転げ落ちる時代の断想集
                                       新しい日付が上に来ます。




      将来を犠牲にして、いまを楽しむべきか   99/11/21.

   読者のSさんからのお便りです。

   「将来の保障より、今を楽しむ。そのためには、ホームレスになることも厭わないというか、ある
  意味では、ホームレスの生活の境地とか、宵越しの金は持たないという江戸っ子の心意気のよ
  うなものを感じますが、私の方はしがらみも多くて、出来ないでいます。

   老後の保障とかを考えるよりも、今を楽しむことは大切なようで、今という時間は、そんなに素晴
  らしいものかと、うらやましく思ったりもしています。

   私にとって、毎日の生活は、それなりに楽しいものですが、将来を犠牲にしてまで、今にこだわ
  る理由がわからない気もします。蟻とキリギリスの物語の本当の意味は知りませんが、私はキリ
  ギリスにはなれないなぁ。。。歌を歌い続けたキリギリスとか、バイトをしながら、バンドを続ける人
  たちとか、まじめな会社員とかよりも、素晴らしいということでしょうか?」

   ほんとうにそうだと思う。将来の計画はちゃんと立てるべきだと思う。そしてこういう人たちが多く
  いて健全な社会がつくられるのだと思う。

   わたしの場合はだめだ。将来ひとつのところに縛られるしかないのかと思ったらぞーっとするし、
  将来のためにいろんなことを我慢しなければならないことにどうも耐えられない。みなさんはこう
  いう者は「例外者」だとか「気の毒な者」だと思って、あまり感化されないほうがいいのかもしれ
  ません。。。

   世の中はこういうしっかりとした人たちに構成されていて、だいたいそういう論理で経済社会も
  回っている。あくまでも心の中のくびきに縛られないようにするのがよいのだと思う。

   ただ、いまは自分の趣味や自分の自由な時間や人生を大事に思う人も多くなってきている。
  そういう人たちにとってこれまでの将来のために自分を犠牲にするような生き方は死ぬに値する
  ほどツライことだと思う。いまはそこらへんが大変である。将来を犠牲にするわけではないけど、
  いまの楽しみを追求することがもっと大切なわけである。

   堺屋太一経済企画庁長官(権威のハクづけ!)も将来を不安に思うより、楽しみをつくる社会を
  これから創っていかなければいけないといっている。そうでないと日本という国は沈んでゆくばか
  りで、必要な新しい経済成長はできないし、たぶん活気ある人間社会を生み出せずに精神的な
  死を迎えるばかりだろう。

   将来の計画をたてて堅実に生きるということは重要で大切なことだが、これまでの価値観が崩
  壊する時代の転換期においては、新しい活況ある社会をつくるということも大切なのであるとわた
  しは思う。でもこのバランスはたいへん難しいことであると思うが。




     ホームページのタイトルを変更しました   99/11/21.

   ホームページのタイトルを「考えるための哲学エッセー集」から「考えるための断想集」に変更
  しました。メイン・コンテンツを「つぶやき断想集」にしたから、従来のタイトルではおかしくなるの
  だが、サーチ・エンジンの登録タイトルと食い違うことになるので、どうしようかなと迷っていた。

   「考えるための断想集」ならそう違和感もなく変更できるということで、「哲学エッセー集」という
  タイトルをはずした。

   じつのところ、このホームページにあまり「哲学」と名を冠することはできないのではないかと思
  っていた。「哲学」という言葉にこだわる人もいたし、たしかに内容の方も純粋な哲学からはだいぶ
  かけはなれていると思っていた。だから肩の荷がおりた気がする。

   サーチ・エンジンの登録タイトルを見て新しく来た人もそう違和感は感じないだろう。いちいち変
  更するのはめんどくさいし、タイトルを変えるたびに登録名を変えられていたらサーチ・エンジン側
  の人もたいへんだろう。

   思えば、はじめは「精神・社会・経済――」というタイトルを頭につけていた。長いから消した。
  「YAHOO!」とか「NTT DIRECTRY」にはこのタイトルのままだと思う。「LYCOS」には「ESSAYS
  FOR THINKING」というタイトルがついていると思う。インターネットの三次元ロゴ作成サービスで
  は英語しか使えなかったという理由だけである。(リンク・バナーに使えるかな? デカイ?)

       

   「YAHOO!」はさいしょ「哲学コーナー」に登録していたはずなのだが、「個人コーナー」に移さ
  れていて、キビシー! 「LYCOS」は向こうから登録を申し込んでくれてけっこうウレシイ。「EXCI
  TE」ではアクセス数が増えたり、「ビンボーはほんとうに不幸なのか」というエッセーが集中的に
  好評だったから、なんでかなと思っていたら、いつの間にか紹介してくれていたようだ。サーチ・エ
  ンジンの編集と紹介能力によって人気度が変わるというわけだ。

   タイトル変更というのはサーチ・エンジンの登録名とかでなかなか難しいし、プロバイダーひっこ
  しなんか登録変更とかブックマーク変更とかで多くの人の手をわずらわせるので、なかなかできに
  くいようだ。インターネットは一度クモの巣のように糸がつながったら、意外にいろいろな変更がで
  きにくいものだ。(アドレス名も長いところとおかしいところがあるのだが、同じ理由で変えにくい)

   新しいタイトルでこれからもがんばりますのでよろしくお願いします。




       宗教からの挑戦    99/11/20.

