この小説がわたしはスキ?キライ?
小説にかんして、わたしはあまりよい読み手ではない。
テーマとかメッセージとか、なにをいっているのかとんとワカらないからだ。だからものごとをはっきりと言う哲学のほうに興味が向かった。
小説を読みはじめたのは村上春樹ブームからで(わたしは20才過ぎだった)、映像文化に育ったせいで、小説を読めるようになったのはかなり遅い。
小説はいぜんから読みたいと思っていたのだが、学校教育の「わかる/わからない」という読み方から抜け出せなくて、それより「おもしろいか/おもしろくないか」という基準のほうが、もっと大事であることに気づかなかったからだ。
あまりよい読み方はできないが、わたしの小説のスキキライをご紹介する。
『ノルウェイの森』は、ミーハーであるけれども、ホントに気に入った。
ワタナベトオルくんの孤独でどろどろした日々や、それでいて人々や社会にそっぽを向けた生き方がとてもカッコよく思えた。
テーマは緑と赤――生と死あたりになると思うのだが、読めない。恋人がなぜ心を病んでいったのか、よくワカらない。
現代的な若者の風景を切りとっていて、それが魅力だったのだと思う。
村上春樹のなかでは、やはり羊三部作がかなりカッコいい。
『羊をめぐる冒険』は乾いた文章も、シニカルなユーモアも、ホント気に入った。カタカナ用語を多用し、アメリカ的生活を演出したことに、そのカッコよさはあるのだと思う。象徴的道具がたくさん出てきて、テーマがまるでわからないのは残念だけど、やっぱりこの小説はとてもスキだ。
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は日常の世界と永遠の世界、あるいは意識と無意識の世界を探究しているように思えるのだが、どうもよくわからない。アメリカ的風俗のオンパレード、マスメディアへの接近が、これらの世界に育ったわたしにとって魅力的だった。
『ダンス・ダンス・ダンス』はアメリカン・ロックの一大饗宴だったが、おそらく「高度消費社会」への疑問をテーマにしているのだと思う。この本が出たころはまだバブル時代だったから、この消費社会にたいする批判を、徹底的にしたかったのだと思う。個人的には自分たちの時代のロックを褒めそやして、わたしが育った80年代ロックをけなすのはあまり気に食わなかったが。
この村上春樹ブームにはまった人は、ほかにこのようなおもしろい小説はないか、と探し回るわけだ。それは村上春樹が影響をうけたアメリカ文学――フィッツジェラルドや、カポーティ、ヴォネガット、スティーヴン・キングといった人たちであったりした。
カート・ヴォネガットはシニカルで、ブラックユーモアな視線が、とてもおもしろかった。
『チャンピオンたちの朝食』はけつの穴とか、ビーバーちゃんとは、こんなかっこうである、と紹介された絵がとても笑えたし、『スローターハウス5』もたしかよかった。
ほかの人たちにはそんなに感銘をうけなかった。
わたしは同世代の若者たちを知りたいということで、宮本輝の『春の夢』とか『青が散る』とか、遠藤周作の『さらば、夏の光よ』、連城三紀彦『恋文』なんかが気に入った。まあ恋愛小説、青春小説になるのだろうか。
でも探し回ったところで、村上春樹的カッコよさを越える人はいないのである。村上龍のエグイ小説は読めないし、吉本ばななは女性向けだし、われわれが求めていたもの――アメリカ的カッコよさみたいなものを体現していたような作家は皆無だった。
それでも小説への好奇心はおさまり切らないから、わたしは世界文学の名作を新潮文庫でかたっぱしから読みあさっていった。名作とよばれるもので、ちょっと興味をひけば、なんでもよかった。
でもけっきょく、わたしの落ちついた先は、やはりアメリカの2、30年代の若者たちあたりだった。ジョン・スタインベックとアーネスト・ヘミングウェイ、サマセット・モーム、D・H・ロレンスといった人たちがスキになった。
スタインベックは『二十日ネズミと人間』でひじょうにどんくさいけど、あたたかい人間像を描いて、とても好きになった。
『怒りのぶどう』は大恐慌下における農民たちの惨状を描いていて、スタインベックのそのあたたかいまなざしがとても気に入った。
『エデンの東』はたしか親子三代の物語だったと思うが、キリスト教的な善悪観は、わたしにはさすがにわからなかった。
ヘミングウェイの『武器よ、さらば』はかんたんな単語、ぽきぽきと小気味よく折れる文章、乾いたスタイルといったものがとても気に入った。
『武器よ、さらば』は戦争にも恋愛にも情熱をそそげない、といったことをいっていたように思うが、浅すぎる?
