バナー
本文へジャンプ  

 


 ■051002書評集


 ■名作のなかの階級観              2005/10/2

 『不機嫌なメアリー・ポピンズ
 ―イギリス小説と映画から読む「階級」』 新井潤美
 平凡社新書 2005 760e

 


 古典小説や名作映画のなかにイギリスの階級観をみせてくれる本である。というか私はこれらの古典をほとんど読んでいないので、あらすじ紹介や解説はかなり参考になった。

 オースティン『エマ』、フィールディング『ブリジット・ジョーンズの日記』、ブロンテ『ジェイン・エア』、トラヴァーズ『メアリー・ポピンズ』、モーリア『レベッカ』、ディケンズ『大いなる遺産』、フォースター『眺めのいい部屋』、ファウルズ『コレクター』、ウェルズ『タイム・マシーン』などの古典のなかにくみこまれた階級観を鮮やかにみせてくれる。階級をとおして読めない私たち日本人にはずいぶん参考になる本である。

 イギリスは階級社会だといわれる。だが、著者もことわっているとおり、厳密な経済的・社会学的な分類ではない。お金でも測れないのならそれは厳密に存在するのだろうかと不可解になる。言葉や発音でしっかりとそれはわかるそうだが、それはまるで日本でいえば方言の違いのようなものだろうか。客観的に存在するのか、主観的に存在するのか、よくわからない。

 それにしてもこの新井潤美という人の『階級にとりつかれた人びと』(中公新書)を前に読んだことがあるのだけれど、まったく印象にのこっていない。恨みや怒りから発せられたマルクスの「階級闘争」のような内容ならもっと印象にのこったかもしれないのにと思う。訴えるものがない。


 





 ■海は開かれた交通路だった               2005/10/8

 『太平洋――開かれた海の歴史』 増田義郎
 集英社新書 2004 700e

 


 海とは太古から開かれた「交通路」だったと私は思っている。だから海の見直しを図った本には興味がある。

 どちらかというと、私は古代のオセアニアにどのように人が住むようになったのかにボリュームを割いてくれればこの本はおもしろくなったと思うのだけど、ていねいに中世や近代まで太平洋の歴史を描いている。

 エクアドルの遺跡から出土した土器は縄文土器に似ているという説はかなり興味がひかれるのだが、それはプロローグにもちいられただけである。またアメリカは西洋人に発見されたといまだにいわれているけど、さいしょに移り住んだのはもちろんオセアニア人やアジア人である。

 もうひとつ興味があったのはオセアニア人がヨーロッパ人にどのように虐げられたのかという話である。個人的にはこの歴史に人間の優越と劣等の問題が色濃く表れているから私は興味があるのだが、そのテーマになにかをつかめたとはいえない。





 ■私たちは「なに」を買っているのか         2005/10/10

 『なぜ安アパートに住んでポルシェに乗るのか』 辰巳渚
 光文社ペーパーバックス 2004 952e

 


 かなりおもしろい。ふだん買い物に感じているいろいろなことを再確認させてくれるし、その意味も説明してくれる。「そうだ、そうだ」という気もちや、「あれはそういうことだったのか」と納得させてくれる。買い物は意外な発見に満ちているのだと教えてくれる本である。

 たとえば、カタログを隅から隅まで検討して買おうとするのは、失敗を避ける心構えであるということや、または選ぶのに時間かがかかったりして、迷う楽しさ、買うまでの時間を楽しんでいるといえる。買い物とは、プロセスを買うことでもある。

 コンビニでおにぎりを一個買いするのをためらったりすることがあると思うが、それは貧乏人と思われたくないからである。買い物というのは、自分をさらけ出す行為でもある。見せたくない「私」を店員に見せなければならないのである。たしかに私もコンビニの店を変えたりして、店員に顔を覚えられるのを懸命に避けていたりする。

 コンビニや店員ってけっこう社会の「門番」というか、「監視役」みたいもので、かなり神経を使うものである。無言の警察官のようである。オトナのものを買おうとするときも店員のカベはいつも立ちはだかっていたものである。店員とは規範や道徳でもあるといえる。

 いまの商品で文句をいいたいとするのなら、ドリンクやラーメンやスナック菓子などはしょっちゅう新製品ばかり出してきて、かなりうんざりしている。うまいと思って食べたくなったラーメンはもう売っていないし、新製品でないとそんなに売れないのかとあきれる。行き過ぎだと思う。

