010513書評集
▼2001/5/13.
『メディアに縛られた女』 キャスリン・ウェイベル 晶文社 77. 1960e(古本)
アメリカの小説やTV、映画などに見られる女性像を探った本である。女性にたいする保守的で男社会的な洗脳が告発されている。自分がふだん捉えているアメリカ・メディアの違った角度からの捉え方などが楽しめたり、アメリカの社会の流れが俯瞰できたりする。
『ボディ・ウォッチング』 デズモンド・モリス 小学館ライブラリー 85. 1100e(古本)
デズモンド・モリスは悪夢のように強烈だ。人間を動物のように突き放して見る冷徹な目が、みずからの羞恥や嫌悪を許さないのだ。穴に入って隠れたいところを白日の下にひきずり出されるようなものだ。
容赦なく身体の部分が分析されている。われわれは身体パーツの意味やメッセージをふだんはほとんど意識していないが、おそらくは無意識に読みとっている。それが見事に意識化・言語化されている。
人間の身体というのはひじょうに性的信号に満ちていることをモリスは指摘する。フロイトの生物学版といったところだ。また身体はメッセージや情報を数限りなく発している。人間の身体それ自体が百科事典のようなぶあつい書物であることをあらためて思い知らさせてくれる。
『ふれあい 愛のコミュニケーション』 デズモンド・モリス 平凡社ライブラリー 71. 1400e(古本)
体や肌のふれあいは深い安らぎや心のつながりをもたらす。しかし現代ではそれがほとんど禁止される傾向にある。
過密状態の都会ではいちいち親密性を示していたら社会は麻痺してしまうし、はっきりと境界づけられ所有づけられた関係は錯綜してしまうし、ビジネス・ライクな関係は築けなくなってしまう。
おかげで接触禁止が習い性になり、われわれは愛する家族や子どもに向っても心を広げられず、孤立した状態にさいなまされることになるのだ。
だからわれわれは接触の意味や役割をもう一度深く顧みる必要があるといえるだろう。むやみに接触を禁圧する傾向に反省をうながす必要がある。代替としてのペットや温泉などでは親密性はとりもどせないのである。
そういう自分の身体のなかに組み込まれた接触禁止の鎧をあらためて意識しなおし、孤立感や疎外感の原因を知るという点で、この本はひじょうに重要な示唆をもたらすことだろう。
『共通感覚論――知の組みかえのために』 中村雄二郎 岩波現代選書 79/5. 1300e(古本)
視覚優位主義から、触覚、体性感覚をとりもどすという点で私の知りたいところとひじょうに重なったのだが、共通感覚とか全体のめざすところが、言葉づかいの難しさも加わって、なんなのかよくわからなかった。ま、安い古本で手に入らなかったら、たぶん読まなかっただろうから、べつにいいけど。
『ボディー・ランゲージ』 ジュリアス・ファスト 三笠書房知的生きかた文庫 70. 440e(古本)
体というのは心のありかたや動き、姿勢などを如実にあらわす。体の姿勢や動きが心そのもの、心自体であるといっていいかもしれない。心は体の内部に込められているのではなくて、まさに体自身をいうのだろうか。
顔にしても、心のありようをはっきりとあらわすものである。しかも長く持つ心のありようが顔の表情に蓄積される。心は無形のものではなく、身体や顔としてかたちになるのである。
この本は全米ベストセラーとなり、他人の心を体のことばから読み解くという実践的な通俗書みたいだが、翻るなら自分自身のほんとうの心を知るという意味で、そんなに軽んじられる本ではないのだろう。
『赤ん坊から見た世界 言語以前の光景』 無藤隆 講談社現代新書 94/5. 631e(古本)
これはまったく選択ミスだった。ぜんぜん興味がわかなかった。おかげで新書を二時間で読み終えるという最速記録だけが樹立できたけど。
『読むことからの出発』 現代新書編集部 講談社現代新書 84/3. 480e(古本)
ほしい本の探し方にちょっと疲労を感じてきたので、参考として読んでみた。小此木啓吾や加藤秀俊、河合隼雄、中野孝次、山田太一、渡部昇一などの人選にちょっと魅かれた。ま、書店や古本屋を駆けずり回るしか、自分のほしい本を見つける方法はないのかな。
『ワニはいかにして愛を語り合うか』 日高敏隆 竹内久美子 新潮文庫 86/8. 360e(古本)
五感のことを探っていたら、こういう動物の音、匂い、視覚の信号・コミュニケーションについての本に出会った。動物なら人間の感覚をはるかに超えた能力をもっている。動物は音、匂い、視覚によってなにを知り得ているのだろうか。
動物行動学のいろいろな知見について書かれているが、おかげで自分の知りたいことがわからなくなり、ついでに古本屋に100円か200円で並んでいる竹内久美子の著作にひきよせられることになった。
『賭博と国家と男と女』 竹内久美子 文春文庫 92/8. 437e(古本)
動物の行動から、人間の行動や社会行動、国家まで分析してみせる。これは唖然となった。こんな説明道具があるなんて思いもしなかったからだ。
人間行動を社会学や経済学、心理学などから分析する説明ならいくらでも聞いたことがあり、なじんでいるのだが、動物行動や繁殖戦略から説明してみせるなんてほとんど聞いたことがない。
自分の信念的な考えが肩透かしを食らったみたいだし、ほとんど反論や違和感ばかりを感じざるを得なかったのだが、逆に自分の信念体系こそを疑いたくなったし、繁殖戦略からの説明方式はひじょうに魅力的に思えたし、その説明能力の限度や限界も知りたくなった。
