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 ■070203書評集 いじめと集団力学


 ■対策の本を読みたかった。            2007/2/3

 『人はなぜいじめるのか―地域・職場のいじめと子ども時代の体験』 ピーター・E・ランドール
 教育開発研究所 1998/6 2500e

 


 原題は「ADULT BULLYING」――「大人のいじめ」である。いじめは子どもには見られるかもしれないが、大人になればもう起こられないと思われがちであるが、まったく間違っている。子どものいじめホットラインには電話をかけてくる人の三分の一が大人の相談者であるということがこの本の発端となったそうである。この本もビジネス書や社会問題の棚ではなく、教育関係の棚にあった。

 アメリカでは1993年度に職場の殺人は1000件を超え、強迫は600万、暴行は200万を上回っている。毎週15件の殺人がおこなわれていることになる。日本でもたまに職場の殺人がおこったりすると、ここまできたかという感をもよわせる。

 この本は心理学者による分析の本である。いつも分析の本を読んで思うことは、私は対策や実践の本を読みたいということである。「なぜなのか」ではなくて、「どうしたらいいのか」を問いたいときに、誤って分析の本を読んでしまうのである。心理学はドツボである。心理学の迷宮におちいった人には対策がほしいのではないかと問う必要があると思うしだいである。

 この本では「大人のいじめ」、「いじめの正の強化」、「地域の独裁者」、「職場のいじめ」、「いじめ人格、被害者人格の形成」、「職場のいじめの防止と解決」という章から成り立っている。実践ではなく、分析を知りたい人にはなにがしかの貢献があるだろう。私には回り道の本になっただけである。

 私の見聞からして、職場の人たちはかねがね親和的である。学校の無防備でだれからも守られていないという気分はないし、暴力的で脅迫的な力を競合するような場ではない。学校よりマシだろう。ただし、仕事面や業績面での正当化を得たようないじめはあるだろうし、集団でのいさかいやいがみ合いはけっこう深刻にエスカレートしたりする。私はだから集団での関係をうまくまとめたり、操作する知識がほしいのである。

 いじめのストラテジーを紹介しておこう。

 自己主張訓練
 ・積極的傾聴/反省スキル 加害者の言葉を跳ね返して反省をせまる。
 ・断続的言及による説得スキル ポイントを反復することによってそのポイントに戻しつづける。
 ・批判の操縦 批判者に対して批判を受け入れ、「さて、それはあなたの見方にしれませんね」とコメントを返す。また否定面の尋問として、どこが否定されるべきかもっと教えてほしいと要求する方法である。根拠のない言い訳をしなければならなくなる。
 ・フィードバックを与えること受けること 加害者は困惑した情緒的反応を期待しているのだが、スルーしてかわす。
 ・非言語コミュニケーション 身体的・心情的な苦痛の明白のサインを出して、目的どおりの恐怖を与えていると思われてはならない。

 いじめ加害者との対決
 1 対決が有効であることを理解する 対決は加害者に驚くほどの外傷を与えることができる。
 2 時間と場所を選ぶ 対決はプライベートに。
 3 比喩的に言わずに行動を特定する 加害者に自分流の解釈を与えてしまうため。
 4 単純さを維持する 動機の解剖を対決の場でするべきではない。
 5 影響について言う 被害者がひとりではないという事実を喚起させる。
 6 メッセージを強化する 加害者はいじめにより意志が強くタフであると人から見られると思うのだが、人からはみみっちい、心が狭い、無知、侮辱的であると見られるだけという悪評を知らせる。
 7 代案を示す いじめではなく、ほかに生産的な仕方もあることを示す。
 8 サポートを得る
 9 人事/人的資源部の役割 組織内のハラスメント対策を多くの人は信用せず、いじめは辞めてから発覚する。
 10 最上層に訴える 加害者が社内で評価されていれば不利になることがある。
 11 注意深い記録をとる

 いじめの対策はだれもが知っておくべき知識である。この本の事例にもあるが、エリート社員でも51歳のときに人員整理や組織再編のためにいじめの対象になってしまうこともある。自尊心がおとしめられ、うつになったり、職場外傷(ワークプレイス・トラウマ)をひきずってしまうようでは、人生の損害と損失である。またいじめや集団抗争がおこったりすれば、企業の経済的損害が膨大なものになるのはいうまでもない。