 タイトルの「安アパートのポルシェ」は収入と比例しない消費行動のことをいっている。収入のランクが上ったからこれを買うというスタンダードはなくなって、ほしいもの、必要なものだけを買い、あとはどうでもいいという消費スタイルが増えてきたということである。金額が「分不相応」というモノサシをもたなくなったのである。高いから売れるもなくなって、好きだから買うしかなくなった世の中だといえる。金持ちや貧乏人という単純な金のモノサシでは世の中は見えなくなったということだ。

 私たちは買い物で「なに」を買っているのだろうか。期待や探すという行為、人からどう見られるかということも買っているのである。買い物は結果から考えるより、その前の一連の行為を買っているといえるし、感情や情動も買っているし、なによりも「社会的地位」や「優越的自己」、「他人から見える自己」、または「幸せなファミリー像」も買っているのである。買い物の深さを堪能させてくれる本であった。


 ▼消費について考える本。
 





 ■経済成長は人を幸福にしない。           2005/10/13

 『経済成長神話からの脱却』 クライヴ・ハミルトン
 アスペクト 2004 1600e

 


 かなり考えさせられる名著であった。われわれはモノにあふれ返った豊かな社会からどこに行けばいいのだろう? 経済成長や金儲けしか知らない頭には強烈な冷や水を浴びせかける論考であった。ただし、私は5章から8章はほとんど退屈だったが。

 どこの国の政治も経済成長を最大の目標にしているが、それは幸福や満足とは結びつかない。西欧諸国もそうだし、日本にいたっては、1958年から1991年のあいだに実質GDPは六倍になっているが、人生に対する満足度はまったく変わっていない。それなのになぜまだ経済成長を求めなければならないのか。本書いわく「経済成長は幸福を作りだすものではなく、不幸によって維持されるものなのだ」

 「ほとんどの中流階級と多くの労働者階級の二十世紀アメリカ人にとって、人生とは休みなく"いい生活"を追求しつづけ、くり返し自分の無力さを思い知らされることだった」

 「世界でもっとも裕福な国民が、自分たちはみじめだ、こんな生活はいやだといい、そしてなにより、金持ちになるという過程そのものが問題を引き起こしている」

 われわれの社会はすでに必要なものは多かれ少なかれみんなもっていると感じている。しかしそれは消費者資本主義にとってはいちばん危険なことだ。そして企業や広告は商品のわずかな違いが、消費者の人生の質を大きく変えてしまうように信じさせるのである。

 「わたしはなにものなのか、わたしはなにものになりたいのか。意味とアイデンティティに関するこの質問は人間が発するもっとも深遠な質問だが、今日ではそれが車のラインやソフトドリンクのボトルのかたちに発せられている」

 「消費がもはや人類の必要を満たすためのものではなくて、その目的は今やアイデンティティを作りだすことにある」――みなさんはお気づきだろうか。私たちは必要のためではなくて、自分はなにものか、人とどう違うかを表わすためにむやみやたらにモノを買いあさる段階にいるのである。

 しかし、「人生を意味あるものにしたいという奥深い欲求をデザイナー・ジーンズで満たすことはできないのだ」

 「家族や友人とのつながりも含んだ社会的な関係こそが、一般的に幸福を決定するもっとも重要な要素だということだ」

 「人生の満足度にもっとも強い影響をおよぼすものは、意味と目的の感覚である」

 「幸福とは欲しいものを手に入れることではなく、すでに持っているものを欲しいと思うことなのだ」

 「モノの取得は共同体の意味を見いだすための手段となった。〜社会に認可された商品を買えば、それで帰属意識が購入できるとでもいうように。まわりにいる人々には目もくれず、われわれは共同体感覚をスーパーや服飾店の棚に探し求めた」

 われわれはこの「経済成長フェチ」の世の中から抜け出すことができるのだろうか。「お腹はいっぱいなのに、まだ足りない」と思わせることでしか、われわれは生活の糧を得る方法を知らない。ついでに私たちは人より「落ちぶれたくない」。これまでと同じように無意味と感じつつも、ほんのわずかに違う商品をつくりだし、購入しなければならないのだ。

 日本は大きな転換点に立ち至っている。大きな舵取りが必要なのである。新たな社会思想や哲学がつくられなければならない時代である。政治が意味ある人生を送れるような社会づくりをめざすべきなのであるが、その前に社会理念や哲学が必要なのである。


