家の作品のみを求めて読む場合もあるが、その作家の生きかたや人生を求める場合もある。読者は作家の生きかたや人生を買っているのである。作家の人生は生きかた呈示や人生モデルの商品になっているのである。

 作家は社会的に文学が認められた存在である。社会で売れる存在である。読者は社会的に認知され、売れる存在という商品を買う。読者はそのことによって自分の認知欲や称賛欲の代替品を手に入れる。ブランド品や装飾品と同じである。

 TVが生まれる前は作家が認知商品の多くをになっていたが、昨今はタレントや歌手が人を楽しませたり、喜ばせたりするジャンルをになっている。作家は知のジャンルにおいての自己呈示、認知方法を受けもつようになった。

 タレントや歌手もその芸や曲のみではなく、結婚や不倫などの私生活も売り買いされる。消費者は認知された存在の人生行路・モデルを所有し、模倣したいのである。消費者はそのことによって自分の社会的価値を満足させる。

 認知産業といっていいかもしれない。社会的に認知された存在を売る商売である。消費者はそういう人物という商品を所有し、模倣したい。われわれはそのために本や芸能誌やCDを買う。われわれは社会的に認知された自分になりたい、自分のモデルがほしいと思っているのである。それが産業になる。

 われわれは社会的認知を買う。社会的認知はどこにでも転がっているものでも、かんたんに得られるものでもないから、カネで買えるもので代替する。われわれは認められる存在、売れる存在を買うのである。作家や歌手の作品を買うことはその感情を満足させることなのである。われわれは作品を買うとき、認知を買っていることを自覚するべきなのだろう。

 作品の内容を買うことが消費の主たる目的である。だが、こんにちでは有名人という認知された記号を買う場合が大きいかもしれない。芥川賞やベストセラーの商品を買うということは認知や売れているということを買うことである。認められたブランドや芸術として買うことである。

 有名人は社会的に認められた存在、カッコよさ、人前での社会的たちふるまい、人生の生きかたなどを商品として売る。こんにちでは作品の質より、その記号の部分を買い求めることのほうが多いのかもしれない。

 売れた存在つまり社会的認知を得た存在というのはそれだけで記号としての商品になる。消費者は認知された存在という商品を所有し、模倣し、そのことによって自分の社会的価値があがったと思いこむ。こんにちでは作家や有名人はそういう存在である。

 人生やカッコよさをはじめから商品や宣伝として売りだす人もいるし、プライベートをいっさい見せないで作品のみを評価にゆだねようという人もいる。作品のみで勝負する人のほうが本来の目的にかなった潔い性質を垣間見せるわけだが、こんにちではそれすら戦略になる。

 創作者は社会的認知から逃れられないし、消費者はそれだけ社会的認知を血眼になって求めているともいえる。われわれはたえず社会的に認められ、売れる存在になりたいと願っている。その願望が巨大なスター産業をつくりだす。認知産業という欲望は私たちを、また私たちの人生をどこにつれてゆくのだろうか?






  物語りに価値と意義はあるのか?    02/9/2


 私はいまは哲学書や学術書のほうが好きである。テーマやメッセージがはっきりと示されていて、わかりやすいし、読む価値はあると思っている。

 それに対して小説や物語りというのはテーマやメッセージがはっきりとわかりづらい。なにをいっているのかもわからないときもある。作者のせまい個人的境遇や思惟につきあわされるのも偏狭な気がするし、物語りや自我のナルシズムや陶酔性には不快さを感じたりする。

 そういったもろもろのことから物語りには価値や意味があるのかと思うこともある。たぶん私は個人の頭の中身や行為にあまり価値をおかず、個人的メロドラマをきらい、客観性や冷静さに意義や価値をおくからだろう。

 多くの人は物語りが好きみたいである。本といえば小説であり、小説を読めばインテリになれると思っているみたいだ。でも物語りから意味やメッセージを読みとるのはそうかんたんなことではないと思う。わけもわからなく、よかったとか、感動したとか、程度の感想しかもてないのではないかと思う。

