「貧乏」の誕生――中流階級社会における――


                                               1999/3/17.






     貧乏はいつから恐ろしいものになったのか、あるいは恥ずかしいものになったのか。

     むかしは、貧乏はどこにでもあるものであり、さして恥ずかしいものではなかった。

     貧乏に強く耐え、あらがってゆく姿がりりしいと感じられてきたのではないか。

     だれもが倹約と節制を身につけており、衣服をつくろうことが当たり前だった。


     わたしは昭和40年代前半生まれであり、以前の貧乏観がどのようなものであったか、

    書物やドラマなどによってしか理解することができないが、かつての人たちの多くは、

    貧困の中に暮らしながら貧乏に対して毅然とした態度をとっていたように思う。

     それが高度成長が終わり、日本社会全体に豊かさが行き渡るようになると、

    貧乏がうしろ指をさされるような恥ずかしさに変わってきた。

     貧乏というのは飢えや死に直面するような非常事態ではなく、ただとなりの生活水準の

    モノやライフスタイルに達していないかという基準で測られるようになっていった。

     貧乏というのはただ平均的なライフスタイルの基準から落ちることと同義になったのである。


     子どもでいえば、みんながはいているアディダスのシューズを買えなかったら貧乏だとか、

    流行りのおもちゃをもっていなかったら、「貧乏」ということになった。

     貧乏というのは生活の危機に瀕するというものではまるでなくて、

    ただ他人と比べて見劣りすることのみを指すわけである。

     飢餓にさらされるアフリカや後進諸国とくらべれば、まったく「ブルジョアジー」なみなのに、

    人は「貧乏だ貧乏だ」と嘆くのである。


     このような「屁」のような貧乏観をもちながら、この国の人たちは貧乏を極度に恐れる。

     横並びから転げ落ちて、「顔がつぶれる」ことをかなり恐れるわけだ。

     ここからわかることはもはや「貧乏」というのは生活水準を表わす言葉ではなくて、

    「劣者」や「敗者」を言い表わす言葉に変化したということだ。

     人々は貧乏を恐れているのではない、他人と比べて見劣りすることだけを恐れているだけだ。

     中流階級の画一化という無言の圧力に恐れているだけなのだ。


     貧乏という言葉はいつのまにか劣者を意味する言葉になった。

     生活水準のみが人間の優劣を測るゆいいつのモノサシになった。

     つまり人間を測る基準は、この市民社会ではカネだけだよと宣言していることになる。


     貧乏観念は「人格否定」へとスライドした。

     人となり、人格、行いによって人は評価されるのではなく、まさにカネの多寡のみになった。

     ここにわれわれが貧乏を極度に恐れる原因がある。

     貧乏なのは生活水準が低いという状態を指すのではなく、

    社会的な「人格否定」を指し示しているわけだ。


     貧乏観念のなかに混入された「人格否定」――われわれはこれを恐れる。


     われわれはこの貧乏観念のなかから人格否定の恐れをとりだし、

    カネの多寡だけで測られる貧しい人間評価のモノサシを払拭しなければならない。

     漠然と不安を抱き、定義もきっちりとなされない恐怖は、

    ただやみくもに対象の恐怖感を増大させるのみである。

     貧乏の恐れ――つまり人格否定の恐れというのは、われわれをがむしゃらな強迫労働に

    駆り立てる原動力ではなかったのではないだろうか。

     われわれはその怖れのために朝から晩まで働きつづけなければならなかったのではないか。

     貧乏観念の恐怖という「神経症」にとりつかれていたのではないだろうか。


     貧乏の呪縛からとき放れたとき、われわれはもっと自由な生き方ができるのではないか。

     貧乏の怖れのためにわれわれはいったいどんな大事なものを失ってきたのだろうか。


     われわれはなぜこんなに貧乏を恐れるようになったのか。

     貧乏の恐怖というものが必要以上に植えつけられている気がする。

     プロパガンダ(大衆洗脳)はどこでおこなわれてきたのか。


     やっぱりテレビ・メディアなのだろうか。

     映像というダイレクトな影響力をもつテレビは人々を画一への強制と駆り立てる。

     消費社会の先兵たるテレビは「もつものはエライ、もたざるものは負け」だという

    メッセージを日夜送りつづける。

     「もたざる者」の心理的な恐怖心を担わされた者はモノ買いに走り、

    その補償としての優越感をまたもや、身近なもたざる者に押しつける。

     このような相乗効果によってテレビの画一化論理はますます押し進められる。

     この強制力というのは理性ではあらがいがたいほどの圧迫感をもたらすのは、

    だれでも知っているものだと思う。


     テレビ・メディアだけではなく、国家教育もこの貧困意識を徹底的に植えつけてきた。

     西洋列強にくらべれば日本国は悲惨なほどに貧しいという認識は、明治以降の近代国家が

    近代化をおしすすめるためにおおいに喧伝してきたものである。