 私たちはいじめのストラテジーを身につけることが必要である。そして正義と道徳の感覚をしっかりと保持し、行き過ぎを警戒すること、またみずからの自戒も慎重に保持しなければならないと思う。人間同士が傷つけ合ったり、おたがいを壮絶な痛みや怖れにさらすような関係はぜひ拒絶したいものである。





 ■グループの恐ろしさと残酷さ          2007/2/6

 『子ども社会の心理学―親友・悪友・いじめっ子』 マイケル・トンプソン
 創元社 2001 2000e

 


 学校時代の友だち関係やクラスメートの関係っていったいなんだったのだろうと思う。どうして階層序列やグループ分けができたり、仲間外れやいじめがおきたり、ある人と友だちになったり分かれたりしたのか、校内暴力や残酷さが闊歩したのかと、謎だらけの集団を泳いできたものである。

 いまだによくわからない。あのとき私はなぜあの集団の位置づけにいたのだろう、あの友だちはなぜグループ外の友だちとよくしゃべっていたのだろう、中学校の男女の口の聞かない関係はなんだったのだろう、荒れた中学ではなにが競われたりこのような暴力的な環境になったのだろう――学校の集団関係というのはその中にいながらなにが起こっているのかよくわからないものであった。

 この本はそのような友達・集団関係の変遷をみごとに追体験させてくれる本である。なにが起こっていたのかを多くの成長期にある少年少女たちの世界を垣間見させてくれる。友情の芽生えや特性、グループの掟や残酷さ、そして人気戦争や権力欲求、男女の避けあった関係から恋愛の目覚めなどが描かれている。

 なによりもグループやクリーク(徒党集団)の掟や残酷さに翻弄されなければならなかった経験に注目すべきだろう。仲間のために友情を裏切ったり、掟のために陰口や残酷さを発揮しなければならなかったり、ときには恐ろしい集団行動の暴走に巻き込まれたりと。グループやクリークとよばれるものは破壊的で残酷な力を発揮するものである。看守と囚人の実験で起こったようにグループや役割は人を残酷な存在に変えてしまうのである。

 グループの掟には次のようなものがある。仲間と同じであれ――同調圧力であり、その圧力から逃れられるのは不可能とまでいわれている。グループに属すべしという掟――それは仲間外の人たちの軽蔑の念を生むものである。入れ、さもなくば、出ていけ――同じ人を嫌いになる排他的な力である。身分をわきまえよという掟、役割を果たせという掟――ときにはモラルを踏みにじる残酷な役割もこの掟から発生するのである。

 グループはルール違反をする子に社会的制裁をはたらかせる。悪口や排斥、イジメやシゴキといったものである。グループはこのような制裁の役割や正義の役割の仮面をかぶりだすと、最大の残酷さを発揮するものである。集団はみずからがルールや制裁の執行集団となるがゆえに歯止めなき残酷性や横暴さを発揮するのかもしれない。制裁集団の正当化がイジメや排斥を歯止めなきものにしてしまうのだろう。

 私にとってこのグループや集団の関係やルールというのは、長年の知りたいけど解けない問題でもあった。グループや集団関係でつまづいたり、痛い目にあったり、退散の憂き目にあったこともあり、そういう知識やスキルがほしいとずっと思っておきながら、いまだにその賢明なスキルを得られていない。もう集団から逃げ腰である。

 どのジャンルやどの本にそのスキルや知識があるのかわからなかったのである。けっこうイジメ分析やグループ分析の本にそのような知識があるのかもしれない。はやく長年の懸念が溶けるようにしたいものである。いや、あるいは人間にとっては解けもしない永続的な問題でありつづけるものなんだろうか。





 ■制御できない無意識の集団          2007/2/11

 『「いじめ世界」の子どもたち―教室の深淵』 深谷和子
 金子書房 1996/4 2300e

 


 この本には77例のいじめ体験のレポートがのせられているが、本人たちがなにがおこり、なにがなされていたのか、いちばん知っているみたいだ。わかっておきながら、集団の力や流れを自分で止めることも抗うこともできないのである。

 集団の力学というものをだれひとりとして制御できないのである。いうなれば集団は無意識の薄明にとどまり、いまだ理性の光は当てられていないのである。

 かつては「弱い者いじめ」は人としてすべきではない軽蔑されたものであったが、大人でも弱い者いじめがまかり通り、「女の子、小さい子、弱い奴をいじめるのは恥」というルールが失われてしまったのである。この文章を読んで私もはっとしたが、そういう最低限のプライドやルールさえも忘れられる世の中になってしまったのである。