 物語りから意味やテーマを探りとるのはかんたんではない。物語りばかり読んでいても、読解能力が増えるようには思われない。やっぱり思考や論理能力を鍛えないことには、物語りを読み解くのはむずかしいように思われる。

 物語りと学術の価値観やベクトルはまた違ったものなのだろう。学術は「分ける」ことや「明晰さ」に価値をおくが、物語りというのはあいまいさや物語的陶酔性みたいなものに価値をおく。物語りはかならずしも分かること、分けることに価値をおかない。物語りに入り込むことに意味があるのかもしれない。

 人は物語りが好きである。たぶん私たちの現実の捉え方が物語的なのだろう。自分や過去を捉えることは物語りとして把握することである。われわれの社会的関係というのも物語りの役割や立場を演じることで成り立っているといえる。物語りというのは社会的脚本の役割を果たしているわけだ。物語りは社会的なレッスンである。

 物語りはまた感動や喜びを与える感情の産業である。われわれはさまざまな感情を味わうために物語りに触れる。悲しみや恐怖や感動、喜びなどを感じるためにわざわざ物語りに入り込む。日常は平板すぎて感情の容量が足りないのだろうか。感情のレパートリーも増やすこともできる。人々の感情の規則を教える場でもある。感情のレッスンである。

 物語りは社会的な想像力のレッスンでもあるのだろう。さまざまな人たちの内面、境遇に同一視するための想像力の鍛練である。もしわれわれに物語的想像力がなければ、他人の内面や感情に思いやりをもてず、人を内面のないけもののように扱っていたかもしれない。物語りは他者への想像力のレッスンをほどこすのである。

 私は十代にくらべて物語りはだいぶ見なくなった。マンガに映画にTVに小説とたくさんの物語りに触れてきたが、いまはそんなに強くは魅かれなくはなった。物語りは乗り越えられるものだろうか。物語りは幼稚なものなのだろうか。

 物語りはもちろん虚構である。虚構の愛着が減ることは好ましいことなのだろうか。虚構に距離をおき、現実や論理性に価値をおくことはよいことなのだろうか。物語的情感を失うということは、社会的感受性を鈍らせることのようにも思う。物語りはいくつになっても価値と意義はありつづけるものか、いまの私にはまだ決めつけたくない。








   宇多田ヒカルは儲けた金を何に使うか    02/9/8


 げんざい19歳の宇多田ヒカルのアルバムは800万枚も売れ、200億円ほど儲かったそうだ。ほかのアルバムも100億ほど儲かり、シングルも何億単位も売れている。(去年の納税額は3億で、推定所得は8億という話だが)

 いきなり十代にして何億円もの収入を得た女性の気持ちとはどのようなものなんだろうか。いったいなにに使おうとするのだろうか。

 食費は知れているだろうし、CDや本、映画を買うお金も何十万もかかることはないだろうし、ファッション代もたいしてかからないだろうし、世界を一周してもお金はまだまだのこるだろうし、家を建てるにしても何億かで間に合う。年収200万の私としては使いかたも想像できない額だ。高校のときのバイトだって使うものがなかったくらいなのに。途方に暮れはしないか。

 宇多田ヒカルは働かないでも一生暮らせるお金を得たのだろうか。もし一年に500万使うとしたら、1億で20年は暮らせることになる。19歳にして隠居生活もしくは金利生活に入る気はおそらくないのだろう。彼女はお金がほしくて唄を歌っているというよりか、唄が好きで認められた結果、後からお金が入ってきたパターンだと思う。唄はまだまだ歌いつづけると思う。

 しかし高校生にして億万長者になった者の生活とは今後どのようになるのかと思う。高校生といえば、時給700円程度のバイト代がせいぜい手に入るくらいだ。ほとんどの女性はOLになってもたかが20万ほどで、結婚してもサラリーマンのダンナの収入できちきちの生活を強いられるのがふつうだ。マイホームだって5000万円のローンを一生かけて払いつづけておしまいだ。

