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■当サイトはブログに移行しました。 2007/4/8
http://ueshin.blog60.fc2.com/ 「考えるための書評集」
ブックマーク、はてなアンテナなどの変更をお願いします。
十年間の長きにわたり当サイトをご愛顧いただきありがとうございました。といっても十年前から読んでいただいている読者なんていないと思いますが(笑)。
このホームページをはじめたのは私が三十歳になる前後でした。ことし私は四十歳になりますからちょうどよい節目の年になります。これからもブログのほうで変わらずに応援してくれるとありがたいです。みなさんにもご多幸があられんことを。
うえしん
なお、このサイトのメール・アドレスはプロパイダ変更のためにすべて無効になります。連絡されたい方は面倒ですが、ブログのほうからお願いします。
2010/5/8
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ランダムに過去のエッセイ、書評を表紙にとりあげています。
不定期に更新します。
エッセイ集大成
頭は空っぽにしたほうがいい。思考や欲望、過去にいっぱいになった頭には悲しみや恐怖や怒りがうずまいている。空っぽの頭にはそんな苦痛や苦悩はいっさいない。
こんな澄んだ心の状態になるためには、心や思考、過去はただの「虚構」や「絵空事」にすぎないことを知ることがいちばん効果バツグンである。そういった文章を集めました。
▼2001/12/2編集
「いつわりのリアリティ」 00/6/15.
われわれが毎日考えたり、思ったりすることは、「いつわりのリアリティ」である。これは「現実」にあるのではないし、実際にあるわけでもない。
あくまでも「心象」や「言語」が創造した「絵空事」にしか過ぎない。
しかしそれが「現実感」をもつようになるのは、頭で考えたり思ったりしたことに感情や気分がついてくるからである。怒りや悲しみが起こるから、「現実」のように思ってしまう。
感情をもよわせるのは、思考や過去の心象や解釈である。思考というのはもちろん実体としてはどこにも存在しないものであるし、過去というのは過ぎてしまえば、いっさい存在しなくなってしまうものである。
いずれも実体としてはどこにも存在しないものである。そして感情というのはどこにも存在しない、「虚構の産物」によって生み出されるものなのである。
われわれの「リアリティ」というのは、まったくどこにも存在しないものによって生み出されるのである。すでに過ぎ去り、言葉や思考という頭の中だけにあるものに創出されるのである。これはまったく「いつわりのリアリティ」である。
小説や映画というのはまったくどこにも存在しない虚構の産物であるが、われわれはこの虚構のリアリティにしっかりと感動したり、怒ったり、悲しんだりする。
日常の経験もこれとひとつも変わらない。しかし日常の物語はすべて自分が、言葉や解釈によって「創作」して、「物語」っているわけである。人はそういう「解釈主体」である自分という「語り手」をふだん意識していないだけなのである。
心象や思考というのは、自分が意図したわけではないのに、頭の中につぎつぎとわきあがってくる。その心象や思考のままに考えたり、思ったりすることを乗せてゆくと、「いつわりのリアリティ」の「リアルさ」と「迫力」はどんどん増してゆき、怒ったり悲しんだりの悲喜劇にふりまわされることになる。
「いつわりのリアリティ」にだまされないためには、心象や思考を「絵空事」だと相手にしないことである。虚構や思考を軽蔑すればいい。
そういう習慣を長くつづけると、心は静まってきて、「いつわりのリアリティ」や思考の饗宴というのはだいぶ遠景にしりぞいてゆく。思考のバカ騒ぎも収まってゆく。
おそらくこういう静かな心のほうがよい状態なのだろう。「いつわり」の「まやかし」の騒がしさは遠くに去ったのだから。
過去の「実体化」 2000/4/25.
