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       2001年初夏の断想集



 五感を楽しむ/他業種に転職するむずかしさ/触れ合うことの安らかさ/ヒト、家に隠れる/都市の視線、スマートな都市/ナゾ解きの愉しみ/テーマに合った本を探すむずかしさ/平等はやっぱりよくない/




     五感を楽しむ      01/4/25.


 個人的に30年ほど遅れてマクルーハン・ブームである。マクルーハンのメディア論についてはいろいろ問い方が可能だと思うが、私の場合は暗中模索だが、まあ五感に手がかりを求めた。

 身体や感覚の延長であるメディアや道具によって人間は世界との全面的な関わりを失ってしまった。活字−印刷文化は大量生産の根幹をつくりだしたともいう。そういう感覚の欠落による世界観を探ってみたいと思ったのである。

 ブームから30年たっているというのに感覚欠落の研究というのは思ったより進んでいない。メディアは視覚や聴覚の伝達の発達にはかなり寄与してきたが、嗅覚や触覚、身体感覚などを完全におろそかにしてきた。そういう感覚は文化的に動物的−性的な感覚として貶められてきたから、よけいに完全無視状態である。

 文化的に劣勢とされてきた感覚というのはやはりメディアの発達とも関わりがある。印刷文化の発展により活字−視覚頭脳文化が尊重させられ、分節化・明晰化・分断化・専門化がひきおこされ、それらの性質に合致しない聴嗅触覚はますます貶められた。

 視聴覚というのは伝達が可能であるが、嗅触覚というのははたして伝達が可能かわからない。目に見えるもの、音で聞くことができるものは複製や保存、伝達が可能である。この複製・伝達の可能性がマスメディアや大量生産社会の道をひらいた。こんにちの画一性・均質性の社会は工業社会からはじまったのではなく、すでに活字印刷文化、あるいは言語文化からはじまっていたともいえるのである。

 複製・伝達できるものに価値が高まれば、ますます個人的体験や個人的実感というものがないがしろにされてゆく。身体感覚を経たものではなく、視聴覚と頭脳で結ばれたイメージで理解されるものがますます重要になる。こうしてわれわれは世界に対するしっかりとした手ざわりや実感、肌で感じる感覚というものを失い、より深い生の実感というものから引き剥がされてゆくのである。

 われわれはますます頭の中のイメージで生きてゆくことになる。べつにそれで不便はないかもしれないし、メディアの価値や快楽はたしかに強いものであるが、人間の生きている実感や深い実存感というのはやはり身体の感覚にいちばん強く根づいているものである。

 われわれはいろいろなものの手ざわりを楽しんだり、風や空気などの体感を楽しみたいのであり、伝達する必要もない音やにおいに多くの快適さや思い出を感じているものであり、肌や手にふれる人のあたたかみや心地よさに委ねたいものなのである。人間はそういうものにこそ、より深い快楽や快適さ、充足や満足を見出してきたのではないだろうか。そして身体の痛みやけが、出血、腫れ、不快感、脈拍や心臓の音などに生きているという実感をより深く感ずるものである。

 複製・保存・伝達できるものはたしかに快楽であり重要なものであろうが、身体感覚の快楽や心地よさといったものも忘れるべきではないのである。マクルーハンはそういった生のより深い実感の大切さといったものを教えてくれた気がする。身体や感覚の延長であるメディアや道具は人間の生の実感を遠ざけるものなのである。五感の心地よさに回帰しよう。





    他業種に転職するむずかしさ    01/4/27.


 仕事に情熱も生きがいもそそぐ気もなし、仕事や会社ばっかりの人生なんてまっぴらだと思ってきた私は、かなりいいカゲンな職業人生を送ってきた。といってもカネを稼いでメシも食わなければならないので、まったく働かないわけには当然いかない。

 働くとなったらできるだけ自分の好きなこと、興味の近い仕事につきたい。私はごらんのとおり書くことや本を読むことが好きなのだが、いかんせんコミュニケーション能力がない。人と会う仕事がだめだ。それによって仕事の幅は大幅に狭められる。

 ほんとうのところ、このジレンマが私に人生の情熱と生きがいを削がせる最大の要因なのだろう。じつは自分の性格が人生の可能性を狭めるふがいなさに自分は参っているのだろう。あるいはそれに目を伏せて、嫌悪を社会に向けているだけかもしれない。反省して努力する必要があるのかもしれない。