   ミイラ化遺体が見つかったというライフスペースの事件はマスコミが大喜びするネタである。マス
  コミはこぞって新興宗教の不気味さ、異常さを煽り立てる。法の華三法行も逮捕者を出したという
  ことだ。 

   マスコミは巨大な権力者だ。マスコミはいつの間にか裁判所より強い世間の裁判官となった。
  この裁きの前には「信教の自由、宗教の自由」といった権利さえ風前の灯火だ。たしかにこれらの
  集団には常軌を逸した行動が多いのは認めるが、価値観の違う考え方をまったく認めない狭量で
  画一的な集団の姿もあらわにされたといえる。

   マスコミは新興宗教を叩くが、かれら信者はこのマスコミ教が信じられないからほかの信念に
  すがりついたのだ。マスコミ教というのは、企業教と科学教に支えられたひとつの信念集団である。
  無色透明で中立的な立場など存在しない。そんなのを信じるのは狂信者か盲目の信者だけで
  ある。自分たちの世界観が世界そのものだと思うから、中立の立場を信じることができるのだ。

   いまは従来の価値観がゆきづまり、閉塞状況がかつてないほど強まっている。企業教や経済教
  といったものはがらがらと音をたてて崩れ、とてつもなく不安定で不安だから、人々はほかの価値
  観を模索しようとする。

   マスコミ教はそういった逸脱者を徹底的に叩き、恐ろしいイメージを付与することによって、逸脱
  者の増加を抑制してきた。でもいまはかれら自身こそが未来への希望を示されずにいる崩壊集団
  なのである。逸脱者を叩くより、自分たちの魅力と希望を語って、かれらの期待をとりもどすことが
  できるだろうか。

   マスコミの識者たちは「考えないからいけない」とよく言うが、われわれの基盤となる社会――
  たとえば受験戦争では「考えたらだめだ、迷ったらおしまいだ」というのが受験戦争に勝ち抜く
  キーワードになっているし、サラリーマンだって考えたらおしまいだというのが巷でまじわされる
  処世訓だ。こういう社会で――考えたら企業社会からドロップアウトしてしまうしかない社会にお
  いて、新興信者だけに「考えないから悪い」という言葉を吐くのは酷というものだ。

   批判する対象は、その批判する本人にいちばんよくあてはまる。考えないのは自分たちのよって
  立つ考え方や経済社会に盲目的に服従するしかないわれわれ自身ではないのか。

   いまは企業や経済などの従来の価値観が魅力や強さをこれまでにもなく保てなくなった時代で
  ある。宗教はそういう弱いところを狙ってどんどん勢力を増し、従来の価値観に挑戦することにな
  るだろう。

   逸脱者を叩くより、この社会からぽろぽろともれてゆく弱点や不完全な点を治すことが、いまの
  社会にとって重要な視点ではないだろうか。





     とりあえず存続します       99/11/19.

   みなさんにご心配をおかけしましたが、とりあえずこのホームページは存続することになりまし
  た。なけなしの貯金をはたいてプロバイダーにお金を入れてきました。

   これからもどうぞよろしくお願いします。ご意見・ご感想も気軽にじゃんじゃん送ってください。




       崇高な利他主義のないところ   99/11/17.

   明治のころには国や社会のために役立ったり、貢献したいという崇高な利他主義があったのだ
  ろう。その目標が達成されたころから社会の歯車はうまく回らなくなり、そういう崇高な目標は、
  軍事国家に利用されるにいたった。

   戦後はその反省から国家に役立つという目標から、経済や企業を焼け野原から盛り立てるとい
  う崇高な目標をもった。明治と同じで目標が達成されるころから、あらゆる歯車がうまく回らなくり、
  利己主義と組織保身・腐敗だけがやたら目立つようになってきた。

   目標が達成され、豊かになると、崇高な利他主義というフロンティアはなくなってしまう。すると
  人々はただ自己の安定と保身、享楽と安寧だけに身を落とすようになってしまう。(もともと崇高な
  目標というよりか、その中身があらわになったというか、麗しい衣がはがれて骨身になっただけと
  いう気もするけど……)

   いまのわれわれは崇高な利他主義というフロンティアを求めているのだと思う。戦後の企業と
  経済への盲目的奉仕というのは戦後50年をへて、ただたんに利己主義と自己保身の醜い骨身
  だけをさらすようになってしまった。だからみんな醒めてしまったのだ。そして経済も社会もうまく
  いかなくなる。

