わたしがのぞむ生き方と社会


                                                1998/3/1.





     わたしはどのような生き方ができる社会をのぞんでいるか。

     こういうヴィジョンを描いておくのは、わたしがどんな世の中をのぞんでいるのか、

    みなさんにもわかりやすくなると思うし、また自分にとっても漠然と描いている、

    こうあってほしい社会の姿をはっきりできるからだ。



     わたしがいちばんにのぞむ生き方というのは、

    企業や仕事に一生を拘束されない、もっと自由な生き方だ。

     一生を企業や仕事だけに費やされてしまう生き方は、あまりにも悲惨だ。

     もっと仕事や企業以外の生き方や過ごし方ができる生き方をしたい。


     趣味に没頭したり、なにもしないで過ごしたり、ぶらぶらと近所を散歩したり、

    あるいは日本や海外を旅行したり、そういう暮らし方をしたい。

     ひとつの企業に拘束されると長い休暇を得ることはまずムリなので、

    転職が自由であり、仕事から解放された人生の休暇を多くとりたい。

     失業というのは、ある意味で貯金さえあれば、勤めていれば一生得られない、

    人生の最高のバカンスにもなりうるわけで、こういう期間も多くとりたい。

     そしてそういうことに価値がおかれる、社会的に容認されるような雰囲気になってほしい。

     そこにこそ人生を生きるほんとうの意味があるのではないのか。


     現代のわれわれの生き方というのはあまりにも企業に拘束されすぎる。

     毎日毎日、会社に仕事しに行かなければならないし、休日や休暇はひじょうに少ないし、

    つかの間の休みのあとにはハードな仕事の毎日があると思うと、心が休まる暇もない。

     いまの社会はあまりにも企業が強大になり過ぎて、どこにも逃げ場所がない。

     子どものころからわれわれは受験選別という形で企業に拘束されている。

     このような心理的な拘束力は、ものすごい重圧となってわれわれの心にのしかかる。

     あまりにも企業がわれわれの一生や社会を拘束し過ぎるのだ。


     おそらくいくらかの人はなにを甘えたことを言っているのか、と思うかもしれない。

     だけど、視野をひっくりかえしてもみてほしい。

     日常にあたり前として通っていることが、絶対に「正常」だとは限らないのではないか。

     人間ならとうぜん思う欲求がぜんぜん満たされない社会のほうが、

    もっと異常で、おかしくはないだろうか。

     そしてこの当たり前の世界も、じつは超自然的にこの社会を拘束しているのではなく、

    人為的につくられたものであり、それも比較的最近につくられた仕組みにしか

    過ぎないとしたら、どう思うだろうか。

     人間の社会というのは、人間がつくりだしているものだ。

     当たり前と思っているこの社会の仕組みも、だれかがつくりだしたものにほかならない。

     自然にできあがったものでもなく、神がつくりたもうたなどと狂信でもしないかぎり、

    われわれはこの社会を変えることができるはずだ。


     企業に就職したら、おそらく一生、長い休暇を得ることがないだろう。

     企業と仕事だけの一生が全生涯を覆っている。

     人間はもっと自由で、気ままな生き方もできたはずだ。

     まったくなににも拘束されない気持ちで、毎日や長い日々を過ごせたかもしれない。


     でも現代のわれわれが得る休暇というのはたった1、2日の休日や、

    正月休み、盆休みくらいでしかない。

     この短い休みも、すぐにハードな毎日に置き換わるので、心の休まる暇もない。

     定年後には人生の長い休暇があるかもしれないが、

    歳をとってそんなものを得ても、うれしくもなんともない。

     長く働いたご褒美が、死にかけの老人に残されたわずかな余暇では、

    いったいなんのために生きているのかわからない。

     このわれわれの勤勉社会では、人間として生きるための意味がまるでない。

     人間が幸福に生きるための生活基盤がまるでない。


     かつては働かなければ食えなかったのだろうが、いまは違う。

     人生にもとめられる意味や価値観がまるで変わってしまったのだ。


     この社会のシステムは、その貧しい時代のままであり、

    新しい時代の幸福感を収奪するシステムとしか機能していない。

     産業優先と産業保護を第一に優先する思考が、個人の幸福を押しつぶしている。

     産業の利益を守ろうとしたために薬害エイズという殺人は起こされたし、

    公害病患者も、産業優先思考の犠牲者だ。

     日本のあらたまらない長時間労働も、産業優先・保護思考のたまものだ。

     お役人は産業を保護・育成することで頭がいっぱいだから、

    企業に都合のよい法律は野放しにしておき、個人の幸福や人権を奪っても平気だ。

