「あなたの心が悪いのです」断想集




    内罰的な心理学は相手にしない方がいいのだろう   2000/2/29.


 心理学を「権力」としてみる視線を与えられて、心理学とどうつきあうかということが目下のテーマであるが、そういう知識社会学からの成果となるような本はあまり見つけられない。

 自分なりの心理学を読んできた経験からして、「内罰的」な心理学は相手にしないほうがいいのだろうとしかいえない。自分を責めたり、さいなましたり、あるいは自分は異常だとか病気だとか犯罪者だとか思うようになるような心理学はできるだけそっぽを向くことだ。

 精神分析とか交流分析、加藤諦三の本なんかをわたしは好んで読んできたが、自分や家族を責めたりしてあまり後味のよい思いが残らなかった。そういう自虐的になるような本は、たとえ「真理」とよばれようとあまり心の中には入れないほうがいいのかもしれない。

 論理療法や認知療法、自己啓発書といった本は自分の思考や認識を変えようとする技法を説いているので、自分を責めるようなことはあまりないので、心の健康にはすこぶるよいと思う。

 認識や思考のスタイルが自分を不幸にも幸福にもするといった知恵は、ぜひ覚えておいたほうがよいのだろう。そういう考えからすると精神分析などの過去や自己をいじくりまわしたり、責め回したりするような知識は、自分の心と気分を最悪なものにして、傷つけるだけだろう。

 ただこういった技法は適応や順応、服従だけを強制する知識であると批判的な側面からは見ることができるだろう。しかし現代は社会変革も制度変革もほとんど不可能であるし、人々の意識にもないような時代である。無力で微力な個人は、とりあえずは順応して不快感やストレスをためないように生きるしかない。批判的に生きても社会はほとんど変わらないし、自虐的な認識を積もらせるのみになってしまう。

 人生をよりよく生きるためには、社会変革などの夢は現代とマッチしないのだろう。ただ心理主義化してゆく社会を批判的にまなざすという姿勢は保っておいたほうがよいのだと思う。なによりこういう傾向はなにを意味するのかという好奇心がとめられない。こういう側面からの知識が心理学やわれわれの行動をよりよいものにしてゆく契機になればしめたものだ。

 現代は外界や社会を変えようとする意志をすっかりとあきらめた時代である。そのような時代には認識のありかたを書き替える認知・論理療法や、思考を虚構ととらえ、消去するストア哲学やその先にある仏教、努力や意志のあきらめを説く老荘思想などが、どんどん人々に受け入れられてゆくのだろう。

 きたるべき21世紀は外界の夢や理想をあきらめて、すっかり宗教化してゆきそうな気配が濃厚である。よいことか悪いことなのか判断はつきかねるが、外界の操作に熱中した時代は終わろうとしているということだ。




       性格や心の問題だけで終らせたらだめだ   2000/2/26.


 かねてから漠然と心理学の内面へと向かう非難と、個人の性格へと非難が向かう犯罪報道などに不快感を感じていた。悪いのはすべて「自分の心」だということになってしまうからだ。

 このさいだから、鬱積がたまった心理学批判へのキャンペーンでもはろうか。心理学というのはすべての問題の原因を個人の心の中に帰して、「変わらなければ」と思わせる学問である。

 適応・順応を絶対とする学問である。そこには社会批判や経済批判などの視点が欠落している。現状の社会や経済を絶対化・神化してしまう権力である。

 犯罪報道の不快感の原因がわかった気がする。犯罪者の心や性格のみに犯罪の原因があったと断定することがほとんどだからだ。そして犯罪報道というのは犯罪とまったく関わりのない人たちの性格訓化や性格改造へと人々を仕向けるものである。

 心理学者はボロ儲けである。また権力の増大もはかれたわけだ。個人の内面を犯罪報道と手を結んでボロくそに叩くことによって、迷える子羊が心理学の門をたたくというわけだ。これは心理学者の誘導装置なのか。

 もっと社会学や経済学などは犯罪の原因や心理問題の解明にのりだして声を大きくするべきだ。すべての問題の原因を心にばかり帰する現在の趨勢をなおすためには社会学者や経済学者はもっと声をあげなければならない。

 さまざまな問題はほんとうに個人の心だけに起源や原因があるのか。もっと社会的な原因、経済的な原因があるはずである。個人の心のみが犯罪や問題をおこすのではなく、もっと社会的・経済的な複雑な要因からそれはおこされるはずだ。

 心理学者が幅をきかせる時代というのは、問題をすべて個人の心に帰する時代だ。個人の内面だけがたたかれ、検討させられ、改造させられたり、改革されるままでいいのだろうか。個人の心はいま、「戦場」になっている、あるいは「環境汚染」や「環境破壊」が広がっているといえるかもしれない。

 もっと社会的・経済的・政治的な原因や起源を解明するべきだし、その要因を明らかにするべきだし、解決の糸口も見出すべきである。人々はそのような方面に光をあてるべきだ。

 心ばかりを悪者にするな。悪いのは――あるいは悪の片棒をかついでいるのは社会や政治、経済であるかもしれない。そういう部分に人々は、あるいはマスコミは目をつぶりすぎている。

 みんな心理学ばかりを読んだり、心理学者の説を真に受けたりするより、社会学や経済学、政治学などに目を向けろといいたい。「わたしの心が悪いのだ」とうなだれるより、社会や経済などに問題や悪が潜んでいないかと、もういちど見回してもらいたいと思う。

 (もちろん心理学やセラピーのよいところはこれからも吸収したいと思うが、人間というのは社会的存在なので、この方面からの批判や解明といったものもより大切だと思うまでである。)




          「だれ」が悪いのか?     2000/2/24.