   人々はたぶん社会や人々のために役立ちたい、よいことをしたいという「物語り」をほしがってい
  いるのだと思う。でもそういうフロンティアはなくなってしまい、自分の生活や家庭、組織を守るた
  めに利己主義と自己保身に走らざるを得ず、どうしようもなく無力感を感じているのだろう。

   フロンティアはあるのだと思う。明治のときには国家のために国民が犠牲になったが、こんにち
  では国民はまたもや企業組織の犠牲になっている。経済や企業を盛り立てることが戦後の崇高
  な利他主義であったが、じつはこれほどはなはだしい犠牲や欠如のかたちを示しているものはな
  いと思う。これは崇高な自己犠牲なんてものではなく、人間性や家族の破壊や殺戮に等しい。

   企業から人間性を救い出すということがこれからの崇高な利他主義にはならないだろうか。明治
  や戦後には貧しさという欠如から崇高な利他主義ははじまった。いまは企業から人間の自由や
  権利という欠如が回復される必要があるのではないだろうか。焼け野原は企業のなかに残され
  ているとわたしは思う。




        転げ落ちる時代の轍    99/11/14.

   いまの時代は明治の末期からの時代によく似ている。明治の時代も40年近くで国家目標を達
  して、その先はおそらく目標もなく迷走しつづけ恐慌に落ち込んでいった。いまの日本と同じだ。

   明治大正の年表をみると日露戦争の勝利という祝宴をへたあと増税法や明治天皇崩御、関東
  大震災、金融恐慌などいまの時代にも当てはまる歴史を刻んでいる。中国やソ連の成立なども、
  現代における共産主義崩壊という歴史的事件と重なっている。

   国家目標を失った人たちはどのような気持ちにおちいり、生きていこうとしたのか、たいへん興
  味がある。それは現代の人も同じ心境だと思うからだ。目標なき人たちはどのように生きてゆこう
  としたのか。

   この時代の精神的空気を知ることはたいへん難しい。夏目漱石は立身出世から無気力になった
  青年を描いたが、なかなかその内情を窺い知れない。かれらはどう生きようとしたのだろうか。

   しかし日露戦争あとの戦後恐慌におちいり、関東大震災、金融恐慌をへて、世界大恐慌にいた
  り、日中戦争、第二次世界大戦へと流れ込んでゆく。落ちてゆくばかりの時代である。

   目標を失った社会はカタストロフィ(破滅)を迎えるしかないのだろうか。目標なき人たちは壊滅に
  しか新たな目標を見出せないのだろうか。壊滅したってまた前と同じ理念なき目標と手段の目的
  化がどうせおこなわれるのだろう。国家レベルの目標はどうも目標の達成と無気力化により、ガス
  欠で墜落するほかないようだ。

   日本の戦後恐慌からアメリカ大恐慌まで約9年のタイムラグがあった。来年あたりアメリカの株
  価がどかんときたらまったく時代の轍を踏むことになる。アメリカ人の年金は株価で運用されてい
  るらしいから、アメリカ人の老後は悲惨なことになる。

   せいぜいこの転げ落ちる衝撃の精神的準備を怠らないようにするしかないだろう。経済なんても
  ともとアブクか泡のようなもので、そんなものをいつまでも維持しつづけることなんてしょせん夢なの
  だと諦めることにしよう。精神的ショックをやわらげる考え方をするに越したことはない。

   そういえば、徳川家康は豊臣政権以後の成長シンドロームを抑えつけ、長期の政権をたもつこと
  ができた。安定政権をたもつためには成長期に手柄を立てた成功者のクビを切り、功労の変化を
  宣言しなければならない。安定期には過去の成功体験の反復は破壊行為なのである。




      ほんのささいな違いに血まなこ   99/11/13.

   われわれはほんとうに小さな違いに必死になっているのだろう。大企業だとか中小企業だとか、
  マイホームだとか賃貸だとか、ベンツだとか軽自動車だとか、そういった違いに目の色を変えて
  こだわる。

   醒めた目でみてみたら、その違いはほとんどない。逆に必死にその違いを目立たせよう、誇示
  しようとする姿勢があわれで物悲しげに見える。

   人間なんてその持ち物や所属がどうであれ、ほとんど違いはない。違いがあると思いたがって
  いるのは当人だけかもしれない。

   人間にとって羊や牛の個体の違いがほとんど見分けがつかないように、人間も同じようなもの
  なのだろう。必死にほかとの違いを際立たせ、誇示するかの違いだけだ。

   われわれは企業社会に選択されるから、差異をことさら強調しなければならないのだろう。その
  まなざしは消費のほんのわずかな差異にも適用され、巨大なマーケットを生む。

   われわれは悲しいくらい優れていたり、偉そうに見せかけなければならないのだろう。そうしない
  と企業は雇ってくれないし、他人から劣って見られる。

   こうしてわれわれはほんの小さな違いに血まなこになる。こういったことに費やす活動というの
  は、果たして人間の全生涯を賭けて費やされるべきなのだろうか。人間の目的や意味はこれだ
  けのものなのだろか。ほかにもっと価値ある、意味あることはないのだろうか。

   この差異にこだわることをやめたのなら、われわれの時間や精神はもっと自由なことに費やせ
  ることにはならないだろうか。あまりにも小さなことに人生を浪費し過ぎる。

   偉くなったり、有名になることを評価する社会は他人の評価を肥大させる社会である。われわれ
  は他人の思惑の奴隷となる。モノサシを心の安寧や喜びに置き換えるべきである。




      社会責任と企業     99/11/12.

