ビンボーはほんとうに「不幸」なのか
                   ――「豊かさ」の罠

                                               1999/3/23.






     ビンボーはみじめである。恥ずかしくて、恐ろしいものである。

     ビンボーが畏怖の対象ではないというつもりはさらさらない。

     見るからに汚らしい家、陽のあたらない家、狭い家、といったものを見つけると

    すぐ哀れだなとかみじめだなとか感じるし、お金がなくてモノを買えなかったり、

    電気やガスがとめられたりしたら、貧乏ほど心底コワイものはない。

     ビンボーは忌避すべきものであり、その恐ろしさはなみたいていのものではない。


     ではなぜビンボーは不幸なのかと問うかといえば、ビンボーから必死にのがれてきた

    戦後日本人ははたして幸福になれたかといえば――まったくそうとは思えないからだ。

     ビンボーは恐ろしい、食えない生活は二度と味わいたくない、といって戦後の人たちは

    がむしゃらに働いてきたわけだが、われわれ子どもの世代が手に入れたものは、

    モノやブランドに囲まれたまやかしの豊かさであり、子どものときからの受験戦争、

    朝から晩まで労働と会社に束縛され、生涯を拘束される労働中心の社会だった。

     子どものときから自分の人生コースが決められている束縛観や無意味観といったものは

    明日も知れぬ貧困の時代からは想像もできないものかもしれないが、飢えは一時的なもの

    だが、人生コースは生涯にわたって拘束されるひたすら「重い」ものである。


     貧乏な時代に二十年や三十年先の将来のために今日を我慢しなければならないことなど

    あっただろうか。子ども時分に老後の保障のために遊びより勉強を選ばなければなかったこと

    などあっただろうか。よい大学やよい会社に入るためにひたすら勤勉に律義に

    生きなければならない苦しさなどあっただろうか。

     貧乏な時代は貧乏という怖れに釘づけられなければならなかったが、

    二十年も三十年も先の生活のために拘束されるような現在の苦しさはなかっただろう。

     貧乏な時代のほうがもっと自由に気ままに生きられたのではないだろうか。


     われわれがめざした豊かな社会というのは、一生をそのようなくび木にかけられる、

    まるで監獄のような毎日だったのだろうか。

     豊かな社会というのは貧乏の怖れに劣るに優らないひたすら重い生涯の鎖を

    われわれに課していったのである。


     だからわたしは問いたいのである、貧乏はほんとうに不幸なのかと――。

     ビンボーの中にこんな生涯にわたる束縛感や拘束感はあっただろうか。

     この苦しみと貧乏の苦しみとどちらのほうがマシなんだろうか……。


     理性で考えれば、貧乏より豊かな計画的人生のほうがいいというかもしれない。

     でも理性だけで人間は生きられるものではなく、情念のほうがたまんなくなってくる。

     いいようのない不快感や不満がどんどんたまってゆく。

     昨今の学生たちがどんどん荒れてゆくのはその現れだと思う。

     明確な理由もなく、「ブチ切れる」とか「うっとうしい」とかいうのは、

    理性では反論のしようもない計画的人生コースへの不満からくるものだろう。


     よい大学や会社に入って出世してもたかが知れている、顔や個性のない企業の歯車

    としてのサラリーマンとしか生きる道がない、家庭やマイホームをもってもそれ以上の

    すばらしい、わくわくするような夢もない――そういったどんづまりの生涯がどんどん

    目の前にさらけ出されてくるのにその人生コースしか選択の道はない――やり切れない。

     しかも90年代からはトンネルのような大不況がつづき、企業はリストラ、

    銀行や証券などの安定企業も倒産、花のエリート人生コースも急転落下した。

     計画的人生の前提である企業がどんどん崩壊していったのである。