 心理学や精神分析は、問題があれば個々人の心のなかに原因があると考える学問である。「あなたの心が悪い」というわけである。そもそも心理学は個人の心の中のみを探る学問であり、社会や経済、制度、慣習などのしくみや矛盾ははじめから眼中にはない。問題はすべて「あなたの心の中にあるのです」というわけだ。

 精神分析やアダルト・チルドレンの交流分析などは問題の起源を幼児期や家族関係にあるとみなす。「あなたの幼児期もしくは家族が悪いのです」というわけだ。社会現象や社会制度、経済情勢などにまったく問題がないといえるのだろうか。

 心理学がブームになる時代というのは、さまざまな問題を個人の心にぜんぶ押し込めてしまう時代である。犯罪にしろ、幼児虐待やいじめ、社会不適応や社会脱落になるのは、すべて「あなたの心もしくは家族が悪いのです」ということになってしまう。ほんと、こんな心理学還元主義でだいじょうぶなんだろうか……?

 精神分析などを読んだり、犯罪報道の犯罪者心理の非難ばかりを聴いてきたわたしはかなり居心地の悪さを感じていたのだが、ロナルド・レインなどの反精神医学の存在を知ってほっとした。精神障害というのはまわりの人の捉え方いかんにかかっているということだ。

 またいろいろな問題の原因は心のみにあるのではなく、社会や経済、制度などがかかわっていると思うから、わたしの興味は心理学より、社会学や哲学、経済などに向かった。われわれ個々人の問題は社会や経済によってより多くひきおこされていると考えるほうが妥当だとわたしは考えるからだ。

 しかし現代の認識としては心理学のブームにあるように社会や経済が悪いのではなく、個人の心理が悪いという認識がまかりとおっている時代である。個人の心理だけを悪者よばわりして、それで問題が解決するのだろうか。社会や経済のありかたにもっと大きく深刻な問題の根がはっているのではないだろうか。

 このようにわたしは心理還元主義には違和感を感じていたのだが、自己啓発や論理療法、認知療法、ポジティヴ思考なんかのセラピー論はなかなかイケると思ってきた。悪いのは自分の心でも性格でも家族でもなくて、思考や考え方のスタイルだと捉えているからだ。これなら自分を責めさいなますこともなく、思考のスタイルを変えたらいいだけだ。自分を傷つけることもない。

 しかしこれは合理化や効率化の権力にみずから服従してゆく自己監視・自己管理の規律・訓練を身につけてゆくという批判もある。われわれはみずから権力に迎合していっているというわけだ。

 このような批判もあるわけだが、われわれ弱い個人は社会に適応・順応してゆくしか生きてゆく術がないのも現実である。適応・順応してゆけない苦しさは当の本人がいちばん感じていることだろう。そうしてみずから自己規律を内面化してゆくというわけだ。

 このような事態にたちいったのはやはり、心理学が人々の関心をより強く魅きつけるようになったことと、社会や政治、経済に問題の原因や解決方法を見出せなくなったからだろう。社会批判や改善方法の失敗があるのだろう。

 こういう趨勢に歯止めをかけるには心理還元主義ばかりを信仰するのではなく、社会や経済、政治などに問題の原因を探り、解決策や改善策を見出せるようにしてゆくべきなのだろう。

 個人の心理だけに問題や原因があるとはかぎらない。それ以上に社会や経済、政治などの情勢や抑圧が問題や障害をつくりだしていると考えるほうが妥当である。そういう問いかけをしてゆかないと、われわれはますます内面の訓化と自虐に追いたてられてゆくことになるのだろう。




        心理学の権力と心理還元主義    2000/2/23.


 森真一『自己コントロールの檻』の影響下のもとで心理学についてもうすこし考えてみたいと思うのだが、どのような問いを立てれば適切なのかよくわからない。ただいま流行りの心理学やセラピーを「権力」として捉える視点はひじょうに大切だと思う。

 セラピーが流行するということは人々は新たなる権力を自発的に心の内面までにとりいれようとしていることになる。セラピーは社会状況に適切に適応・順応するための知識になるだけではなくて、みずからすすんで権力に服従する知識になるということも忘れないようにしたい。

 権力とはなにか。森真一によると合理化・効率化の社会のなかで非合理・非効率な行動やふるまいをさせないための権力である。これは日常的な場では「困った人」や「迷惑な人」としてあらわれ、われわれはそのようなレッテルを貼られないためにいそいで心理学的知識(権力)をみずから内面にとりこんでゆくというわけである。

 そうなんである。わたしも心理学を読むようになったのは、日常の場においてそういう人にならないため、または違和感や自責感を払拭するためであったように思う。これは権力の要請や強制も含まれていたわけだ。