   こんにちの企業は個人や家庭の生計を守るという社会的な責任をてんで負っていない。いぜん
  は家族主義だとか温情主義だとかの美名のもと個人を守ってきたが、おかげでウシのように従順
  に働く愚かな人たちを大量調達できた。

   いまはそんなことをいっていたら市場経済ではやっていけない、背に腹をかえられないといって、
  人々を大量にリストラする。企業はいぜんのあたたかい仮面をはぎとって、もとの鬼面にもどった。
  それでもサラリーマンは今までどおりなおいっそう労働奉仕しなければならない。

   企業は社会のなかの機関として社会的責任を果たさなければならないはずである。それを負わ
  ない企業は社会に存在してよいものだろうか。市場原理を通すのなら、企業の社会的道義も追求
  されなければならない。

   個人はもともと国家には守られていなかったから、企業にも見捨てられたことになる。これまで
  個人は企業に守られていたから、国家は企業を守ればよかったので個人は蹂躪されてきた。そ
  の企業にも見捨てられた個人は路上に消えるしかない。

   いまようやく国家は個人を守る必要が出てきたといえるかもしれない。どこからも守られない個
  人は国家に守られる必要がある。あるいは家族である。政府はこれから企業より個人寄りになれ
  るだろうか。

   これまでは日栄の問題で明るみに出たように、商工ローンによってつぶされた個人は税金を払
  うことによって商工ローンに融資する銀行を助け、みずからの身を破滅させるような構図が支配し
  てきた。税金がみずからを破滅に追い込むというのは、これまでの政治構造である。

   社会責任を果たさなくなった企業に代わって政府は社会責任を果たさなければならない。それ
  をおろそかにできたのが企業が終身雇用を標榜していた時代のことである。市場原理の時代に
  なれば、政府は企業を守ることより、企業を裁き、個人を守る必要がある。企業の暴走を監視する
  役目を負わなければならない。

   政府が企業から個人を守るすべをもたないのなら、税金を払う意味もない。税金によって自分
  の身が破滅させられる危険があるのだから。税金はわれわれ個人の権利を守るために使われて
  ほしい。企業は勝手にやるのだから、政治家は個人を守るべきである。





      老後の保障なんて大キライだっ!    99/11/10.

   老後の保障のためにわれわれはいかに多く働かなければならないか。老後の保障のために
  いかにわれわれは心を煩わされなければならないか。

   こんな余計な心配がなくなってしまったら、もっと「いま」を自由に楽しく過ごせることか。あると
  思っていたものがなくなるより、はじめからないと思っていたほうがどんなにマシか。

   老後という何十年も先の保障のためにわれわれは「今日」を楽しむことも、生きることもできない。

   これってもしかして「明日の幸福、明日の成長」という高度成長期のスローガンではないのか。
  明日の幸福のために今日を犠牲にするのなら、一生、人は「いま」を楽しむことができないし、人生
  を生きることができない。現代のような右肩下がりの時代にはいつ没落するかもしれず、いまを
  楽しむことがひじょうに大事になってくるし、また老後のことなんか計画できる時代だろうか。

   われわれはマインド・コントロールにかかっているのだろうか。老後や将来が不安だと煽られて、
  どこまでもどこまでも働かなければならないようになっている。その不安を洗脳して大儲けしたの
  は企業や政府だけではなかったのか。どこかの信者の恐怖を笑えない。

   こんな不安から解放されて、いまのためだけに働くことができたらどんなに楽なことか。インド人
  やむかしの江戸っ子みたいにその日暮らしに平気になれる。明日のためにムリをしなくてよいか
  ら、今日をめいっぱい楽しめる。

   老後の保障のバカヤローっ! われわれの世代はどっちみち年金はかなりアヤしいのだから、
  年をとっても働いていなければならないかもしれない。そこのところをハッキリしてもらいたいのだ
  が、いまは中高年すら就職難だし、しかし少子高齢化がやってくるのだから高齢者を活用しなけ
  ればならない時代がやってくるはずだし……。

   えーい、どっちなんじゃい! だから老後の保障なんて大キライだーっ!



      ホームレスからの逆照射     99/11/9.