     日本人の企業に一生を奪われる人生も、個々人の人生を楽しめないという意味で、

    「殺人」に等しい。

     じっさいに過労死も多いのだから、産業優先思考は、

    おおくの労働者を死にいたらしめる殺人的思考といえる。


     このような仕組みは即刻あらためてほしいと思う。

     お役人や政治家には、産業優先から個人優先思考へのコペルニクス的転回が必要だ。

     さもないと国民からは信頼されないだろうし、相手にすらしないだろう。


     わたしがのぞむ生き方や社会というのは、この企業や仕事の価値観をひっくりかえす、

    この一点だけにかかっている。

     この点があらたまれば、この社会ももっと楽しくなると思うのだが、

    システムは利権とか既得権益、生活とかいろいろ絡まっているようで、

    まったく変わらないようだ。


     日本人の集団主義的な自己犠牲の精神もあらたまってほしい。

     会社や組織のためにいかに自己犠牲を払うかが、

    組織や社会での評価や称賛になってしまっている。


     このような精神構造はなぜ生まれてしまったのだろうか。

     評価のモノサシがなかったからだろうか。

     市場や社会というモノサシをもたない組織は、

    評価を集団への自己犠牲の度合いによって測るしかなかったのだろうか。

     そして長時間会社にいつづけるというしょうもない評価基準によって、

    社員を評価するようになったのだろうか。


     これでは個人に幸福のない集団主義、全体主義の社会になってしまう。

     集団主義というのは平等という考えのために生み出されたのかもしれない。

     みんなが平等であるためには足並みを揃えなければならない。

     そのためにはたえず全体や集団を見渡すことが必要になる。

     こうして全体を第一にした集団主義ができあがる。


     この全体を至上価値にするという志向も、貧しい時代の発想であって、

    全体の経済的成長が個人の幸福につながるという考え方のたまものだ。

     全体がランクアップしようという時代にはよかったのかもしれないが、

    おおくが豊かになった現在、集団の自己犠牲はあまりにも時代遅れだ。

     また、じっさいに過労死や管理者の自殺、家庭の破壊、若者の離反などが

    おこっているわけだから、この方向にわれわれの幸福があるわけがない。


     全体や集団のために自己を犠牲にすることが美徳だという考え方は、

    恐ろしいものであり、日本人はその悲惨さを戦時中にたっぷり経験したはずだ。

     それでも全体主義、集団主義の考え方・社会風土はあらたまっていない。

     このような全体主義思想の恐ろしさを、日本人はおぞましいものだと思っているはずだ。

     しかし現在でも会社組織はそのような精神構造をもったままだ。


     なぜ、この全体主義的志向はなくならなかったのだろうか。

     戦前の日本を戦争にみちびいたのは、この全体主義的思考ではなかったのか。


     戦後の復興期には、みんなで経済を立て直そうという一致団結した目的が

    あったからかもしれない。

     高度成長期には会社の成長と自分の給料・社会的地位の上昇がぴったりと重なった。

     だがそれ以降、全体と個人の利益というのはどんどんひき離れていったはずだ。

     若者は会社を大きくすることや上のポストをめざすことより、

    消費やレジャー、旅行などの個人的幸福に生きがいの目的をスライドしはじめていた。

     それでも現在の企業組織には、組織のための自己犠牲が厳然といすわっている。


     個人ははるかべつの方向に走り出してしまったのに、

    組織や国家といった集団はあいかわらず、むかしの集団的拘束を維持しつづけている。

     なにがこれに歯止めをかけているのか。

     なぜ組織は新しい時代にあった風通しのよいものに変化できなかったのか。


     成功者ゆえの失敗に気づかなかったからだろう。

     日本の組織は世界に名だたる経済的成功を収めたばかりに、

    時代の変化に気づけなくなってしまっている。

     底流として変化しつづけた社会精神を認めることができなかったのだ。


     あまりにも成功しすぎた日本的組織は、自己の方法――集団の自己犠牲を

    あまりにも美化しすぎてしまったのだ。

     時代が変わり、うまくいかなくなれば、ぎゃくにますますそれを強化する方に走る。

     うまくいかないのは、自己犠牲や精神的努力がたりないのだという思考に走る。

     思考のフレームを反省してみることは、だれだってむづかしい。

     こうして集団主義・全体主義の思潮は、戦前と同じくますます激しくなり、

    多くの犠牲者を生み出すにいたる。


     いま、日本はこの段階で迷いに迷っているようだ。

     成功者ゆえの失敗は、堺屋太一が『豊臣秀吉』の生涯で描いたように、

    どうもその走り出した方向に歯止めをかけられないようだ。

     日本経済をたちあげ、成功してきた経営者たちが、