 しかしわれわれは困った人でありつづける無神経さもずぶとさももちあわせていない。そうして心理学的知識の出番とあいなるわけだ。

 心理学というのはとにかく個人の性格や人格をたたき、責めさいなむものである。マスコミの犯罪報道もとにかく犯罪の原因は個人の心や人格にあると非難し、その非難に恐れおののいたあわれなわれわれは自分の心や性格をいじくりまわし、責めさいなむ。こうしてわれわれは心理学の本をせっせと読みあさり、心理学的技法を身につけて非難される対象にならないように自分をつくりかえる。自己監視・自己管理、規律=訓練の技術を身につけてゆくということだ。

 われわれは自分の心や性格を変えなければならない時代に生きている。すべての問題の原因や起源はただ個々人の心の中や性格のなかにあるとされる時代である。心理学が人々にうけいれられ、マスコミでも心理学者がひっぱりだこになる時代は個人の心が責められる対象になる時代である。すべての原因はあなたの心のなかにあるというわけだ。「心の時代」というスンばらしいキャッチ・フレーズもこう考えれば末恐ろしいものだ。

 むかしは心をつくりかえる時代ではなかった。なにかの問題があれば、政治や経済が悪い、社会が悪いといって、政治改革や経済改革がおこなわれた時代もあったのだ。社会問題は個々人の心にあるのではなくて、社会や政治、経済が悪い、原因はそこにあると考えられていた。

 だから民主主義政治がおこなわれたり、フランス革命がおこったり、社会主義運動がおこったりしたのだろう。経済学の勃興や政治にたいする大衆的関心といったものも、問題の原因はそれらにあり、それを変えれば解決するという信念があったからだろう。

 いまではひとびとはすっかりそれらの信念をあきらめてしまった。政治革命も経済革命も社会革命もどれもこれもやってみたが、けっきょくはうまくいかなかった。もう変えるのは個々人の心の中だけであり、それだけが唯一の解決策だと思われるようになったようである。こんなに社会や経済、政治が悪いのはあなたの心のせいであり、合理的・順応的になるようにつくりかえなさいというわけである。

 心の改革がひそかにおこなわれつつあるということだ。でも政治革命や社会主義がかずかずの残虐な歴史や結果を生み出したように、心の革命もそのような運命や悲惨な傷痕をのこすことになるかもしれない。社会権力がむりやりおこなう改革というのはろくでもない結果を残すのみだという警戒を忘れないようにしたい。

 ところで政府や経済、社会の改革にのぞみをたくせなくなった社会というのは、あとの一歩のところで宗教にのぞみをたくす社会に近づきつつあるのだと思う。政府や経済なんかすっかりあきらめて、すがるものは宗教しかないというわけである。




          「心理主義化社会」     2000/2/22.

    

 わたしは心理学の本を好んできたほうだし、感情のコントロールという知識にも魅かれてきたから、森真一『自己コントロールの檻――感情マネジメント社会の現実』(講談社選書メチエ)という本には驚いた。無自覚に吸収している心理学やセラピー論が、「檻」として批判的に表現されているのなら、読まないわけにはゆかない。

 いまはこの本を読みおえてちょっとばかし呆然としている。自己コントロールや心理主義化という現象を批判的にみる観点に、大げさにいえば愕然としている。心理学やセラピーは自分を救うありがたい知識と思っていたのに、かならずしもそうとはいえない側面があることに気づかされたからだ。

 たしかに心理学にはかなり嫌いな面、迷惑な面もあった。いろんな問題をすべて個人の性格や心理に原因を帰してしまっていて、読んでいるうちに「自分は異常者だ、病気だ」という気持ちにさせられるし、マスコミは犯罪者を報道するたびに犯罪の原因を個人の性格や人格、または家族ばかりに帰している。こういうのにはたいがい腹が立っていたから、心理学自体が異常ではないのかと思わなくもなかった。

 ただセラピーにかんしては感情をコントロールできるということでかなりの知恵と恩恵を与えられたと思っていたのだが、この本のなかでは心理学というのはフーコーのいう権力の自己監視・規律=訓練の内面化の延長にあると指摘されていたのはショックである。みずから自発的に権力に服従する主体を、げんざいの心理主義化はうながしているというのである。

 いわばげんざいの心理主義化はテイラー・システムやフォード・システムなどの大量生産型規律が、個人の内面にセットされてゆく過程ということになる。だとしたら、かならずしもセラピー論も無条件で吸収するわけにはゆかなくなる。といってもセラピー論は現実社会を処理するさいにはとても助けになるのは事実であって、捨て去るわけにもゆかないと思うのがいまの感想だ。

 この本でもうひとつ指摘されているのが、人格崇拝の高度化・厳格化であり、この聖なる自己をおたがいに傷つけないためにさっこんの心理主義化があるということである。この人格崇拝があるために人は心理学でその規範や道徳と抵触しない方法を学ぶ必要があり、キレたり幼児虐待したりするのはこのルールを遵守しなかった者に向けられるというのである。

 この数年は心理学の本がよく売れるようになってきたと思われる。殺人犯の心理分析や『脳内革命』、ポジティヴ思考、カールソンの本、『EQ』とかアダルト・チルドレンとかがベストセラーになり、なぜなんだろうとぼんやりと思ってたりした。どうやら感情を飼い慣らすこと、生産的・合理的な感情マネジメントをするために必要になってきたということのようだ。

 心理学やセラピーはたしかに日常生活を生きるためには役に立つ知識を提供してくれるから、かならずしも権力の新たな手が内面化してきたというような恐ろしい面だけを捉えてしまうのは、わたしには承認できない。だけど、心理学を権力の内面化と捉える警戒感もこれからももちつづける必要はあるのだろう。う〜ん、とっても考えさせられる本だった。




        心理学の非難、社会学の非難    2000/2/22.