   いまホームレスがどんどん増えているわけだが、悲しみやあわれみの観点からだけではかれ
  らを見るのはまちがいだろう。たしかに壮絶な部分もあるが、それだけでは片手落ちというものだ。

   「乞食は3日やったらやめられない」という言葉があるくらいだ。現代のホームレスはほとんど
  物乞いもしない恵まれた環境にある。またホームレスの数はその都市が働かなくとも養える豊
  かさのバロメーターでもある。

   考えてみたらおシャカさんは元祖ホームレスであり、ホームレスのススメを説いているし、仏教
  の数々の聖人君子もやはり漂泊のホームレス体験者である。ギリシャの哲人ディオゲネスも樽
  の中で生活したというし、ヒッピーなど世界中でホームレスに憧れた人は数多いといえる。

   ホームレスは悲惨だといっても、われわれが住んでいる家もたんにコンクリートの塊にしか過ぎ
  ない。たいして変わりはないのだ。電気や水道、さまざまなモノに不便するといっても、逆にわれ
  われがそれを手に入れるために費やす労苦、労働量を考えてみたら、どっちが憐れかよくわから
  なくなる。

   一生を仕事にあくせくと追われる人生と、プライドもモノも捨てた寝て暮らしの生活とどちらがい
  いといえるだろうか。ホームレスはとりあえずは自分の自由な時間と自由な生がある。(もちろ
  ん食べ物を得るための活動には苦労がつきまとうと思われるが)

   ホームレスは剥き出しの自然な生を生きる。われわれ文明人は数々の医療とかに守られてい
  るわけだが、しょせんは生老病死といった剥き出しの自然の運命をひきうけなければならない。
  われわれはどんなに守られてもそういう限りある自然の産物なのである。ハダカで生きることも、
  そんなにたいした違いのあるものではない。

   つまりホームレスというのは文明の習慣とあたり前につかってしまったわれわれの頭の中を
  清掃してくれるものである。文明の歪みや不自然さをあらわにするものである。われわれはどん
  なにおかしな、無意味な習慣や堆積物でごてごてになっているか、改めて思い知らされるとい
  うものである。

   われわれもここらで文明のアカと汚れ、お荷物をふるい払うことが必要なのかもしれない。ナメク
  ジが勘違いしてカタツムリの殻をかぶって荷物でいっぱいの大八車を引いているようなことになっ
  ていないだろうか。

   われわれは裸で生まれて、野垂れ死んでゆくしかない運命の生き物であるということを忘れる
  べきではないのだろう。





    嫌いな人を抱きしめて離さない、皮肉で愚かな習慣   99/11/9.

   だれだって嫌いな人とは長くいっしょにはいたくないだろう。でも嫌いな人をベッドまで伴にする
  のが多くの人の習慣だと思う。つまり頭の中に寝ても覚めても嫌いな人を思い浮かべつづける習
  慣のことをいっている。

   同様にクライやつや悲しませるやつ、腹立たせるやつ、頭にくるやつをいつもわれわれは愛し、
  抱きしめて離さない。トイレにも、風呂にも、休日にも休憩時間にもイヤなやつを連れてくる。 

   頭の中で考えている内容を人物化してみると、われわれの考える内容のバカらしさがよくわか
  る。いつだって最悪で、毛嫌いしていて、二度と会いたくない人物に限って、われわれは四六時
  中どこへだって連れて回るのだ。皮肉な、愚かな習慣である。 

   そうなるのはたぶん他人を裁いたり、自分の正しさを検討したり、また考えることによって解決
  や解消ができると思っているからだろう。つまり思考の力や効用を信じているわけだ。

   でもそのあいだ、われわれは嫌いな人や悲しませる人、悩ませる人をずっと連れ立って歩き回
  ることになる。けっきょくのところ、それは他人の心には何も起こらないで、自分の心のなかで起
  こっていることなのだ。自分の感情であり、気分なのである。嫌いな人や腹立たしい人は、じつの
  ところ、「自分」以外のなにものでもない。

   この愚かさがわかったのなら、嫌いな人や悲しませる人とはせっかくのくつろぎの時間である
  ベッドや風呂の中までかれらを連れてゆきたいとは思わないだろう。頭の中の選択は自分にま
  かされているのだから。

   ただし、嫌いな人に限って勝手に頭の中に入室してくる。これだけはどうしようもない。しかしそ
  のあとの選択は全部自分の選択の手の内にある。

   さて、あなたの頭と心のなかにはどんな楽しい、喜ばしい人を入れてあげたいですか?




       ホームページの存在意義  99/11/8.

