貨幣経済についての断想集





        犯罪者のパーソナリティと「わたし」   2000/2/8.


 犯罪者がつかまると、その性格や生い立ちが紹介される。たいがいは非難や中傷、異常さをあぶり出した発言がなされる。

 わたしの中でおこなわれるのは、自分もそうではないかという性格のチェックである。犯罪者と同じ性格や同じような部分はないかとあら探しをするわけである。このまなざしは当然他人にも向けられるから、友人・知人のあいだでも交わされることになる。

 犯罪報道というのは、社会の中での一般人の性格規制や行動抑制の役割ももっているというわけである。それだけですめばいいのだが、小心者や猜疑者は、他人から犯罪者のように思われないかとひじょうに怖れるものである。この気分の悪さはかなり最低のものだろう。

 わたしも小心者だから、こういう犯罪規制のアンテナを自分の中にはりめぐらせてかなりいやな気分を味わうほうだが、最近思うのは犯罪者の性格とか生い立ちって、その時代の社会趨勢を表わしているに過ぎないのではないかということである。

 「おとなしい」とか「まわりに友達がいない」とか「近所と口をきかない」とか犯罪者の風貌が伝えられるわけだが、これって現代人の特徴や崩壊した地域社会を表わしているだけであって、犯罪者ゆえの性格ではなく、地域社会の住人は多かれ少なかれこういう性質を帯びざるを得ないのではないかと思う

 「ゲームに熱中していた」「マンガやアニメが好きだった」「友だちがいなかった」というのは犯罪者を語るときにとくによく使われる非難のキーワードだが、これって社会の多くの人のライフ・スタイルや社会趨勢を表わしているだけであって、犯罪者特有の性質では全然ない。

 しかしそれが犯罪者報道となるとたちまち犯罪者特有の性質や行動となってしまって、「異常性」や「危険性」を帯びるものになってしまう。犯罪者、あるいは犯罪報道というのは社会現象や個人の性格のあらゆるところに異常や危険のブラック・イメージを貼りつけてしまうものなのである。これによって個人の平穏や自由がどれだけ脅かされるかわかったものではない。

 たぶん犯罪やタブーを犯しそうにもない人に限って人一倍そういうことに脅えやすい性質をもつものだろう。そういう脅えが心の中に何重もの行動規制や性格規制の網の目をはりめぐらせるからだ。

 でもこういう脅えは速やかに捨て去ったほうがいいと思う。この不安によって犠牲にされるのは、個人の創造性や自由度と重なる部分がひじょうに多いと思われるからだ。犯罪を犯す気もないのに脅え過ぎるのは、あまりにも自己を犠牲にし過ぎることになってしまうと思う。犯罪者と似ていたとしても、いちいち気にしないことである。良いことより犠牲になることが多すぎると思う。




        「優等生」がブッ壊れている   2000/2/8.


 京都小学生殺人事件の犯人はある時点まで優等生だったということである。この2、3年の若者の犯罪者の特徴として、ある時点まで優等生だった、もしくは挫折した優等生が多いと、あるニュース番組がくくっていた。たしかにオウム事件いらい、そういう優等生たちが増えたようである。

 学校の優等生たちはいま経済社会の変化のいちばんつらいところに立たされているのだろう。学歴信仰が崩れかけているところだし、世間では実力主義だとかいわれて、自分たちのこれまでの努力が否定されるようなことがいわれているし、経済社会というのは学歴の成功とまるで違った行動力の世界である。

 経済社会というのは金儲けの世界である。机にかじりついていろいろ知識のお墨付きを得たとしても、そんなものが通用する世界ではない。経済社会に必要なのは、金儲けや成功へのあくなき貪欲であり、自信や行動力、コミュニケーション能力といった学歴とはあまり関係のない能力である。こんなのはナポレオン・ヒルとかジョゼフ・マーフィーなんかの自己啓発書を読んだほうがよほど身につく。

 学校社会はあまりそういう現実のことをなぜか教えない。知識の殿堂の温室なのである。学校の知識競争の目標というのは、かなり経済社会の世界とズレたところに少年の心を運んでいってしまうのではないかと思う。

 もうかなり前から学歴社会の効用は失われていたといわれている。それでも受験戦争が冷めなかったのは、競争のための競争といった優劣競争があったからだという。あまり役に立たない温室のなかの優劣競争がおこなわれていたわけである。

 しかし少年たちはそれに気づかずに優等生であるということでヘンな自尊心とか優越心をもってしまうそうである。将来の成功のパスポートが得られたと思ってしまって、その優越感が逆に実社会での挫折や失敗に耐えられない心性をつくりだしてしまうのかもしれない。かれらは受験幻想の犠牲者だといえそうである。

 経済社会と学歴競争のミス・マッチがおこっているというわけである。学歴の勝者はかならずしもこの経済社会では勝者になれるとは限らない。はっきりとそのことを教えないと、優等生の不幸はまだ終らないのだろう。

