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 ■040620断想集




 ジャーナリズムはなぜ被害者意識に凝り固まるのか?      2004/6/20


 斎藤貴男の『機会不平等』(文春文庫)を読んだが、拡大する不平等に戦慄を感じたというよりか、ジャーナリストってなぜこうも被害者の目線からしかものを見れないのかという違和感が先に立った。

 この本はアメリカ流の市場原理主義による階層拡大に対する批判がメインになっている。たしかに悲惨で恐ろしいヴィジョンは現実になろうとしている。それに対する告発や批判は大切なことである。

 ただジャーナリズムはなせこうも被害者的な目線ばかりでものを見るのか、少々不快に思った。私の立場としては市場原理の論理性にはかなり納得してきたほうだ。フリードマンやハイエクの見解にはかなり感銘してきた。平等やそのための全体主義はもういやだという気持ちがしている。

 でも市場原理がよい世の中をつくるのかはまったくわからない。市場原理を徹底させれば、階級社会がほんとうにくるのかもわからない。市場原理はよいメカニズムをもっていると思うが、その先の結果はまるで見通せていないと思う。ただ不平等な階級社会はぎゃくに国家主義や企業主義ではない自由な生き方が可能になる社会がうまれると楽観はしているが。

 だから自由競争社会の悲観論ばかりに視線をもってゆくこの本には少々の違和感を感じたわけだ。不平等や階層化はある程度受け入れるべきだし、そういう社会ではぎゃくに違う価値観や多様な生き方をはぐくめる可能性があるのではないかと私は思っている。平等主義や福祉主義が人々の自由を奪うのである。

 平等を正義とした価値観だけで、人々を悲惨な境遇に描いたり、被害者だけにはしてほしくないと思う。平等を正義にすると、そこから外れる人が悲惨で救いようのない存在にされてしまう。

 われわれは社会に出ると大なり小なり権力や階層のような存在を如実に、あるいは微妙に知るし、自分の境遇や立場の違いをじょじょに理解し受け入れてゆくものだ。不平等や差別があったとしても、それを受け入れて生きてゆくしかない。これが世の中の現実というものではないか。超えられない、変えられない立場というのは厳然とあるものだし、人々はそんなことを関係なしに自分の境遇を肯定したり、自分の生き方に誇りをもったりするものだ。

 しかし平等正義感をもったジャーナリストの手にかかると、われわれは平等から外れた被害者で悲惨な存在になってしまう。当の本人はそんなことをつゆとも思っていなかったり、自分の境遇や立場に甘んじるしかない、または受け入れて自分の生き方を肯定してゆこうとしていることだろう。被害者意識や批判意識だけで世の中を渡ってゆくのは損失とじっさいの被害をこうむるだけである。そんな人生は自分も肯定できないし、楽しめない人生になるだけだ。

 ジャーナリストはなぜこうも被害者意識でものを書こうとするのだろう。新聞が人気がないのは被害者意識に凝り固まっているからだろう。思い出せば、ニュースをふりかえってみると被害者ばかりが続出してきた。

 大店舗法に対する小売業の苦しさや、労働問題なんかも自らを被害者と規定した人たちが出てくる。マルクス主義や共産党の人たちから見ると、少しでも平等や国家の庇護が与えられないと被害者になってしまう。原爆問題なんかも被害者意識である。部落問題も完全に被害者意識である。

 被害者の窮状を訴えることは、「正義の味方」としてのジャーナリズムの面目を保てる。被害者という存在は加害者という「悪」を明確に立てれるから、正義と悪の図式化がかんたんになされてジャーナリストは正義の味方になれる。『水戸黄門』の構造である。被害者というのはジャーナリストが正義の味方になるための必要不可欠の弱者なのである。

 その正義の味方というのは国家にケチをつけるばかりで、なんでもかんでも国家に陳情しており、国家に駄々をこねるだけの存在である。ニュースというのは全能の国家に対する「いうことを聞いてくれないから文句をいってやる」の子供みたいなものに写る。ニュースというのは強くてなんでもできる「大きな政府」を必要とする存在なのだろうか。

 戦後の政府は多くの役割を担わされて社会主義国家=全体主義国家化してきたから、国家は全能の神のように国民の福祉まで面倒を見る義務も生じた。そこに差別や被害者の救済を担う役割も出てきたわけで、政府は彼らの存在がとても大きなものになり、また癒着も生じたのだろう。被害者であることは利権や利益になったのである。弱者であることが利益であるとはなんと変なしくみなのだろう。

 被害者は政府から利益をひきだすための便利なシステムになった。人々の共感や同情もとうぜん手に入れられる。ジャーナリズムもかれらの窮状を訴えれば、正義の味方になれる。こうして国家に対しての被害者続出のなさけない社会ができあがる。