   先日このホームページがなくなるかもしれないと書いたら、何通かの励ましのメールをいただい
  た。たいへん感激した。このホームページでも消滅したら嘆いてくれる人がいるのかと改めて知っ
  たし、同時によけいな心配をおかけして申し訳なく思った。

   生活費はヤバイけど、なんとかホームページは存続させたいと思う。そのくらいの料金も払えな
  いくらいなら、どっちみち生活費も成り立たないと腹をくくりたいと思うが、この先一、二週間が勝
  負なのでそのときの調子により雲行きがどうなるかははっきりとは言えない。

   今回の件でちょっとホームページの存在意義について考えさせられた。このホームページも開
  設してほぼ2年近くなるのだけど、メールがだいぶ少なくなっているのを感じていた。メールが来な
  いとわたしの書いていることが伝わっているのか、読んでくれているのか、ということがわからなく
  なり、ちょっと心配になってくる。

   アクセス数もほぼ2年で1万5千はそんなに多いほうではないだろう。週に2百前後のアクセスは
  あるみたいだが、どかんと増えることもないし、増減の理由もほとんどわからない。

   つまり反響や反応が乏しくなると、やはりなんのためにホームページを開設しているんだろうと
  いう気持ちにときどきなる。リンクしているホームページは驚くばかりにいつの間にか消えてしま
  っていて、メンテナンスがたいへんだが、やはりこんなところで折れてしまうのだろう。

   最初は世界中の人に見てもらえる情報を発信できるということで意気揚々でホームページを
  作成するのだが、反響はことのほか少ない。また最初は多かったとしても、だんだん減ってゆくの
  かもしれない。そうしてはじめ期待が多かった分、なんのためにホームページを開設しつづける
  のかわからなくなる。人気があるホームページの作成者以外はそう思うのではないだろうか。

   ここが存続の踏ん張りどころである。反響や反応だけを期待するのなら、ホームページは永らく
  つづけることはできないのかもしれない。たいていの読者は「サイレント・ビジター」である。わた
  しもほかのホームページではやはりサイレント・ビジターである。そこで作成者は折れてしまう。

   ホームページ作成は思いのほか励ましや反応の少ないものである。感度がビシビシに良い
  反響を期待していたら、人気ページのほかはつづける理由を見出せなくなるのだろう。

   まあ、わたしのコラムとエッセーはインターネットができる前からの趣味である。たとえインター
  ネットの開設をとりやめたとしても、おそらく今までどおりものを考え、ノートに書き、本を読みつづ
  けるものだと思う。どうせやるのなら、少しの人でもいいから見てもらえる機会があるのなら、イン
  ターネットに公表したほうがいいくらいに思いたい。

   人気や反響からホームページ開設を考えたら、人気がなくなると開設の意味がなくなってしまう。
  でもローカルな趣味+いくらかの読者に見てもらえると考えるのなら、人気や反響にはそんなに
  左右されることはない。こういう気持ちでやらないとホームページは長くつづけられないのかもしれ
  ない。

   反響や反応が少ないのは淋しいが、ここはひとつ石の上にも三年ということでつづければ良い
  ことがあるということでがんばってゆきたいと思っている。(わたしの長続きのしない職業もそう考
  えらればよいのだが……)





      市場原理と社会保障    99/11/8.

   社会保障費というのは市場原理と逆行するもののようである。とうぜんだろう。そもそも市場で
  勝てなかったり不安に思う者ほど強く保護や保障をのぞむからだ。

   転職先がなくなったり、高齢になって働けなくなると思うから、保障や保護が必要になる。つまり
  市場でやっていけないから保護を必要とするわけだ。

   戦後はみんなが保障を求めた。社会主義が企業や国家でおこなわれ、世間の風潮もそれを歓
  迎した。商品やサービスは高コストになり、保険料はつりあげられる一方で、財源は枯れてゆく
  ばかりである。ついでに人々のマインドは安定と保護ばかりを望み、不安ばかりを強めた。

   カネがあったり、若年者増の時代にはそれがうまくいくが、その時代が終わったらたちまち不可
  能になる。もともと市場原理に適わないことを望んできた結果が露になっただけだ。

   市場とは非情なものである。残酷なものである。いるものはいる、いらないものはいらない、それ
  だけの単純なものだ。われわれ自身も商品やサービスを買うさいにはとびきり非情で単純な選択
  をしており、労働者にもこの原理が適用されるとその様がよくわかる。

   この単純で非情な市場原理でものごとを見るということが必要なのだろう。市場原理が働かない
  ところには歪みが生じ、いずれ破綻する。人間はモノではないから保護が必要だといっても、カネ
  のないところでは保護すら不可能だ。

   人間も使い捨てで市場価値がなくなったらポイ捨てでよいのかという疑問と怒りがあるわけだが、
  保護という幻想を望むより、単純にカネはどうしたら稼げるのかといった問題を第一に考えるほう
  がよいようである。不安からうしろ向きにものを考えるより、前向きに考えなければいけないようで
  ある。(といってもそんなかんたんなものなら、だれもがハッピーだが)

   モノというのはすぐ売れなくなる。人間も年をとったり、技能や知識がなかったら恐ろしいくらい、
  すぐ売れなくなる。大問題である。そしてひじょうに難しい、頭を悩ます問題である。市場原理と
  社会保障のほどよいブレンドがぜひとも必要になるのだろう。現在はホームレスの増え方からし
  て市場原理の行き過ぎだ。




      自己保身と組織    99/11/7.

