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▼テーマは古代史と歴史地理 

 




 ■040905断想集 歴史地理を訪ねる




 ■和歌浦から海をのぞむ   2004/9/5

和歌浦です。万葉集に詠まれた景勝地らしいですが、いまはそんなに絶景には思えませんでした。むかしは紀ノ川がそそぎ、いくつもの島が浮かんでいたらしいので、比べられないのでしょう。
海原がひろがっています。遠くに霞む山影が海の広さを感じさせます。
海岸沿いの道路が陥没しておりました。さいきんの台風で壊されたんでしょう。波の威力はすごいものがあります。
海にはこういう岩山の奇勝が見られます。すごいです。
大海原が果てしなく広がっています。ここは紀伊水道です。
山影が途切れたあたりから、大洋がひろがっています。
海岸の絶壁断崖には圧倒されます。自然の大きさに威圧されます。おそらくここの岩も台風の影響で地崩れしていました。
写真中央の山には住宅が所狭しと並んでおりました。たぶん漁村がのびていって小高い山にまで進出したと思うのですが、人々の営みにはすごいものがあると感じました。





 水運が都市の繁栄を握っていた     2004/9/7


 日本の町の発展の理由は、港や河川による水運の条件によっていたのではないかと私は思う。モノやヒトの輸送に適していたのは陸上でなくて、水上であったはずである。

 都市は水上交通の要衝に生まれたのだと思う。船によってモノやヒトは集まり、市がひらかれ、発展していったのだと思う。船や海は漁民だけのものではなく、おおくの人にとっての交通路だったはずである。

 大阪はやはり淀川と大和川の水運によって発達したと思われる。瀬戸内海の行き止まったところに難波津があり、6.7世紀ころまでは草香江といわれる内海があり、奈良へは大和川の水運で結ばれていたと思われる。

 内海はいまではまったく消滅してしまったが、生駒山麓に日下(くさか)という地名がのこっており、それは「日の本」であり、「日本」の国名の由来だという説もある。難波宮からみれば、生駒は日の昇る方角である。

 奈良にはじめて国を治めるような政権が生まれたのはひじょうに不思議である。大和川は淀川に比べれば細く水量は少なく、琵琶湖までつながっているような長大さもない。三輪山付近に海拓榴市(つばいち)という市が立つくらいの船便がよいような河川の水量はとてもなかったように思えるのだが。むかしは奈良の河川の水量はもっと豊富だったのだろうか。早くに森林伐採で土砂が堆積したのだろうか。

 せいぜい四方を奥深い山々にかこまれていて、自然の要塞だったはいえることができる。奈良盆地は京都より広いといえば広い。石器や鉄の材料の産出地が奈良に多かったとも考えられる。しかし商業や都の機能はやはり大阪や京都にうつってゆくのである。

 大和川の生駒をこえた海寄りの地域では、古市古墳群や百舌鳥古墳群がおおくのこっている。ここいらは水運に適した河川があったわけではないが、沖には住吉津や石津などの港があり、陸上での交通でつながっていたのだろうか。古市あたりは奈良の京からみれば、山の向こうの日が沈むところであり、「死者の国」だと想定されていたのだろうか。

 京都も四方を山に囲まれた狭い盆地であり、大阪から来るには山に狭められた淀川筋を通ってこなければならないし、琵琶湖からも比叡山などの山にへだられている。自然の要塞だったといえる。

 琵琶湖は水運の動脈として機能したと思われる。大津や樫田、八幡などの港が繁栄した。ただ日本海からは陸上の道しかなく、敦賀や小浜などの街道から物資は運ばれてきたわけだ。信長も全国制覇の前に城を琵琶湖の中心あたりにおいている。

 水運が町の発展を担っており、山にへだてられた漁村や島というのはだから逆に海上の道に大きく開かれていたわけである。北九州や出雲が早くに発展したのは海上交通の要衝にあったからだ。日本海の若狭や能登、酒田などは海上交通の要であった。モノや文化はそういう海上流通の要に発展していったと思われる。