私は一瞬ごとに消え去っている。さっきの私も一時間前の私も、昨日の私もどこにも存在しない。同じようにさっきの他者もあなたも消え去っているし、昨日やおとついのあなたも世界も消え去ってしまっている。
われわれは歩くごとにうしろの階段が奈落の底へ崩れ去ってゆくような世界に生きている。一瞬ごとに私は消え去っている。
時間は流れるというよりか、時間は「ない」といったほうがふさわしいのかもしれない。
しかし記憶は残る。ここから「過去」という概念が発生することになるのだろうけど、もはやこれは頭の中の「虚構」や「空想」と同じようなものになる。
実体や実在としてはどこにも存在しなくなる。たしかに過去になにかのモノをつくったり、描いたりしたら、その創造物はのこる。だけどこれは過去や時間の存在を証明づけるものではなく、過去や時間とかということと違った別の状態かもしれないのである。
消えてしまう私は記憶によってかつていた私を思い描く。また自分が一瞬ごとに消え去ることに疑問を感じた私は、あるいは恐れをなした私は過去のありようを想像したり、思い描くことになる。
子どものころには自分がいない前の世界にひじょうに興味をもったりするものである。歴史や古生物、宇宙の起源などに興味がもたれるのは、自分がいない前の世界、私が消えてしまう無の状態をなんとか埋めようとするからなのだろう。
消えてしまう私は記憶や写真、書き物や制作物などによって過去を思い描こうとする。しかしこれらはモノとしては残るが、その行為をおこなった私はもう消えてなくなってしまっている。もはや「実体」としてはどこにも存在しない頭の中だけの「虚構」や「幻想」となり果てている。
しかしわれわれは過去の私を「実体化」させてしまう。私は消えたのではなく、過去にちゃんと実在したのだと。消えたり、虚構の産物としてあったのではなく、あたかも「実体」のようなとりあつかいを受けることになる。
たとえば信長や秀吉のような歴史上の人物はたしかに存在したのだろうが、われわれにはもはや「虚構」や「空想」としか捉えられない。「実体」として存在しないのである。しかしわれわれはこの虚構をあたかも「実体」のように捉え勝ちである。われわれはえてして「虚構」と「実体」の区別を往々にしてなさない。
自分に対する「虚構」と「実体」の区別も同様である。私は一瞬ごとに消え去ってしまっている。しかし「過去」の私をあたかも実体であるかのように見なしている。
私は過去にいたのではない。消えて、なくなってしまったのである。記憶や虚構として残るのみである。なくなってしまうのはどうも了解できないし、具合も悪い。記憶では私はたしかに存在したのだからということで、過去や時間という容れ物が「発明」「創造」されることになる。
こうして記憶は言語や概念という虚構や創造の助けを借りて過去や過去の私は実体あるものとして、時間が存在するということが観念されることになるのである。
過去や時間というのは「壮大なフィクション」なのかもしれない。時間は流れるのではなく、「いま」だけが存在するものであり、ほかは消えたり消滅したりするものである。記憶や言語はそれを過去や時間という創造物のなかに収めてしまう。
消滅を忘却させたのは、人間社会の取り引きや経済のためだったのだろう。経済の「帳簿」のために過去は「創造」されなくてはならなかったのである。そして自己の同一性も自明のものとして疑われることもなくなっていったのだろう。
時間というのはみんながハマってしまった壮大なフィクションなのだろうか。虚構を実体化させてしまう言葉や想像力というのは恐ろしいものである。
過去とは心象である 2000/4/28.
