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▼テーマは社会生物学 

 


010507断想集
繁殖で頭がいっぱい!



 竹内久美子の本について/繁殖戦略はなぜ頭にのぼらない?/失われた興味とその行方/繁殖がすべて?/たとえば名門家系の繁殖戦略/繁殖の秘密主義/




   竹内久美子の本について     01/5/7.



 このところ、たてつづけに竹内久美子の本を読んだ。おもしろいからつぎつぎと読みたくなるし、100円の文庫で手に入る気軽さもあって、ついついまとめて読んだ。

 私が興味の中心にしているのは社会論あたりなので、とくに繁殖戦略を中心に社会文化を説明するところに興味を魅かれた。とにかくおもしろいし、読ませるのだが、違和感はあるし、ほかの説明のほうがいいんではないか、あまりにもご都合主義的な説明ではないかと、つぎつぎに反発したくなる。

 著者ははじめからそういう納得と独断と反発を生む本を意図していたらしい。まさに思惑にはまっているわけだが、ここまで空想的でご都合主義的な説明ならとうぜん学者の反発を招いてきたことだろう。なんかよく知らないが、トンデモ本にもとりあげられているらしいし、盗作の裁判もネットで見られるし、学者の評価もよくないのだろう。

 科学的な慎重さがなくて、パズルのような空想的つじつま合せの整合性にいかさま師的な要素を嗅ぎつけないわけにはゆかないが、だからこそ発想がゆたかでおもしろい、意外な論理性を発見するなどのお楽しみがついて回るのだろう。実証性には信頼はあるが、堅苦しさやつまらなさがつきまとい、柔軟で大胆な発想はできないということである。

 私としては動物行動学の最近の知見を魅力的なかたちで知ることができたので、一般読者と学問のあいだをとりもつ本として楽しませてもらった。動物行動学はゴリラとかライオンとか一種類の動物を追う本はどうも読む気がしない。もっと多くの知見をまとめて垣間見せてくれる本のほうがありがたいのである。しかも竹内久美子の本はそれを人間にまで延長して社会や国家まで語ってくれる。仲立ちをしてくれる本である。

 基本的なスタンスとしては利己的遺伝子や繁殖戦略によってすべての動物の行動や社会構造を説明づけることにあるみたいである。たとえばオスとメスの大きさの違いは繁殖戦略にあり、クジャクのオスの豪華さもそういうことである。食べる食べられる関係より、性別間の競争のほうがより早く進化をうながすそうである。

 そういう繁殖戦略から人間社会を説明づけようとするのが竹内久美子の発想であり、またこれは社会生物学という学問だそうだ。この学問が生まれたとき、キリスト教とか人種差別的な問題から、とうぜん反発を生んだようである。たしかに性淘汰とか生存淘汰の考えは人々をたいそう震えあがらせるし、慎重にとりあつかわなければならない倫理の領域である。それが決定論なんかになったら最悪の思想だろう。

 ある学者は社会科学は社会生物学の下位分野になるといったそうだ。たしかにすごい説明能力をもっている。逆になぜ社会科学はそれにはまればはまるほど、繁殖や生殖の領域から遠ざかってしまうのかふしぎである。またふだんの人間の頭にしても、繁殖や生殖はほとんど考慮の外にある。社会生物学はそういう繁殖から人間を見つめる必要性というのに改めて目を啓かせてくれる。繁殖戦略の結果としての人間のありかたというものをもっと重要視する必要があるのだろう。






  繁殖戦略はなぜ頭にのぼらない?    01/5/9.


 竹内久美子は人間の性格や社会のほとんどのことを決めるのは繁殖戦略であるといいきっている。その分析や解釈は唖然とさせられることばかりだが、なるほどだなといいたくもなる。

 私は社会学とか哲学分析に慣れているので、動物行動学からの繁殖至上主義みたいな発想法はなかなか根づかない。社会学や哲学、または経済学では、人間の行動を繁殖戦略から説明しはじめるということはまずない。経済合理性を繁殖合理性から説明したりしない。

 逆になぜ社会科学は繁殖戦略をほとんど考慮の外においてきたのかふしぎなくらいだ。そもそもふだんの私たちからして、行動や考えの発端に繁殖戦略を意識するということはほとんどない。どちらかといえば繁殖のことなんて、現代の消費社会においてなおさら考えない。