 心理学は自分を非難するようにしむける学問である。社会学は社会や集団を非難するようにしむける学問である。

 わたしの場合は、いまからふりかえってみると、知らず知らずのうちにそういう「体験」をしてきた。(わたしのひがんだ性格や興味本位のうけとりかたが悪かったのかもしれないが) みなさんにはこういう警戒をしてほしいと思う。



         社会批判と強調     2000/2/22.


 社会批判すれば、逆に社会のありかたをうきぼりにし、そのありかたに過剰適応する人たちを大量に生み出す。たとえば学歴競争を批判すればするほど、競争はますます加熱するといった具合だ。

 批判は社会矛盾を直す方向に加担されずに、逆にその増長と強調に加担されるとは皮肉なことだ。

 批判は社会の恐ろしいありようをうきぼりにし、その恐ろしさゆえに制度に過剰適応しようとする人たちの心理を生み出すようだ。(ウォルフレンの『日本/権力構造の謎』を読んだときにわたしはこういうふうに感じた)

 逆説的に批判は権力や制度の維持・存続に力を貸してしまうのである。

 このパラドクスの問題を解くにはどうしたらいいのだろうか?




         なんだろうな、しけたスーパーは?     2000/2/21.


 近くにあるいくつかのスーパーはほんとうにしけていた。空気がほんとうによどんでいた。ただっ広い空間にモノはたくさん陳列されていたが、活気とか騒々しさとか魅力とかのひとかけらもなく、買い物客もまばらで、その雰囲気だけで購買意欲を削がれるようなところだった。

 でもスーパーはなにかある商品が必要だと思ったとき、コンビニでは品揃えが少ないか、ないという場合には便利だったし、必要な商品はそこにいけば手に入るという安心感はあった。だからたまに買いに行くことはあったが、前々からこのしけた雰囲気はなんだろうなぁと思っていた。とくにがら〜んとした雰囲気の空間に、ゲーセンの音が鳴りひびいてるのは、ほんと寂しさかった。あとの一歩のところでひなびた観光地の旅館の雰囲気になりそうだ。

 長崎屋スーパーが倒産したということである。こんな大きなスーパーが倒産したということはスーパーの消費不況を象徴しているということだ。知り合いにきくと、長崎屋はいぜんからお客の数より従業員の数のほうが多かったそうだ。デパートにもそういうところは多くて、この従業員の多さはなんだ、うざったいと思ったりした。

 チェーン書店の駸々堂というところもつぶれていた。前の日までふつうに営業していて、つぎの日行ったら破産宣告の張り紙がしていて、よって本日予定されていた棚卸しはできませんと危急を告げていた。メガ書店の出現やメディアの多角化による事情と説明されていたが、メガ書店の新規出店が増えている中、明暗が分かれた結果になった。

 スーパーはもうライフスタイルを売れなくなったのだろう。モノの魅力も落ちると、ただモノがたくさんあるだけのただっ広い意味のない空間になってしまう。モノがたくさんある、そこに行けばなんでも手に入るというスーパーの魅力はもう終わってしまったのだろう。

 ファッションは安いだけでセンスが悪いスーパーより、安くてもセンスのよいユニクロのほうがいいし、家電も専門店とか郊外型の店のほうが便利だし、食料品ではスーパーは主婦の御用達、若者はコンビニで用をたすというようになってしまった。

 時代が変わってしまったということである。長崎屋の倒産はそのことを感じさせた。ただスーパーの中には郊外型の店舗や駅前の店舗でも栄えているところはあることはあるから、一概にはいえないけど、消費の魅力や繁栄が終わってしまったのだという感がする。わたしにとって子どものときには遊びに行くのはスーパーくらいしかなかったものだが、もうそういう時代も終わってしまったのである。





      自由競争と立身出世を否定した現代社会   2000/2/20.