 学歴はたんに古い大企業や官僚機構に入るためのあくまでもの条件にはなるが、その後の長い幸福も成功も絶対には約束できないということである。学歴なんかにはだまされてはならないのだろう。あとはその学歴による自己修練力と自己学習力をふたたび利用して、ツライ実社会を渡ってゆくしか仕方がないのだろう。

 シンデレラは結婚したらそれでおしまいになるのではなく、ここから長い人生と辛苦が待っているというものである。学歴はその人生を泳ぐための助走期間と訓練でしかない。あとは自分ひとりでさまざまな辛苦をひきうけて泳ぐのみである。学歴をのちの人生の幸福と成功のパスポートだと思いこんだら、とんでもない目に合うだけである。





          マニアックと一般ピープル    2000/2/7.


 きょう、TVで荒俣宏の半生をふりかえる番組をやっていた。百科辞典的知識をもつかれのことだけあって、少年時代からの趣味へののめりこみ方もハンパではない。それだけマニアックになれたからこそ、こんにちのかれの膨大な業績があるわけだ。

 だけどわたしの中にはすぐマニアックを嫌悪するような目が出てくる。こういうマニアックな人は一般の人たちやふつうの人たちの中では、毛嫌いされたり、無視されたりするんだろうな、と心配になってしまう。そもそも一般の人たちに自分の嗜好や好みを教えたって、その価値観をくんでくれないのではないかとわたしはあきらめ勝ちに思う。

 わたしの中にも一般の常識的な規範をはなれてどこまでもマニアックにのめりこむ、のめりこみたい傾向をもっている。しかし世の中を学習するにつれ、そういう傾向はふつうの人たちから毛嫌いされたり、気持ち悪がられたりするのがオチだと学習するようになった。

 いまではあまり人にいわずに自分の好きな読書にのめりこんでいるが、ふつうの人たちの間でこんなことを言ったら、どんなふうに嫌われるかわかったものじゃないから、へたに口にしないようになっている。ふつうの人たちのあいだでは野球や競馬が好きで、パチンコをやったりレジャーをやったり、そういう一般的な嗜好に走らないと、なにを言われるかわかったものじゃないのである。

 歴史の偉人や業績をのこした人というのはものすごいマニアックな人であったはずである。一方では褒めそやしながら、一般の人たちのあいだではものすごく嫌われ、貶められるのがマニアック・ピープルの運命というものである。

 どこまでこういう他人の誹謗中傷に負けないで自分のマニアックさを追究できるかが、業績をのこす人とそうでない人の違いなのだろう。他人に嫌われるのが恐かったり、他人と同じ趣味や慣習に合せるようでは、たかが知れた業績しか残せないものなのだろう。

 夏目漱石も読んだジョン・スチュワート・ミルの『自由論』という名著は、マニアックさをいかに一般人の暴力(多数者の専制)から守るかということをいっている。いまもむかしもマニアックというのはたいへんな思いをするものなのである。(世の偉業や業績の恩恵は、かれらから受けているのね)

 あ〜あ、わたしも他人の目や冷たさを気にしない荒俣さんのように強い心をもちたい。わたしは日夜、競馬とかレジャーが好きなふつうの人に囲まれて、いつボロが出ないかびくびくものである。いくらヘンだと思われたって、ふつうのことっておもしろくともなんともないんだからしょうがねぇじゃん。




         若者たちの暴発    2000/2/6.


 京都小学生殺害事件の容疑者が自殺したり、新潟で少女監禁事件が発覚したり、東京桶川の殺人事件の容疑者が自殺したりと、このところ大きな事件が入ってきた。いぜんの下関と池袋の通り魔殺人事件や中高生のナイフ殺傷事件の頻発、神戸小学生殺傷事件など、若者の凶悪な事件が増えている。

 若者の閉塞感はいぜんに増して強くなっているのだろう。ちょっと前はエリート汚職などでエリートの崩壊が騒がれ、いまでは学生は就職しようにも超氷河期だ。これでは何年間もガマンして学校で勉強しても仕方がないし、会社に就職しても出世とか成功とかの夢もつまらないし、若者たちにとってはどんづまりの未来しか呈示されていない。これでは若者たちは暴発するというものだ。

 将来にたいして夢や希望がてんで抱けない。リストラ中年たちも同じ状況だろうが、オヤジたちは性犯罪にいそしんでハケ口を必死につくっているが、守るものがない若者たちは忍耐力がもっとないし、より衝動的な行動に走りやすいだけだ。この状況がつづけば、若者の暴発はもっと大規模なものにつながってゆくことにもなりかねない。