     ただこの件に関してはもう少し慎重にいいなおしておいたほうがよいだろう。

     表面的にはこういうことが多くなっても、終身雇用や年功序列はこれからも社会の中枢に

    居残りつづけるだろうし、計画的人生が王道でありつづけるだろう。

     扇情と大変化の未来予測は、いつの時代でも声高に叫ばれてきたのに、

    一向も変わらないというのがビジネス書やマスコミの正体でもあるからだ。


     貧困は逃れられる何物かもしれないが、その対極である豊かさも必ずしも幸福とは

    限らない。われわれ後の世代が手にいれたものは、生涯にわたって拘束される人生コースと、

    さしたる夢も展望もない機械反復のような労働だけの毎日だった。

     われわれはまたもや罠にひっかかってしまったのかもしれない。

     豊かな生活というのは生まれ落ちた瞬間から成金志向の親が莫大な借金を背負わせた、

    哀れな子どものようなものである。豊かさとは「詐欺」みたいなものだ。

     学歴にしろマイホームにしろ豊かな老後保障にしろ、あまりにも大きすぎる借金だ。

     豊かになればなるほどこのような借金は増えてゆき、なぜならもっとよい生活、

    もっとよい保障と、無限に期待と不安はふくらんでゆき、支払われるべき借金もふくらむ。

     豊かさというのはまるで雪だるま式の地獄のようだ。


     だから貧乏をやたらめったら怖れるのはやめておいたほうがいいと思うのだ。

     罠に驚いた獣がやみくもに逃げてほかの網にかかるのと同じだ。

     戦後の日本はまるでその獣と同じく貧困と敗戦の劣等感からがむしゃらに

    逃げ出してきたが、おかげで豊かさや勤勉の欠点や障害にまるで気をつかわなかった。

     「天国」とか「ユートピア」なんかどこにもなく、欠点はかならずあるものだ。


     貧乏をやみくもに怖れるのではなく、その心の豊かさに目をそそぐべきなのだ。

     未来への牢獄もなく、心配や不安は少なくてすむし、気楽で気ままな生き方ができる。

     ビンボーは豊かさゆえの苦悩や労苦を背負わなくてすむのである。


     古来の中国の哲学者や日本の仏教僧たちはなんどもそういってきた。

     ビンボーのよさを称える人なんて今日ではまずいないけど、心理学的にもなるほど

    そうだと思う。豊かさや地位は欲望と同じで限りなく肥大し、増殖する。同様に不安や

    恐怖、心配事、義務や維持もかぎりなく拡大増殖する。二十年三十年先もの生活を

    心配し、子どものうちから不安に駆られているのはおそらく歴史的にもまれにみる珍種で、

    現代の豊かなわれわれだけだろう。心の平安さだけでみてみると現代のわれわれは

    かなり苛烈な心の内面を生きている。


     ただ「貧乏=不幸×悲惨」という固定観念はかんたんには拭い去られないだろう。

     反射的にそのような図式が頭に浮かんでしまう。じつは貧乏=の図式にはもうひとつあって、

    「貧乏=劣者と敗者」というのがあるのだが、だからこそ豊かな時代のわれわれは

    強烈に怖れるのだが、この強迫観念はもういかんともしがたいだろう。

     この怖れのためにわれわれは豊かな社会を築くことができたのだし、

    これからもその恐怖反射によって人々はがむしゃらに働くことだろう。


     ビンボーを怖れたり、非難したりすることは悪いことではないだろう。

     ただそれを「恐怖症」や「強迫観念」にしてしまったら、心の安らかさが失われてしまう。

     人生が損なわれてしまう。まあ戦後の日本人のたいていはそうだっただろうが……。


     とりあえずは貧乏を怖れ過ぎるのはよくない、とだけ言うことにしよう。

     「豊かな」人生を棄てなければならなくなるから――。
     

    



     ご意見お待ちしています。   ues@leo.interq.or.jp 



   関連エッセイ

   「「貧乏」の誕生――中流階級社会における―― 99/3/17.

   |BACK99-97|TOP|断想集|書評集|プロフィール|リンク

inserted by FC2 system