ハードボイルドな文章はとても気に入ったが、作品的には『誰がために鐘は鳴る』『海流の中の島々』『老人と海』などは、正直なところ、そんなに感銘はうけていない。
サマセット・モームは『月と6ペンス』、『人間の絆』など、ストーリー的にとてもウマイつくりをする人だなと感心した。話にひきこませる仕掛けがとてもうまい。
『月と6ペンス』で、だんなが出て行けば、すぐ女ができたと短絡する妻が、世俗的な象徴をしていて、腹が立った。世俗にうもれるだけが人間の目標ではないように思う。人間に関する鋭い洞察もひじょうに多くちりばめられている。
D・H・ロレンス『チャタレイの恋人』も、多くの議論のなかで、人間や社会にかんする洞察をくりひろげていて、そこが気に入った。小説の物語では、あまりメッセージをうけとれなかったからだろう。
おっとJ・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を忘れてはならない。オトナ社会への小気味よい批判として、この作品ほどよいものはない。
そういえば、ゴールディングの『蝿の王』も、無人島の子どもたちが、大人社会さながらに暴力劇をくりひろげるさまはスサマジイものがあった。
つぎにかたっぱしから読んだ世界文学について、もう何年も前に読んだので記憶も定かでないが、かんたんなコメントをつける。
シェークスピアの『ロミオとジュリエット』はさすが鋭い警句がちりばめられている。
ゲーテの『若きウェルテルの悩み』はなかなかよかったと思う。
『ロビンソン・クルーソー』は10年単位の時間間隔で話が飛んでゆくのはびびる。
ディケンズの『クリスマス・キャロル』は人間嫌いに生きてきた老人の反省に、すなおに感動したが、わたし自身そういう傾向もなきにしもあらずだ。
エミリー=ブロンテの『嵐が丘』はストーリーにものすごくひきこまれる。
『レ・ミゼラブル』はたしか善行のオンパレードで、うんざりして投げ出した。
ドストエフスキーの小説は虫のようにつめこまれた、うじうじ文体がタマらない。
無条件に美しい人を描こうとしたという『白痴』は、善行の自慢話を自分からするのはなぜか、解せない。
トマス・ハーディは厭世観に魅かれていたから興味があったが、『テス』の「もはや処女ではない」といった大げさなタイトルは拍子抜けする。
ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』は親の期待と子どもの自由な生き方の相克、といったことがテーマになっていて、いまでもじゅうぶんうなずける。
リルケの『マルテの手記』では、病気はむかし、その人の人格そのものであった、というような表現がひじょうに印象にのこっている。
アナトール・フランスの『神々は渇く』は正義が残虐さに転嫁してゆくさまが描かれていて、圧倒される作品だ。
アンドレ・ジイドの『狭き門』はよかったと思うが、宗教観はやはりちがう。
カフカの『変身』『城』『審判』はいずれもワケがわからないが、魅かれる。
カミュの『異邦人』はひじょうに気持ちがよくわかる。社会的に認められる感情を自分のものにしなければならない、といったやりきれなさを、いっているのだと思う。
カポーティの『冷血』は小さな村でおこった殺人事件が、人々にどのように疑いの目、相互不信の目をつちかうことになっていったか、といったことが描かれていて、まざまざと集団の狂気といったものを感じさせる。
日本の名作ももちろんたくさん読んだ。
夏目漱石の『こころ』は恋愛のなかのエゴイズムをとりあげた作品なので、深く心を打つが、いくらかほかの作品を読んだが、言葉の表現が古すぎるからか、あまり感情移入できなかった。
芥川龍之介は後期の短編がよく、『河童』なんかは風刺が利いていてよかった。
川端康成の『伊豆の踊り子』はきれいであるが、なにかよくわからない。『雪国』もきれいな表現があったりするが、それ以上にはのこっていない。『古都』も双子の姉妹が出ていて、美しかった。
宮沢賢治『銀河鉄道の夜』はアニメのほうが印象が強いが、ひじょうによい作品だ。
高村光太郎『智恵子抄』は狂った嫁さんをここまで愛せるかと感動した。
谷崎潤一郎『細雪』は姉妹の話だったが、たまらなくタイクツだった?
太宰治はやっぱり高校のときなんかに『人間失格』などにひっかかったが、小さなことをさぞ大げさに表現するさまは、ちょっと食傷気味だ。
三島由紀夫はやはり現代の感覚と近いこともあって読みやすかった。『潮騒』『永すぎた春』『金閣寺』『仮面の告白』、深くは感銘をうけなかった。
安部公房『砂の女』は、砂をすくうだけの男と家庭にひきとめる女と、暗喩が利いていて、ひじょうによかった。
遠藤周作の『海と毒薬』はひじょうに心傷める作品だ。
やっぱり村上春樹よりオモシロイ作家はなかなか見つけられなかったが、こんどはアメリカの60年代以降のポストモダン小説に興味が向かった。
トマス・ピンチョン、ウィリアム・バロウズ、ジョン・バース、ジュリアン・バーンズ、ドナルド・バーセルミといった人たちだが、いずれもたいしてオモシロクないというよりか、絶理解だった。
が、トム・ロビンズの『香水ジルバ』は破格におもしろかったし、キャシー・アッカーの『血みどろ臓物ハイスクール』は新しい可能性を感じた。
けっきょくのところ、わたしの小説遍歴は、村上春樹を超えた作家を探そうということだったと思う。というより、小説を読んでいるときからすこしはわかっていたのだが、小説にはなにかどっぷりとつかれない何かがあるなと思っていた。
「なにを言っているのか、さっぱりワカラン!」のだ。
もっと物事をはっきりと言い、作者のメッセージ、伝えたいことが、ハッキリ!とわかる文章を読みたかったのだ。
そしてそれがどうやら哲学や社会学だとわかるまで、だいぶ時間がかかった。
でもそこに行くには、
「この科学が進んだ世の中に、大昔の哲学が必要なのか?」
という偏見をもっていたし、学問という世界がもっとカタブツに思えて、娯楽や趣味のように読めるなど思ってもしなかったのだ。
つまり世の中や人間を知るには、「文学」か「心理学」くらいしか、ないと思っていたのだ。この偏見がとかれたとき、わたしの知識欲はタガをはずされた。
とユーことで、いまは小説をほとんど読んでいない。たくさん読んだ小説はいまは、押し入れのダンボールケースに眠っている。
|