 たしかに日本では自分の人権を守ろうとしたり他人の人権を尊重しようとする意識がほぼ欠如しているといっていいだろう。また自己主張をしないことが集団への適応の仕方であったのなら、ほぼ絶望的に理不尽ないじめがはびこる世の中になる。子どもに起こるいじめとはこの日本社会の集団制御の不可能性をそのままあらわしているのである。いわば、いじめは日本の権力構造をそのままなぞっていることになる。

 いじめられる因子として四つあげられていて、「おとなしい、暗い、無口」などの「弱者因子」、「理屈っぽい、威張っている」などの「目障り因子」、「勉強ができない、不潔、貧乏」などの「劣等因子」、身体欠損や顔が変などの「ハンディキャップ因子」である。

 これらはすべて社会が暗黙にもつ価値観やヒエラルキーをあらわしており、子どもたちは無意識にそのヒエラルキー攻撃をおこなうのである。いったら、公認の排斥対象である。消費社会や政治構造が暗黙に底辺に排斥するものをターゲットにするのである。正義や道徳が失われて、ヒエラルキーだけがのさばっているこの社会を見事に露呈しているといっていいだろう。

 担任の八割はいじめに気づいていて、「あの子がいじめられるのは仕方がない」と思っていじめを肯定していると勢いづけたり、教師や学校という存在自体が価値序列やヒエラルキーを叩き込み、矯正する存在であるのだから、子どもたちはその正義の代行をおこなっているのだと正当化するし、いじめを傍観するほかの生徒たちは暗黙に支持していることになる。いじめは「非公認の矯正装置」なのだと認められているようなものである。

 私の学生時代ははるか二十年前に遠ざかり、記憶もかすかになってきたが、小学校は楽しく無邪気に暮らし、中学ではすさまじい不良集団や暴力競争に巻き込まれて、孤立を恐れ、集団にしがみつかなければならなかったいやな経験から、私はすっかり集団でのつきあいを厭うようになった。いまはようやく孤独でひとりで楽しめる生活に帰れたと言ってもいいか。もう二度とあんな中学には戻りたくないと思う。

 登校拒否は昭和三十年代後半からおこりはじめ、いじめ問題は1983年にNHKでとりあげられてから大きな社会問題として浮上することとなった。それから三十年、いじめ自殺や精神的後遺症を多くの人に残しながら、いじめはまったく解決されてこなかった。かつてより陰湿で残酷になったという風評を聞いたりもする。そんな環境下で暮らさなければならない子どもたちが悲惨である。

 大人になれば、子どものような残酷で暴力的な集団はなくなる。いや、方法は洗練されるだけかもしれない。しかしつくづく集団でいることは難しいことだ。日本の集団はあまりにも無意識である。そしてたぶん集団を分析した知識があまりにも少ない。私たちは日本的集団を制御・コントロールする知識や技法が早急に必要なのである。





 ■日和見の知恵をつたえる               2007/2/12

 『天気で読む日本地図―各地に伝わる風・雲・雨の言い伝え』 山田吉彦
 PHP新書 2003/3 720e

 


 むかしは各地に天気を読む日和見(ひよりみ)という存在がいた。そのような天気や季節、吉凶を占う存在が天や太陽の神と結びついたときに天皇という権力者に結実したと思われる。日知りは聖(ひじり)なのである。天気予報の発達により日和見という存在はだいぶ少なくなってきたのだが、この本はそのような各地に残る日和見の言葉をあつめたものである。

 民俗学の本というよりか、天候についての本といった感が強い。著者は日本船舶振興会に勤務しており、釣りを趣味としており、そのあたりから各地の日和見のいいつたえを集めようということになったようである。

 天候は地域によって異なる。天候を知ることは漁や釣りで海に出る者にとっては死活問題である。防波堤で高波にさらわれて釣り客が死亡するという事故がおきたりする。風や雲や山を読む日和見の知識がすこしでもあれば、防げたかもしれないのである。日和見掲示板なんかがあれば助かったかもしれない。サーファーなんか大荒れの日にかぎって喜んで海に出るが、かれらには風や波を読む日和見の知識をもっているようなのである。