 われわれは子孫の永続や繁栄のことより、自分の楽しみや快楽、喜びのことをまず先に考える。文化や政治、芸術、消費、生活がまずはじめにあり、最後までほとんど繁殖のことなど圏外である。

 現代の人は繁殖を目的に考えないし、第一に思ったりしない。だから動物行動学や社会生物学の繁殖第一主義や利己的遺伝子の考えは、反発や違和感を感じさせるが、しかししぶしぶは何割かは納得せざるを得ないものである。(世界の原住民は子孫をのこすことだけが人生の唯一の目的であり、そのほかになにがあるのかと思っているそうだが)

 私たちにとっていちばん大事なことはどうやって生き、生活してゆくかということである。つぎに社会の地位や活動、恋愛や性、または文化や芸術、消費、享楽、などとつづく。人間の頭には繁殖のことより、生活や楽しみのほうが重要なのであり、繁殖は現代ではどちらかといえば、性的享楽のためにあるようなものだ。

 これすらも繁殖戦略だといいだすかもしれない。繁殖戦略は人間の頭に意識されるよりか、楽しみや文化に意を注いだほうがよほど効果をうるのだと。よそ見をしたほうが繁殖戦略には有利というワケである。人間の社会は複雑だし、繁殖のみにいそしむ者は社会生存のうえで有利ではないだろうし、本能むき出しは文明の作法にも反するということである。

 たとえば善人や無欲の戦略というものを考えてみたら、かれらはその表の目的を意識するが、その裏の目的である評価や称賛は考慮にいれない。真の目的は意識したら、人に見破られ、成就しないのである。

 もし繁殖のみが人類の目標だしたら、それを頭で意識しないほうが、うまくゆく可能性が多い。知らんぷりをして、文明の抑圧やルールの網の目をとおりぬけて、繁殖戦略に勝つというわけである。

 とはいっても、繁殖と利己的遺伝子の存続だけが人間の究極目標という考え方にはどうも全面的に賛同する気にはなれない。私のこれまでの価値観や生き方とあまりにもかけ離れているということもあるだろう。現代社会は繁殖から離れた価値観ばかりを追求してきたからだ。

 しかし竹内久美子による繁殖によって人間のかたちや社会形態がいかに変化・進化してきたかという説明にはひじょうに納得、共鳴できるところが多かった。繁殖戦略、忘れるべからず。







   失われた興味とその行方     01/5/11.

 
 私はこれまでさまざまなテーマで本を読んできたが、そのテーマ探索が終わると、そのジャンルに関しての興味をほとんど失ってしまう。まるで興味を失い、その本のページをめくろうとも思わないのである。

 いまでは大衆社会論の本はほとんど読まない。共同幻想論の本も読まなくなった。ビジネス書もこのHPをアップしたころには興味があったが、ほぼ興味を逸した。現代思想の本に触手がのびることはほとんどなくなった。

 興味の失い方ははなはだしい。まるで興味をそそらなくなるのである。一時期、熱した情熱や興味はさっぱりなくなるのである。

 まあ、私の性格自体がふだんから興味のないことはまったく興味がないタチであり、一般の人たちが好きそうな野球とか車とか競馬とかまるで興味がなくても平気だから、これは自分の性格ゆえのものだろう。

 ただ、自分の過去の興味に対してもまったく興味を失ってしまうのはなんか少し恐ろしい気もする。蓄積とか専門性がほとんど育たないからだ。

 大学の教授なんか何十年もかけて同じ専門分野を追究してなんらかの成果や業績を生んだりするものだ。私にはそういう専門性の持続力がまるで欠けている。ただし、教授のなかには何十年も同じノート、同じ講義内容を教えている人がいるらしいから、一概にはよいとはいえないが。

 新しい未知の分野だからこそ興味が沸くものなのである。それに私の興味範囲はてんでばらばらというわけではなくて、やっぱり社会学あたりを中心にぐるぐる廻っている。さまざまな角度から社会学をやっているといえなくもない。ひとつの専門分野だけならすぐネタがつきてしまうし、ナゾ解きのおもしろみもなくなってしまう。

 興味が逸するだけならまだいいが、私は物忘れがはなはだしい。読んだ本は、たぶん告白するならほとんど覚えていない。自分の記憶力に唖然となる。じつは私はふだんからそうで、さっき自分がしたことを思い出せないことはしばしばであるし、昨日の昼飯も思い出せないので、戦慄するほかない。