過去とは心象である。過去「そのもの」ではない。しかも過去を思い出しているのは「いま」であって、いまの私はそれによって苦しんだり、喜んだり、嘆き悲しんだりする。
心象に苦しめられるのである。心象はもはや現実に存在しない「幻想」や「虚構」と同じものである。
しかそれを思い出すたびに私たちは苦しんだり、喜んだりする。もはや存在しない「夢」のようなものに一喜一憂するとはヘンな話である。
過去とよばれるものは消えてなくなってしまった。かつての私もさっきも私もみんな消えてしまった。
心象だけがよみがえるのである。そしてそれは過去の「よそおい」をもっているが、いま思い出し、いま一喜一憂するとするのなら、「いま」に属する事柄である。
私たちが過去の心象や映像をあたかもいまここにあるかのように、まさに目の前にありありと存在するかのように思ったりするのは、「いま」のことだからである。
過去を「実体化」してしまうのである。われわれは過去を思い出しているとき、それが過去や心象に過ぎないことを忘れてしまい、過去に没入し、感情的になる。それは「過去」のことではなく、「いま」思い出しているから可能な事柄である。
過去やさっきの私はみんな消えてしまった。過去「そのもの」はなくなってしまったのである。
それなのにわれわれはそれを実体化し、あたかも目の前にあるかのように見なして苦しめられることになる。
消えてしまった過去の「亡霊」を実体化してしまうのである。過去やさっきの私を実体化してしまう愚かな過ちは抜きんがたくわれわれの毎日を支配している。
それは終わった過去ではない。「いま」思い出している過去である。つまり過去ではなく、「いま」である。
そして当の過去は一切合切、消えて、なくなってしまっているのである。消えてなくなってしまったものに、実体として存在しない心象に、なぜ苦しめられる必要があるのだろうか。
過去の私は消えてなくなってしまったことを思うこと。そうすれば不必要な煩いも消えてなくなるということである。
「実体化」という罠 2000/4/29.
われわれはさまざまなものを「実体化」してしまう。どこにも存在しないものを、あたかも「現実」に存在するかのように、目の前にあるように思い違いしてしまう。
過去もそうであるし、同様に未来もそうだし、言葉もそうだし、感情もそうである。それらはすべて「心象」や頭のなかだけ、および身体だけにあるものである。
しかしそれが私の外部に、客観的に存在するかのようにカン違いしてしまうのが、多くの人間のおちいっている過ちである。
それらはすべて「幽霊」や「亡霊」、「幻想」となんら変わりはないものである。幽霊が現実に存在するのだと思い込めばコワくてコワくて仕方がないものだが、信じなければ怖くもなんともなくなる。過去や未来、言葉や感情といったものもみんなそれと同じ性質のものである。
なぜか人間は存在しないものを実体化してしまうんだな。それを消してしまうということができずに、実体化したそれらに苦しめられたり、追いつめられたりするのである。
実体化の罠にハマるのはなぜか。心は存在しないものを現実のように見せかけるものだからだということになるだろうか。いちど心の対象にハマってしまうと、それがなまなましい現実のように感じられるからだろうか。
もはやそれが頭の中の心象や思考であること、消すこともできるということを忘れてしまい、その世界にどっぷりと浸かってしまうのである。視野狭窄が圧倒的な力で起こるのである。
実体化にハマってしまうと、それが「絵空事」であること、消すことができるといういちばん単純な逃げ道すら見つからなくなってしまう。心に「閉じ込められる」のである。
実体化の「牢獄」にハマってしまった者は言葉や思考をやみくもに使ってそこから逃れようとする。しかしその方法はアリ地獄のようなものである。心象を心象で重ね、言葉で言葉を重ねても同じ過ちがくりかえされるだけで、壁がいくえにも塗り重ねられるだけである。
脱出するいちばんかんたんな方法はそれを「消す」ことである。消してしまうという方法があることを知ることである。あっけにとられる方法だが、心の牢獄にハマった人間にはそれすら見えなくなってしまうのである。
われわれはしょっちゅう、心を消しているのにである。なにかに没頭しているとき、運動や行動しているとき、ほかのことに気をとられているとき、といったさまざまな日常の合間にわれわれは心を消している。
それなのに心の実体化がおこなわれると、そういう心を消すという逃げ道を見出せずに、映画館のなかで非常出口をさがしてパニックにおちいる。
われわれはさまざまなものを「実体化」しているのである。心の中に映し出されるすべてがそうである。過去や未来、思考、言葉、感情といった心にあらわれるすべてである。
これらは霧や蒸気のようにふっと消えてしまうものであること、このことを心にしっかりと銘記しておくことが肝要である。
過去のない安らかさ 2000/5/9.
