労働と自由についての断想集


     新しい日付けが上に来ます。      



   インターネットは時間との勝負である。これまでのエッセー集はあまりにも文量が多すぎて、
  最後まで読んでくれる人はいるのかとちょっと心配でした。ということでなるべく短めの文章をこれ
  から書いてゆく努力をするつもりなのでよろしくお願いします。

   更新間隔もまだ決まっていませんし、どのあたりの内容までとりあげるのかも決まっていません
  し、試行錯誤でやってゆきますので、内容が固まってくるまでしばらく成り行きまかせです。

   予定ではこれまでのエッセー集は暫時縮小してゆき、長編になりそうな場合にはエッセー形式
  を利用するといった具合にしたいと考えております。




     労働のなかの自由か、労働からの自由か   99/10/15.


   仕事とのかかわりにおいて自由はふたとおりあると思う。労働の中に自由を求める方向と
  労働から離れたところに自由があると思う考え方である。

   仕事のなかに自由を求める者は出世して高い立場に立つことによって自由を得られると考えて
  きた。人に命令される服従ではなく、人に指図し命令する自由である。戦後の人たちはこういう
  ことをめざしてきたのではないだろうか。またこれには消費選択の自由の増大もある。

   近頃の若者に根強いのはやはり「クリエイティヴ」な仕事によって自由を得られると考えること
  だろう。ものを創造したり、デザインすることによって、機械や組織に使われない自由を得ることが
  できると考えた。3K職種が嫌われたのはなにもキツイやキタナイからだけではないのだろう。

   わたしが思うに出世で得られる自由は外から見れば、どう見ても企業組織という狭い井戸の
  中での自由でしかないように見える。またポストを得るためにどう見ても隷属としかいいのようの
  ない状態に陥ってしまっている。わたしの自由の選択のなかにこれがないのはとうぜんである。

   クリエイティヴのなかに自由があると思うのはわたしの中にもあるのだが、どうもたいがいの
  仕事はクライエントの意のままに従わなければならなかったり、ちっぽけな需要や要望を満たす
  ためだけの仕事であったり、ここに自由があるかはだいぶ怪しい。趣味に逃げたほうが賢いか
  もしれない。

   で、わたしは労働からの自由を求めたわけだが、ここにはとうぜん貧窮と不安定と不自由が
  ある。さげずまれたり、みじめだと思われたり、身分的差別をうけたり、下請的待遇をうけたり
  する。この自由は社会的承認をうけていないから、よけい精神上にも悪い。

   社会は労働からの自由をほとんど希求していなし、あるいは若者に現れるそのような現象を
  理解すらしていないから、法的保護や規制がほとんど行なわれず、政府の網の目からぼろぼろ
  ともれ落ちる行動を若者がおこす結果になってしまっている。

   ひところ余暇論やレジャー論が騒がれたが、おかげで気違いじみた集団強制と強制的レジャー
  がまきおこった。平成不況はこれとは無縁ではない。自由への希望がとんでもない隷属、不自由
  に逆転してしまったことに恐れているのだろう。

   自由に憧れた者は後ろ向きに落ちてゆきながら、労働からの自由に足をふみいれつつある。
  たとえば登校拒否やひきこもり、フリーター、失業、リストラによって、あまり褒められない自由を
  享受しつつある。これまでの常識では落ちこぼれと見なされたもののなかに、世間がポジティヴ
  な自由を見出せるようになるのはいつのことだろうか。   






     他人本位の仕事と自己実現?    99/10/14.


   仕事というのは他人のためにすることである。他人のためにモノをつくったり、他人のために
  サービスをしたり、他人のために奉仕することが仕事である。

   しかし昨今の若者は自己実現ややりがいといった自己本位の動機をとくに尊重する。個人
  主義やミーイズムの時代がそうさせているのはいうまでもない。そして他人本位の仕事、自分
  の楽しみや喜びを見出せない仕事に幻滅し、ときには強烈な自己無価値感を味わう。

   これはなんだろうなと思う。仕事というのは他人に奉仕するものなのに自己の喜びを優先する
  わけである。そもそも他人に喜びを与える仕事にそんなに自己満足があるものなのだろうか。