 私は日々、記憶と興味を失った本を積み上げつづけているというワケだ。これはなんだろうな〜、私は自分にとってよい行いや役に立つことをしているといえるのだろうか。このような結果からして一時期の興味は追求されるに値するものか顧みる必要もあるのかもしれない。

 これまで追究してきた知識は私の血と肉になっているのだろうか。私に賢明な知恵と知識を与えてくれたのだろうか。あるいはべつにそうでもなくても、ただ一瞬の知の愉しみ、喜びを与えてくれるだけでもよいことなのだろうか。そういう答えに落ち着きそうである。






   繁殖がすべて?      01/5/14.


 繁殖で人間のすべてを説明できるものなのだろうか。たしかにこの説明道具は魅力的である。人間のすがたかたち、社会行動、社会形態、歴史まで適用することができるだろう。

 人間を経済的要因や文化的要因によって説明づけてきた者にとっては驚愕のあまりアゴを落しそうだ。現代の人間にとって繁殖以外の説明のほうが納得しやすいし、繁殖を唯一の目的と考える人間はそう多くないだろう。

 だけど繁殖が人類の歴史に多くのものを残してきたのは間違いない。子孫以外に残せるものは生命にはないのである。結果的に子孫を存続しえた者は歴史を決めてきたのである。人間はそういう者たちの成果や結果をより多く刻印づけられてきたことだろう。

 しかし現代人はあまりにも繁殖以外のことを重視し勝ちである。経済や文化、芸術、消費、レジャーといったものだ。繁殖や子孫より、「自己」と「自己の享楽」が大切なのである。晩婚や子どもを産まない選択もある。

 現代人およびその歴史は繁殖のみでは説明しにくい経緯をたどってきた。経済的要因が多くを決定してきた。経済が自己主義や現世享楽主義を促進してきた。これすらも繁殖や生存に有利だからという答えが出されるだろう。経済や文化に邁進したほうが子孫の存続を有利にするということだ。

 これをミーム(文化的な遺伝子)というそうだが、個体は遺伝子を残さなくても、血縁の生存が有利になるという、とってつけたような説明がつく。われわれは血縁のために文化的名誉や自己享楽を求めているようにはとても思えないけど。

 繁殖という視点は人間の新しい面を見せてくれるが、ほかの要因で動いていることも多いように思える。しかしそれすらも繁殖の有利さに帰結するのだろうか。繁殖は人間のすべてを呑みこむものなのだろうか?






   たとえば名門家系の繁殖戦略    01/5/15.


 繁殖戦略や進化でどんなことまで説明できるだろうか。私はまだまだ社会生物学や行動生態学について勉強不足だし、時期尚早だが、どんなことまで適用できるか考えてみよう。

 人間を長い目で見ようとしたら、まずは家系が思いうかぶ。名門家系や老舗家系というのは古くまで歴史をさかのぼれる。適任である。

 徳川家や豊臣家、平氏、源氏といった家系はその繁殖・生存の適応度を高め、現在まで有利なポジションを保っているのだろうか。

 上流階級や中流階級、労働者階級というものがもし日本にまだあるとしたら、かれらの繁殖戦略とはどのようなものなのだろうか。日本では士農工商といった階層があったが、それぞれの職種に適した性格や行動、興味などの適応進化がある程度はおこったことだろう。ただ職業や富は近代においてめまぐるしく変動してきた運命にあったから、職種適応は袋小路になりはしなかったか。

 文化的才能や商業的才能、技術的才能、政治的才能といったものは祖先からうけつがれてきたものなのだろうか。人間は肉体自身よりか、文化的・技術的な表現の延長型に繁殖の有利さや誇示を仮託する傾向が強い。現在、自分に具現しているある種の傾向といったものは過去の繁殖有利性に由来しているのだろうか。

 人は幼少のときから固有の趣味や特技をもちはじめる。それは祖先の繁殖選択の結果なのだろうか。二世の職業家が多くいるように有利な資質はうけつがれるのだろう。

 メカやスポーツ、文化、ファッションなどに強くなって異性をひきつける。好きでやっていると思っているものも、祖先の繁殖有利性がなせるものなのだろうか。

 それにしてもオタクはどうしたものか。異性の好感はあまり得られない。男はコレクションに凝り、女は装いに入れあげ、高じて異性の不満を買うことがしばしばあるみたいである。才能は自己目的に暴走し勝ちなのか。