 まあ、この話は置いておいて、たとえばやりたいなとかおもしろそうだなという仕事につきたいと思っても、それが他業種のばあい、たいていは経験者のみの募集が多い。未経験の者にとってはものすごいカベである。たいがいはあきらめて、イヤで辞めてきたはずの業種に経験や知識があるということで戻らざるを得なくなる。夢はここで潰える。

 まだその業種があるばあいは幸運なほうだろう。たとえば中高年のリストラなどのばあい、その業種が斜陽していたり、将来なくなったりする業界から抜け出てきたときにはどうなるのだろう。まったく経験のない世界ばかりに放り出されることになる。こういうケースが問題なのであって、産業や職業というのは長いスパンでみれば、絶対にこういうことが起こるので、衰退産業にいる者にとってはかなり深刻な問題である。

 日本は解雇者をなるべく出さずに雇用を守ってきたから、逆にかんたんに移動する方法がてんで育ってきていない。おかげで衰退産業は政治力で守られる必要が出てくる。これをやったら競争力が育たないわけだが、当の労働者たちは転職する見込みが立たないのだから、意地でも政治の力でカネのあるところからぶんどってくるしかないだろう。

 まず初めにおこなわれるべきことは転職がしやすくなる機構をつくることであり、先に産業を見捨てることではない。しかし新しいスキルを身につけて転職するというのはかんたんではない。まず戦後の人は一生涯ひとつの会社に尽くすことがよいことだと思いこんできたから、齢半ばにして新技能を身につける想定などまるでしていない。

 リストラによってこういう労働者がちまたにあふれても、買い手市場の現在、企業側は未経験者を一から育てる気はない。かれらは新卒者以外の教育の必要性をまだ感じていない。教育ある労働者が足りないという経験をまだしていないからだ。即戦力をもつ者はうじゃうじゃやってくると思っている。つぎに売り手市場になったときには若干変わることは考えられるが、企業側はリストラ者があふれ出ても、ひと昔前の仕組みでじゅうぶんやっていけるのだ。

 20代以下の求人ばかりだというのも、以前の年功序列の考えから抜け出ていないということなのだろう。年上の新人では年功序列も、賃金もまったく狂ってきてしまう。いまの買い手市場では変える必要がない。あふれ出た失業者は行き場がない。おかげで企業は労働市場でおこっている変化をとり入れるのに遅れることだろう。

 他業種に転職するのはほんとうにむずかしい。自分で技術を身につける必要があるということだろうか。カネも時間もない人はどうしたらいいのだろうか。経験のある業種に帰ってゆかざるを得ないのだろうか。あまり夢も希望もないことである。仕事がますますつまらなくなる一方である。この状況はつぎに売り手市場が来るまで好転することはないのだろうか。いったいいつ来ることやら。。。






     触れ合うことの安らかさ       01/4/28.


 人が触れ合うことには大きな安らぎと慰めがあるのだが、そういう触感や体感の愉しみというのは多くは遠ざけられる運命にある。性的である、はしたない、幼稚である、といって公共の目からどんどん遠ざけられてきた。

 触れ合うことはとうぜん幼児期の母親とのふれあいにさかのぼるわけだが、人はいつまでたってもその慰安にたちもどったり、そこから安心を得てきたいものなのである。しかしその弱みを隠さなければならないのが、文明というものである。

 それを禁圧してきたのが文明である。また都市化である。見知らぬ人、関わりのない人ばかりにあふれる都会では、他人の親密な接触は人に不快感や怖れ、心配をもよわせるようである。疎外感や見捨てられた気持ちといったらいいか。したがって都会では、親密な接触はどんどん禁止されてゆくのである。

 また文明では伝聞が紙や電波などのメディアによって伝えられる。文明の一員になるためにはメディアのリテラシーが求められる。触覚や体感の快楽を抑圧し、目や耳の器官に集中する能力が要求される。そのために触覚や体感はますます貶められ、性的や幼稚であると蔑れ、不必要なものとされ、鈍感になっていった。

 大量生産が必要とする画一化・規格化のためにも、規格化を容易にする視覚の能力が必要である。画一的・規格化された知識・世界観を皆にもたせるためには視覚のリテラシーが不可欠である。触感や体感、または嗅覚などは規格化には不向きである。したがってわれわれは目と頭脳による仮構=虚構の世界にとどまる能力がますます必要になる。