過去は消えてなくなる。われわれが思い出す過去は、いま頭に描く心象にしかすぎない。それが現実のように迫ってきたり、悲しんだり悔いたりするのは、「いま」に属する心象だからである。「過去」というより「いま」の心象といったほうがふさわしい。過去「そのもの」はまったく消えてなくなってしまうのである。
心象は虚構であり、たんに頭の中の表象にしか過ぎないのだから、消すこともできるし、忘れ去ることもできる。このことを実感した私は過去の心象をぽいぽいと捨て去るようになったので、ひじょうに平穏で心安らかになったと思う。
でも過去の心象というのは隙間隙間にしのびこんでくるものである。さっきのこと、一日前のこと、何年も前のこと、めまぐるしく私の頭のドアをたたく。
過去の心象が顔をのぞかせると思考はたちまちそれに群がって「現実」や「実体」としてそれを立ちあげようとする。つまり現実にあるかのごとく私は悲しんだり怒ったりするわけである。
ということは過去の心象や映像がなかったら、思考や言葉は立ち上がらないといえるかもしれない。ほんと、われわれは過去をひんぱんに思い出し、そこから思考と感情の「現実化」と「実体化」をひんぱんにおこなうのである。
なぜ過去の上映会はこう盛んになったかというと、問題の検討や解決をおこなうとするからだろう。現在の状況というのはすこし前の過去の心象を手がかりに何度も上映され、検討され、思索されるのである。もはやそれは過去であるが、いまの問題を捉えるにはその過去に頼るほかない。
固定化した過去を手がかりに問題の発見や解決がおこなわれるのである。いま、考えはじめるとその過去は「いま」に属することになってしまうので、あたかもいま目の前に進行中の現実のように思えるが、正確なところは、いまは不断に流動し、変化し、過去は瓦解してしまっているのである。
問題を捉えるためにはもはや死してしまった過去を再現し、死体を活かさなければならないというのはなんともヘンな話である。物事や出来事を捉えるというのは、過去でしかなせないのである。そうしてわれわれは死した過去に追われつづける。
記憶や過去の心象というのは、もともとは快楽の記憶を反復したいがために頭の中に回線づけられたものだろう。それが問題を捉えたり、解決したりしようとしてその習慣を強力にし、そのハイウェー上に不安や怖れ、苦痛などの過去が反復することになったのだろう。
神経症や恐怖症というのは快楽の見込みのない過去をどうしても反復してしまうものである。ここには過去の実体化や、過去の反復強迫がかかわっている。われわれがふだんおこなっている過去の呼び寄せが、悪いほうに転がるとこういう結果がもたらされるのである。
過去というのは捨て去るのがよい。すてきですばらしい過去というものが過去反復をおこすとするのならそれも捨て去るしかないだろう。
過去というのはたんに頭のなかの心象や表象にしか過ぎないということがわかれば、過去の反復や呪縛から解き放たれて、われわれは心安らかになれるのだろう。
消えたり、偏ったりする感覚としての私 2000/4/18.
目をつぶった身体感覚のほうが、私や世界のありようの実状を知るにはふさわしいのだろう。視覚は分断や分離をもたらし、この世界や自己に線をひき、さらに言語や概念によってこの世界や私はぶちぶちに分断・分離させられる。
目をつぶると世界に起こる感覚のすべてはひとつながりだ。境界も分断もないし、視界にあらわれるような空間や距離といったものもない。感覚で経験できるものだけが世界である。
身体感覚というのはふしぎなもので、ふだんたいがい意識されない。足や腕や胸などの感覚は眠っている。首から下はだいたい存在していることすら意識されない。
かわりに感覚は頭や視覚に宿りっぱなしである。しかも頭の感覚にスイッチが入ると、ほかの感覚、たとえば聴覚や視覚は消えてしまう。考え事や過去に思いをはせていると、ものを見ていなかったり、音を聞いていなかったりする。頭の感覚に没入するわけだ。
逆に音楽や音などに集中していると、頭の中の「私」や視覚も消え去っていたりする。
つまり身体感覚というのはある部分がはたらくとき、ほかの部分は消えているのである。では「そのほかの私」はいったいどこに行ってしまったのだろう?