   戦後の企業は収入や社会的地位を高く上げることによって労働者のモチベーションをつりあげ
  てきた。他人や消費者の喜びより、自社の従業員の自己満足、自己実現が重要になってきたわ
  けである。そのような流れの末裔として、新入社員たちの幻滅があるのではないだろうか。

   他人に奉仕し喜ばせ、それによって収入を増やし、社会的地位をあげるという仕事は変なもの
  である。一種のボランティアや利他行為の強制のようなものが仕事にはある。利他行為つまり
  社会では善行とよばれるなかに利己主義があるというわけである。

   こんにちでは利己主義や自己実現といった自分本位な気分のほうが濃厚である。なによりも
  自己満足や収入や社会的地位の上昇に仕事のモチベーションがある。他人のために奉仕する
  仕事のなかにそんな強烈な利己的満足を追求できるものなのだろうか。

   そもそも利己主義な若者に利他主義の喜びなどそんなに感じられない。また企業全体や社員
  全員が利己主義に走っているため、他人の喜びを感じられないのかもしれない。

   この自分主義の時代に他人奉仕の仕事にどれほどの自己満足を見出せるというのだろうか。
  仕事の重要性と意味がどんどん崩れてゆくのは、時間の問題である。






     仕事に意味を求める若者たち    99/10/13.


   NHKの『会社を辞める若者たち』は期待して観ていた。中高年のリストラも問題だが、同時に
  会社をすぐ辞める若者たちもそれに劣らぬ問題だということが見過ごされている。この意味を
  つかまないことには社会も企業もつぎの時代を乗り切れないだろう。

   コメンテーターの中では鷲田清一がいちばんはっきりとしたことを言っていて、こういう番組には
  とうぜん出てくる佐高信より冴えていた。あとふたり出ていた人は忘れてしまった。

   かれがいうには、若者が会社をすぐ辞めるのは「いまやっていることの意味や結果」を知りたい
  からだという。「意味への問い」だ。

   むかしは将来の目標のための働けたのかもしれないが、いまの若者はいまやっていることの
  意味を切実に求めている。もしそれがなければ働いている意味がない。

   会社での仕事の意味が見えなくなっているということだ。会社が大きくなり過ぎて硬直したり、
  下積みばかりやらされるとか、冒険ができないといったことで、意味が見えない。

   インタビューされた若者たちは仕事に過剰なやりがいや自己実現、意味づけを求めているよう
  で、それはおそらく自己の価値を過大視しているように見受けられるのだが、社会はこういった
  誇大自己の若者をなぜか大量生産したようである。現実との恐ろしいギャップを戦後社会は子
  どもたちに植えつけたようだ。

   会社はもう若者の過重な期待をひきうけられないのだろう。会社は「社員」としてではなく、
  「個人」として遇さなければならないと鷲田清一がいったように、人格を丸ごと買いとるような扱い
  はもうやめるべきなのだろう。いまの企業社会にそのような転換の意味がわかるだろうか。

   若者の行動は未来の先取りと指摘されていたが、その若者に合った社会や企業に変わること
  ができるだろうか。そうなってはじめてわれわれは幸せな人生を送ることができる。





     労働者にとっての自由とはなんなのか    99.10.12.


   朝から晩まで企業に拘束され、一週間の大半も企業に囲われ、一生のほとんどを企業に
  奪われる労働者にとっての自由とはなんなのだろうか。こんな一生に自由はあるのか。

   これまでいわれていた自由は消費選択の自由であった。家電や車、レジャーや旅行などの
  消費の幅と選択はたしかにどんどん広がっていった。

   しかしこれってほんとうに自由なのか。

   消費選択の自由を得るためには恐ろしいくらい働きづめで企業に束縛されなければならない。
  一生を捧げつくさなければ、そんな自由は得られない。一生を企業に奪われた人生がほんとうに
  自由といえるのか。

   こういった視点が戦後の人たちにはごっそりと抜け落ちていたようだ。金持ちや社会的地位、
  生活保障などをあれもこれもほしいと欲張っているうちにすっかりと奴隷になってしまっていた。
  奴隷になってしまったとわかったあとでも、金や地位、保障がなければ恐いと思ってしまって、
  ちっともオリの中から脱け出せない。

   消費の自由を得るために企業の奴隷となってしまったという次第だ。

   われわれがふたたび自由を得るためには金持ちや地位のある者がエラいという価値基準や
  評価をひっくり返すしかないのだろう。かれらを奴隷や自分の人生を喪った人間だという蔑みや
  あわれみが必要になる。自由を評価する社会風土が育まれる必要がある。

   われわれの心にそのような意識が芽生えたとき、労働者ははじめて自由になれるのだろう。




      みんな会社を辞めよう!      99.10.11.