 こうして文明人たるわれわれは触覚や体感による世界との現実感や実感からますます隔てられ、脳のなかの仮構の世界に埋没し、現実との手ざわりや感触を失ってゆく。おまけに人と触れ合うことの深い安らぎや慰めからも遠く隔てられる。

 親密さからも疎外され、世界の実感からも疎外され、頭脳により自己の唯一無二性も見失われ、規格化・均質化された群集のひとりにすぎない存在にされてしまう。頭脳や言語による自己理解というのは、自己の卑小さを強く理解させるものであり、触覚や体感、嗅覚などは自己の唯一無二性を感じさせる感覚で、自己の重要性や生の実感をゆいいつ痛感させるものなのであるが。

 われわれはもっと身体の感覚というものを大事にするべきなのだろう。目や頭脳などのイメージ世界にばかり集中するのは世界の実感や手ざわりをますます遠ざけるばかりである。生の実感というのは身体にこそいちばん多く感じられるものなのである。こういう能力をみすみす見逃しているようでは、空しさと生の希薄さが募る一方だろう。





          ヒト、家に隠れる        01/4/29.


 人々の営みや暮らしが見えなくなったといわれる。人々の交わりや声、表情、身体表現などがますます都会から消え去っている。人は都市からつながりをなくし、表通りから人のにおいを消し、人々はすっかり家や建物のなかに閉じこもってしまい、まったく見えなくなってしまった。

 都市というのは人がつながり、まじわり、話し合う空間でなくなり、道路や家、車などの無機質なモノばかりに遮断される空間になってしまった。人がざわざわと住んでいる空間というよりか、壁で築かれた防塞都市のようである。

 寂しい、荒涼とした空間になってしまったのは間違いはないが、それはやっぱり人々がそれぞれ心の底で望んできたことなのだ。われわれは人と会い、まじわり、話し合うことを避けて、自閉した、まるで「ひきこもり」のような生を望んできたのである。なにもひきこもりの若者だけが現代社会から突出した存在ではないだろう。

 そもそもなぜわれわれはこんなに他人から隠れようとするのだろう。なぜ家のような他人から見られる心配のない壁の建物を必要としたのだろうか。われわれは生まれたときから家に住み、家に帰ろうとするが、なぜこんなに壁の家に舞い戻ろうとするのか、考えてみたらふしぎなものである。

 人間というのは人から見られることをたいそう嫌う動物のようである。とくに性愛や休息、睡眠などの最中を見られたりするのを嫌うようである。金銭や所有物などが加わって、人間はさらに空間の防御にことさらこだわるようになった。

 最近ではさらに自分が「なにもの」であるか、といった存在表示さえ厭われるような感すらする。われわれはファッションによって自分が「なにものでないか」、流行やブランドなどの画一品によって隠そうとしているかのようだ。

 自分の存在だけではなく、不安や心配、恐れなども通りから見えないようにしているのだろう。表通りから隠せば、私はいっぱしの人間であり、不安も心配もなく、みんなと同じふつうで健康的で平均的な人間であることを表示できるかのようだ。こうして問題も心配も不安も家の中に隠される。

 仕事も田や畑、通りにあったものからオフィスビルや工場に隠され、人々の交わりや話し声も家や建物に遮断され、病気や老いも建物のなかに隠蔽され、犯罪も警察署と刑務所の塀の向こうに閉じ込められる。人々は行動や生のすべて、死までも建物のなかに隠しておこうとするのである。

 まるで隠すことが万能薬のようである。隠したら、すべての問題は解決し、なんの問題も発生せず、不安も恐れもなく、死すら存在しないかのようである。都市というのは隠蔽に憑かれた人たちの密集地なのだろうか。

 身近な人たちの生身の生を体験するかわりにわれわれは部屋の中に閉じこもり、TVやラジオ、新聞で事件や社会の出来事を知り、映画や本を読むことによって世の中の出来事を知る。子どもの外の遊びも、TVゲームや勉強に変わって家の中に入ってゆく。

 都市に築いた人の営みとはいったいなんだろうかと思う。われわれはますます壁の中に隠れてゆくのである。人に見られないということがそんなに生の万能薬なのだろうか。たしかに人に見られることは窮屈で自由ではないし、不安なことでもあるが、問題の解決の方向性がどうもおかしいなという気がしないでもない。

 人の街に住んでいながら、こんなに人のすがた、生きざまが見えない都市というのはやはりおかしなものだ。子どもたちに伝えられることも減ってゆくに違いないのだ。





    都市の視線、スマートな都市     01/4/30.