 サラリーマンの給料というのは月々決められた額を会社からもらう。たとえ会社がボロ儲けしたとしても給料がグンとはねあがることも、億単位の給料がもらえることはまずない。月々の決まった額を決まったようにもらうだけである。年収1000万として40年働くと約5億、年収500万なら約2億5千ていどの計算になる。

 それに対して宇多田ヒカルのような歌手は大ヒット曲を飛ばせば、サラリーマンが一生でこつこつ稼ぐような何億もの収入を一夜にして得る。サラリーマンの決まった給与額からは夢のような話だ。宝くじに当たったようものだ。宇多田ヒカルはそれをはるかに超えた額を人生の早いうちに稼いでしまったわけだ。

 ただ歌手の寿命というのはたいへん短い。たいていの歌手は5年か、10年もてばいいほどで、サザンとかユーミン、小田和正などの少数の者だけが何十年ももっているにすぎない。宇多田ヒカルもデビューがあまりにも華々しかったたためにあとは落ちてゆくしかない気がする。稼いだお金はこれからの目減りする資産のために堅実に使ったほうがいいように思う。

 スポーツ選手も何億や何千もの契約金を得るが、やはり寿命はたいへん短い。家を建てたり、生活を豪華なものにすると、のちのちのギャップがたいへんに大きくなることは想像にかたくない。もし彼らが引退したのち、サラリーマン生活に入ったらそのギャップはたいそう苦しいものになるにちがいない。ただ収入がそれだけある者は生活もそのレベルになってしまうものだが。

 何億もの収入を得る人はいったいなににお金を使い果たせばいいのか途方に暮れはしないか。マイケル・ジャクソンは自宅にディズニー・ランドのようなものをつくったし、村上春樹は海外旅行に明け暮れた。企業家はたぶん社長なら設備投資などに使っただろうが、元手のかからないソフトを創る人たちはいったいなににお金を使うのだろうか。ちゃんと使い果たせるのだろうか。

 アンドリュー・カーネギーといった大金持ちはカーネギー・ホールや図書館などの社会事業に役立てた。日本の大金持ちで社会事業に寄付したという話はあまり聞かない。累進課税だし、政府が偉そうな顔をしてかわりにやっているからだろう。したがって金持ちは個人や家族、子孫の遺産のためだけにお金を使う。文句はいわれないだろう。ただ金持ちはたっぷりお金を浪費して、貧乏人に金を回すのもひとつの社会事業だと思うが。

 想像してほしい。高校生にして一度に何億もの収入が入ってきたあとの生活や金銭感覚がどのようなものになるか。彼女は幸せなのだろうか、それとも不幸なのだろうか。幸福まちがいなしにも思えるし、この先のことを思えば不幸のことのようにも思える。毎月の生活に困る者には最高にハッピーに思えることだろう。

 人間性の成長や心の忍耐度といった点では恵まれ過ぎた境遇はよいほうには働かないだろう。常人の生活の苦労は知ることはないだろうが、金持ちやスターの苦労というのも常人の絶するものがあるだろう。のぼりつめた者にはのぼりつめた者の違った種類の苦痛と絶望がある。しかしこれはたんなる貧乏人のやっかみかもしれない。個人の心は本人しかわからないものだし、幸福や平安を決めるのは個人の心だけである。環境のみで決まるものではない。

 たいがいの人たちはサラリーマンの少ない収入で月々を暮らすものである。生活も娯楽も人生観も、あるいは善悪だって、その基準によって染めあげられてゆくものである。しかし世の中には一夜にして何億も稼ぐ人がいるものである。サラリーマンの勤勉観や生活の倹約の美徳も、かれらには意味がないし、通用もしない。こつこつと働くことはもはや美徳でもないし、規則正しい生活を送ることも「正しい」ことではないし、だれかに従順であることも必要ではないし、どこにいこうと自由である。そういった人生もOKであることを、少ないお金に縛られ、頭が固くなってしまったわれわれは、一度は想像してみるべきなのだろう。