 「現代という時代は、巨大な「組織と管理の時代」なんだということができるとおもいます」――これは梅棹忠夫のことばである。(『わたしの生きがい論』)

   

 「ほんとうに皮肉なことだとおもうのです。自由競争を目ざして立身出世街道を驀進した民衆のエネルギーが、結果としてきずきあげたものはなんであったかというと、まさにそういう自由競争と立身出世を否定するような、巨大な官僚組織であった」

 このことばにはがつんときた。けっきょくのところ、現代社会あるいは現代の組織というのは、明治のころに可能であったり、現実の夢としてあった自由競争や立身出世がまったくできない世の中になりつつある――あるいはもうすでにそのような形に完成してしまったのかもしれないのである。

 これだったら、まるで封建社会の大悪人だった江戸時代とまったく同じ状態に帰り咲いたということになる。つまり現代というのはもう暗黒の江戸時代に片足ばかりか、頭までカンオケにつっこんでいるということだ。

 おまけに現代は歴史で習ったような暗黒の江戸時代とはまったく違うんだというおめでたい認識がまかりとおっているのが現状である。学歴競争でわずかな夢を垣間見ることができると思い込んでいるし、学校ではこの社会は民主主義と自由と平等の社会だ、悪役の江戸時代だとは違うんだと、学校の教師にウソの仮想現実をたたきこまれてわれわれは社会人になる。

 じつは現代は江戸時代よりヒドイ拘束と不自由の社会かもしれないのだ。自由と平等の社会といっても労働と会社に大半の人生を搾りとられるし、会社のなかに平等なんかあるわけない。社長や上司が新人やヒラと平等であるわけがない。江戸時代は身分差別社会だったということだが、会社の中でも会社同士のランクでもしっかりと身分差別制度ができあがっている。

 斬り捨て御免とか圧制とかがあったということだが、現代でも民衆が政治を動かしているとはとても思えない。権力とか利益団体の意のままに操られて、民衆の手の届かないところにあるのが政治だ。現代というのは、歴史の教科書で習った以上の封建主義社会、江戸時代のすがたになっているのかもしれない。

 立身出世だとか自由競争だとか、民主主義、自由と平等の社会という理想的な虚妄の認識をあらためて、この社会は暗黒の江戸時代と同じであると認識したほうがはるかに世の中の仕組みを理解しやすく、妥当であり、生きやすくなるのではないだろうか。

 暗黒の江戸時代という認識から出発して、もう一度立身出世が可能になるような明治レヴォルーションを起こすか、それとも現代社会に適応すべく老荘や仏教の処世術を身につけるべきなのだろうか。

 明治の立身出世をめざすようなものは現在では情報産業などがある。ぽつぽつと大金持ちも夢ではないというような起業家の夢も芽生えはじめている。

 それともあきらめて社会や世の中を変えるより、自分の心の姿勢のみを変えようとする老荘や仏教の現状維持的イデオロギーに身をまかすべきか。ウォルフレンはこれを「敗北者の思想だ」といった。しかし変えようのない社会に憤るより、心の平安と体制順応に暮らすほうがはるかによい生き方ができるかもしれない。

 歴史観も変える必要があるのだろう。われわれの知っている歴史観は革命家や立身出世主義者にとってのご都合歴史イデオロギーである。だから江戸時代は悪役になった。庶民の知恵にとっては江戸時代の怠け者でも、ぼんくらに生きててもよかった時代のほうがよかったのかもしれない。

 えらくなれ、役に立て、という革命家の歴史観は庶民の心を強迫観念や自虐観に駆り立てる。現代はそういう大衆強制と、じつのすがたは封建江戸時代、というどっちつかずの状態だから、われわれはいろいろ苦しんだり、悩んだりしているのだろう。歴史はひと廻りしたのである。どちらのほうがいいのだろうか……


 □封建社会をみなおすブックガイド
   呉智英『封建主義者かく語りき』双葉文庫
   石川英輔『大江戸生活事情』講談社文庫
   中川八洋『正当の哲学 異端の思想』徳間書店



       だれも読まない文学の書く楽しみ    2000/2/16.


 梅棹忠夫が30年前、1970年にこれからだれも読まない小説や文学がいっぱい出てくるといっていた。文学は究極的にそういう形態になると予測していた。(『わたしの生きがい論』講談社文庫)

 だれも読まない文学に価値があるのか。読者側にはほとんど価値はない。しかし作者の人生にはひじょうにはりあいをもたせていると梅棹忠夫はいっている。書くことに値打ちがある文学である。

 この文章を読んではっと気づいた。まさにわたしもそうなのである。読者のために書いているというよりか、まさに自分のために書いている。だれも読んでくれなくとも、書いていることに価値があり、楽しみがあると思っている。

 いちばん楽しいのは鋭い考察ができたり、深い洞察ができたときである。そういう瞬間のためにわたしは文章を書き、本を読んでいる。だれも読んでくれなくても、それだけで楽しめるのである。また楽しめるだけではなく、自分が生きてゆくための知恵や洞察力、判断力も与えられることになるし、傍観してみると、やはり人生のはりあいも与えられていることになるのだろう。

 こういう人たち、あるいは自己充実を好む人たちが現代ではかなり増えてきたということである。俳句とか和歌の雑誌というのも、読むのは本人と選者くらいだと梅棹はのべている。でも作者はそれでもじゅうぶん楽しくて、人生にはりあいをもたされているのである。

 文芸誌に『海燕』という雑誌があったが、実売部数より文学新人賞の応募者数のほうが多かったということである。いまはほんとうに読む人より、書きたい人のほうが多いのである。そしてそれは読まれることより、書くこと自体に価値や楽しみがあるという状況に変化しているのだと思う。読者がいなくて、なにが文学だという捉え方はもう捨てなければならないのだろう。(江下雅之『ネットワーク社会の深層構造』)

 成果や結果のためにしているのではない、自分の楽しみのためにしているのである。文学であれ、哲学であれ、音楽であれ、芸術であれ、ますますそういう状況や人々が多くなってゆくことだろう。読者や商売のためにするのではなく、自分の喜びのためにするのである。一部の人だけであったマスコミ産業の表出方法が、個人の喜びや楽しみ、あるいは生きるはりあいになってゆくのである。

 インターネットはそういう人たちの楽しみやはりあいを、より大きなステージで楽しむためのツールとなっていったわけである。なるほどである。




    
     みなさんにミニコミ誌『暗射』をプレゼントします   2000/2/15.