 こんにちではわれわれがふつう考えるように陸上から町は発展していったと考えがちだが、海から発展したと考えるほうが妥当である。海上物流は陸上よりはるかに多く、早く、人やモノを運べたのである。海上交通の要はおのずと町や文化の発展を担っていったことだろう。

 こんにちでは鉄道や車の発達により、これらの道沿いやターミナルから町の繁栄や発展の理由が考えられるが、江戸時代より以前はずっと水運がその条件を担っていたのである。

 海からの日本史や都市の発展にもっと注目すべきだと思う。船は漁民だけのものではなく、商人や農民にとってもこんにちの鉄道や車のように重要なものだったのではないだろうか。






 ■いまは亡き安土城のすがた    2004/9/8

 織田信長が築いた安土城はいまはどうなっているのか。その姿をお見せします。

安土城のあった山です。
安土城への石垣と石段がのこっています。
石段をすこしのぼったところに羽柴秀吉邸と前田利家邸があったそうです。城の手前に家があったとはふしぎなものです。
おそらく向こうの方にかすかに琵琶湖が見えています。琵琶湖全体が見渡せるところではなく、奥まったところにあったんだなと思いました。
たしかここは天守閣跡だったと思います。
西の瑚が見えています。山の向こうに琵琶湖があるはずです。

  安土城はここにあります。





 地名から歴史を探る       2004/9/18


 ふだん何気なく覚えている地名から歴史が垣間見えることは興味深いことである。地名というのはその土地の特徴や性質を、ほかの地名と重ならないよう、周到に考えられているはずである。

 私も子どものころは自分の住む土地の地名はなぜこういう名前になったのだろうかとよく疑問に思ったものである。歴史に由緒がありそうな地名だったらどんな歴史があったのかとよく思った。でも由来を探すまでにはいかないのだな。

 そこで歴史読本増刊の『日本「歴史地名」総覧』を読んでみた。以下その中から興味の引かれた部分だけをピックアップしてみよう。地名を読む参考になればと思う。

 やはり地名に多いのは自然の形象だろう。奈良は「ならす(均す、平坦地)」のならであるし、大阪は字のとおり大きな坂であろうし、原や野のつく地名はおおい。崎や沢、岬や森は読んで字の如しである。

 動・植物の地名もおおい。葦原(あわら)や芦原はイネ科の植物からつけられ、橿原はブナ科の植物、桜井はとうぜん桜、栃木はトチの木から、松山は松からといったように明快である。

 渡来人の名前が残ったところも多い。漢・綾(あや)、今来・新(いまき)、太秦(うずまさ)、唐・韓(から)、百済(くだら)、狛・高麗(こま))、新羅(しらぎ)、秦・波多(はた)などの今にのこる地名がそうである。かれらは大陸の先進文化をつたえ、のこしていった人たちであり、その地名のあるところは高い文化性を誇った地域であることがうかがえるのである。

 豪族の名前が残った地名もよくある。奈良には葛城(かつらぎ)や巨勢(こぜ)、三輪(みわ)、平群(へぐり)などの豪族名がのこっている。安曇(あづみ)、犬養(いぬかい)、凡直(おおしのあたい)、倭文氏(しとりべ)、鳥取氏(ととり)、山部(やまべ)が部民・豪族ののこった地名である。

 鉱物・鍛冶ののこった地名も重要である。たたらの作業工程から片目がつぶれたり、片足になった人物の伝説があるところは鉱物に関係があったところだと推測されるのである。鍛冶・鍛冶屋、金糞、金屋・金谷、金山、たたら、丹生、吹屋、福富、伊吹、伊福、などの地名が関係あると見なされる。吹屋などのフクのつく地名は鈩を吹く作業から転じたものである。

 地名の難しいところは漢字の意味からかんたんに由来を推測できないばあいもあることである。字義通りにとれない地名もあるのである。さいしょにひらがなか呼び名があって、読み名が近い漢字をあてはめたばあいが多いからである。それによって意味がまったく違ってくる。アイヌ語や朝鮮語、中国語、またはポリネシア語から日本語をあてはめて地名が変遷していったと考える人もいるのである。だからげんざいの漢字地名から由来を探れないこともある。