 大阪のおだやかな天候の町に住む私にはぴんとこない話も多かった。大分県姫島村、壱岐島、伊勢志摩、津軽海峡、富山湾、湘南の天候はおろかその地域やロケーションすらよくわからないのである。せめてその場所に一度でもいったことがあるのなら、楽しめたとは思うのだけど。

 かわりに興味が魅かれたのは海難事故などのエピソードなどである。五島列島の北西沖で江戸末期、ある浦の働き手のほとんどといっていい五十三人が春一番の強風によって死亡した事故があった。その日はこんにちでも漁に出ないそうである。春一番はキャンディーズの歌によって春の到来を告げるうきうきしたものになったが、自然災害を多く巻き起こす恐ろしい暴風でもあるのである。

 伊勢の国崎は船が座礁しやすいところであった。このあたりの漁民は座礁した船の積荷を奪った。ときには船が沈んだということにして積荷を奪った。海が荒れるとかがり火でおびき寄せ、座礁させた船から積荷を奪ったりした。水夫たちも年貢米を各地の港で売りさばき、ここまでくると沈んだことにして逃げた。やがて役人に知られることになり、たかられ(みんな悪人のグルなのである)、その役人を殺す。500人の村民がつかまり、江戸で40人が獄死したそうである。

 げんざいでは船が座礁するとその船の責任で撤去しなければならないのだが、莫大な費用がかかる。根室で中国の船が座礁し、みんな逃げ出したという話がある。そういうときは国ではなく自治体が費用を負担しなければならなくなってたいへんである。鹿児島の志布志湾は台風のときに逃げ込んではいけない。湾口が南東のため逃げ場がなくなるのである。船は流されて真っ二つに割れたりするのである。

 あと雑学を少し。飯粒が茶碗につきやすいときは晴天がつづく。さらさらととれるときは雨気。乾燥の度合いがわかるということである。「天気は風で知る」ことが基本。高い山で雲の中を抜けると全身がずぶ濡れになる。雲は水滴なのである。飛行機雲が長く消えないときは雨が近いといわれるが、湿度が高いと消えにくいからである。

 天気予報によって各地の日和見のいいつたえはとだえようとしているが、むかしの人はそんなものがなくても天候を読む知識をひとりひとりがもっていたのである。これを近代の貧困化といって個人が文明によって、かえって無能力になるということである。文明のバカにひたりすぎるのは危険というものだろう。





 ■期待は大きかったけど。             2007/2/16

 『女の子って、どうして傷つけあうの?―娘を守るために親ができること』 ロザリンド・ワイズマン
 日本評論社 2002 1700e

 


 なんでこの本は親に向かって書かれたのだろう。思春期の仲間関係でいじめられたり、無視されたり、いやがらせされたりする当の本人は娘のほうである。この解決策や対処法をいちばん知りたいのはその本人自身ではないのか。本人向けに書かれた本であってほしかった。

 紹介したり、まとめるのがむずかしい本だ。なんだか私の頭の中でまとめにくい。それから仲間や集団の中をうまくわたる技術を教えてくれそうな本に思えたのだが、読み終わってもなんだか懸命な知恵がついたという読後感もない。コマ切れな雑誌を読んだような感じかな。

 思春期の少女たちは派閥や権力争い、美人コンテストや意地悪な女の子たちに囲まれながら、その救命ボートにしがみついて、生き残ってゆかなければならない。それらの暴力から身を守る術を教えるNPOのエンパワー・プログラムをおこなっているのが著者である。少女たちはどのような世界に足を踏み入れているのかの解説はよくわかるのだが、どうも解決策を得たような気にならない。

 女の子たちは仲良しグループに入り、その派閥の中でいじめられたり、傷つけられたり、たいへんな関係の中をすごさなければならなくなる。これは集団の中で生きなければならない人間の宿命だ。女の子たちに特徴的なことは陰で悪口をいったり、うわさ話をしたり、やきもちをやいたり、競争心が強く、友だちを選ばせたり、裏切ったりすることだとされている。

 著者は派閥にはそれぞれのポジションがあると説明している。女王蜂にナンバー2、銀行家、浮動層、板ばさみの傍観者、おべっか使い・とりまき・メッセンジャー、ターゲットである。この社会的地位を維持するために少女たちは自分を犠牲にし、派閥に属するために自分の思い通りにできなくなり、弱い立場の味方をするようにと教えられた少女たちも残酷で冷酷なおこないをするようになるのである。派閥というのは救命ボートであり、援助が来るまで何年かそこで過ごさなければならないほかの選択肢がないものなのである。