私というのはだいたいいつも部分部分として存在している。それは頭であったり、視覚であったり、聴覚であったり、触覚であったりする。その他の部分は存在していないというあり方をもっていることになる。
パーツとしか存在しないのがわれわれの感覚のあり方というわけである。われわれはいつも一個の固体としてあるのではなく、パーツのみで存在していることになる。まあ、お化けみたいなものというか、一部分だけが露出したまぬけな透明人間みたいなものだ。
私は視界の世界のように輪郭や空間がいつもはっきりとしてあるものではなくて、消えたり、現われたり、偏ったりする部分的存在だといえるだろう。
感覚としては、私は、ある部分だけが存在していることになる。そしてその世界のみの存在になる。
私は肉体としてつねにあるのではなく、視覚の対象に没入する存在になり、音や音楽のみに同一化する存在になり、怒りや悲しみだけが存在するものになり、ときには過去や思いだけが存在し、そのほかは存在していないといったあり方を示すことになる。
こうなると肉体や固体として存在する私、持続・継続する私といった常識や自明性といったものはかなり怪しくなるだろう。私は、感覚としてはパーツのみが存在しているのである。
感覚に「私」の境界は引けるのだろうか 2000/4/16.
視界に頼るから、「私」は世界の中に囲まれているように思える。私の肉体の外に「世界」が広がっているように見える。
しかしこれはあくまでも自分の「視覚像」がつくりだした世界であり、自分の内部にうつしだされた世界である。私は世界に囲まれているのではなく、世界はわたしの知覚器官の内部にある。
視覚はそういう分断と包囲という思い込みをもたらしてしまうから、目をつむって視覚なしの感覚だけで世界を感じてみたらどうだろう。
身体の感覚には境界がない。私の肉体や皮膚の輪郭や、外部との境界線といったものは何かにさわらない限り、感じられない。
しかも外界の音とよばれるものも、感覚の世界では境界がない。私の感覚のなかにごっちゃ煮みたいに存在している。目をつむっても、視覚の残像や感覚があるから、私の外部や距離があるという思い込みは堅固にのこるが、その残存記憶を消去してしまったら、私の中のひとつながりの感覚として並存している。視覚の境界とはまた違った感覚世界がひろがっている。
感覚とはまたヘンなもので、体の感覚というのはふだん、たいてい意識されない。足や手や胸や腹など、いつも感覚があるというわけではない。感覚がよみがえるのは痛みや不快感などがあったときだけである。
体の感覚というのはしょっちゅう消えているのである。私の体というのはいつも私に感じられるわけではなく、抜け落ちているわけだ。ほとんど「死んでいる!」みたいなものである。
感覚としての私はいつも一部が消えているということは、私の境界というものも変幻自在に動いて変化しているということになるだろうか。
私の意識というものすら、寝ているときには完全に消え去っているし、なにかに熱中や没頭しているときでも、「私」の意識はどこかに消えていってしまっている。「私」はいったいどこに行ってしまったのだろう?
感覚からみると「私」というのは哀れな老人のぼろぼろに抜け落ちた歯みたいなもので、さらに過酷なことに最後の一本すら消えてしまう瞬間もある。(からだを意識するのは不調なときだから、むしろ意識しないほうが状態としてはよいのだけれど)
「私」とはいったい何なのだろうか。点滅したり、抜け落ちたり、消え去ってしまう私の感覚が「私」とするのなら、私はいつもこの世をお留守にしていることになる。
あの世から還ってくるといつも「継続した自分」がいるように思うが、私はいつでも一部が欠けているし、しょっちゅう「あの世」へ行っていることになる。
感覚とか意識とかいうものは、じつに不可思議なものである。
世界や私は心がつくりだした幻……? 2000/5/18.