 信仰にまつわる地名もおおい。神社名が地名になったところはよく見かける。神道地名と思われるのは、安曇や伊勢、出雲、賀茂、熊野、住吉、諏訪、龍田などがある。

 山には仏教系の名前がおおい。経塚(きょうづか)、権現(ごんげん)、金剛山、蔵王山、地蔵ヶ岳、帝釈山(たいしゃくさん)、大日、大菩薩峠、毘沙門(びしゃもん)、不動明王、薬師などである。山は仏教者のテーマパークみたいに感じる。神社は平地にあるに比べて仏教は山に入りこんだ。

 市がつく地名は市場がたったところである。四日市などが有名だが、全国には一日から十日市までのこっている。交通の関係で残っている地名も多いし、津・泊・和田などの港にかかわる地名もおおくのこっている。

 大和には備前・備後・長門・阿波・出雲などの旧国名がおおくのこっており、朝廷に出仕のため移住したと思われる。各地には遠くの地名がのこっているばあいがあり、移住や交流のあとをうかがわせるのである。紀伊と伊豆に同地名があったりする。

 城下町などには職業別の地名がのこっていたりする。大工町、木挽町、鍛冶町、紺屋町、瓦町などである。おおくの職業がひととおり揃う商社やデパートのような町並みをしていたのであり、町は電話帳のタウンページのように探しやすかったのだろう。

 ざっと地名の由来について抜き出してみたが、これらは地名を読む際のわずかな手がかりになる程度であり、地名の変遷というのはほとんど語呂合わせみたいに転変しており、現在の地名からその意味を探るのはそうとう難しい。こんにちの漢字の意味から探れるかもしれないが、もとはまったく違った意味であったかもしれないのだ。

 地名の歴史は気休め程度にしかわかりえないものかもしれないが、その土地の歴史を伝えている地名というのはやはり歴史の重要な手がかりになるものである。

 あなたも近くの地図をひろげてみて、歴史を妄想してみるのも楽しいかもしれませんね。






 大阪市の地名を訪ねる          2004/9/23


 大阪の地名から歴史を探ってみたいと思う。推測・妄想を楽しみたいと思うので、あまり正確を期すつもりはありませんのでよろしく。

 大阪という地名だが、げんざい大阪にはそういう地名はないと思う。大阪の中心の北区にも中央区にもない。駅名はあるが、JR大阪駅周辺は「梅田」である。天王寺区に逢坂という地名があるが関係あるのか。大阪はむかし上町台地を中心に発達したから坂の名がついたのだろうか。

 大阪の中心といえば、げんざいはキタやミナミ、御堂筋、北浜あたりが思い浮かぶが、古くは大阪城、本願寺があったあたりが大阪の中心だったのだろう。大手前に官公庁街があり、お役所にとってはまだ中心である。

 大阪の中心の区はほぼ通りごとに細かく町名があり、歴史の古さを感じさせる。今橋や高麗橋、農人橋天神橋、などの橋名がついた地名があったり、道頓堀や横堀、土佐堀、立売堀、堀江、江戸堀、京町堀、などの堀名、北浜や船場、船越町、堂島浜、などの浜や船に関係のある地名がある。

 ほかの土地の町名がのこっているところも多い。伏見町や平野町、淡路町、備後町、安土町、粉川町、和泉町、阿波座、周防町、八幡町、住吉町、などである。仕事に関係した地名は少ないかもしれない。瓦町、糸屋町、両替町、材木町、唐物町、炭屋町、畳屋町、笠屋町、などがある。

 大阪は水運の都として発達したわけだが、港や船に関係した地名をのこすところも多い。此花区の伝法は淀川河口の港として栄えたらしいが、これは仏教もここに伝来されたの意味か。淀川沿いに見ていくと、千舟、海老江、鷺洲、中津、中崎、三津屋、淡路、江口、高浜町、一津屋、三島江、唐崎、などの津や江に関係した地名がのこっており、往時の姿をしのばせる。