 ▼消費と豊かさを問う本。
 





 ■仲間の迷惑のために働く日本の職場        2005/10/15

 『まなざしに管理される職場』 大野正和
 青弓社ライブラリー 2005 1600e

 


 日本の職場は仲間に迷惑や負担をかけないために働くという指摘はまったくその通りだと思う。それも金銭的な報酬や労使関係より、もっと大事なことになっているのである。

 だから自主的な残業は長くなるし、有給のとりにくい環境が生まれるし、なんのために働くのかといったことや労使関係があいまいになったりする。仲間の評価のために働くのは一方ではやりがいを生むが、迷惑をかけたくないという過労死や働きすぎという負の側面も生み出すのである。

 今、アメリカでも日本的経営のチーム制をとりいれたおかげで日本のような働きすぎの兆候があらわれているという。欧米は従来、仲間のチェック機能がまったくなく、上司からの命令による「働かせる/抵抗する」という一方的な関係だけであったが、だからこそ労使対立が際立ったりしたのだが、その理由がこの対比によってよくわかるというものである。

 仲間の評価を恐れるために働きすぎをやめられない日本人という姿はひざを叩きたくなる指摘なのであるが、残念ながらこの本はその先の一歩も踏み出していない。私はだからどのような問題や影響がここからあらわれており、そしてそれを肯定するのか否定するのか、もし否定するのならどのような解決策を見いだすのか、といったことをいちばん知りたかったのである。ちょっとそこが腹立たしい本であった。

 仲間の罪悪感のために働くといったあり方から、契約や金銭報酬のために働くという方向にスライドしないと、つまりその力学の客観性を養わないことには、いつまでたっても日本人は盲目の労働主義から抜け出せなくなるだろう。日本軍の失敗もこのような集団力学から生まれたものだと見なせると思うし。日本の職場は盲目の職場集団になりやすいのである。


 ▼著者本人からメールをいただきました。たしかに「ではどうするか」に触れていないとおっしゃられておりました。欧米の限定された契約観の実例やありかたを学ぶべきなのかなあと思います。仲間の迷惑のために働く日本の職場という指摘は、日本企業の本質をつかんでいると思うので、ぜひこれからもこのありようを分析していってほしいと思います。

 HP 「<私>の研究と過労死」
 http://www.geocities.jp/japankaroshi/
 E-mail ohm40@nifty.com

 過労死・過労自殺の心理と職場
 






 ■西欧なみだったといわれてもな。。        2005/10/21

 『驕れる白人と闘うための日本近代史』 松原久子
 文藝春秋 1989 1524e

 


 1989年にドイツで出版されたという本である。白人の優越感をくつがえすために書かれたということに興味をもって読んだが、内容のほうはたいしておもしろくなかった。

 日本は明治以前に工業化された社会をもっていたから、西欧なみに工業化に成功したのだという本である。というか、こういう主張はあまり自尊心をくすぐるものではない。西欧化のまえに西欧なみの土台をもっていたと後づけ的に説明されても、あのときは負けてなかったと弁明しているだけのようにしか思えない。勝者は西欧であるといっているようなものである。

 西欧人の優越感をくつがえすのなら、近代以前のヨーロッパの後進性をあげつらうことが叶っていると思うし、オリエントの世界を劣等視し、侵略や虐殺をおこなってきた歴史の残虐性を垣間見せたほうが効果があると思う。

 この本は日本経済が世界の頂点に君臨したかのように思われたときに出版されており、その理由を探るために読まれたビジネス書の位置づけができるのかなと思う。





 ■いやらしい顔をした日本人。            2005/10/24

 『ビゴーが見た日本人―諷刺画に描かれた明治』 清水勲
 講談社学術文庫 1981 900e

 


 講談社学術文庫は、外国人のみた明治前後の日本人の本を何冊か出している。どのような意図があるのだろうか。むかしの日本人を知るため?、それとも失われた日本人をなげくため? 私は失われた日本人の姿を知りたいという感じでこの本を読んだ。

 こっけいな漫画である。風刺のきつい漫画である。日本人が笑われたり、馬鹿にされたりする風刺のほうが多いのだが、日本人の風貌を絶妙に捉えていると思う。こんな日本人の顔ならいまも見たことがある!、といった顔ばかりである。じつにうまい。