 ひごろのご愛顧をカンシャしてみなさんにわたしの書評(今村仁司『近代の労働観』)がのったミニコミ誌『暗射』を限定14名のかたに無料でさしあげます。

 このミニコミ誌は函館の佐々木美帆さんが91年から創刊している季刊誌です。『だめ連宣言!』の交流の輪としてものせられています。ハガキ大の小冊子で、ほかにだめ連の神長恒一さんの日記や佐々木美帆さんの詩、笠井嗣夫さんの映画評論がのっています。

 編集者の佐々木さんはだめ連の検索でこのHPを見つけられて、原稿を依頼してきました。ミニコミ誌というのははじめて見るし、どんな人が読み、だれになにを向かってしゃべったらよいのかよくわからなくてとまどいました。また人から依頼されてものを書くというのは、HPとちがってけっこうプレッシャーがかかるということを、当然ながら、痛感したというしだいです。

 ともあれ、このミニコミ誌を無料でさしあげたいと思っていますので、ご遠慮なくご住所とお名前を送ってください。数に限りがありますので限定14名さままです。送料も出血サービスで無料です。もし気に入りましたら予約購読もできますので、ふるってご応募ください。





         価格破壊と価値観クラッシュ   2000/2/15.


 さいきん、百円で手に入るほど古本は安くなってきた。こんなに安くなるとその本をいてねいにあつかう気がなくなり、思い入れも軽くなり、読む姿勢も散漫になってくる。逆に高くて苦労して手に入れた本だと、読む姿勢も慎重さも身を入れる気持ちもかなりていねいなものになる。

 安い本だとぞんざいにあつかい、高い本だと慎重になるというのは、カネというのはその中身にかかわらず、価値を決める力をもっているわけだ。その中身や価値を見るより、カネの高低でその価値を見てしまうというのが人間のサガ(?)である。

 ワインとかビールも高級品から安いものまでたくさん出ているが、値段が高いから高級品だと思ってしまうわけだが、そのラベルをはがせば、はたしてその違いがわかるかというとかなりアヤシイ。

 人間はそのモノ自体の価値を知っているというよりか、カネの値段によってその価値を推し量るわけである。価値なんてあってもないようなものである。

 女だってすぐに体を許してしまえば安いものになってしまうし、なかなかそれを許してくれないとかなり価値のあるものになる。女のポルノだっていろいろ禁止されていたころはかなり価値のあるものだったが、きょうびではいくらでも手に入るからあまり「ありがたみ」のあるものではなくなった。

 いまはいろいろなモノが価格破壊によってかなり安くなった。おかげでその価値や重要性、ありがたみといった値段の裏にある精神も奪いつつあるのだろう。安くなるということは、その価値観をも下げるということである。世の中はそれを必要としなくなっているということになる。

 世の中高いものばっかりだったり、手に入らないものばっかりだったら、価値観のメリハリというのはひじょうにはっきりしていたのだろう。でもいまではほとんどが安い、すぐに手に入るものになり、価値の高いもの、価値のあるものが少なくなってきたわけだ。

 はたして人は価値のメリハリがあまりない世の中を楽しめるだろうか。高い価値観や価値あるものが少ない世の中に目的や目標、生きがいをおおぜいの人は見出せるだろうか。高いモノがたくさんあれば目的はすぐに見出せたが、いまはのっぺらぼうの地図のない世界である。

 価値観や優劣序列の少ない世界は東洋系の知識では理想に近いとはいえる。優劣価値の幻想にふりまわされるのが人間の悲しいサガだといわれているし、好き嫌いや好みが人間の苦悩や苦痛の原因だと思われているからだ。ある意味では悟りに近づくような社会ともいえるかもしれない。

 われわれは価値観の幻想に気づく地点にいるのだろうか。それとも人生の価値優劣も目標も見出せず、経済的にも貧困に転がるむなしい虚無の大海にこぎ出してしまったのだろうか。われわれはどちらのほうに舵をとることになるのだろうか。




         人間関係苦論     2000/2/14.