     国家が貧困であるという認識は国民たちの向上心をおおいに盛りあげ、

    日清、日露戦争への勝利へとみちびいた。

     戦後の日本も貧しい貧しい、資源がないと学校教育などでやたらと聞かされてきたが、

    貧困は相対的なものであり、その当時も先進諸国とくらべるか、後進諸国とくらべるかで、

    かなり貧困感は違っていたはずだ。

     貧困観というのは国家をあげる高度成長プロジェクトにおいて、

    おおいにその原動力、発火源の役割をになってきたのである。

     江戸時代も飢饉がなんども襲った貧困と暗黒の時代だと思いこまされてきたが、

    最近の研究ではその「貧農史観」を見直すという動きがおこっているし、

    貧困というのはすべてがどこに基準をとるかでかなり変わってくる相対的なものである。


     貧しさは悲惨で悲愴なものであるという固定観念は検討されてしかるべきものだ。

     ほんとうに貧しさはなんの長所もない悲愴なものなのか。

     「貧困の神話」のカーテンをとりのぞいてみると、われわれはそこに貧しさという言葉だけでは

    くくれない豊穣で豊かな生き方、生活を見出すのではないかと思う。


     われわれは「アフリカは貧しい貧しい」と思い込んでいる。

     しかし当のアフリカ人たちにとってはそれが人生や生活のすべてであり、

    貧困が常態化している人たちにとってそれはふつうのことであり、とうぜん人生観や死生観も

    それによって打ち立てられているだろうし、楽しみも喜びもかれらにあるはずだ。

     アフリカが貧しいという固定観念はたんにわれわれの頭のなかにある一面的な

    思い込みにしか過ぎない。

     そしてその心理内容がもっとも威力を現わすのはかれらではなくて、

    われわれ自身の追い立てられる貧困への怖れではないだろうか。


     貧乏はただやみくもに忌避すべきなにかものかだけではない。

     かつての人たちは貧乏のなかにすばらしいものを見つけてきた。

     それは心の平安や清らかさであったりした。


     貧乏を恐れる気持ちは人々を物質的欲望へと駆り立て、人々の貪欲さや利己心を

    最大限にまでひきだし、そして失うことと守ることに対する多大な恐怖心をもたらすことになる。

     つまり心は落ち着かず、たえず不安にさいなまされることになる。

     かつての人たちは物質的欲望の行きつく果ては、つまるところ、この一点――、

    心の平安を乱すだけであるという結末を知っていたのである。


     貧乏も心を乱すのではないかという反論はもちろんである。

     ただ欲望の風船をたくさんもった人より、少なくもった人のほうが割れる心配は

    より少なくてすむのはたしかではないだろうか。


     かつての中国の賢者や仏教僧たちなどは貧困のなかに生きようとした。

     すべての問題は心のみの問題であると考えると、その平安をさまたげる心の欲望は

    いっさいじゃまになる。

     古来の賢人たちはそのことを知って、貧困のなかで生きたのである。


     現代のわれわれは拭いがたく物質消費社会のなかに生きている。

     カネをもっと稼いでもっとよいモノをという世界のなかで暮らしている。

     このほかの世界、価値観なんてまず知りようもない。

     貧乏を理想化する人間なんてバカか、新興宗教の商売人にダマされたと思うだけである。

     新商品広告と宣伝の世界しか知らない人間はそう思うしかない。


     それが幸福であり、なんの疑問も抱かないという「健常」の人はそれでいいだろう。

     でもこんな世界はタマンナイ、こんな生き方しかできない人生なんていやだ、

    と思っている人はこの貧乏観念にこめられた意味というものをいま一度、

    検討してみるべきではないだろうか。


     「貧乏」という恐怖心に釘づけされた人々はおそらくやみくもに経済道具としての人生を、

    人生の豊穣さも知らないまま、棺桶まで一直線でつっ走ることだろう。


     ウィリアム・ジェームズの言葉を最後に引用します。

     「私たちは、昔の人々が貧乏を理想化したのが何を意味したのかを

    想像する力さえ失っている。

     その意味は、物質的な執着からの解放、物質的誘惑に屈しない魂、雄々しい不動心、

    私たちの所有物によってではなく、私たちの人となりあるいは行為によって
     
    生きぬこうという心、責任を問われずともいかなる瞬間にでも私たちの生命を

    投げ出す権利、――要するに、むしろ闘志的な覚悟、道徳的な戦闘に堪えるような態勢、

    ということであった」

     「貧を恐れない人が自由人となっているのに、富に縛られている人が

    奴隷たらざるをえないのである」

                            ――『宗教的経験の諸相』 岩波文庫






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     「98秋 放浪と漂泊への想い」

     ビンボーはほんとうに「不幸」なのか」 99/3/23.

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