 解決策なんかあるのだろうか。いぜんでは政治が悪いといえばよかったが、もうそんなかんたんな言動ではどうにもならない。景気がよくなれば状況はいくらかは緩和されるかもしれないが、会社に就職するしか生きる道がないという閉塞状況はいっこうに変わらない。

 このまま堕ちてゆくしかないのだろうか。一種の生みの苦しみである。堕ちてゆけば、苦しみながらも盲目的な打開策や希望が模索されることになる。状況が悪ければ悪いほど人々は反省するし、深刻に改善の意志をもつようになる。

 新しいパラダイムで物事を変えてゆかなければならない時代になったということだ。戦後の豊かになれ、会社で出世しろというパラダイムではもうやってゆけないのである。そしてその土台に築かれた政治改革とか社会改革みたいな知識群では、もうこの時代はのりきれないし、効果もないことだろう。

 いまの社会につける薬はないということである。若者は会社の出世という人生ゲームではもうあきあきとしているが、新しい人生ゲームも社会改革ゲームもてんで生み出されていないのである。じゃあ、どうするかというと、堕ちてゆくしかないのだろう。時間のなかで新しいものが生み出されてゆくのを待つしか仕方がないのかもしれない。旧いオッサンたちの改善策では事態は悪くなるだけだし。

 堕ちてゆけばゆくほど見えてくるものもあるし、なにが欠けていたのかわかることもある。大事なのは旧パラダイムの認識や解決策ではどうにもならないということに気づくことである。もう若者たちはむかしのやり方では満足のゆく生き方ができなくなっているということだ。世のオッサンたちがそれに気づくまでにはまだまだもっと痛いショック療法が必要であるのだろう。そうなるまでに若者はもっと苦しまなければならないのかもしれない。

 時代も社会も、若者ももうごっそり変わってしまったのである。それに気づいて、改善されるまで、若者の閉塞感は強くなってゆく一方なのだろう。世の大人たちはそのメッセージにいかに早く気づくことができるだろうか。




           書物・テレビ以前   2000/2/3.


 投げ銭システムに関わっているうちに、書物やテレビができる前の人たちはどうやって学問や芸能で生計をたてていたのか興味をもった。いまでは書物は出版社や流通機構、書店によって知識を売ることができるし、芸能ではテレビ局や講演などによって収入を得るシステムができあがっている。学者は学校というシステムによって生計を得ることができるようになっている。

 それ以前の人たちはどうしていたのだろうか? インターネットという新しい仕組みは、いまの産業の当たり前の姿に新しい光を当てる契機を与えてくれる。

 しかし歴史の勉強不足でわたしには知識がまったく欠けている。思い出せる知識だけを総動員させてみると、ヨーロッパの音楽家や芸術家などは金持ちのパトロンに雇われていたりした。哲学者や科学者の経歴に金持ちの家庭教師だったという人もいくらかいる。

 日本では講演や寄席などという人々を一ヶ所に集める仕組みで生計をたてていたと思われる。書物やテレビという便利なメディアができるまで、芸能人や知識人は空間的に限られた人たちだけを相手にしていたわけだ。だから知識人や芸能人は、ほかの土地から呼ばれたり、広く伝えるために、さまざまな土地を旅して歩いたわけである。地方の豪商のなかには高い文化を誇っていたというところもある。

 世界観や人生訓を教える仏教の知識人たちもやはり全国各地を歩いて放浪した人たちが多い。書物やテレビなどのメディアなき時代にはその本人が現地に行って知識を渡さなければならなかったわけだ。托鉢というのは知識の見返りだったかもしれない。寺や神社が知識の伝達の役割を果たしていたかは、いまの状況からはちょっと想像もつかない。

 空間の制約を突破することが知識と芸能の伝達に課せられていたわけである。知識は書物というパッケージにまとめられ、流通させられ、そしてテレビは芸能や知識を一ヶ所に集め、そこから各視聴者に電波で送られることになった。

 書物もテレビもひじょうに優れた魅力的なメディアだったが、選別の力を働かせる。それらの発信者になれるのはひじょうに少数の人たちだけであり、一般人の創造性や当事者意識を奪いとったのかもしれない。この選別からもれる人たちはメディア以前の方法で各地を講演や営業に回ったり、あるいは受け身だけであきらめるしかなかったわけである。

 しかしマスメディアの時代はそれに熱中する人たちを大量に生み出した。自分たち自身で表現したり、見せたいと思う人を大量に生み出した。個人が小さなメディア発信をできるインターネットはそのような土壌にうけいれられた。

 ただしいまのインターネットには出版社やテレビ局のような選別能力もないし、カネを回すような仕組みもできあがっていない。この新しい仕組みは近代のメディア以前のありかたが、小規模のメディアとして参考になると思われる。強力な少数選別として働いたマスメディアより、それ以前のありかたのほうがインターネット時代には近くなるのかもしれない。ということで、あまりない歴史知識をふりしぼってみた。




      みなさんは投げ銭システムをどう思われますか?   2000/2/1.