   売れる人間になるだけが人生か?    02/9/16


 モノを買うとき、ほかより優れている商品を選ぶ。似たような商品があるときには機能が優れていたり、デザインがよかったり、些細な違いで選んだり、ほかより少しでも安い値段で買おうとするだろう。

 市場社会で生きているわれわれ人間も他人にとっては商品となる。他より少しでも優れていたり、美しかったり、頭がよかったりする人間が人々に選ばれる。私たちは少しでも高く売れるようにさまざまな努力をする。

 自分の好みや楽しみ、喜びというのは、人より高く売れるための努力なのかもしれない。ふつう、人間は売り買いされないから、われわれは自分は商品ではないと思っているが、明らかに商品として人との関係のなかに生き、行動している。商品とみなしたほうが人間の行動や階層はよくわかるかもしれない。われわれが商品でないのは、モノと違って自由意志と尊厳があるからだろう。しかしカネが必要な人間にとってそんなものはないも同然だろう。

 現代のわれわれは学歴によって商品の価値が決まる。女性は美貌や肉体美によって決まる。男は企業に買われ、女は男に買われる。高く売れるために学力や趣味の鍛練をつみ、女性は化粧やファッションによって美貌に磨きをかける。人に高く売ろうとする努力を重ねる。

 われわれは商品ではないと思いたい。カネで買えるとは思いたくない。しかしわれわれがおこなう努力や楽しみの多くは、人や企業に買われるための努力ではないのか。学力や嗜好や美的センスを磨くのは、人から高く買われるための努力ではないのか。

 よく売れる人間は社会からほめたたえられる。かれは歴史に名をのこすかもしれないし、多くの人に名前や顔を覚えられるかもしれない。それは人々や社会の役に立ったとか、貢献したとか、人々に感動や感銘を与えたといって評価される。かれはたいへんに売れる人間――ロングセラー商品となったわけだ。われわれは売れる商品になろうとして努力をする。よく売れれば、生活はたいへん豊かになれるからだ。

 しかしふと思う、われわれの人生は人々からほめたたえられたり、憧れられたりするためだけにあるのだろうかと。人間社会に重宝され、求められるだけが人生なのかと思う。ほかに人生の目的や意味はないのだろうか。

 われわれは商品やカネで買えるだけの存在にはなりたくない。カネだけで意志を奪われたり、自由や喜びを剥奪されたり、売れるためだけに人生の全努力を賭したいのでもない。われわれは人々に求められない、自分だけの人生、日々や楽しみをもちたいと思っている。売り買いされない自分の人生を楽しみたいと思っている。しかし私の知らないところで楽しみや喜び、愛や思いやりも、すべて売れるための努力に含まれるともいえなくもないが。

 いまの社会はたいへんに市場化された社会である。そのほうが効率的で便利である。しかしカネの関係がどこまでも貫徹し、浸透した社会になった。つまり多く売れることがたいへん価値のある社会である。人々から求められ、買われることがとても価値ある社会である。われわれは生まれたときからよく売れる商品になるようにと人生の目的をセットされる。高く売れることが人生の至上目的である。しかし人生の目的とは市場で高く売買されることだけなのかと疑問に思う。人々の人気になり、用いられるだけが人生なのか。

 市場社会で生きるいじょう、われわれは能力をのばし、たくさん稼ぐことが必要である。カネがないと生きていけない。高く売ろうとする努力は否定することではない。生活の糧を得ることはたいへん大事である。しかし人生はそれのみにあるとは思いたくない。高く売ることだけが人生ではないだろう。人間社会に売れることだけが人生ではないはずだ。ただ私たちは知らず知らずのうちに高く売れることだけを人生の目的として無意識に洗脳されていると思う。その人生の隠された目的を意識し、客観視するようになれば、われわれの人生は少しは違ったものが見えてくるのかもしれない。「売れる/売れない」の価値を超えたものを。