『大乗起信論』という仏教書はほんと理解を絶する。今回は可藤豊文『瞑想の心理学』(法蔵館)を読んでさらにナゾが深まったので、解くべき問題として抜書きしておく。
「この世界はわれわれ自身の心が作り出した虚妄の世界である」
「われわれが主客の認識構造の中で何かを見るという場合、実は自分自身の心を見ているのだ」
「見るということは心があって初めて可能になったのであるから、心が消え去れば、見られる物(形相)もない」
「心が生ずるとあらゆるもの(法)が現われてくるが、逆に心が消えると、すべてのものが消えてゆく」
「われわれは不覚不明によって妄りに起こってくる心(念)を自分の心と見誤っている」
「あなたの真の自己とあなたの肉体はまるで別なのだ」
「我々の肉体は思考そのものであって、それ以外の何ものでもない。それ(肉体)は目に見える形をとった君たちの思考そのものにすぎない。思考の鎖を断つのだ。そうすれば肉体の鎖も断つことになる――リチャード・バック『かもめのジョナサン』)
「われわれが執着してやまない肉体がほかでもないわれわれ自身の転倒した心(妄心)から生じてくるという認識は、逆に言えば、心が消え去るならば、果たして肉体(生死)などあるだろうか」
『大乗起信論』(岩波文庫)では「一切の現象は心が妄りにはたらくことから生じる」、「一切の形あるものは本来、心にほかならないから、外界の物質的存在は真実には存在しない」、瞑想の方法では「一切の見たり、聞いたり、感じたり、認識したりするところに気をとめてはならない」という日常の経験では理解できないことがいわれている。
「世界は存在しない」とか「心を見るな」とかいわれても、絶句ものである。世界はちゃんと私の目の前に広がっているし、意識をなくしたらそのほかにどんな認識方法があるというのだろうか。
心も肉体も自分ではないというのもわからない。『起信論』がいうように、自分と思っていた心や肉体は自分ではないのだろうか。というと、どういうことなのだ? 肉体や心のほかに自分がどこにあるというのか?
われわれが見ている世界そのものが存在しないのか、それとも「私」と「対象世界」を分けてしまう心が実体のないものといっているのか、それもわからない。
「認識」はつくらないほうがいいのか? 00/7/7.
われわれは日常のさまざまなことに見解や解釈、意見をもつ。好き嫌いやらこれはこういうことだとか、あの人はこうしたとか、いま私はこういう状態にいるだとか、さまざまな思いや考えをもつ。
でも解釈や見解というのは、自分を苦しめたり、怒りや悲しみにおとしいれたり、傷つけたりする大元・起源になるものである。解釈や分別をすることによって、みずからをみずから苛むのである。
というふうに考えるのなら解釈や見解を捨てるに越したことはない。見解や解釈がなければ、なんにも苦しめられることもないし、心は清浄である。
しかしとうぜん解釈や分別なしで人が生きれるか、行為も選択もできないのではないかと疑問に感ずることだろう。
でも、意外と解釈とか見解とかなくても、人は行為や判断をおこなうことができる。あまり考えなくても人はりっぱに生きていけるものだ。直観や自然な流れに任せてもよいのかもしれない。
分別や解釈、見解というのは、行為や生きてゆく流れとはまた別のものだという感じがする。生にとっては余計な傍流に近いものなのかもしれない。はっきりとは言い切ることはできないが、あんがい、そういうことも言えるのではないかと思う。
分別や解釈というのはそれをもつとたちまち、自分を苦しめ、傷つけたりすることが多すぎるように思う。
分別や解釈は感情と直結している。つまりそれらの見解をもつとたちまち怒りや悲しみなどの種々の感情がわきおこる。もしそれがマイナスの感情なら、いっそ見解などもたないほうがマシなのではないかと思う。
解釈や見解をもつと、それを物語り化してしまい、現状を固定化してしまう認識をつくってしまう。捨て去れば存在しない「現実」が、そこでは、つき崩しがたい「現実」としてみずからに迫ってきてしまうことになってしまう。
解釈や見解というのは、あくまでもひとつの考え方、捉え方にしか過ぎない。消してしまえば、存在しない、どこにもないものである。しかしそれを絶対の現実と思い込んでしまうとき、人はみずからがつくった「解釈の牢獄」、あるいは「心の牢獄」に閉じ込められてしまうことになる。
心は心でその脱出と解決を計ろうとするが、たいがいは存在しないものを存在していると思いこむ悪循環にはまりこみ、泥を泥で拭いとろうとし、ますます汚れ、傷つくことになってしまう。
認識なんかつくらないほうがいいのではないかと思う。
ということで今日も私は「凝固」してゆく認識をなんとか葬り去ろうとして、悪戦苦闘している。物語りを固定化してしまったら、苦しむのは自分だからである。
言葉が「世界」をつくるということ 00/7/26.