 投げ銭システムというのは、大道芸人のようにホームページにチップを払うことをいうのだが、その小額金銭送受システムを現実化すべく尽力されている「Donation」のもんじゃ/横沢さんからお誘いをうけた。しかしこころよく快諾してよいかはひじょーに悩むところだ。

 いぜん、わたしは「投げ銭システムから開けてくる個人の文化」というエッセイを書いた。個人がホームページでいくらかのお金を手に入れられるようになると、新しい個人文化の起爆剤になるだろうということだった。自分の趣味や娯楽で、いくらかのお金を稼げるということになったら、とても楽しくなると思いませんか?

 でも目下のところ個人ホームページのほぼすべてはもちろん無料である。すべてHP作成者の趣味と嗜好によって発表されている、もしくは個人の見せたがりや顕示欲によって公表されていると認識されているような状況である。

 もちろんこれはこれでよい状況だし、じっさいにそのように捉えてよいと思われるし、HP作成者もインターネットによって自分の意見や趣味を世間の人に見せたいがために作成しているのだと思っていることだろう。読者のためというよりか、自分の趣味や好みのために作成、公表しているといった具合である。ボランティアという以前の、個人が公共に情報を送信できる喜びを感じるためのHP作成といった感じである。

 いまはインターネットが浸透して間もなくだからこの段階だろう。しかしのちのちには優れた、あるいはおもしろいHPにはチップを払ってもいい、払うべきだという時期が来るのではないかと思っている。HP作成者のわたしとしてはそうなればとてもありがたいし、ほかの人もHP作成に熱が入るというものだし、このモチベーションにひっぱられれば、HPの高度化と繁栄がひきおこされることだろう。

 ただインターネットの読者側の立場となるとやはりがらりと変わるものかもしれない。仲の良い遊びともだちと思っていた人が、これは商売だ、カネをよこせといわれたら、裏切られたような気持ちになるだろう。またカネや損得勘定が入らない無償の趣味や娯楽のツールだからこそ、インターネットのよさとおもしろさ、醍醐味があると思っている人もおおぜいいるかもしれない。そんななかにカネやビジネスなんかを混入させるとはとんでもないという人もいるかもしれない。

 わたしとしては心配なのは、読者の方によけいなプレッシャーやストレスをかけないかということだ。有料サイトにいくと警戒心とかでけっこうストレスがかかる。投げ銭システムがあるサイトでは払うべきなのか、払わないのでいいのか、といった選択と罪悪感のプレッシャーを読者の方にかけてしまいそうで恐い。しまいにはこのサイトが敬遠されてしまうようになるかもしれない。

 そもそも個人HPにカネを払うまでの価値があるのかという問題もある。商品や商業物としての価値や値打ちなんてほんとうにあるのだろうかと疑問に思わずにはいられないということもあるだろう。そのへんはたいへん難しいところだが、投げ銭はあくまでも受け手の自由な判断にゆだねられているわけだから、必ずしも強制的な支払いを強要しているわけではないのだから、それぞれの調整は利くことだろう。

 それにしても難しい。投げ銭は導入してもいいのか、あるいはしないほうがいいのか。だいたいわたしのHPのアクセス数自体がてんで多くのないのだから、導入する以前の問題ともいえそうである。クオリティやレベルの問題もかなり強く大きく重く!立ちはだかる。導入してしまったら、個人の趣味の範囲での気楽に気まま、自分の好きなこと、興味のあることだけ、といったノー天気な作成も不可能になってしまうしね。。。

 じつのところ、投げ銭システムは様子待ちと傍観のかまえでしばらくはずっと行くつもりだった。そのような運動が興隆したり、盛んになってきたりしたら、どさくさにまぎれて便乗しようと思っていたのが、思ったより早くお誘いの話がやってきて、かなりとまどっているし、迷いっぱなしである。希望をもって誘ってくれた方にも申しわけないし。

 みなさんは投げ銭システムについてどう思われますか? ご意見をぜひいただきたいと思います。

 ueshin@gin.or.jp


        間接民主主義と政治の自由   2000/1/30.