 戦後サラリーマンが増えたことも被害者意識の拍車と無関係でもないだろう。責任は自分ではなく、すべて他者にあり、それも国家がすべて悪いと唱えてまかり通るならこんなに楽な世の中はない。すべて責任は自分に帰ってくる自営業と違って、サラリーマンは責任をすべて会社や国家の責任にしても困らない。責任をだれかになすりつけておいたほうがよほど楽である。こうして被害者意識は増殖したのだろう。

 被害者になっておれば、棚からぼた餅でうまいことが転がり込んでくるしくみが戦後社会にはあったのだろう。だけど自分を被害者だと規定してしまう生き方はすばらしいあり方だとはとても思えない。他者に責任をもとめる思考法もおそらく自分のためにはならなかっただろう。自分に対する厳しさがまったくなくなってしまう。親のせいばかりにして自立できない子供となんら変わりはない。

 ジャーナリズムはこれからも理想に対しての被害者意識を煽ってくることだろう。われわれはいつも平等からこぼれ落ち、階層から転がり落ち、国家の庇護のない悲惨な被害者だと聞かされつづけるだろう。でも私たちはそういう境遇の中でも、人から悲惨だと揶揄されても、その中で生きてゆくしかないのだ。そんなことをものともせず、楽しく肯定的に生きるほうがよほど自分の人生に貢献すると思わないか。被害者意識なんか駅の売店にいっぱい売っているかもしれないが、頼まれても買いたくない。






 女性の低賃金は差別か、利益か       2004/6/26


 女性の賃金は安い。パートをのぞく正社員の男女差は男性が100だとすると女性は65.3だ。86年には59.7だった。パートをふくめたら51.2というデータもあるが、私の実感ではもっと安い気がする。

 さっこんのパートにしろアルバイトにしろ正社員の仕事とたいして差のないことが多いように思う。それなのにこの賃金の安さはなんなのだろうかと思う。女性のパートや学生のアルバイト、フリーターの給料の安さはなぜ正当化されるのだろうかとおかしく思う。

 パートやアルバイトは正社員の補助的作業だから安くできるという理由が漠然とあるように思う。でも補助的作業とはなんだろう。職場で働く以上、雇用者はフルに働かざるをえない環境にあるだろうし、努力もするだろう。補助か中心かはあいまいであるし、仕事にそんな分け方ができるのか。

 女性はいずれ男性に扶養されることになる身だから安くできるという理由もあっただろう。夫の家計補助のためだからパートの給料を安くできる。でも勤続年数の長いパートの働きを見ていると、その安さの正当化はとてもできないように見えるのだが。

 そもそも給料というのは身分や立場で決めることができるものなんだろうか。家庭の家計補助だから、いずれ男性に扶養される身だから、といって給料を安く決めてよいものなんだろうか。仕事の成果や結果自体で決められるものではないのか。立場で決められるのか。それなら独身女性や離婚した女性はぐんと給料を上げなければならないではないか。

 この給料の安さを男女差別だと見なして世の女性方は差別の撤廃をもとめてきたわけだが、この男女格差は不利益ばかりではなく、陰ならぬ利益があったことも忘れはならない。差別が損失ばかりだと見なすのは甘いというものだ。

 男性に扶養される身である女性は自立して生計をたてる責任から解放されていたし、労働の責め苦やプレッシャーからも身を守られていたし、出産・育児のときには扶養者に頼ることができたし、夫の稼ぎを自由時間に消費してよかったし、会社内では責任や義務からある程度はずされていたのでその分お気楽にレジャーや消費を楽しむことができた。女性の差別にはちゃんと利益があったのだ。不利益や損失ばかりだと見なすと、これまでの女性の差別されていたための利益を失う恐れがある。

 女性は男性に扶養されるという利益があり、この利益を手放さないで一方的に男女格差を差別だと主張するのは卑怯すぎる。専業主婦や男性におごってもらうという低地位だからこそ享受できる特権があるのに、不利益だけを主張するのはおかしい。女性はほんとうに扶養される利益を捨てれるのか。多くの女性はその利益を手放そうとはしていないみたいだが。その利益と決別してはじめて差別を批判してほしいものだ。

 低地位や低賃金というのは損失ばかりではない。カネではないべつの利益がある。高賃金や高待遇をめざした男性の働き方は会社人間や企業中心主義、長時間労働といったありかたをうみだした。高い給料には高い見返りを返さなければならない。男性たちは高待遇のかわりに会社に人生の多くを捧げる毎日を選択しなければならなかったわけだ。