 苦しい。いまの職場はひじょうに濃密な人間関係があるところで、ひとりの気楽さが好きなわたしはとてもツライ思いをしている。たえず他人が身近から表情をうかがえるような狭い空間におかれているので、心が休まるひまも、ほっとできる瞬間もない。

 なんとかこの苦しい状況から逃れようとして、わたしはとりあえず書物からその知恵を得ようとしたのだが、どうも人間関係のハウトゥ本は求めている知識ではないようだ。ハウトゥ本というのはいきなり好感人間になったり、人づき合いがうまくなる本だったりするので、はたしてその前にそうなる必要があるのかといったワンクッションとして人間関係の哲学というか、社会心理的なものを知りたいと思っているのか、自分自身でもよくわからない。

 これまでわたしは集団関係のネガティヴで批判的な面ばかりを強調する書物をとくに好んで読んできた。大衆社会論のなかに出てくる集団にたいする批判的な観方にとくに食指が動いてきたわけだ。だから集団関係や画一的になってしまう人間関係といったものをなるべく避けてきたほうだ。

 いまは集団に対してもう少し柔軟というか、そんなにトゲトゲしくなる必要はない、と思うようになっている。なぜなら自分を傷つけ、苦しめるだけだということを身をもって体験したからだ。しかしひとりでいる気楽さや人とほどほどに距離をおく処し方が心と身にしみついてしまっているので、濃密な人間関係のあるところはひじょうに疲れる。

 こういうわたしは人間関係の苦しさから逃れるためにはどうしたらいいのでしょう? 悩んだり、苦しんだりする心をすぐに捨ててしまうカールソンとか仏教仕込みの知恵の活用もいいだろう。不快や苦悩の感情や思いをぽんぽんとそのつど捨ててゆけばいいわけだ。悩みも苦しみ空っぽになる。

 でもその前にわたしという人間はひじょうに観察的、分析的な人間になってしまっており、習慣や蓄積でできてしまった認識や思考方法はなかなかときほぐせない。ほんと、わたしという人間は人間関係のなかをじーっと観察し、解釈して、なにも行動しないお地蔵さんのような存在になっている。分析的人間は行動をいろいろ解釈してしまうのでなかなか行動にうつれないのである。このような習慣とそれに対する価値観を先に捨てるにはそれなりのふんぎりと時間がかかるようである。

 心理学の本を読むという手もあるが、心理学というのはもともと異常とか病者を治すために発達してきた学問で、これらの本を読むと異常とか病理とかの面ばかりで頭がいっぱいになってしまって「おまえはおまえは異常者だ〜!」という疑念から自由になれなくなってしまう。心理学ってほんとこれだから、経験上あまり心の健康にはよくないと思う。だから人間について知りたいと思っていたわたしは社会学とビジネス書とかの方面に興味がうつったのだと思う。

 なんとか集団関係の不快感や窮屈感から逃れたいと思っているけど、いったいどのような知恵や知識があるのだろうか。この世の人間の苦しみの大半は人間関係だという話だが、それなのに人間関係論の古典とか名著といった書物はあまり見かけないのはふしぎだ。時代と場所により処世術といったものは変わってしまうのだろうか。人間関係なんていつの時代でも場所でも変わらない普遍的なものだと思うけど。

 みなさん、もし人間関係の重荷をとりのぞくような書物や知識があったら、ぜひわたしに教えてほしいと思います。でもそんなカンタンなものがあったら、だれも苦労しないっテカ?





      殺人はなぜニュースになるのか    2000/2/13.


 ふつうわれわれが学校や会社に通ったりする日常の生活において、まず殺人なんか起こらない。殺人なんかほとんど縁のない日常生活を送っているのか大半の人の毎日だと思う。

 しかしニュースやメディアとなるとがらりと変わる。殺人一色である。「だれかが殺された」「なぜ殺人を犯したのか」「〜殺人事件」といったニュースや番組が目白押しである。メディアは「殺人狂の毎日」である。

 メディアというのはそもそも稀少なもの、めったのないものを捉えるものである。だからこそニュースになるといえる。ニュースになるということはめったにないということであるが、メディア漬けのわれわれの頭のなかは「毎日が殺人でいっぱい」である。

 それにしても、なぜ殺人という物騒な情報を人は必死に求めるのだろうか。だれもが人を殺したい願望を内に秘めているからだろうか。そういうゲスな勘繰りより、この共同社会では殺人のタブーがいちばん強いからだという理由のほうが妥当だろう。

 殺人のタブーが強いということはその行為にたいして価値を強めることになる。殺人を犯すのにはそれだけの重い理由があったということになる。かくて殺人の理由や動機はひじょうに価値あるものになる。タブーはその関連上にあるものの価値をひじょうに高めるのである。

 むかしからよくあった「禁止されるから関心が向く」というやつである。未成年者がタバコや酒を早くにはじめるのには禁止されているからという理由もあるのである。ポルノや女の裸といったものも隠すからよけいに暴きたくなるという心理作用もあるというわけだ。

 殺人のタブーが強いから、殺人は希少価値としてメディアで大々的にとりあげられる。そうすると今度はその作用を利用して社会的不満をぶちまけるための都合のよいメディアとして利用されるようになってしまう。「劇場型犯罪」とか社会へのメッセージのための殺人とか、模倣犯罪とかが起こるわけである。強い禁止コードが逆に殺人を誘引させてしまうとは皮肉なことだ。

 強いタブーはその価値を強める。そしてメディアは稀少なものを大々的にとりあげる。こうしてこんにちの「殺人狂メディア」ができあがるというわけだ。

 殺人にたいする強いタブーはもっともなことであるが、それが犯罪の抑制につながっているのか、それとも逆に殺人の価値を高めたり、殺人に対する異常な関心や熱狂も高めていないか、といった難しい反省もしなければならないのが複雑な人間社会というものである。





           演技と本心       2000/2/11.