   会社にしがみつくから会社はエラソーになる。みんなが会社を辞めたら、その会社はとうぜん
  青ざめる。しかしそうならなかったのは、みんなが会社にしがみつこうとしたからだ。

   いまの大卒の若者は三年以内に三割の人が辞めてゆくそうだ。みんな、もっと辞めてゆかな
  ければならないとわたしは思う。でないと会社はいつまでもエラソーにわれわれを扱き使う。

   自由主義者のフリードマン『選択の自由』によると労働者を守るのはほかにかれを雇いたい
  会社がたくさんあることである。会社間の競争をすることによって労働者は守られ、待遇もよく
  なる。逆に会社も雇える労働者がほかにもたくさんいることによって、労働者から搾取されない。

   戦後の日本は長期勤務に有利な仕組みをたくさんつくった。退職金や年金、年功賃金といった
  ものだ。これは戦時中の国家総動員体制がそのままひきつがれている。お国の非常事態の
  ドンパチのためにわれわれの自由は制限されてきた。

   そのためにいまの中高年は会社にしがみつかざるを得ず、今度は高コストになってリストラと
  いう目にあった。

   われわれは会社を辞めてもっと転職市場を広げるべきである。会社間にも競争原理を導入して
  だれも行きたがらない会社はつぶすべきである。そのような市場の制裁機能を働かすためには
  われわれはどんどんいやな会社は辞めてゆかなければならない。

   労働者の人権を無視したり、長時間労働を強制したり、ひどい会社はみんな辞めてしまおう。
  そうすれば、そんな会社はこの地上に存在できなくなる。

   市場原理が働けばわれわれの働きはもっと楽になると思う。中高年はもう政府が年金の変更
  や法的規制でもしないかぎりなかなか転職できないが、若者はいまのうちにどんどん飛びまわる
  べきである。飛べるうちに布石を打っておかないといまの中高年と同じ運命に会うだろう。





     自由の価値とは何なのだろうか    99.10.11.


   自由は金を生まない。安定も財産も生まない。だからだれも評価しない。

   金や財産、安定を求めれば求めるほどなにかに隷属することになる。保険がほしい、老後の
  保障がほしいと思うと企業や政府にますます隷属せざるを得なくなる。そして自由は消滅する。

   だから人は自由を求めようとするが、安定や安全のためにそれを捨てざるを得なくなる。あえて
  安定を捨てて自由を求めようとする人はよほど奇特な人なんだなということになる。

   それでも自由を求める価値はあるのだろうか。金や財産、安定を捨てでも、自由は手に入れな
  ければならない何かなのか。

   奴隷の屈辱や権力や権勢に服従するふがいなさといったものは捨て去ることができる。しかし
  権力の恐ろしさや権勢から排除される怖さも味わわなければならないだろう。そのうえ、隷属者に
  与えられた生活保障や老後保障といった権利も失わなければならない。だれも自由にはなりたい
  と思わないだろう。

   権力に屈しない自尊心といったものはもつことができるかもしれない。でもたいがいの人は安定
  しない生活と権力の強力さに蹴落とされて、そんなものを味わう余裕さえないだろう。

   隷属し、人生を捨て去ることでしかわれわれは生きてゆけないのだろうか。そのような世の中で
  自由の価値とはいったい何なのだろう。





     金のモノサシ、自由のモノサシ   99.10.11.