 若者たちはそういう会社お抱えの人生を嫌ってフリーターの利益をのぞむ。低賃金や不安定の利益を欲しているわけだ。フリーターの低賃金を差別だと怒る動きがあらわれてこないのは、やはり享受する利益があるからだろう。ただデメリットが大きいのはたしかだが。

 高い給料や高い地位にはそれなりの見返りを返さなければならない。会社でのそれを欲そうとすれば、人生の多くを会社に捧げなければならない。高い給料をもとめれば、われわれは人生の多くの自由をあきらめざるをえない会社人間にならなければならない。給料が多いための不利益を世の人たちはもっとのぞむのか。男女ともども総会社人間化の世の中がいいというのか。

 カネの利益ばかり見ていると、ほかの利益が見えなくなる。利益が得られるのはそれなりの高い犠牲を払っているからだ。女性たちは高い犠牲を払って男性のような働き方をのぞむのか。男女平等や高賃金をのぞむとはそういうことではないのか。

 差別や低地位というのは不利益ばかりだとはかぎらない。利益の部分をちゃんと見つめるべきだ。新聞やマスコミはカネや地位の不利益ばかりを主張するが、その利益を手放したくない者たちはかれらの煽動には距離をおいて見るべきだ。会社に多くを奪われる人生がほんとうに利益なのだろうか。高い賃金をのぞむということはますます会社主義化してゆく世の中をのぞむということだ。二兎は得られない。





 河内飯盛山から大阪市街をのぞむ        2004/6/27


 四条畷からのぼる河内飯盛山から大阪市街をながめてみました。飯盛山は生駒山系の北のほうに位置し、大阪と奈良をへだてる山々としてそびえ、また大阪と京都をむすぶ淀川ぞいをはさんでおり、交通の要所でした。大阪市街や京都市街までの道が一望できる場所にあります。とうぜん中世最大の山城がありました。

 今日はとても曇ってました。写真が暗いです。でもすこしは大阪市街の風貌を知ることができると思います。

 帰りに東大阪・八戸ノ里駅にある司馬遼太郎記念館に寄ってきました。私はファンでもないし、ちょっとしか著作を読んでませんが、東大阪に住んでいたということで少しは親近感がありますのでいつかは行ってみたかったのです。


むこうが北摂山系で手前の生駒山系のあいだには淀川が流れ、京都へとつながっています。軍事上の要所となってきたところです。
中央に大阪の高層ビル群が写っています。大阪の市街地が石の粒のように見えます。
南のほうを写しましたが、むこうの山影は葛城山系なのでしょうか。
この木はなんていうんでしょうか。やわらかなグリーンが栄える葉です。
ふもとにある野崎観音で坊さんが経典をばらばらと大きく繰りながら祈願をおこなっておりました。坊さんも「パフォーマー」だなぁと思いました。真ん中の小さい女の子がなんともかわいかった。
司馬遼太郎の書斎です。庭のサンテラスに向かってイスがおかれています。落ち着いたところです。でもここは東大阪で、ちゃりんこに乗った大阪人が猥雑な感じをかもしているところです。
司馬遼太郎記念館の外観です。コンクリート打ちっぱなしの建築といえば安藤忠雄です。4万冊の書架がありました。私も読んだ本があったりしてすこしうれしかったです。やはり歴史書とか郷土史の量がすごかったです。でも物足りないところでした。もっと直筆の原稿や書き込みの資料を見たかった。







 山登りとはむかしの日本人を知ることである         2004/7/8


 若い人は山登りなんか好まないだろう。都会や消費、マスコミに価値をおき、田舎や自然や山を侮蔑するのがかれらの洗脳された価値観だからだ。自然を侮蔑するのは経済や消費に貢献しないからであり、かれらは経済活動と消費活動に邁進してもらわないと困るのだ。カッコよさや最新のものをもつことを競ったりしていったいだれのために走っているのだろうかと気づくことがあるのだろうか。

 山を登るととうぜん郊外や地方に行くわけだから、都会や都市ではないところにも人がたくさん住んでいて、暮らしがあるという当たり前のことに気づく。日本にもまだまだ都会だけではない田舎にもたくさんの人が住んでいるという常識的な事実にはじめて気づくのである。そういった人たちの暮らしにも興味が向くようになる。

 山奥には神社や寺、祠などがたくさんある。こんな山奥に人の営みがあり、住んでいる人がいるというのは驚きである。驚きとともに神や仏、または自然信仰といったものがまだまだ根強いことを知る。大自然の中ではそういった信仰の気持ちがなんとなくわかるというか、そういう気持ちを応援したくなったり、尊いものに思えてくるから不思議なものだ。