 むかしの街はもっと騒がしく、にぎやかで、人々の働きや立ちふるまいはもっと目立ったものであり、ことさら人の目を引くようであった気がする。

 人々はどんどん見えなくなり、壁の向こうに隠れ、静かになり、スマートになった。むかしはもっと行商人や商売の人がけたたましく呼び声をあげていたり、すぐにそれとわかる商売の格好をしていたように思う。いまはそういう行商人の呼び声はほとんど聞こえなくなり、店舗の奥にひっこんでおとなしくなってしまった。

 たぶんどこにでも見かけたであろう荷物を運ぶ人たちはどこにも見えなくなってしまった。むかしは大八車であれ、飛脚であれ、牛の荷車であれ、すぐにそれとわかり、かなり目立っていたことだろう。こういう人たちや業者はどこに行ったかというと、コンテナやトラックの荷台に隠れてしまい、しかも高速道路や湾岸線などに追いやられた。

 仕事や商売はほとんど都市から姿を消してしまった。都市から人とのつながりが失われ、しゃべり声や騒がしさ、たちふるまいも失われてしまった。人々はどうしてこうおとなしくなり、みんなから隠れ、こそこそと生きるようになり、かつスマートになったのだろうか。街で見かける人はほとんど帰路を急ぐ人たちばかりである。

 人々は他人から自分の生のほとんどを見せないようになってしまった。たしかに情けない部分やみじめな部分、さらしたくないことなどを隠せば、カッコよさも維持できるし、スマートである。でも、なんだろうな、気安さとか気さくなつきあい、人情とか、そういったものはスマートで隔絶された都市からは生まれないのだろうな。

 車の発展が人々のすがたを消す大きな理由になったのだろう。荷物を運ぶ人たちは車の座席に隠れ、とんでもない荷物を肩からかついだり、ものすごい重量もある荷車を引いたりする人たちの少々哀れを誘う、あるいはたくましさを誇示するような格好はまったく見えなくなったのである。車はまた遊びに行く人や散歩する人、買い物する人のすがたをも消し去った。家族の場合はとくにそうだろう。

 技術や道具の発展が人々を街から見えないものにしていったのである。そして見られるものは劣等や哀れを誘う存在になり、かれらも隠れる存在になっていったのだろう。見られる人はブラウン管の中か、写真や文章の中にあらわれることになった。

 視線は権力でもある。近代人は見られ、監視されることによって権力を内面化し、縛りつけられてゆく。見られることにはひじょうに敏感である。できれば他人の視線を感じていたくない。そして部屋の壁の中で人に見られることなく、人を見ることに専念できるTVなどに没頭してゆく。

 人の姿や声、たちふるまいが見えなくなった都市というのはいったいなんだろう。なにか大切なものが伝達されず、大切なものが失われていった気がする。われわれは自分を表現したり、自由に発散したり、気安く話し合えるといった関係をどんどん失っていった気がする。人々の息遣いや生きる営みも見失われていったように思う。







      ナゾ解きの愉しみ        01/5/2.


 読者の方々の中にはどうして私はこうも本を読んだり、エッセイを書きつづけているのか、とふしぎに思う方がいるかもしれない。

 私の読書熱というのは完全にナゾ解きの愉しみである。「これはどういうことなんだろう」、「これはいったいどうなっているのか」と疑問やナゾを考えているうちに次々に本を読まざるをえなくなり、文章上で考えなければならなくなる。まったくナゾ解きである。

 たいていの人は学問上のナゾ解きの楽しみを知らない。そもそもナゾを感じたり、それを追究する方法を知らない。学校ではナゾの解き方を教えない。ただそのナゾ解きの結果にすぎない学問知識を羅列的に教え込まれるだけである。これは最高につまらない。好奇心がわかないまま、知識なんか吸収したくもない。