 吉野川の可動堰の問題で住民投票がおこなわれ、直接民主主義と間接民主主義ということが話題になった。会話マナーが欠けていると思われる建設大臣がニュース・ステーションで直接民主主義を悪しざまに罵っていたが、ひじょうに反感を感じた。

 政治についてはわたしはわからない。シロウト的疑問が噴出して、わからないことだらけである。またニュースでやっている政治家の話題にはほとんど興味がないからべつにわかろうともしない。

 わたしのシロウト的考えからすると、間接民主主義というのは利権者や権力団体の好き勝手としたい放題をするための仕組みに思えてならない。そんなところに一般の人たちが選挙権を与えられて、政治の自由だとか権利の拡大とかなんだとか良いようにいわれたって、無力感はいっそう増すだけである。

 投票の権利と政治家の選択の自由があるといったって、選ばれる政治家たちは利権とか権力とかに都合のよいことばかりしている。なんか一般の人たちにはぜんぜん手の届かない政治家や利益団体の利権のために、一票を投じるなんてひじょうにバカらしく思える。

 一般市民の投票権とか、歴史で教わった政治権利の獲得なんて、てんでありがたくも、うれしくもなんともない。ほんとうにこんな無力で徒労な権利を得るためにむかしの人は必死に闘ってきて、また権利の獲得を喜べたなんて、ちょっとおかしいのではないかと思わなくもない。

 政治行為の代行なんてものが、政治がヘンになる原因なのだろうか。さきの大臣は間接民主主義はヒトラーのような独裁体制を防ぐための安全弁だというような言い方をしていたが、そういう危機があるのか、ちょっと大ゲサではないのか、よくわからない。

 でも直接民主主義という政治の形態もあるのだと知ったことは、政治の「もしかして」の希望をほんの少し与えられたような気がする。自由の想像力が広がるような感じがした。




         モノの大衆化とメディアの大衆化   2000/1/29.


 なぜホームページでエッセイを書くのか。わたしの場合、インターネットができる前からエッセイを書いたり、本を読んでいたりしていたので、インターネットが話題になったときにホームページをつくろうとすぐに思い立った。インターネットは以前からの趣味を公表する機会になったというわけだ。

 技術というのはすでに社会が欲しているものを提供するものであって、技術ができたからといって人々はそこから急に新しいことをはじめるのではない。インターネットも世間に自分の趣味や見聞、意見などを公表したいという欲求や土壌が強まっていたから、人々に期待と反響をもって受け入れられたというわけだ。

 これをいっているのが、江下雅之の『ネットワーク社会の深層構造』(中公新書)で、なるほどなと思った。ワープロをつかっていたことも、わたしのインターネットのプレ・ステップとなっていたわけだ。

 われわれは永らくマスメディアの受け手や観客、リスナーとして与えられる一方だった。しかし受け手ばっかりではおもしろくない。自己表現したくなるというものだ。そういうことは雑誌やラジオの投稿、アマチュア無線、マンガのコミケ、カラオケやストリート・ミュージシャンなどですでにはじまっていた。インターネットはそういう土壌に受けいれられたわけだ。

 考えてみたら20世紀というのは、モノの生産と大衆化の時代だった。生産は企業や工場などが一手にひきうけて、消費者はそれを享受する一方だった。この楽しみが20世紀を覆い、モノの大衆化が拡大していったわけだ。

 マスメディアも永らくは生産者と消費者をきっぱりと分ける産業だった。しかしこのマスメディアへの熱中はそれだけではすまない人たちを大量に生み出した。自分たち自身でつくり、楽しみたいという人をたくさん生み出したのだ。テレビや雑誌などで活躍する人たちになりたい、もしくはかれらのすることを自分たちも楽しみたいという欲求が強くなったわけだ。われわれの崇拝する対象は政治家でも官僚でもなく、タレントであるのは紛れもない事実である。

 近代は上流階級だけがもつ稀少なモノを大衆に拡大・流通する時代だった。これからの世紀はエンターティナーやタレントのマスメディア独占から、大衆化がおこなわれるのだろうか。インターネットはそういう時代の流れに求められたメディアであるといえるだろう。

 モノに価値がある時代ではなくて、人間がもつ趣味や見聞、エンターティナー性といったものが魅力的で衆目を集める時代になってゆくのではないだろうか。マスメディアの企業独占から、大衆化はこれからはじまるのだろうか。稀少なものが憧れられたときから大衆化がはじまるというのはいくつもの歴史が教えるところである。




        貨幣と豊かな孤立した社会    2000/1/27.


 いろいろなものが貨幣経済におきかえられてゆくと、人間関係は孤立化してゆく。人情や愛情、助け合い、義理といった漠然としたものでつながっていた人間関係は、すべてカネと仕事に換算されてゆく。豊かで便利な社会というのは、カネがどこまでも入ってゆく社会である。

 家族でおこなわれていた家事や育児といったものも貨幣とサービスにおきかえられていって、ついには家族も解体してしまうかもしれない。いぜんでは食事をつくるのも、服をつくったり繕ったりするさまざまなことも家族内でおこなわれていたが、いまでは商売やサービスがほとんど入り込んでいる。

 愛情や慣習などという約束でおこなわれていた結婚制度も、家事サービスの発達や外注化により、ほとんど無実化してゆき、セックス産業が夫婦間の関係さえ駆逐してしまいそうだ。夫婦関係は常時所有するよりか、随時レンタルするほうがおトクで、楽しいサービスに代わってしまうかもしれない。貨幣経済は人間関係の最期の砦である家族すらも解体しようとしているのである。