 都会には自然がない。すべて人工物だから崇めたり祭ったりという気持ちから遠くなる。でも山中の自然の中ではその美しさや壮大さに思わず崇めたいという気持ちになったりする。都会しか知らない生活の中ではおそらくそういった気持ちと無縁になるのはとうぜんである。

 山登りというのは電車やバス以外ほとんどお金を使わなくていい。頂上に上ったり、帰りの駅やバス停までのコースをたどると、一日のほとんどが爽やかな森の空気や山の展望を楽しみながらついやされることになる。けっこう充実した一日の使い方が、あまりお金がかからずに過ごせるのはありがたいことである。

 でも山に登ってもほとんどが中高年ばかりで若い人はほぼいない。女性のグループが多く、夫婦で登っている人や老齢に近い人が多い。なぜこういう人たちが集まるのだろうか。若い人はとうぜん都会と消費を好むからだろうし、中高年は消費が嫌いなのか、または女性は花々や植物が好きだからだろうか。このブームはほかの層まで広がることはあるのだろうか。

 私は観光地は嫌いである。観光地というのはヤジ馬根性が強すぎて、姿勢が真摯ではなさすぎると思うのだ。あまりにも情熱が弱すぎるのだ。そんな弱い気持ちで名所なんか見に行ってほしくないと思う。また、なぜか私は感動の気持ちを見知らぬ人と同じ場所で共有するのが嫌いである。都会の感情を共有しないルールに馴染みすぎているからだろうか。

 山というのは鉄道や車がない時代に人々が旅するときにはとうぜん歩いて越えなければならない道筋であった。だからげんざいのハイキングコースはむかしの人たちの道でもあったわけだ。おかげでむかしの人たちの旅は山の風景や渓谷などの絶景や奇勝を楽しめる旅でもあったのである。鉄道や車の旅はそういう楽しみを奪い去った。

 江戸時代のガイドブックの資料を見ていてびっくりしたのだが、ハイキングというのは江戸時代の物見遊山のコースとちょうど重なり合う。江戸時代の人たちは旅や物見遊山を多くなし、タテマエでは神社や寺の参詣を掲げていたが、風景や景色を楽しんだのである。ハイキングとは江戸回帰でもある。

 山登りの楽しみとして頂上からのながめがあるが、私はふもとの町並みや村の風景がながめられるのも好きだ。その土地独特の町並みや村のあり方が、山や川の地形にしたがって形づくられており、どのようにしてこの町はできあがっていったのかと興味がわく。その土地でしかありえない町並みがつくられてゆくのである。そういう景色をながめるのも好きだ。

 むかしの日本人はこうやって野山を切り開いて生活を営んできたのだなとむかしの日本人の姿が想像できていい。山のふもとの町や村はすこし前の日本人の生活の姿を彷彿とさせるのである。

 都会に多くの人が移り住んだのは戦後の高度成長以降で、それまでは大半の日本人が山間や山のふもとに田畑を耕して暮らしてきたわけである。はるかむかしから営々といとなんできた日本人の生活のすがたが、山のふもとの村から薫り立ってくるようだ。

 山登りをするようになって民俗学や歴史、神道学、風景学などに興味がわくようになったのだが、なかなか好奇心を満足させる本に出会うことがない。いったいどんな本が自分の好奇心にいちばんぴったりくるのだろう。本を探しつつも、おそらくはこれからもいろんな魅力を探りながら私は山登りにはげむことだろう。







 京都・東山をゆく         2004/7/11

 きょうは京都・東山トレールをのぼってきました。あまり魅力的なコースではありませんでしたが、京都の写真をお知らせします。


伏見稲荷駅をおりると托鉢僧がお経をとなえておりました。こういう姿ってあまり見かけれられないんじゃないかな。
稲荷神社の総本山である伏見稲荷大社です。きつねが祭られているということは陰陽道とか安倍清明にかかわりがあるのかな。京都・平安時代とは怨霊の時代でもあったわけです。でも商売繁盛の神様だそうですが。
こういう真っ赤な鳥居の回廊をひたすら登ってゆきます。神秘的でもあります。おじいちゃん・おばあちゃんがやたらいました。信仰が生きているのか、それとも寺社詣が趣味なのか。
山から京都を見ると、京都は山に囲まれていることがわかります。規模はかなり大きいですが、大阪のようには広くない。
鴨川のとなりを流れる小川ですが、京都の小川ってなんだか雰囲気がいいんだな〜。
京都といえばやっぱり鴨川でしょう。カップルが並んでおります。河原町などの繁華街がすぐ近くにあって、川が憩いの場所になっています。
鴨川の川床です。風流ですね〜。大阪も見習ってほしいです。でも夏場はドブ川が匂ってくるよな。




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『機会不平等』 斉藤貴男
文春文庫
 






















































































































































































   
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