 救命ボートはゆり動かされ、いつだれかをいじめや仲間外れのターゲットに絞りこむかわからない。のけ者にされたり、だれからも相手にされないようにならないよう、この派閥という救命ボートにしっかりしがみついていなければならない。たとえ友だちが自分を傷つけたり、みじめにする存在であってもである。そうやって派閥の地位や序列は維持されてゆくのである。

 これは少女のみならず、すべての人間に共通する集団や仲間関係でおこる事柄だろう。男でも女でも同じことだ。ただ女性は陰湿で内輪もめが多いと伝え聞いたりする。集団で生きることは人間にとっていつまでも終わらない難問でありつづけるのだろう。そして傷つけあい、おたがいをおとしめあい、もちろんときには楽しみや救いも多くもたらすものであるが。

 この本は期待は大きかったのだが、いまいち満足できるものではなかったが、ぜひこのような本やプログラムはもっとたくさん出てほしいものである。集団の中でのいじめや傷つけ合う関係というのは、一刻でも早く脱出したいものである。その解決策があるのなら、ぜひ教えていただきたい。私たち人間は集団の中で、茫然としながら、人を傷つけたり、あるいは暴力の中に巻きこまれたりと、のっぴきならない日々を送っている。「Help Me!」である。あなたは集団の中でうまくやりつづけられる自信とテクニックはありますか。





 ■やはりHOW TOを読みたい。           2007/2/17

 『職場はなぜ壊れるのか―産業医が見た人間関係の病理』 荒井千暁
 ちくま新書 2007/2 700e

 


 崩壊した職場をいくつも見てきた私としては、産業医のものの見方はどのようなものか知りたいと思ってきた。人間関係が荒んでいたり、集団でのいじめが発生していたり、クビクビとしょっちゅうのたまわる上司、上司同士の争いごとがおこったりと、そういうひどい職場での解決策はないものかと思ってきたものである。

 この本は「職場はなぜ壊れるのか」というタイトルずばりの本ではあるが、残念ながら私にはあまり読む価値ないものであった。私はHOW TOを読みたいのであって、エッセイではない。

 この本ではおもに成果主義の弊害がとりあげられているのだが、私は職場でのもっとベタな人間関係や集団関係のことを知りたかった。職場の人間関係というのはひじょうに泥臭いものでなりたっているように私には感じられる。だれかれが好きで嫌いだとか、あいつは気に食わないだとか、仲間になじめないだとか、会話にうまくとけこめないだとか、ランチにひとりでいけないだとかの、もうほんとに動物なみの人間関係がメインにあるように思う。そういう問題の解決策はないものなのかと長年私は思ってきたものである。この本はそういう期待に応える本ではない。

 職場での個人的な問題は集団の闘争に発展しやすい。もうあきれかえるというものである。いろんな人の私情や思惑をはさみながら、大きく職場全体に波及してゆくものである。なんとか止める方法はないのか、防ぐ手立てはないのか、職場の複雑の人間関係はどうやったらうまく良好に保つことができるのか、むずかしいことだらけである。そういうことにぴったりの本ってないものなのかな。そういう問題の処方箋は産業医でもかんたんには解くことができないものかもしれない。





 ■集団暴君の無法状態               2007/1/22

 『いじめ―教室の病い』 森田洋司/清水賢二
 金子書房 1986 2330e

 


 86年に初版が出されたかなり本格的ないじめ研究書である。さまざまな角度からいじめが分析されていて、内容はとても充実している。多くの考えさせられる考察を読むことができた。けれどもいじめの災禍がいまでも終わってないのはいうまでもない。

 いじめの原因はさまざまにとりあげられているが、私はこの本から考えるに、最大の原因は成績下位として烙印を押された落ちこぼれたちが自身の自尊心回復のために非行や校内暴力に走ったことと同じ構造がはたらいていると見る。つまりは異議申し立てが教師や学校へと向かった校内暴力から、ほかの者の自尊心をこなごなに打ち砕くいじめに変わったのではないかと思うのだ。知識のヒエラルキーの転覆が、他者の自尊心破壊へと走らせるのである。