 住吉津は住吉大社あたりにあったとされるが、げんざい海岸は何qも先に後退しており、住吉大社が海際に面していたことはげんざいでは想像できない。ただこのあたりの地名には御崎(みさき)、浜口、住之江、粉浜、津守、岸里、潮路など海を思わせる地名がのこっており、かつての海岸線をしのばせるのである。

 ところで難波西には湊町や敷津、浪速、塩草などの港に関係する地名がのこっているが、ここらも港だったのだろうか。浪速の地名の発祥の地なのか。古代の港、難波津は高麗橋あたりに想定されているが。

 都島区、旭区には都島や高殿、大宮、中宮という宮都を思わせる地名がのこっているが、かつては仁徳天皇の高津宮、孝徳天皇の長柄豊碕宮がおかれていたとされる。淀川の近くである。

 鶴見区には今津、浜、諸口、横堤、つづく東大阪には森河内、川俣、西堤、若江、と津や河川に関係ある地名がのこっているが、げんざい平野川や寝屋川が通っているが、かつては付け替え前の大和川がここらへんを走っていたのだろうか。だとしたら大和への通通路として重要な水路だったはずである。

 さいごに地名とは関係ないが、現在の重要な交通は鉄道なのだが、大阪市を一周する環状線はなぜげんざいの位置になったのだろうかと地図を見ていて思った。

 大阪駅は北区にあるが、大阪の中心にしてはちょっと北寄りである。京都と神戸を結ぶ東海道本線がむりして南下したさいにこれ以上下れないと環状線に結びつけたのが大阪駅みたいである。たとえばむりして大阪城駅までひっぱってくるとか、本町や難波あたりまでひっぱってきて、大阪駅にしてもよかったのではないかと思う。東海道線は大阪の中心まできていないと思うのである。

 環状線ももっと広かったり、市の南のほうまでのばしていたり、東大阪のほうまで広がらせていたら、よかったのではないかと思う。そろそろいまの環状線より一回り大きい大環状線をつくれば、中央にしか集まらない鉄道の横への移動の不便さを解消できると思うのだが、いかがだろうか。

  大阪市中央区の地図に飛びます。



 ■2004/10/10
 きょうはJR西日本の一日乗り放題きっぷで鳥取のほうまでいってきました。3千円です。

  山陰の山あいの田んぼが美しい。

 出雲大社までいこうと思っていたのですが、大阪から快速が見つからず、普通ばかりで、しかも終点までが短い。のりかえは福知山、城崎、浜坂、鳥取とこれだけで半日をついやしました。くたくたです。

 四人掛けシートでは家族にはさまれ、きゅうくつな思いをし、ロングシートでは景色が見えず(日本海の景色はきれいでしたがあまり見えず)、文庫本が古代史関係を二冊も読めただけです。

 帰りは智頭、津山、岡山と中国地方を南に降りて、播州赤穂とまたまた普通をのりつぎ、姫路からようやく快速で大阪まで帰ってきました。

 田舎のほうにいくと普通ばかりで快速が走ってないことをはじめて知りました。特急なんかハナから乗る気はありませんから、不便極まりないです。JRも特急指定席なんかやめたらいいのにと思います。

 乗り放題きっぷは距離をかせごうとしたらぜんぜんその土地をたのしむことができなくなりますから、近場をたのしむ必要があるのではないかと思いました。電車に乗ってるだけで景色もたのしめないようでは意味もありません。この一日はなんだったんでしょうかという気持ちで終わりました。鉄道マニアの方なら多くの路線を乗れるだけでたのしいんでしょうが。




 ■スパイウェアに感染されまくっています。ブラウザ類を開くたびにポップアップが開いたり、スタートページを侵略されまくっています。駆除ソフトを組み込んだのですが、それが仇となって駆除と確認の表示が出まくっています。どーしたらいいんでしょうね。とほほ。

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