利己的遺伝子や繁殖戦略から人間の社会や国家の進化論をみちびく、こういう視点の必要性をおおいに感じさせられた一冊である。
『パラサイト日本人論 ウィルスがつくった日本のこころ』 竹内久美子 文春文庫 95/10. 429e(古本)
この本がいちばん練られているんだろうな。縄文人と渡来人の地図分布と、熱い国の男尊女卑、寒い国の平等主義、あの世の信仰の土地強弱など、壮大な日本人論がネコのしっぽを手はじめにして語られる。
納得させられるか、壮大なウソかはかなり難しいところだ。でもたいそうおもしろかったし、知的スリルに富んでいるし、よくここまで壮大な論理性を組み立てられたものだとあらためて感服する。
私は大阪人だから関西兵の弱さの由来には興味を魅かれた。この裏にはあの世への信仰の薄さがあり、関西人はもともとは寒い国からきた渡来人の子孫であり、寒い国ではウィルスの脅威におそわれることなく、男女の繁殖競争もはげしくなく、平等志向の土地柄になり戦争への志向も弱く、あの世の信仰も薄くなり、この世の命を惜しむようになったということだ。
逆に熱い国からきた縄文人は九州に典型的に多く、ウィルスの脅威にさらされ、それに強い優位男の一夫多妻制がひろがり、不平等社会では戦争が盛んになり、あの世への信仰が強くなったということだ。
あっけにとられるが、とにかくおもしろく、壮大な理論に恐れ入るばかりである。寒い国と平等信仰の因果関係はほんとうにあるのかと考えたくなるし、穴だらけに思えるのだが、まあ、おもしろくて楽しかったらええじゃないか。
『男と女の進化論――すべては勘違いから始まった』 竹内久美子 新潮文庫 90/11. 360e(古本)
男と女の関係が動物行動学、繁殖戦略、進化論などの観点からナゾ解きをされる。なんだかパズル合せみたいな話が多いけど、私もこの繁殖戦略から人間社会を読みとくという観点と習慣は、全幅の信頼をおくというわけではまったくないが、身につけたいなと思う。
『そんなバカな! 遺伝子と神について』 竹内久美子 文春文庫 91/3. 450e(古本)
利己的遺伝子について書かれた本だそうだ。遺伝子や生物、繁殖などの恐ろしい戦略が語られている。
寄生した吸虫がカタツムリを鳥に食べられやすい行動に駆り立てる話や、姑の嫁いびりは息子の繁殖の拡大のためであるといったことや、バクチ男は家計破綻による反復繁殖が目的、などの「おっ!」という感じの話が読める。
こういう動物行動学を人間に適用した学問を社会生物学といい、誕生したてには人種や遺伝の問題で騒がれたそうだ。たしかに人間を適確/不適確とか優良/不良などと識別・断罪しそうな考えである。みずからにもそうしてしまい勝ちである。そこらへんは慎重にしたいところだ。
ある学者はこれまでの人文・社会科学はこの社会生物学の下位分野になるといったそうだが、どうなんだろうか。説明分野は拡大してしかるべきだと思うのだが、ぜんぶ説明できるのかな。
『浮気人類進化論 きびしい社会といいかげんな社会』 竹内久美子 文春文庫 88/5. 486e(古本)
著者は本を書くさいに心がけたのは、ストーリー性と独断であるということだ。著者にとっておもしいろ本というのは独断に満ちていて、猛烈な反発を感じさせるような本だったそうだ。たしかに思惑通りそういう独断と反発をうむ本にしあがっている。
この本ではさまざまな生き物の繁殖戦略や社会が描かれている。女を口説くのがうまい文科系男と技術発明に長けた口ベタな理科系男という対比が出てくるが、私は口ベタなので理科系かもしれないが、私の読書の趣味は繁殖戦略のご一環というコトか?
『もっとウソを! 男と女と科学の悦楽』 日高敏隆 竹内久美子 文春文庫 97/1. 448e(古本)
著者は大学関係者ではなく、作家であるから、いったいどういう人なんだろうと知りたくなるが、この対談集ではそういうことがわかるしくみになっている。
ほかに「科学信仰」批判なんかおもしろかった。小中高の先生がとくにそうで、科学をおもしろくないように教えようとするそうだ。「おもしろかったら科学ではない」と思い込んでいる。
科学はいろいろな見方の可能性を押し広げるもので、絶対や、ましてや道学的な「こうあるべきだ」をいっているわけではない、日本人や竹内説を批判する人はそこを誤解しているだといっている。
私も科学や信念は共同幻想にすぎないと思っているから、科学や思想はもっと大フロシキを広げてウソをつくべきだと思う。ただ日本の場合、科学は社会の法律やルールに即結びついてしまうから慎重にならざるを得ないところもあるのだろう。科学や信念を単純に信じすぎるというか、信仰なき信仰にしてしまうから、愚かの極みなんだけど。絶対なんか信じられる人がおめでたい。
『人間の本性について』 エドワード・O・ウィルソン ちくま学芸文庫 78. 1500e
79年にピュリッツァー賞を受賞した社会生物学の重要な書であるからていねいに読んでみたが、慎重でおカタクて、問いも生物学的なもので、どうもおもしろいとか、目からウロコが落ちるというような刺激的な本ではなかった。もっとズバズバと人間社会に切り込んでくれれば、呆然となるほどのショックと啓発を与えられる学問になると思うのだが、まあいろいろと難しい問題もあるのだろう。
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2001年初夏の書評「感覚の文化論」
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