   われわれの数々の自己保身が組織を腐敗させ、崩壊させるというのは皮肉なことだ。安定や
  保障を求めるとたちまち組織は崩壊し、みずからの安定や保障を守れなくなる。

   企業は拡大成長期において数々の老後保障や生活保障などの福利厚生を手厚くつけることに
  よって従業員の労働意欲をひきだしてきたわけだが、右肩上がり時代が終わるとたちまちその
  約束をご破産にしてしまう。空約束だったのか、サギだったのか。

   組織は自己保身の重みによってつぶれてしまう。もともと人間の生活・老後保障なんてものは
  どんなに得ようとしても不可能な絵空事なのだろうか。

   組織は最初に外部の満足を目的にしているのだが、しだいに組織内部の満足追求に転嫁して
  しまい、外部の損失や被害をまねいてしまうもののようである。それは近頃の神奈川県警の不祥
  事や隠蔽体質にも現われているし、現在多くの企業や官庁、学校が陥っている状況であるし、
  戦前の軍部だって同じような体質をもっていた。

   自己保身や組織を守ろうという欲求が、逆にその損害と崩壊を招いてしまうのである。これはな
  んなのだろうなと思う。

   けっきょくのところ、利他主義から利己主義に重心の針が傾いてしまうからだろうか。どんな組織
  も外部の満足のためにある。内部の満足と保身だけに傾くと組織は自己崩壊してしまうものなの
  だろうか。「身内はかわいい」という閉鎖体質が、外部との分裂を強めるからだろうか。

   いま、数々の組織が危機に陥っている要因はやはり生産者保護や組織要員の保護にあるのだ
  ろう。これが顧客への損害や被害をもたらし、みずからの組織を崩壊の尻目に陥れている。

   官庁や学校、警察は市民を犠牲にさらし、不祥事や腐敗をひた隠しにし、企業はコスト高を顧客
  転嫁し、年金や健康保険は支払い者に過重な負担をかけている。

   人間のみずから守ろうとする意志や組織の結託が逆にみずからの崩壊を招いてしまうのである。
  この皮肉な結末のカラクリはよくわからないが、自己保身への恐れがその結末への予言成就を
  もたらしてしまうのだろうか。




      余命三ヶ月の決死行     99/11/4.

   あと三ヶ月の貯金しかない。わたしは長期の失業中である。この三ヶ月に仕事が見つからな
  かったら、わたしの運命はどうなるかわからない。

   ハローワークの求人はひじょうに少なく、新規の求人もテンポがのろく、求職の人々も数多い。
  中高年の人にはあきらめモードに入っている人も見受けられる。

   今回ようやくわたしも正社員の口を本気で探すようになった。三十歳を過ぎるとさすがに年齢
  制限にひっかかり、いくらでも転職先があるとのん気にかまえられなくなり、長期の保障をほしく
  なる。大企業でも先のことは保障されないというけど、まだ確実にすべてそういう時代になったと
  決まったわけではない。

   今回の失業はまたもやのん気にかまえ過ぎた。なんにも考えないでぼーっとするのに恍惚と
  なってしまい、求人を探してもなかなか行動する気になれなかった。そして貯金が底をつきかけ
  て、ようやくあせりだしたという具合だ。

   ときどき先の計画を考えて強烈に不安になり、あせるときがある。そういうときにはカーネギー
  の『道は開ける』は頼りになる。「鉄の扉で明日と過去を締め切れ」といった言葉に慰められる。
  ピールの『積極的考えの力』でなおいっそう楽な気持ちに戻れる。

   なんとかあと三ヶ月のうちに仕事を見つけなければならない。もう年齢制限にひっかかるから
  正社員を絶対見つけようと思うのだが、どうしても見つけられないのなら、いやだけどまたアルバ
  イトに舞い戻るしかないだろう。元はといえば、社畜になることを嫌い、自由を求めた自分の選ん
  だ道のせいなのだ。

   今月の半ば以降に一年契約のプロバイダーとの契約が切れる。もしかしたらこのホームページ
  が消えてしまっているかもしれないので(ゴメンナサイ)、そうならないように祈りたいと思う。でも
  そのことより生活費を稼ぐほうが先決だ。




     日栄だけの問題ではない企業体質    99/11/2.

   強制的なとりたてをおこなって逮捕者が出た日栄の企業体質というのはだいたいほかの企業
  にも共通するものである。ノルマや営業成績のためにモラルや善悪が破壊されることは企業社会
  の日常茶飯事だろう。

   けっきょくのところ、個人はクビにならないために少々尋常でない範囲のことをおこなわざるを得
  なくなるときもある。そういう権力や論理から個人を守る防備をまったくしてこなかったのが戦後社
  会だ。上司や社長に命令されたことをモラル外だといってだれが拒否することができるのか。

   生活の糧や老後の保障、さまざまな保険といったものはすべて企業にすがりついてしか得られ
  ない。身も心も企業に売り払って、社会道徳や国家の論理より、自社利益を優先するのはとうぜ
  んのことだ。