ふだんのなにげないひとことでも、「世界」をつくってしまう。攻撃的な言葉を吐けば世界は攻撃的なものになるし、悲しい言葉をいうと悲しい世界になってしまうし、ネガティヴな言葉ではネガティヴな世界になってしまう。
言葉は世界を集約してしまう。あるいは限定してしまう。なにも意味がなかったり、なんでもないことであっても、世界をつくりあげてしまう。
言葉や解釈をもたなかったら、そこにはなんの意味もないし、世界もない。
しかしたったひとことの言葉で、私の世界は意味づけられてしまう。そしてそれが私の「それしかない世界」になってしまう。
「サピア=ウォーフの仮説」という言語学の説があるが、これは言語によって認識する世界が違うという説である。たとえばエスキモーの言語をつかう人と日本語を話す人では認識する世界が違うということである。
この仮説は外国語間だけに通用するのではなくて、個人間にも通用するものだと思う。個人個人も同じ言語をつかっていても、ふだん話す言葉やひごろ考えているパターンや習慣によって、認識する世界はまったく違ったものとなるだろう。
こう考えると、悩んだり、激昂したり、ヤケになったり、煮詰まったりする人というのは、自分自身がつくりだした言葉によって、そういう状態に追い込まれていると見なしたほうがよい。
自分自身がつくりだした言葉によって追い込まれたり、我慢ならない状態になったりしているのである。まったくヒドイ状態である。
言葉によって世界をつくりだしているのも自分であるし、怒りや悲しみに煮えくり返させるのも自分なのである。
言葉で言ったり、考えたりすることが、「解釈」にすぎなく、「絶対」でもなく、ひとつの「見解」であるということに気づかないでいると、エライ過ちを犯してしまう。そしてそういう世界をつくりだしているのも、「自分の言葉」であることに気づかないと、自らを自らムチうつ愚かな過ちにおちいってしまう。
言葉というものを甘く見てはならない。何気ない言葉でも私の世界と環境を決定づけてしまうものなのである。
嫌いな人を抱きしめて離さない、皮肉で愚かな習慣 99/11/9.
だれだって嫌いな人とは長くいっしょにはいたくないだろう。でも嫌いな人をベッドまで伴にするのが多くの人の習慣だと思う。つまり頭の中に寝ても覚めても嫌いな人を思い浮かべつづける習慣のことをいっている。
同様にクライやつや悲しませるやつ、腹立たせるやつ、頭にくるやつをいつもわれわれは愛し、抱きしめて離さない。トイレにも、風呂にも、休日にも休憩時間にもイヤなやつを連れてくる。
頭の中で考えている内容を人物化してみると、われわれの考える内容のバカらしさがよくわかる。いつだって最悪で、毛嫌いしていて、二度と会いたくない人物に限って、われわれは四六時中どこへだって連れて回るのだ。皮肉な、愚かな習慣である。
そうなるのはたぶん他人を裁いたり、自分の正しさを検討したり、また考えることによって解決や解消ができると思っているからだろう。つまり思考の力や効用を信じているわけだ。
でもそのあいだ、われわれは嫌いな人や悲しませる人、悩ませる人をずっと連れ立って歩き回ることになる。けっきょくのところ、それは他人の心には何も起こらないで、自分の心のなかで起こっていることなのだ。自分の感情であり、気分なのである。嫌いな人や腹立たしい人は、じつのところ、「自分」以外のなにものでもない。
この愚かさがわかったのなら、嫌いな人や悲しませる人とはせっかくのくつろぎの時間であるベッドや風呂の中までかれらを連れてゆきたいとは思わないだろう。頭の中の選択は自分にまかされているのだから。
ただし、嫌いな人に限って勝手に頭の中に入室してくる。これだけはどうしようもない。しかしそのあとの選択は全部自分の選択の手の内にある。
さて、あなたの頭と心のなかにはどんな楽しい、喜ばしい人を入れてあげたいですか?