   自由のモノサシというのはひじょうに見えにくい。金のモノサシというのはひじょうに見えやすい。
  だからだれもが何事も金のモノサシで価値を測る。

   戦後の人たちは金のモノサシしかもたなかったから、金への憧憬と羨望だけを持ち合わせ、
  したがってさまざまなものの奴隷になった。

   わたしが感じるに親やその世代は自由というモノサシをまるでもたない。だから金のモノサシだ
  けで物事を測り、自分たちがどんどん隷属化・奴隷化していってもちっとも恥じないし、気づきも
  すらしないようだ。安定が至上目的になり、自由の価値をまるでもたない。

   会社をクビになった人がなぜ会社に戻せと争議をおこすのか、わたしにはわかりにくかった。
  さっさと辞めたほうが自由になれていいのではないかと思うのだが、どうもこれまでの歴史的経
  緯とか長期勤務の有利さとかがいろいろあるようで、一筋縄ではいかないようだ。

   戦後の労働組合は雇用の確保とか昇給とかをのぞんできて、かれらはそれが権利だとか成功
  だとか思い込んできたようで、それが企業への隷属をおしすすめたということにまるで気づかない。

   したがって自由のモノサシをもつ若者は自ら転職や大企業を辞めたり、フリーターになったりする。
  安定や金があることより、若者には自由が大切であるからだ。

   しかし自由のモノサシというのはひじょうに弱い。若者は年をへるごとに安定と金のモノサシに
  絡みとられてゆくことになる。自由なんてものは金も権力も安定ももたらさないからだ。

   こうして自由のない従順な国民だけのいる社会になり、企業の奴隷国家となる。

   われわれには自由のモノサシをもつことはできないのだろうか。自由の積極的意味や優越、
  自尊心というのはもつことができないのだろうか。自由を評価できるモノサシはわれわれには
  育まれないのだろうか。





     自由と社会的地位の低さ    99.10.8.


   自由になろうと思えば社会的地位の低さに甘んじなければならない。ときには差別的・軽蔑的
  待遇にも耐えなければならない。

   自由というのは社会的に必要ないということなのであり、社会的に無用だからこそ自由でいら
  れる。たとえば定年退職者のように社会的に必要とはされていないが自由といった具合だ。

   戦後の人たちは自由より、社会的地位の高さを求めてきた。そして安定や保障をなによりもの
  宝だと思ってきた。おかげでかれらは社畜になり、奴隷のような存在になった。

   しかしかれらは戦後の基準でいえば、エリートなのであり、成功者なのであり、幸福を手に入
  れた者なのである。

   こういった自明の基準とされるものがわれわれに巣食っているから、われわれはてんで自由に

  なれない。しかもこの基準でいえば、自由は落ちこぼれになることであり、脱落することであり、
  敗者や弱者になることであり、差別されることなのである。

   いま、自由になろうと思う者がぶつかる障害はこれである。だから自由を手に入れようと思う者
  はなかなか自虐の念から自由になれない。自由と拘束のなかでもがくしかない。

   自由になろうとする者は社会的軽蔑のまなざしを受け入れるしかない。奴隷で満足した者は
  社会的地位と金銭の多寡によって自由な者を軽蔑するのである。かれらの非難から自由になれ
  るだろうか。





    「エリート幸福論」のあとにくるもの   99.10.8.


   エリートになれば幸福になるといった神話の崩壊がしきりにささやかれているが、ひじょうに
  つくり事めいて聞こえる。すでに崩壊して久しいものを事後確認しているようなものだ。

   ではそのあとになにがくるのかといえば、明確ではない。「有名人幸福論」といったものが
  世間では強そうだが、これに与かれる人はひじょうに少なくて、ひそかに不幸の蔓延を招いていた
  のかもしれない。われわれにできることは有名人の着ているファッションを身につけたり、動作や
  口調をまねたり、カラオケで歌ったりすることで満足してきた。

   「有名人幸福論」を大衆化するためにひじょうに都合のよい技術がやはりできあがった。インタ
  ーネットである。

   エリート幸福論ができあがったとき、人々が学歴に殺到し、学校の義務教育化・大衆化がおこ
  なわれたように有名人幸福論もその大衆化があとからやってくるのだろう。

   しかしエリート幸福論が虚構であったように有名人幸福論もただの幻想である。その夢が醒め
  るまで有名になろうとする衝動はいつまでも覚めやらないのだろう。

   われわれにほんとうに必要な幸福論というのは市井のなんにもない、ごくふつうの日常生活の
  なかに求められるべきなんだろう。そういった無名の人のなかに幸福を見出す技術をつくりださ
  ないと、「何々」になれないから不幸だという気持ちは拭い去れない。