   企業がすべての保険や老後保障を支払ってしまうから、個人は自立も独立の精神ももてない。
  国家より企業内社会主義がおこなわれたから、個人は企業にますます依存さぜるを得ないという
  わけだ。国家も金の集まる企業におんぶしてきたから、個人はだれからも守られない。

   強制的なとりたてを食らった人も犠牲者だが、逮捕された当人もとうぜんこの社会の犠牲者であ
  る。政治もほとんど介入しないし、法律もほとんど力のない国にあって、企業の専制主義がまかり
  通る国では個人のだれもが被害者であるといえる。

   どうすれば、このメカニズムを変えることができるのだろうか。保険や老後保障を捨てて潔くのた
  れ死に甘んじるか、それとも企業ではなく個人が社会保険を自ら支払う仕組みに変えるか。

   国家政策が企業を守ることより個人を守ることに転換できればよいのだが、いつのことやら。
  人間的な道徳正義が働かない国では、個人はいつまでたっても企業王国の犠牲者であり、個人
  あっての国家ではなく企業集団あっての国家があるということになる。

   この国は「企業の企業による企業のための国家」だということだ。「あー哀しー!」




      「壮絶資本主義」   99/10/31.

   どこかのCMで「新資本主義」なんてかっこいいコピーが流されていたが、そんなものではない。
  増え続けるホームレスやスラム化といった大阪市の状況を見ていると「壮絶資本主義」といった
  ほうがふさわしい。

   さらに何のことはない「原始資本主義」に戻っただけのことである。

   共産主義政権があるときには企業福祉国家がおこなわれたが、敵対する大国と国内反対者が
  いなくなると手の裏を返したように「原始資本主義」に返りうってしまうという身の軽さ。

   たしかに企業福祉国家はさまざまな歪みをもたらし、競争や優劣の差が必要なのはわかるが、
  あまりにも事態がヒドすぎる。職や家のない者は死ぬにまかせたままでよいのか。あまりにも
  極端で急激すぎて、あまりにも非情すぎるのではないか。

   このままでは治安や秩序がいつ崩壊するやもしれず、そのコストに比べれば、早めに手を打って
  おくというのが賢明ではないだろうか。




     金貸し業なんか信用するな     99/10/31.

   「目ん玉と腎臓を売れ!」と怒鳴りつけた日栄の元社員が逮捕された。ひどいこっちゃである。
  商工ローンのひどさがたびたび話題になっていたが、いまさらながらである。

   金貸しなんて一度手をつけたが最後、ケツの毛までむしりとられるのが昔から変わらぬ体質な
  のだろう。それなのにテレビではいくつもの消費者ローンの宣伝がおおっぴらにおこなわれて
  いるし、中には愚かな若者がそんな明るさに蚊のように吸い寄せられてゆくようだ。

   テレビに宣伝が出ると社会が公認したように若者は思ってしまうのだろう。でも金貸しというの
  は一回切りのモノや商品を買うのとはワケが違う。金貸し屋は利益のためにいつまでも顧客を
  つなぎとめておこうとするし、金が回らなくなって土地や保証人から大金をぶんだくるのが最初
  からの目的のようである。

   金貸し業が恐ろしいのは、生活や住居などの生存に最低限のものまで身ぐるみはがしてしまう
  ことである。強盗や自殺というのはあらかた借金とつながっているのだろう。自分が稼ぐ以上の
  カネを手に入れるということはそういうことなのである。

   「サラ金地獄」といった社会問題は70年代後半に一度顕在化した。だからいまでは脅迫や
  暴力まがいのとりたてをすると逮捕されるようになったが、今回の例のように相当の潜在的な
  犠牲者を生み出さないとなかなか警察や政治は守ってくれないものなのだろう。勘違いするなよ、
  ここは企業を守る国であり、個人を守り通す国ではないということを。銀行の不良債権は救っても
  個人の不良債権を政府が守るわけなんかあるか。(わたしも国民の税金をつかって資本注入され
  たい!)

   しかも国民の税金がつかわれた大銀行によって日栄は融資されていたということだから、国民
  の税金をつかって中小企業をつぶして保証人を自殺などに追い込んでいたことになる。このヒサン
  な構図はなんだろう? 国民はみずからの税金によってみずからの首を絞められるのだ。

   わたしは借金など一度もしたことがない。かくいうわたしの父もサラ金地獄時代に身と家庭を
  破滅させたクチである。だから借金の恐ろしさを身をもって知っているし、金貸し業は家庭を崩壊
  させるということも知っている。だから絶対に信用できない。カネを借りる前に生活のリストラをする
  ほうが先決なのだろう。

   金貸し業が繁栄する時代なんてもう経済が下り坂を転げ落ちているような時代なのだろう。
  株のあとに消費者ローンと金転がしばかりが繁盛する。車や家電、土建が繁栄している時代が
  華だったのだろう。われわれはヘタな幻想を抱かず生活のシェイプアップに励むべきなのだろう。




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    つぶやき断想集 第二集

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