 不幸なことにナゾ解きの楽しみを覚える前に大量の知識を覚えなければならないのが現在の学校である。またナゾ解きの楽しみを教えないほうが、既成の知識権力を覆さないという利点があるのかもしれない。既成の知識で満足するか、それ以上は追求されない。

 したがってたいていの人はほかのナゾ解き、もしくは楽しみに熱を上げることになる。女体のナゾであったり、競馬のナゾであったり、サッカーの勝敗のフシギであったりするのだろう。ミステリーもナゾ解きであるが、なぜか私は興味がない。どちらかといえば、人工のものより、自然の神秘を相手にするのが好みだ。

 私がナゾ解きの愉しみの対象にするのは、社会学とか哲学である。こういう身近で日常的な事柄でありながら多くの人が興味を示さないのは、ナゾを解かなくても十分暮らしてゆくことができるからだろう。あまりにも当たり前に送っている日常のことなので、ナゾや疑問を感じる必要はないのだ。

 それに対して多くの人の心を捉えるナゾというのはUFOや超能力や怪奇現象である。これらはかなり身近なことでありながら、永遠の神秘やナゾでありつづける。だから多くの人が好奇心を引きつけられつづけるのである。社会学や哲学にはこういう外に開かれたナゾの糸口というのはかんたんには見いだせない。

 でも社会や人間というのはいちどギモンやナゾに思いはじめたら、ナゾばかりである。ふと日常おこなっている当たり前のことに疑問符を付してみたら、強烈なナゾの亀裂がぽっかりと足元に広がっているものである。そういう奇怪とか異様とか、摩訶不思議とかいう目で人間や社会を見直すことが、ナゾ解きの楽しみのはじまりである。まあ、この世界にナゾナゾの呪文を唱えつづけるようなものだ。

 ナゾ解きを楽しむ方法というのはそんなに難しいものではないと思う。疑問やナゾに思う気もちを強く持続することさえできれば、本や知識というのは向こうから網にかかってくるものだ。知りたくてたまらなければ、いろいろな知識を貪りたくなるものである。そうなれば、難解に思えた哲学書や学術書だって、より興味をそそり、自分の興味に叶うものに見えてくるからふしぎなものだ。

 こういう興味の持続に、私の場合は書くという行為がたいへん大きな役割を果たした。ある主題のナゾについて書き出せば、どうしても答えやなんらかの解答を書かなければ収まりがつかなくなるのである。こうして私の答えを見出すためにあらゆる本を読みあさり、書きながら考えるというナゾ解きの愉しみはいまもつづいているというわけである。

 知識を吸収したり本を読むということには、疑問やナゾに思う気もちというのが深く関わっている。こういう気もちを育まないでたくさんの知識を得ようとするのはムリというものだ。ナゾや疑問に思う気持ちだけが、知識や本を強烈に吸い寄せるのである。







   テーマに合った本を探すむずかしさ   01/5/3.


 私の読書はナゾ解きスタイルである。ナゾを掘り出そうとして、いもづる式に本や知識がひき出される。

 ナゾや疑問のテーマを思いついたら、まずは書店に探しに行く。こういうテーマの本だったら岩波新書や中公新書にありそうだなとか、いいやたしかちくまや講談社学術文庫にあっただとか、専門的なばあいだったらハードカバーにしかないなとか、本屋の書棚の記憶などをたよりに本を探す。

 でも最近なんだか徒労感をたまに感じる。新テーマを思いつくたび書店を探し回らなければならないし、おめあてのテーマの本を探し出すのもかんたんではない。本というのは私のナゾ解きスタイルに合ったかたちで編纂されているのではなく、あるひとつのテーマを一から十まで解説、説明するパターンが多い。

 書店を見回すのは新刊などを見たりして楽しいことではある。でもはじめからひとつのテーマに絞った本探しのばあい、見つけられなくてたいがい苦労する。書店でたくさんの本に当たってみて自分の知りたいことを確かめることができるが、いちばん知りたいことはどの本に書かれているのかを見つけるのはたやすいことではない。

 たとえば最近のテーマでは「五感」というものを探ろうとした。マクルーハンに触発されて、メディアと五感の感覚比率を探りたいと思ったのである。できれば安い新書で見つけたかったのだが、ほぼなくて、メディア論はなんか違うし、高いし、あきらめ気味になる。