   近代化と精神主義      2002/9/20


 近代化の物質主義によって、日本のさまざまな精神的伝統は迷信としてしりぞけられてきた。精神にかかわるもろもろのことは、物質主義や目に見えるものだけを信じる精神のために徹底的に排斥された。

 勝利したのは、物質主義と金銭主義である。経済合理性であり、生活安定主義であり、労働と企業がどこまでも日々を覆う社会だった。われわれにはもはや自分の時間や精神的ゆとりはない。経済や企業の機械として生きるのみである。

 そのような非人間的なことを許してきたのは、やはり近代化の物質主義だろう。モノに囲まれることがよいことになれば、お金はどこまでも必要になり、労働と会社はひたすら重要となり、人生は金銭と生活の安定のみをめざすようになる。物質主義というのは、人間を生産・労働だけの存在にしてしまう。

 近代化によって精神主義を排斥したためにわれわれは時間的ゆとりや精神的豊穣さといったものを失った。われわれはもはや経済と労働の機械となるしかない。排斥したのは精神の崇高性や高貴さといったもので、そこには非合理ではあるけれども、人間の豊かさやゆとりも含まれていたのだろう。

 近代人にとってもはや精神的なもの、宗教的なものは信じられない。信じるのは物質主義だけである。それは金銭主義であり、労働主義であり、経済主義のみである。われわれは精神の崇高さを失った、ぶざまな食べるためだけに生きる人間が見出されるのみである。

 物質主義は科学をうみだし、宗教やオカルティズムを徹底的に排斥した。物質のみを信じるためには精神の豊穣さは宿敵なのだろう。精神の厚みや高低を失った人々はひたすら物質のみを追い求め、薄っぺらな生活安定主義のみに狂騒するだけの存在にならざるを得ないのである。

 精神主義の偉大な非合理は失われたのである。そのためにわれわれはひたすら労働と金銭のみを追い求める人生に終始するだけになった。精神や宗教の非合理さとは、われわれに時間のゆとりや精神の高貴さを与え、人々に精神的な実りをもたらしてきたのではないか。迷妄であるかもしれないが、労働と生活だけの毎日から人々を救いだしてきたのではないか。

 伝統的宗教というのは、経済的・物質的な豊かさをかならず否定してきた。精神の高貴さやゆとりはそこにはないのだろう。宗教や伝統を重んじる国は偉大な非合理を容認し、経済・金銭主義に歯止めをかけ、人々に精神的ゆとりをもたらしてきたはずである。歯止めを失った近代主義の国はひたすら金銭・労働主義へと暴走するほかない。

 戦後の経済主義は福祉主義と結びついた国家主義により、成功をおさめた。しかし国家主義による経済主義は80年代には終わり、人々は大きな目的を失い、個人主義と個人的利益のみを求める矮小な存在となり、精神的支柱は崩壊した。会社や家を捨てたホームレスが90年代にふえだしたのも国家主義が消滅したことと無関係ではないだろう。狭い個人主義にはお国のため会社のために尽くす必要はないのである。

 われわれには精神の崇高さや目的といったものが失われるばかりである。ただ金と食べ物を漁るだけの存在に堕してしまうのみである。非合理的な精神主義や宗教を排斥することはそういう帰結を必然的にもたらすのだろう。精神のない浅ましい物質のみが勝利するだけだからだ。精神の崇高性やゆとりをとりもどすためには、われわれは精神の豊かな土壌をほりおこす必要があるのではないかと思う。物質主義はあまりにも卑小な結末しかもたらさない。







    労働の幸福論      2002/9/21


 労働それ自体が幸福かと問われることはあまりなかったと思う。お金やモノがいくら集められるかという視点からしか労働は捉えられてこなかったと思う。しかし労働は人生や生活の大部分の時間を覆うものである。それ自体が幸福かと問われなければならないもののはずである。

 生活するためにはとうぜん働いてお金を稼がなければならない。生きてゆくためには労働は楽しいかとかおもしろいかといって迷っている余裕などない。あまりにも贅沢すぎる悩みである。働かなければ、生きてゆけないのである。