 人間関係などにおいて、「演技」することはよくないことだとわれわれは思い込んでいる。演技するということはウソをついていることであり、正直や誠実ではないということである。

 わたしはバカ正直者だったから、この言葉を真に受けて「演技」することをやめてしまった。演技することがとてつもなく、しらじらしいことに思えたのだ。演技する自分を、醒めた目で冷静に観察するもうひとりの自分が肥大してしまうと、人は人前でまったく自然にふるまえなってしまう。

 演技をやめた正直者は人前でパフォーマンスをおこなえなくなってしまい、本心のままにもふるまえなくなってしまう。本心のままにふるまえば、人を傷つけたり、いつ人と衝突するかわからないからだ。

 演技も正直ではないからよくない、本心のままふるまえば人とぶつかるとなれば、人前でなにもできなくなる。感情はふさぎこんでしまい、無邪気に行動も身体を動かすことができなければ、身体のエネルギーや活力自体も沈みこんでしまう。

 ニーチェは「悲しむから、悲しくなるのだ」といった。ある自己啓発の本では「楽しみたいのなら、楽しいふりをしろ」といっている。つまり人は演じることによってその感情を得るのである。

 演技がよくないという考えは、本心という歴然としたものがあるという前提があるわけだが、演技により心が変わるとしたらそもそも本心など存在しないではないかということになる。われわれは身体を使って演技することによってある感情を味わうわけである。

 人間の心は心⇒身体という流れと、身体⇒心という流れのふたつがある。演技はよくない、本心のままふるまえという考え方の根底には、本心へのかたくなな信頼と感情の起源をそこに求めているわけだ。しかし人間には演技やパフォーマンスをおこなうことによって、感情が起源し、変えてゆくということもできる。起源を逆さに考えると本心なんてものは吹き飛んでしまう。

 本心とはなんだろうか。そんなものはほんとうにあるのだろうか。そんなものがあるとしたら、記憶と筋肉の硬直により、ある一定の感情と思考を継続させているだけのことである。もし演技や身体に変化をおこさせれば、感情や気分といったものも変わってしまうのである。

 かたくなな本心とか正直な心といったものは、そんなものは存在しないと思う。われわれは演技することによって心や感情を変え、また他人への気持ちや思いを教え伝える。

 演技やパフォーマンスをおこなわないと、わけのわからない人となってしまってまわりの人は困ってしまう。以心伝心の時代は終わってしまった。なにを考えているのか、なにを思っているのかということは体と言葉によって伝えないと伝わらない。

 人生とこの社会は演技とパフォーマンスの世界である。人は知らず知らずのうちに無意識の役者となっているのである。演技が悪いというのは思い違いである。人は演技することによってしか人に気持ちを伝えられないし、演技していないと思うのは、演技が無意識になっているからだけである。





       殺人による「メディア・ジャック」    2000/2/10.


 殺人しか不満を表明する手段がないというのはひじょうにお粗末である。あるいはそういう手段しかない社会のありかたがいびつなのか。京都小学生殺人事件の容疑者は学校や教育に不満があったという話である。

 不満や批判があったとしても、この社会ではその表明方法がない。身近な知人や親に話しても社会に順応するように諭されるだけだし、社会の片隅のグチで終わってしまう。

 この社会は「殺人」ということに異様に重みをおく。人が殺されるとはじめて深刻で重い問題の存在に世間の人は気づき、議論がなされる。まるで「殺人」にしか価値も、注目に値される出来事はほかにないかのようである。この社会(あるいはマスコミ)では殺人だけが重要なのである。

 だから人々の目を覚まさせたり、注目させるには殺人しかないというふうになってしまう。社会での批判や不満を表明し、改革させるようなチャンネルや手段がないのである。

 政治家や大臣に手紙を送りつけたとしても、たぶんゴミ箱行きか、なんの行動や改革もおこせないのだろう。絶望した人間が、あるいは若さの衝動で、殺人というアピール方法を選ぶ。

 TVや新聞のニュースの「殺人主義」の報道のありかたにも問題があるのだろう。殺人以外の社会問題や人々の不満や批判をすくいとるようにはできていない。殺人だけがマスコミに大々的にとりあげられ、世間の問題や話題にされる。これでは不満や批判の行き場がない。改善の声をあげることも、改善する手段もない。

 貧困の文化というか、お粗末な社会制度である。そういえば、むかしの百姓は一揆をおこすしか不満を表明する「メディア」がなかったわけだし。いまは殺人を犯して「メディア・ジャック」するしか方法がないというわけである。政治やマスメディアの前の中間組織になんらかの問題解決能力や手段が必要なのではないだろうか。

 殺人が不満を表明するツールやメディアになってしまう社会なんてロクでもないし、「ツール」に利用されたりなんかしたらたまったものではない。



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