 私のナゾ解きはじつのところ、たいがいは尻つぼみで終わる。知りたいことを全部極めたのか、満足したのかは自分でもよくわからない。読みたい本が尽きてきたころには自然に興味も醒めているといった具合だ。たいがいは投げているのかもしれないし、私の興味の持続力はそのていどなのかもしれない。

 自分で考えることも必要なのかもしれないが、つい先達の成果に頼ってしまう。成果ははるかにあげられていることが多いからだ。またじつに自分の感覚だけをたよりに考えるのはひじょうにむずかしいばあいもある。本のあいだで考えるほうが効率的だろう。インターネットで人に見せるエッセイになったことは、稚拙な思考の積み重ねを許さなくなったということがあるのかもしれない。

 しかしこういう方法がパターン化されてくると、やっぱりやみくもなやり方は反省されてしかるべきだろう。進歩がない。パターンの結果に習熟してきたのだから、同じ失敗は避ける努力や方法は考えるべきだろう。

 文献目録やブックガイドのようなものをなるべくもつほうがいいのだろう。書店を探し回るのは効率が悪い。できるだけテーマや内容別の文献目録のほうが好ましいだろう。こういう本はなかなかなかったり、あったとしても役に立たないものであったり、高すぎたりする。まあ、なるべく当たってみることにしよう。インターネット書店の二、三行の解説なんかまず役に立たない。

 でもなんだかほかに方法がないみたいだなぁ。書店で探し回るというのが古典的であり、疲れもするが、疑問に合致するか確かめることができるので、いちばん合っているのだろうか。う〜ん、もっと効率的で、ワリのいい見つけ方はないものだろうか。ぼちぼち考えまひょ。






     平等はやっぱりよくない     01/5/4.


 平等というのは地位や順位によって生まれる夢や目標を失わせてしまう。違いや格差がなくてみんな同じようでは若者は目ざすべき憧れを見つけられない。小さくまとまった、希望のない将来像しかいだけない。

 みんなが平等というのは搾取や差別のない理想に思えるが、よく考えてみたら、「みんなと違う生き方をするな」ということだ。旧来の生き方や画一性・均質性を押しつける都合のいい隠れ蓑になっている。

 ファッションの流行にあらわれるように若者はみんなと同じ格好をしたくない。オヤジの生き方に反抗するのも若者の自立として当然のことである。理想としての平等はこういう自然の気もちを刈りとり、若者の夢や自立をもつぶしてゆく。

 なによりもいけないのは会社や国家が人々の多様で個性的な生き方を認めないことだ。「みんなと同じでなければイカン」という考え方が、平等という人権的な正義ヅラをして、人々に画一的な生き方を押しつけている。これが最悪である。

 平等はまた価値観の統一や押しつけもおこなっている。現代の平等観というのは富やモノにより測られたもので、差別や搾取の不当性のスピーチを聞いているうちに、なにがあわれなのか刷り込まれ、いつの間にか富や経済を優位におく価値観に染められるのである。

 なにに価値をおき、なにに幸福をみいだすかは人それぞれ、多様で自由であるべきなのである。平等の理想はそういう多様性や自由を叩きつぶしてきたのだろう。平等が理想とされるときにどんな多様性や自由が奪われるか考えるべきである。

 広い目でみてみたら私はこう考えるけど、個人的には人にエラそうにしている人はキライだし、人にエラそうにするのも好きではない。なんだかその人の浅はかさが透けて見えるようだし、役割の上でエラそうなことなんかしたくない。けっこう私は平等の理想をもっているのかもしれない。どう考えればよいのだろうか。

 私は人格の平等はぜひとももちたいと思うが、人の自由や多様性を奪うような平等は撤廃すべきだと思う。経済的差異や階層はあっても、人格にくわえられる差別や中傷は許されないのが理想である。経済的階層が強い社会は、経済的に劣っていてもそれぞれのよさやありようを寛容に認め合う社会になることができるのだろうか。そのような社会なら平等を理想とする社会より、よほど自由で楽しい社会になるだろうと思う。







 モニターが故障しそうです。今のところ叩いて直しておりますが、いつブッ壊れてしまうかわかりません。しばしの「凍結状態」に入ってしまうかしれませんので、お先に謝っておきます。

         メールはこちらに。    ues@leo.interq.or.jp



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  2001年初夏の書評集「感覚の文化論」

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マーシャル・マクルーハン

   
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