 だから労働それ自体が楽しいかという問いは抑圧せざるをえないものである。しかし時代は変わって生活はただ食べるために働く時代から、遊びや消費のために働く豊かな時代に変わった。

 労働は問い直される時代になったはずである。いつまでも労働の神聖さを疑うことがタブーの時代によりかかるのではなく、労働の目的や幸福が問われる時代にさしかかったとみなすべきである。人生の大部分を覆う労働の幸福を問わないで、人生の幸福や目的が見えるはずがない。

 転換が必要な時代になったのだ。お金やモノが幸福のものさしになるのではなく、その手段にすぎない労働にも幸福のものさしを向けるべきなのである。はたしてわわれれは労働のなかに幸福のまなざしを向けてきただろうか。労働のなかにどれだけの幸福や安楽や満足、または人権や権利といったものをみいだせるだろうか。恥ずかしさに顔をうなだれるしかないだろう。

 労働の幸福論を問うことはタブーだったのだろう。利益や儲けのために従業員の幸福などにかかずりあってなんかいられない。労働者の幸福は抑圧されてきたし、とうぜんのように無視されてきた。苦しみや自虐に耐えることがとうぜんであり、賢明であるとみなされてきた。かわりにわれわれは生活物資の多寡と消費生活の豊かさに目を向けるように仕向けられてきた。

 しかし人生の大部分を覆う労働に目を向けないで、なにが人生の幸福を見定められるというのだろうか。お金やモノがいくら増えても、毎日の労働がちっとも満たされないものであれば、われわれは幸福だといえるのだろうか。労働それ自体に幸福と満足のまなざしを向けるべきなのである。

 毎日の労働が不満な者にとって労働の幸福を問うことは危険である。生活を保証する労働が失われてしまえば、生きてゆくことすらできなくなる。だからわれわれは労働の幸福については問わないできたのだと思う。できればこのような問いから目をふせるのが賢明な生きかただといえるだろう。

 しかし戦後からの豊かさの目標が達成された現在、消費の満足がいきづまりを見せたいま、自明の理とされた労働のありかたを問う必要があると思う。消費という目的のための手段にすぎなかった労働は、目標を失ったためにあらためて大きな障壁として立ちふさがりはじめたのである。目標がなくなったために労働は大きな問題としてクローズ・アップされざるを得ないのである。

 お金や消費から労働を捉えるのではなく、労働からお金や消費を捉える転換が必要になってきたのである。もし労働がつらいのなら、贅沢で豊富な消費は必要なのか、お金はどれだけ必要なのか、という問いも導き出される。消費が先にありきでなく、労働が先にありきである。労働がつらいものなら贅沢な消費は価値があるものか問われてくる。

 個人が生活してゆく上で労働の幸福を問うことはやめておいたほうがいい。生活の糧を稼ぐことは絶対に必要だからだ。ただ社会や国のレベルでは労働の幸福を問うことはこれからおおいに必要だと思う。消費大国という目標が達成された80年代、やはり幸福の欠如が嘆かれた。幸福の欠如はあきらかにこの社会の労働のなかにあったはずなのだが、その問いや反省が起こることはなかった。後進途上国であった日本は目標を急ぐあまり、その反省を切り捨てざるを得なかったのだ。

 われわれに必要なのはお金や消費のレベルを問うことではなく、労働の幸福を問うことではないのか。目標のために抑圧されてきた労働の価値について問い直すべきではないのか。そこには人生の質の問題から人生の哲学についてのたくさんの顧みられなかった問題があるはすである。労働を問わない消費の幸福など雲の上の夢うつつである。労働の幸福について考え直してはじめて、われわれは実り豊かな人生を送れるのではないだろうか。

 われわれはお金という目標を大事にしすぎて、労働の問題をあまりにもおろそかにしすぎたのではないかと思う。幸福の欠如はいつまでも去らない。消費の幸福だけではなく、労働の幸福を問わなければ、われわれはいつまでたっても幸福の欠如を嘆きつづけるのだろう。



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『First Love』 宇多田ヒカル
   
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