 核家族化、個人化を過去にさかのぼれば、大家族や古くは村落共同体といった助け合いのつながりがあったわけだ。この歴史は貨幣が社会に浸透する歴史であり、カネはこういうつながりをすべて駆逐してゆき、個人をばらばらに解体してきたわけだ。

 豊かで便利な社会というのは、貨幣と仕事という冷淡で職務化された関係がどこまでも入り込んでゆく社会である。便利さや効率化を追究するあまり、われわれはどこまでも人間関係がビジネス化、カネにおきかえられてゆくうら寒いシステムに身も心も売ったわけだ。

 さまざまなサービスがうけられる社会は便利で楽しい。日替わりでいろいろな人たちが考え出した科学や技術のサービスをうけられるのはそれは楽しい。しかしそれは人情や愛情を失った損得とか打算、ビジネスとかの杓子定規な関係におきかえられることである。それはそれはキビシク、さみシィ〜世の中である。

 またビジネスやカネのためだけに生きる毎日や仕事はつまらなく、無意味で、むなしいものである。豊かな社会の恩恵をうけようとすると、どこまでも働き、ますますせわしくなく、忙しくなるばかりで、社会の歯車として生きてゆかなければならないむなしさや無意味さを噛み締めるだけになってしまう。社会のシステム化の発展は、個人が充実や幸福を感じるためにはあまりにも遠く、かけ離れ過ぎている。

 貨幣経済の浸透はどこかわれわれを違った方向に連れていっているのではないかと疑問に思わずにはいられない。ボランティアの増加もそういうところにあるのだろう。

 貨幣の浸透と便利な社会ばかりに目を奪われていると、カネで換算されない人間や人間関係の幸福や楽しみをおき忘れがちになるようである。




        貨幣経済によって失われたもの   2000/1/26.


 貨幣経済の発達により失ったものはたくさんある。が、カネでしか価値を判断できなくなったわれわれはなかなかそれを発見しにくい。あるものはすぐ見つけられるが、ないものは見えないということだ。カネでしか物事を判断できなくなった人間を生み出したこと自体が、貨幣経済によって失われたものだといえるだろう。

 貨幣経済はとうぜんカネの価値を高める。もしカネがなかったら、もっとほかの至上の価値や価値の体系があったはずだっただろうが、貨幣経済はその麗しき価値体系を破壊してしまった。

 カネというのは人間がつくりだし、交換できるものだけに価値を認めるわけだから、それ以外のものや価値はとうぜん無価値とされる。ここからもれ落ちた価値観やモノのなかにはどんなに大切で、失いがたい価値をもったものがあったかは測り知れない。

 地球の環境資源なんてものは最たるものだろう。カネで流通される価値以外のものは価値なしとされるのだから、破壊されようが、収奪されようが、どう利用されようが、おかましいなしである。恐ろしいことである。貨幣の価値基準は自然の環境を駆逐してしまうのである。

 人間の精神や心のあり方もかなり歪んでしまったことだろう。人間のつくった、交換できるものばかりに注目し、欲望を煽りたてられるわけだから、卑近で矮小な世界観を形成することだろう。地球環境や自然、あるいは人間性といった大きな世界観――宗教に近しいようなものの見方はそのために衰退したのかもしれない。

 流通できるもの――人間が人間にとって役立つものだけが価値ありと見なす貨幣の世界観は、おそらく人間や社会の有益性や有用性といったものをかなり狭めたことだろう。流通できるものだけが価値あると断罪されるわけだから、それ以外の価値観やありかたがぜんぶ排斥されてしまうことになる。貨幣流通に役立たないが、人間にとってはいくらでもすばらしい価値はほかにもっとあっただろうに。

 貨幣経済の進展は人々の孤立化をもたらした。助け合いやつながりを駆逐していったのは、貨幣経済の発達ではないのか。カネに身を売った人たちは、貨幣流通にあずかれない人たちがいても、知らんぷりである。かつての貧しい社会ではもっと助け合いやつながりがあったように思われるが。

 われわれの生活の大半が労働に奪われるようになったのも、貨幣経済と「豊かな」社会のせいだろう。われわれはますますより多く働き、よりせわしなく、より忙しくなっているように思われる。カネのために人生のすべてを捧げつくなければならないようなしくみは、どこかおかしく、まったく「豊か」ではない。

 効率的で進歩的な社会の側面ばかりに目を奪われてはならない。貨幣の発達により、失われたもの、なくしてしまったものに目を向けるほうがもっと大切だ。それが目に見えないものだからこそ、よりいっそう重要なことだと思う。貨幣の悪魔的側面に警戒することが必要だと思う。




       貨幣経済とはなんなのだろうな 2    2000/1/25.