 民俗学者の宮本常一は失われゆく日本の庶民の姿を記録したが、ビゴーは日常の庶民の姿を捉えたという点では宮元常一より絶妙に捉えていると思う。

 ▼参考にネットで見つけた絵をあげておく。まあ、こんな感じである。
 

 私のいちばんのお気に入りは79ページ、海の杭のうえにしゃがみこみ、頬かむりした情けなそうな漁師の絵である。なんか悲しそうな目をしているのだが、情けなさが笑える。日本人て手ぬぐいを頬かむりしたりするが、なんであんな情けない格好をできるんだろうと思う。

 もう一枚ケッサクなのが95ページ、ワイシャツや革靴、帽子といった洋装をしているのに、下半身はふんどし一丁というダンディーな男の姿である。むかしの日本人はこんな格好を平気でできていたのである。熱帯の島の格好である。

 ビゴーというフランス人は西欧化と土着のものがせめぎあう明治日本人のすがたを絶妙にスケッチしている。というか、えげつない性格や根性が丸出しにされたような、いやらしい顔をじつにうまく描く。顔とはその人の根性そのものであることを思い知らされる。





 ■のどから手が出るほどほしかった本。        2005/10/29

 『チームマリのビューティバイクレッスン』
 9-ten. 2005 1200e

 


 原付の問題集をやって原付免許をとって、ミッション・バイクを買って、あれ?と思ったのはクラッチやギアの操作法がわからないことと、街中にどうやって乗り出していったらいいかということだった。

 エンストばかり連発したり、右折が恐かったり、車とどう関係をもったらいいのかということが、実地にはまったくわからないのである。本屋で雑誌を探してみても、メカや製品関係ばかりで、初心者のための運転術の本がまったく見当たらないのである。

 のどから手が出るほどほしかった運転術の本だけど、女性の向けの本しか見つけられず、でもこの本は基本操作や街乗りのことがやさしく親切に書かれているので、買うことにした。どうして初心者のための本がないのだろう? これは教習所が教えるからなのか。

 まず私は徐行時にエンストばかりした。この防ぎ方を知りたかった。ギアを変速する意味も知らなかったから、四速で発進したりした。いまだに渋滞などでエンストしている。街に乗り出すときに左端を走るということは車の前を走ってはいけないということなのか、左端から右折するための車線変更の入り方や右折は車とどのような距離でいればいいのかなどが、まったくわからない。そういう基本的な疑問を解いてくれる本がほしかったのである。

 エンストばかりし、右折や車道をどう走ったらいいかわからなかった私にとってはこの本に出会えてたいへんうれしかった。まだまだうまい乗り方を知らない私は半分ビビりながら乗っているが、通勤のいい道を見つけたり、右折も何回かこなしたり、すこしは進歩しているのだろう。





 ■生きるために働いた人たち              2005/10/29

 『女の民俗誌』 宮本常一
 岩波現代文庫 1937-1971 1000e

 


 宮本常一のいいところは、シンプルに「生きる」ために働かなければならなかった庶民のすがたを見せてくれることである。

 現代は豊かになってフリーターやニート、専業主婦のように働く意味がひじょうに見えにくい時代になった。なんのために働くのすらわからなくなった。そういう時代の対比として、衣食住のためにあけくれなければならなかった昔の日本人の庶民の姿は、本来の働く意味を見せてくれるように思うのである。癒されるのである。

 宮本常一は「生業」に注目した記録者であったと思う。日本の地方に住む人たちはどのように生き、どのような生業で生計を立てていたのか、ほかの地域とどのようにつながっていったのか、といったことを膨大な旅の記録からつむぎ出してくるのである。日本の各地の人たちの生きる姿が手にとるように見えてきそうな気がするのである。

 日本の女性たちも男とともに当たり前のように働き、出稼ぎや奉公に出たり、行商や、ときには海外に売られたりした姿が、この本に記録されている。女性は働き手であり、婚姻も働き手としてもらわれていったという観が強い。専業主婦のような生き方はここからはまったく見えてこないのである。

 宮本常一の姿勢はつぎのような言葉に、私もたいへん共感をおぼえる。「新聞も雑誌もテレビもラジオもすべて事件を追うている。事件だけが話題になる。そしてそこにあらわれたものが世相だと思っているが、実は新聞記事やテレビのニュースにならないところに本当の生活があり、文化があるのではないだろうか」――私もまったく同感である。新聞やニュースは私の問題や生活をなにも教えてくれないのである。

 





Google
WWW を検索 サイト内検索

ご意見、ご感想お待ちしております。
 ues@leo.interq.or.jp

   
inserted by FC2 system