 いじめっ子は成績下位が四割を占めていて、いじめられっ子の成績下位は三割、上位は二割である。いじめっ子といじめられっ子は同じ負の刻印を打たれた者同士であることがいじめ問題の本質であると著者はいう。上位が二割を占めているのは基準の下でも上でもすこしでも外れると叩かれるように現在ではなっているのである。優れていることもターゲットである。

 いじめ問題が騒がれるのはそれだけ現代社会にも共通した問題があるからこそ、人々の関心をひきつける。日本社会は「集団圧力」というものにまったく無防備であり、なんの守る術も手立てもないことをあらわしている。仲間に属すれば画一化、均質化の縛りはかなりきつく、外にはみ出せば、集団防衛の手立てがとれず、集団いじめや集団圧力の犠牲になる。つまりは日本人は集団というものからまったく守られていないがために集団の荒波に呑みこまれるか、集団からいじめや暴行を受けるしかないのである。そういう集団の無法状態が巣食う社会にいじめは蔓延しつづけるのである。

 日本人はほんとうに集団から守られる知恵も技法もない。集団が暴君であり、専制君主であり、最大権力でありながら、そこから守られる技法をひとつも開発してこなかったのである。かつては「弱い者いじめは恥だ」という感覚や、「集団で力を得ることは卑怯だ」という観念があったはずである。その感覚や倫理観がいつのまにか消滅してしまった。そのような歯止めのなさが集団権力の暴走を生むのである。

 いじめには加害者と被害者、それにまわりでおもしろがって見ている「観衆」と、見て見ぬふりをする「傍観者」の四層でなりたっている。いじめ被害の多さは、傍観者の人数と高い相関関係を示すという。いじめはそのようなまわりの者たちからの暗黙的支持や積極的是認からなりたっているのである。集団のハリケーンはもはやだれも止めようともしないのである。いや、止めようがないのである。

 日本人は暴走し出した集団をコントロールすることがまったくできない。それは大人社会で「場の空気」や「雰囲気」を読めという諭しによってもうかがわれる。場の空気や集団が歯止めなき「神」になってしまっているのである。日本人はこの集団というものの危険性や害悪を鋭く警戒視してこなかったために、さまざまな悪弊をもたらしてきたのである。集団が暴君となり、圧力となり、暴走し出したとき、外部や内部の人間はそれをどうやって止めたらいいのか。この無力さがいじめをどこまでも野放しにしてしまうのである。

 学校というのは知の権力によってヒエラルキーや序列が決められてしまう制度である。自分がそのようなヒエラルキーの劣位に押し込められた子どもたちは、肉体的・暴力的な成長力を自覚し始めたときに、自尊心回復のために教師や学校に反抗や抵抗をこころみる。それが校内暴力となって80年代前半に公権力に押さえ込まれたとき以来、ほかの生徒たちの自尊心を自分たちと同じようにこなごなに打ち砕く快楽へと変わっていった。それはほかの者を思いのまま操ったり、自尊心を破壊できる自分の力の誇示であり、自信回復のこころみなのである。

 いじめにふたつの大きな問題がふくまれている。日本人の集団無法状態と、知のヒエラルキーというモノサシの問題である。知識産業への反逆と、集団暴走の歯止めなさが合わさったとき、いじめは暴走しつづけるのである。日本人はこのふたつの大きな日本問題にどのような解決を見い出そうとするのだろうか。




GREAT BOOKS

 ■女の子の関係性による暴力            2007/2/26

 『女の子どうしって、ややこしい!』 レイチェル・シモンズ
 草思社 2002 1400e

 


 これはまちがいなく私が何年も前から読みたいと思っていた本だ。グレート・ブックスに選ばれるべきものだ。

 女の子どうしのいじめやいやがらせ、無視などをとりあげた本なのであるが、私もつくづく集団のむずかしさというものを思い知らされてきた。個人はいい人であっても、集団となると人間はまったく「別の生き物」になる。暴虐性や残酷性を発揮して、人びとを呑みこみ、手のつけられない状態になる。集団の力学に捉えられると、集団は「妖怪」になるといいたいくらいだ。

 だれもが経験したと思う。学校でのいじめや仲間外れの怖さ、そして仲間との不安定な関係やいつ切れるかもしれない友だちとの危うい関係。私はいつしかもうそんな集団との関わりはできるだけ避けたいと思うようになっていた。そしてどうやったら集団とうまくつきあえるのか、答えを探りたいと思うようになっていたのだが、驚くことに心理学や社会学では集団での関係がまったく研究されていないのだ。