 人は生活費のもととなるカネを手に入れるために利他行動をおこなわなければならないようになっている。貨幣経済というのは、人が生きてゆくために社会のほかの人のためにモノをつくったり、売ったりする利他行動を強制的におこなわせるというヘンなしくみをもっている。

 おかしなものである。貨幣経済があるために人は強制的な利他行動をおこなわなければならない。よくできたしくみである。よくこんなうまいしくみが、人間という動物に生まれたものである。生活するために社会のほかの成員のためになる活動をおこなわなければならない動物というのはそんなにはいないだろう。(ほかの動物では求愛活動に見られるが)

 ただ利他行動の中身はかなり怪しい。カネを稼いだり、生活してゆくために、無意味で過剰なモノをたくさん産出しなければならないし、人々の満たされない不幸や不満をどこまでもつくりだしてゆかなければならないからだ。消費と欲望によって人間はいったいどこに連れてゆかれるのだろうか?

 また商売人の願うことは人々の不幸であり、医者は人々がみんな病気になることを願うし、建築業者はみんなの家が一晩に壊滅することを願うし、家電業者はみんなの家電がすぐブっ壊れることを願う。戦争兵器業者の願うことは不幸の最たるもので、どこの国々の人々もブッ殺し合いをしてくれることを願っているというわけだ。

 貨幣経済の表向きはすばらしい利他行動だ。しかしひとたびキバを剥くとこれほど恐ろしいものはない。金がなかったり、仕事がなかったりする人たちはこの貨幣経済の輪の中からみごとにはじかれる。処置なしである。表向きのきれいな利他行動はたちまちその化けの顔をはがす。

 貨幣経済という制度的な利他行動にふだん頼っているから、利他行為は形式化・儀式化してしまい、みごとにその中身、精神を失ってしまうというわけだ。それは凄まじい。食ってけない人を人々は怠けているからだとか、稼げないから悪いんだと当人のせいにしてしまい、あたたかい利他精神をまるでもたない。

 また貨幣経済の問題点は、カネで売れる・買えるものだけに価値を認め、そのほかの要素を排斥してしまう点だ。カネで買えないものがどんどん捨て去られ、顧みられなくなる。貨幣経済のためにわれわれはいったいなにを失い、どこに連れてゆかれようとしているのだろうか。

 貨幣経済についてはまだまだもっと考える必要があるようである。




        メガ書店は目が回るぅ〜   2000/1/24.


 たしか2、3年前に大阪千日前にJUNKDOというメガ書店ができた。専門書がやたら充実しているのはいいが、おかげでどんな本が読みたいのかさっぱりわからなくなってしまった。あまりにも専門書が多すぎるのだ。

 それまでの大阪の大きな書店というのは旭屋を筆頭にあったのだが、わたしが通う比較的大きめな書店でも、わたしの興味のあるジャンルのビジネスとか思想の本はある程度少なくて、そのおかげでそんなに選択に迷う必要はなかった。

 しかし近ごろ増えてきたメガ書店はあまりにも専門書が多すぎて、また文庫にしろ新書にしろきっちりと揃っているので、ひごろ見つけられなかった本はないかと目を皿のようにして見るのでひじょうに疲れる。ちょっと一周するだけで、はぁ〜疲れた〜ということになって、退散ということになる。書店めぐりもけっこう疲れるということを発見したメガ書店であった。

 ずっと前、わたしが哲学書とかを読みだしたころは「世界の名著」とか「社会学の名著」という限られた名著を読んでおればよかったのだけど、このごろは評価が定まっていない新刊とかを買う機会が増えたので、ほしい本を探すの一苦労である。

 ほしい本や読みたい著者が決まっておれば、たくさんの本が揃っているメガ書店はひじょうに有益このうえないけど、ぼんやりと読みたい本を探すときにはたいへんである。かたっぱしから読みたい本を探していって、その本の中から買いたいランク付けをしたり、さいふと相談したりして決めるわけだ。ほしい本が見当たらないときにはかなりの疲労感と徒労感が残ることになる。

 情報は多くなるのはいいけど、そこから選択したり編集したりするのはかなりたいへんだということだ。読みたいテーマやジャンルが決まっているときはいいが、そうでないときは新刊や平積み、表表紙を向けている本などの選択に頼ることになる。メガ書店の店員さんの選択眼にかかっているということになる。




        貨幣経済とはなんなのだろうな   2000/1/24.