   無名のなんでもない人たちのなかに幸福を見出すということはひじょうに大切である。そういう
  人生の先輩としてひじょうに身近なところに親がいるのだが、われわれのたいがいは親を軽蔑して、
  親のようにだけは生きたくないと思い込むようになっている。

   それがエリート幸福論や有名人幸福論の原動力や進歩主義のエネルギーになってきたのだが、
  おかげでわれわれはいつも不満と自己非難ばかりつづけて幸福になれない。





    下り坂の時代と知足安分    99.10.7.


   下り坂の時代にはこれまでのようなたくさんの夢や希望、理想といったものをもっていたら不幸
  になる。それらが叶うパイは限りなく少なくなり、どちらかといえば挫折や失敗、脱落といった辛酸
  を味わう機会が増えてしまう。

   夢や期待が大きければ大きいほど、それに裏切られる痛みは大きくなり、苦悩や苦痛も大きく
  なる。だから下り坂の時代には知足安分の知恵がひじょうに大事になってくる。

   知足安分というのは字のごとく足るを知り分をわきまえるということだ。いらぬ欲望や期待を抱か
  ず、現状で満足するということである。期待を抱かなかったら現実に痛めつけられることはない。

   これまでの時代というのは夢や希望を抱くのが当たり前のことであり、それを推奨しており、
  なおかつそれをもたないことは空しい、恥ずかしいことだと教えられてきた。

   そうして今日の不満を明日の希望に託したり、今日の不満を電化製品や車といったもので代償
  してきた。われわれががんばったり、地位や所得の上昇をめざしてきたのは、そういった今日や
  自分の不満を抱えることによって、そのエネルギーを点火してきたからである。

   でも下り坂の時代には夢や希望を叶えることがたいへん難しくなってくる。そうなると夢や希望は
  ただ自分自身を責めさなむ刃に変身してしまう。理想が高すぎて、いまの自分を徹底的に切り刻
  んだり痛めつける結果におちいってしまう。

   知足安分の知恵はそういうわれわれを安らかにする知恵を含んでいる。落ちこぼれたり、悪くな
  ってゆく現状に傷つけられないための心のもちようを教えてくれる。仏教や老荘思想にはそういう
  知恵がたくさんつまっている。

   このまま下り坂の時代がつづき、中流階級が没落するようになると、ますますこの知恵は重要
  になってくるのではないだろうか。大きな時代の流れには抗えない。




     金欠と読書の興味    99.10.6.


   いまはたいへん金欠であるが、金欠になると読みたい本がなくなってくる。書店や古本屋を
  さんざん巡ったあげく一冊も読みたい本を見つけられずに疲れてしまう。

   なんでだろうなと思うが、金や読書に自分の興味が依存していたことになる。金がなければ、
  興味さえわかないというしだいだ。

   ふっと自分の興味が読書によって方向づけられているんだなと気づく。自分自身の興味や
  関心から考えたいことを思いつくことができなくなっている。

   ショーペンハウアーは読書とは他人にものを考えてもらうことだといった。読書ばかりする人間
  はしまいには自分でものを考えることができなくなると警告していた。

   この言葉に気をつけていたのだが、いつの間にかわたしは読書ばかりして自分で考えることが
  できない人間になりつつあるようだ。自分でものを考えようとすれば、稚拙になり過ぎたり、もう
  すでにだれかが考えたりしていたりして、ついつい読書に頼ってしまう。

   この情報社会にそんなに独創や個性にこだわり過ぎる必要もあるかとも思うのだが、たしかに
  わたしは他人がすでに考えていることしか考えられないようになってきている。もうすこし、自分
  の日常や生活からわきあがってくる疑問を大切にしたいと思う。「なぜ」と問う精神を大切にしたい。

   哲学者でなくともこの独創や創造的な思考をもつことはひじょうに大事である。なせならわれわ
  れも日常の生活のなかで固定的な思考パターンにはまってしまい、不幸や苦悩をかこち勝ちで
  あるからだ。

   柔軟な発想や突飛な思考は、われわれの陥った不幸からの脱出口を見出してくれる。





    新聞のニュースとわたしの興味    99/10/5.