「現象する世界」とそれを押しとどめるもの 00/6/13.
この世界は固定したもの、変わらない同じもので構成されているというよりか、一時的で二度とないもの、同一でないものの現象が生起する世界であると見るほうが実状に近いようである。
音というのはその代表的なものだ。音は一時的で二度とないもので、一度聞いたものをそっくり同じに聞くことはできない。この世界はそういった現象によって構成されている。
動くものに注目してみても、そのことがよくわかる。雲や風、歩く人、走る車、そういったものを見ると過去の姿、過去にあった場所を二度と再現することもできないし、とどめることもできず、去ってゆくものである。
人間や自分というものもそうである。かつての幼少期の私と大人の私は違うし、さっきの私の気分といまの私の気分は同一のものではない。いまの私の興味や関心はさっきのものとはまったく同一であるとはいいがたい。
人との関係もそうである。友情や愛情、親子や家族の関係、といったもので変わらないものはない。
こういう一時的、変化する世界に住んでいる以上、われわれもこういう現象性に身をまかせたほうがよいのだが、どうも人間はこの流れに抵抗するのが習い性のようである。
変わらない幸福やいつまでもつづく平穏、ヒビの入らない人間関係といったものを求める。変わらないものはないのにそういった固定的・永続的なものを求めてしまうがゆえに苦悩や悲痛の叫び声をあげる。
われわれの頭の中はその典型である。終わってしまい、二度と帰ってこない過去に限って、われわれは何度も何度も思い出し、あれこれ考え、悩み悲しみ怒るのである。
一時的で二度と帰ってこない現象の世界なのに、その一度きりの現象をすんなりと、こだわりなく、流すことができないのである。そのためにわれわれは苦悩し悲哀するのである。
まわりの聞こえるなにげない音をとりもどそうとしたり、もう一度聞こうとする人はそういないが、そういう不可能な試みを、人々はえてして愛着があり、願ってやまない幸福や平穏の領域になると、是が非でもおこなってしまうのである。
音や動くもののようにわれわれの人生や経験というのは一時的なものであり、二度と同じものでないと見なしたほうが、この世界では苦悩しなくてすむというものである。
音や動くもの、流れるものといったものはわれわれの人生の手本ということができる。「風のように、雲のように、水のよう」に、とどまることなく、流れてゆけばいいのである。
■そのほかの少し長めのエッセイ
「言葉と想像力の虚無」 99/1/1.
言葉の虚構性と道具性、無謀な分断を忘れないために。
「リチャード・カールソンの本が売れているそうだ」 98/7/6.
『小さいことにくよくよするな!』という本が売れている。世界を変えることから心を変える時代に変わるのか。
『思考は超えられるか 第一部』 1997/6.
思考とは恐怖や悲しみをもよわせる原因ではないのか、それを捨てれば、その苦悩や苦痛から解放されるのではないかといったことを考えています。
『思考は超えられるか 第二部』 1997/6.
思考が自分を傷つけていることや、他人や時間、視界は虚構ではないのか、といったこと、クリシュナムルティ、ケン・ウィルバーが紹介されています。
『思考は超えられるか 第三部』 1997/6.
呼吸や筋肉が悪感情や悲観的な気分を規定してしまうのではないか。無意識の筋肉や呼吸をコントロールする方法はないのか。(継続中のハズ?)
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