 働くのはしんどいけど、カネを稼がなければ生活ができない。たくさん働けば贅沢や生活の余裕もできるけど、肝心の時間とゆったり感がなくなり、なんのために生きているのかわからなくなる。

 逆にあまり働かないと時間の余裕はできるけど、生活の余裕がなくなる。カネっていうのはうまくできていて、ほんとに困ったものだ。

 会社との関係でいえば、会社は忙しいほどよく儲かる。しかし従業員は忙しいほどしんどいから、ほどほどでいいのだが、暇すぎると今度はクビが怪しくなり、収入も減ってしまう。どっちも困ったものである。

 貨幣経済というのはみんなが贅沢したり、浪費したりして、はじめてうまく回る。みんなが節約したり、消費に楽しみを見出せなくなると、景気が落ち込んで、多くの人が貧乏になったり、生活できなくなったりする。個人的には節約は美徳であるけど、全体のことを考えれば節約は敵で、浪費は美徳になる。

 だから過剰だとか無意味な消費だとわかっていても、贅沢や流行に踊らされるのが善とされることもある。ときには個人の自由な領域を侵して、遊びや消費の型を押しつけるような強制の気分がまきおこることもある。画一的な行動をしなければ、変人とされる風潮もときにはある。

 消費なんていうものはたいがい生存や生命に関わりのないムダなものばかりである。だけど、その消費をしなければ、多くの人の生計の糧が得られない。だから貨幣経済というのは生存に関わりのないムダなものばかり、貨幣の流通のために、生み出してゆかなければならない宿命を負っている。

 貨幣経済というのは食糧や生活品の流通にはうまくできたシステムだけど、宿命的にムダで過剰なものばかりを生み出してゆかなければならない奇怪で奇形的なシステムである。

 貨幣のもとになる贈与や交換は原始人がおたがい足りないものを交換し合ったことからはじまったと学校では習ったが、カール・ポランニーや栗本慎一郎は、共同体同士の争いを避けるために贈与がおこなわれたり、贈与にともなう地位のゆらぎによって交換がはじまったといっている。

 貨幣経済のもともとは戦闘忌避や地位安定のためにはじまったのかもしれないけど、現在では集団内の優越表示や対等表示を推進力として、共同体の食糧流通のベースとなっている。流通のために貨幣経済はもう降りることはできないようになっている。

 貨幣経済というのはどこかヘンで、おかしい。過剰で無意味な消費やサービスをどんどんくりひろげ、人間のおかしな欲望のハナをどこまでもひっぱってゆかないと成り立たない人間活動だからだ。こんなヘンな活動とはなにか、ほかの方法はないのか、ということをこれからも考えてみたいと思う。




        人の悪口と陰口      2000/1/24.


 人の悪口とか陰口にわたしはけっこう傷つくほうだ。考えることに価値ありと思ってきたわたしは、後々分析したり、解釈したり、これはこういう意味だとか、こういう理由で悪口が発せられたのだとか深読みしがちである。

 そもそも「人は他人の悪口をいうべきではない」とか「他人の悪口をいう人は悪い人だ」という思いこみや思考の枠組みをもっている。こういう捉え方の枠組みをもっていると、とうぜんほとんどの人はわたしにとっては「悪人」や「加害者」になってしまうから、みずから苦しんでしまうことになってしまう。

 なんで人は他人を傷つけるような悪口や陰口を平気でいうんだろうと思う。考える価値はあると思うが、こういう現実を許さない思考法をもっていると、現実に傷めつけられてしまう。

 人の悪口にぶち当たるといつもぐじぐじ考えつづけてきたわたしだが、カールソンとかジャンポルスキーとかのセラピーを読んで、思考や過去をすぐ捨てるとか、感情は自分の考え方、捉え方ひとつでコントロールできるという知識を得て、いまはだいぶ人の悪口を素通りできるようになってきた。

 自分にたいして発せられてきたかもしれない悪口を頭のなかで反芻したり解釈しだりすると、その考えをストップすることも覚えてきた。いくつもの解釈法を考え出したりして苦しむより、どうでもいいやとその瞬間に捨てられるようになると、どんなに心にしこりを残さないですむことか。

 まあ、少なくとも悪口とか陰口というのは言葉であって、言葉というのは虚構であるから、なにも心配する必要はないし、いまの瞬間に消すことができる。受け流した方がよっぽど心の平静にはよい。しかも悪口を真に受けて態度を硬直させたり敵対したりするようになると、またもや相手との関係も悪くなるばかりだ。

 他人はいくらでもわたしの悪口をいうものである。自分の心の中に入れなかったら、少なくとも心が傷ついたり、苦しんだりすることはない。コントロールできるのは他人の心や姿勢ではなく、自分の心と姿勢のみなのである。他人の心を変えようとする人は、みずから苦しむ道を選択したということだ。

 なぜ人は悪口をいうのか。この問いの納得できる答えを出してみたいと思うが、いまは心の平安をとりたいと思う。ジャンポルスキーによると「恐れているから」ということになるらしいが、そう思うと相手に優しく接せられるということだが、こういう態度の選択がいちばんよいのかもしれないな。



 お寒い中、ご意見ご感想お待ちしております!    ues@leo.interq.or.jp



 つぶやき断想集 第六集

  |TOP|断想集|書評集|プロフィール|リンク|

inserted by FC2 system