   新聞はもう十年もとっていない。ニュースはテレビで間に合うし、世の中必死になって知らなけ
  ればならない情報なんてさして多くないと思うからだ。テレビだって半年や一年も見ないときも
  あった。でもテレビがないと友だちがもってきてくれたり、職場の連中がわあわあ言ったりする
  ので仕方なく買ったりした。

   だいたい新聞が報じる内容の多くはやはり、わたしの興味とズレている。新聞ってやはりツマラ
  ナイのだ。新聞が報じる政治や国際情勢、経済というのはほんとうにおもしろくない。

   書物で読めば、わあおもしろいというところでも、新聞報道になってしまうとたちまちつまらなく
  なる。たぶん物語りとして読まなければならない書物と、ぶちぶちに断片づけた新聞の違いなの
  だろう。書物であれば、身近な人間的な視点でものごとを切りとってくるが、新聞はどうもそういう
  身近な視点がないからつまらなくなるのだ。

   でも究極のところニュースというものは、一般の人たちにとっての日常や毎日とぜんぜん接点が
  ない、ということがいちばんの理由なのだろう。わたしがいちばん興味があるのは自分の日常や
  生活からわきあがってくる疑問や問題であったりする。つまり仕事のことやまわりの人間関係、
  社会や権力序列といったことだ。自分が生きて日常を過ごすためにはそういう知識や情報がいち
  ばん大切であり、価値あることなのである。

   それがこれまでの人たちは新聞ニュースを知っていることが偉いと思い込んできたし、そういう
  世間話をすることが社会人の条件だと見なしてきた。われわれがいちばん多くかつ長く過ごす
  日常のことがすっぽりおろそかになり、抜け落ちてしまっているのは、なんとも愚かなこととしか
  いいようがない。われわれが知りかつ探求しなければならないのはこの日常の社会ではない
  のか。

   マス・メディアは日常の一段上にあるニュースを伝える。一般の人たちにとってはほとんど関係
  のない事柄だ。しかしかれらの頭の中はそのことでほぼ占領される。マス・メディアは世間一般
  の話題を各個人にコピーし、大量に頒布する。そうしてわたし個人は、マス・メディア的視点で
  ものごとを見てものごとを判断するようになる。

   日常のいちばん大事で必要な事柄についての興味や知識や思考能力、判断能力はてんで
  育まれず、ぽっかりと抜け落ちた「マスメディア・コピー人間」が大量生産される。

   われわれが興味を持ち、考え、探究しなければならないいちばんのものは、世間一般のニュ
  ースではなく、まさにわれわれが生き、生活する日常の社会ではないのかとわたしは思うのだが、
  ほとんどの人は新聞が考えることを考えている。






    なにが2000年だ? バカモノ!   99/10/5.


   基本的に年の変わり目を祝うということはあまり好きではない。あくまでも便宜的な年月日の
  変更線にすぎないと思っているからだ。それをみんなはさも偉大なことやなにか大きな変化が
  あるように祝うのはどうも好きではない。祝ったり、喜んだりすることが大きくなり過ぎて、その
  中身・内実といったものが忘れ去られているか、空っぽになっていると思うからだ。みんな、形式
  的に祝っているに過ぎないのだ。

   だいたい西暦なんてものはキリストの生誕をもとにしている。信者でないものが祝ってどうする?
  べつに釈迦生誕年でもいいし、マホメットでも、ゾロアスターでもいいじゃないか。

   こういう考え方をしているから、わたしはあまり「新年」とか「元日」なんていうのは極力ふつうに
  過ごすようにしている。大晦日に年越しそばを食べたり、『紅白歌合戦』などを見たりするのを
  ひじょうに嫌っていた。

   しかしそれはみんながすることや慣習といったものをことごとく目の仇にしていた十代のころの
  話だ。いまは新年を祝うことにはそれなりの理由やべつの意味があるように思うようになってきて
  いる。気持ちをあらたにしたり、年月の去りようを意識することができるし、またいつもは集まらない
  親戚や知人が集まったりする機会をつくったりするので、それなりの用途があると思うようになっ
  てきた。

   でも2000年というのは、あくまでも便宜的な日付変更線だと思う。ただのSame Daysだ。






    楽天的でいけたのならいいのだけど……  99/10/3.