 個人の心理学はたくさん研究されていたり、群集心理などはいくらか研究されているのだが、この仲間集団の研究というものがまったくなされていないのである。人間というのは個人が孤立して存在する心理的存在というものではまったくなく、ハナから集団人といってよい存在である。仲間や集団によって人間は変わり、動かされ、パーソナリティも決まる。それなのに集団が研究されていないというのは恐ろしいことである。

 この本では女の子の陰湿ないじめの手法を「裏攻撃」と名づけ、怒りや衝突を避けるために女の子は独特な遠まわしのいじめをおこなうとされ、直接的なけんかや対立をいとなわない男の子と違うとされているが、男だってそんなに変わらないと思う。非行や暴力的なものが禁止されればされれるほど、男のいじめも女性に似てくるのではないかと思う。

 女の子でとくに目立つのがひとりを怖がり、とにかく群れることだろう。「休み時間にひとりで歩くのはいやです」「ホームルームやランチの時間、廊下を歩く時にひとりきりにならないためなら――なんでもするだろう」「それはつまり、まわりから孤立しているということ。何か変なところがある、ということなんです」「「完璧な女の子」は「完璧な人間関係」とセットだと知っている」「人間関係の不安定さが女の子の日常を黒雲のようにおおっているために、孤立の脅威はいつも重くのしかかっている」「人間関係の技術が女の子の社会的アイデンティティを決めるとすれば、孤独は最悪の不幸である」

 女の子は友だちとうまくやることが期待されており、孤立することはその失敗の烙印なのである。女の子はそれが恐怖である。だからいじめやいやがらせがおこなわれるとき、徒党や同盟を組んで集団で無視されたり、いやがらせをされたりするのである。女の子の最大の恐怖が利用されるわけである。「関係性による暴力」という策略がもちいられるのである。

 このダメージやトラウマを背負った女の子たちは何十年たっても鮮明にその恐ろしさを覚えているというし、自分を虐待する友達であってもその仲間関係から離れられないのである。女の子のいじめは仲良しグループの内部で外に見えないかたちでおこなわれるのである。これはまさしく男女間で生み出されるドメスティック・バイオレンスの原型をとなるものである。女の子にいわせれば、それも「ひとりぽっちになるのにくらべれば、なんでもまし」なのである。

 「失敗の烙印」を押されたくないがために女の子たちはだれかをその血祭りにあげる。恐怖はだれかの贖いによって埋められるのである。これは男でも、どんな集団関係においても働いている基盤となるルールだろう。そしてその恐怖はその集団内において上や下にはみ出るものたちの縛りや同調化をうながし、人びとの自由や信条を奪い去ってゆくものなのである。

 私たちはこの集団というものの恐怖をどうやったら制御できるのだろうか。集団に支配されるのではなく、集団を支配すること。そしてどうやったら集団とうまくつき合え、集団の凶暴性やいじめの同調化に巻き込まれずに抗することができるのか、そのような知恵と技法がぜひ必要なのである。われわれはあまりにも集団というものを知らなさ過ぎるのである。

 著者のレイチェル・シモンズは女の子の攻撃性が社会的に認められていないため、このような水面下でのいじめがおこるといい、女性の攻撃性が認められる社会になることが必要だといっている。仲間とうまくやることが重視され過ぎる社会はぎゃくに孤立やいじめを生むのである。仲良しごっこは孤立という落とし穴を前提として成り立つ。仲良しは対立や外部が元からセットなのである。しかし攻撃性を表に出しすぎるのもな〜と思わなくもないが。まあ、内なる攻撃性を認識するのが大切だということである。

 白人中流階級とは対照的に黒人やヒスパニックでは怒りや不満は口に出す。相手と対決することは母から教えられるという。人間関係を最優先して「いい子」になるのは危険なのである。他人との衝突を避けると「クズ」の烙印を押され、もっとひどい暴力を受けるそうである。なんかこの話を聞いていて、すかっとした。

 私たちは集団やグループというものをあまりにも知らなさ過ぎる。だれもが学校や職場、家庭などで経験しているものなのに、研究の光が当てられることもない。そして集団の荒波の中をやみくもに泳いでゆかなければならないのである。この本はそのような集団の力学に光を当てた優れた本である。集団というものがどんなに凶暴で残酷なのか、白日の下にさらすだけでも大きな価値があるというものである。





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