 ヤンキーの繁殖戦略というのもなかなか特異なものである。若くして非行に走り、結婚出産もかなり早い。若年戦略みたいなものが、かれらの非行誇示をうながすのだろうか。高学歴や地位の高さの有利さにこだわらないからだろうか。

 逆にOL系や高学歴サラリーマンなどは晩婚化に傾き勝ちである。知識や地位の高さの獲得が晩婚をみちびくのだろうか。表現の延長型戦略は時間がかかるのか。

 繁殖戦略によって以上のようなことが考えられないかと思うのだが、どうだろうか。






   繁殖の秘密主義      01/5/18.


 なぜ人間は繁殖や性を隠したり、恥かしがったりするのか前々から不思議に思っていた。イヌやハトは人前でも平気につがっているし、サルもほとんどそうだということだ。

 捕食者にいちばん襲われる心配のない人間がなぜ性交行為をこんなに隠すのか。捕食者相手に隠れるのなら、他人の目をさえぎる家やカーテンも必要ない。

 竹内久美子は繁殖戦略を人に見られたら不利になるということをちらっといっている。人の目を欺き、だますためにこの特異な羞恥心があるということだ。

 栗本慎一郎は隠すことにより、刺激や快楽が増大するからだといっている。同じように労働や法律もそれを壊す快楽(戦争や破壊)のためにせっせと我慢していることになる。

 私はそれは所有の目印のためだと思う。服でハダカを隠すのは所有者がいることを示す。性的関係者や繁殖占有者がだれかいますよという目印だ。つがいの印である。

 もちろん所有されていない者も服を着る。ハダカを隠すことはお宝や富の逆誇示でもある。隠すことによって価値がますます高まる。秘匿の開示や共有は、親密性や排他性をペアのあいだに高めるだろう。

 ハダカの羞恥心はどちらかというと自慢に思うより、劣等感に近いマイナス感情である。これは男にガードが堅いことを示すだろう。羞恥心を開くために男は多大な経済的献身をほどこさなければならなくなる。固い絆が結ばれる。男は羞恥心の強い女を好む。ほかの男と交配する心配はないからだ。

 隠すというのは関係の排除なのである。性的、経済的占有の目印である。性的な羞恥心はそういうところから生まれたのだと思う。羞恥心は繁殖関係を結ぶための関係の拒否である。

 羞恥心は服を必要とし、家を必要とし、富の個人所有をもたらした。服や家といった文明の道具は、羞恥心や繁殖の性質から生み出されたものかもしれない。生殖にかかわる隠すという行為が文明をもたらしたのだろうか。

 隠すことはまた「自我」や「自分」という感覚をもたらす根源的なものである。子どもは親に隠し事をもって自立してゆく。また秘密の共有が「内輪」と「ヨソ者」をわける境界線になっている。

 人間は性を隠すことによって繁殖関係をつくり、また人から秘密を隠すことによって自我感覚を生み出す。服や家、個人所有も隠すことから生まれた。隠すということが人間の根源的なことにかかわっているのである。人は隠し、他人から線を引くことによって「自分」となる。そのもとの一線は性関係の他者の排除によって引かれるのである。性の関係性が人間の自我意識をつくりだしたのだろうか。





 ■文章のレイアウトが見やすくなりました。
 これまでのヘンな改行があらわれて見にくくなるということは、ブラウザの小画面でもなくなりました。
 これもひとえに「文芸の扉」のichitaさんがわざわざ指摘してくれたおかげです。感謝します。(世界文学と純文学、ミステリーの書評ならこのHPです。)

 <TABLE CELLSPACING="120"><TR><TD>を貼りつけたらいいだけでした。(数値は自由)。念願の余白設定ができてとてもうれしいーです。



 モニターが故障しそうです。今のところ叩いて直しておりますが、いつブッ壊れてしまうかわかりません。しばしの「凍結状態」に入ってしまうかしれませんので、お先に謝っておきます。 (最初の報告から一ヵ月たってもしぶとく生きております。)
     メールはこちらに。    ues@leo.interq.or.jp



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