   いつも楽天的にものを考えることができたのなら幸せだろう。でもそうはならないのが、
  哀しい性である。批判や悲観的な考え方でものごとを捉え、それがどんどん固まってゆき、
  ゆるぎない「現実」となり、その「現実」に追い立てられ、責め立てられるという毎日に終わって
  しまう。

   考え方や捉え方だということはわかっている。見方を変えたり、発想を変えたり、違った角度
  から同じ物事を捉えること、そうすれば幸せ感や不幸感も変わってくるはずである。でもそうなら
  ないのは、自分の身にしみついた思考の回路や習慣のせいである。ついつい同じ悲観的・批判
  的な考え方で現実を捉える自分が存在してしまうのである。

   この習慣を絶ち切るためにはよっぽどの不幸感がやってこないとムリだ。根こそぎ自分を変え
  てしまいたいと思うほどの不幸や挫折感が自分に襲ってこないと、これまでの習慣を容易に変
  えられない。

   わたしは一時期、楽天的(悪く言えば、アホ)になることで、ある程度は不幸にならないことを
  学習したはずである。思い出せば、子どものころわたしは底抜けの楽天バカだったから、けっこう
  幸せだった。楽天バカをやめたのはおそらく、バカにされる屈辱からだろう。頭でっかちになったら、
  やっぱりあんまり幸せにならなくなった。

   そういうことになって楽天的になる必要性を悟ったのだが、時が経つごとにそれへの熱意は
  冷めてゆき、前と同じような思考習慣にふたたび帰ろうとしている。

   折りにふれて、自分の思考傾向や習慣を点検しなければならない。楽天的でいこう。





    エリート幸福論のツケはだれが払うのか   99/10/2.


  下関と池袋であいついで通り魔殺人がおこったが、TV『ザ・スクープ』ではこの二人にハイジ
 ャック事件の犯人を合わせて「エリートが壊れるとき」と題した特集をおこなっていた。いずれも
 九州大学や一橋大学などを出て就職時もしくは就職後に挫折した過去をもっている。ひとりは
 親の借金と蒸発というひじょうにつらい過去を経験しているから、いちがいにはくくれないところは
 あるが。

  学歴エリートの不幸な面が現われ出たわけである。優秀な学歴を得ると幸福な生活や優遇
 された待遇が待ちうけていると思い込んできた結果、学校とはまったく違う論理で動いている実
 社会でうまくやってゆくことができず、また不遇や挫折の経験をうまく処理することができなくなっ
 たわけだ。

  学校と経済社会は同じではない。ペーパーテストでよい点がとれても、経済社会では金儲けや
 処世術がモノをいってくる世界なので通用するわけがないのだ。それをこれまでの社会は学歴
 エリートになればよい会社に就職できたり幸福になれると思い込んできた。彼らはある意味では
 こういう世間の思い込みの犠牲者ともいえる。また、いまはちょうど学歴エリートが市場社会にお
 いてだんだん通用しなくなってくる時代の狭間である。かれらはそのギャップを受け入れることも
 できず、また自らを慰める知恵も処世術も持ち合わせていなかった。

  優秀な学歴と高いプライドをもっていれば、これからはやりにくいのかもしれない。学歴が高け
 れば、どこもかしこも優遇してくれるなんて、もともとまやかしの虚構だったのだろう。そんな世間
 の詐欺文句にだまされれば、現実との着地点をどこにも見出せなくなるだけだ。

  学校社会というのはヘンな幻想をつくりだしてきたのだろう。学歴のプライドや自尊心というのは、
 現実の仕事や金儲けに精を出すことを妨げる。あるいは社会の待遇に我慢できなかったり不満を
 もちやすい。違う方向の、たとえば知性とか頭脳とかの自尊心を育ててしまって、なかなか現実の
 仕事になじめないという傾向があるのではないだろうか。

  学歴エリートへの過剰な思い入れが世間から一掃されるまで、なぜあんなエリートが?という
 事件はまだ終らないのだろう。




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  つぶやき断想集 第二集

  すこし長めのエッセー集です。「エッセーのバックナンバー集」

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