    新しい時代には、時代に適応できない悪役になるとは思いもしないのだろう。

     こうして成功者をパージできない社会は、若者に多大な犠牲を押しつけつづけ、

    将来の日本社会に大きな惨禍をのこすことになるだろう。


     たしかに組織が変わるということはむつかしい。

     部下は上司を批判するのはむつかしいし、衝突すれば出世や自分のクビが危うくなる。

     上司の権限や権力はどこからも修正も変更もされないだろう。


     ただそういう組織はいつか市場や社会状況にNOをつきつけられるときがきっとくる。

     権力や権限をふりまわして守ろうとしても、もう守られはしないだろう。


     日本というのは、下からの批判や改善力というのがひじょうに弱い。

     なかなか変わることができない。

     年齢が上のほうが無条件にエライという年齢主義的な考え方があるからだろうか。

     歳をとったらエラくなるというのは科学的に実証されるなんて思いもしないが、

    この日本では学校のときから先輩をタテるという慣習を徹底的に叩きこまれる。

     こういう精神風土があんがい、日本の変わりにくさを拘束しているのかもしれない。

     おかげで中高年の転職はひじょうにむづかしいから意地でもひとつの会社にしがみつき、

    それゆえに衰退産業から成長産業への人材移転がひじょうに阻まれる。

     日本社会が淀んで閉塞しているのは、このことにも原因がある。


     まあわたしは自己犠牲を強いらない、集団主義的思考のない社会になってほしいと

    思っている。

     もっと個人の自由や幸福、気ままさや安楽といったものを大事にしてほしいと思う。

     そんな自分勝手な、利己主義的な人間ばかりになったらどうするのだ、

    と人は目くじらを立てるかもしれないが、それこそが全体主義的な発想だ。

     全体主義の悲惨な歴史、過労死や個人の幸福のない社会などというのは、

    集団のために自己犠牲を強いた社会のとうぜんの帰結なのだ。

     たしかに利己的な人間が社会を混乱させる心配もあるが、

    これまでの集団主義的な社会がかならずしも個人の幸福を用意したとはとても思えない。

     ともかくわれわれはこの精神風土から離れる必要があるのだ。

     それがどのような結果になるかは、とりあえずオリの外に出てみないとわからない。


     利己心が肯定された社会というのはマンデヴィルが考察したように、

    あんがい社会的発展をうながすものであるわけだ。

     自分を楽しめない人、守れない人が、ほかの人を守れるわけがない。

     利己心を否定する人は、集団主義的な思考のうえで利益を得てきた人、

    既得権益がある人なのであり、抑えつけていたほうがおトクなのだろう。

     正義や正当的な論理というのは、その人の「利益」と言いかえるほうがいい。


     全体を心配し、配慮するという思考は、かつて美徳であったかもしれない。

     そのような考え方は6、70年代に学生と政府との衝突をまねき、

    それ以降の若者は全体の向上を否定し、社会を無視し、自分ひとりの幸福に向かった。

     暴力的に衝突したり、戦争に走るようでは、個人の幸福に戻ったほうがいいだろう。

     若者はそのように変動していたが、企業組織ではあいかわらず、

    集団への自己犠牲的精神が花開いたままだ。


     この世代間のミスマッチ、ギャップはなぜ埋まらないままなんだろうか。

     全体のために自己を犠牲にする生き方は、もう若者には信じられない。

     また人生を生きる意味や幸福の価値という意味でもおぞましいものにしか感じられない。

     このままでは、若者がのぞむ生き方と社会組織のあり方は、

    ますますミゾを広げるだけだろう。

     なぜ変わらない、なぜ全体主義的思考はあらたまらない?


     個々人の意識変革と社会意識の変革がもとめられる。


     会社への精神的隷属といった関係もあらたまってほしい。

     われわれはあまりにも会社の精神的奴隷になり過ぎている。

     新興宗教に隷属する人たちはおぞましいものと思っているのに、

    なぜそれとそっくりな会社への精神的隷属を忌まわしいものと思わないのだろうか。

     個人が会社集団や組織にたいして、もっと強くなれる社会をのそむ。

     全国家的に個人より法人が優遇される制度・司法判断などがあるためと思われるが、

    これでは北朝鮮のマインドコントロールされた国民となんら変わりはない。

     もっとはやくマインドコントロールが解けるようになってほしい。


     画一的・無個性な人間をよしとする社会風土もあらたまってほしい。

     どうも日本では人と違ったことをすることが徹底的に叩かれるようだ。

     とくに現代ではTVメディアの流行と違ったことをしようとすると、

    徹底的に叩かれる。

     TVメディアを「神」の存在までひきあげ、神のいわれるがまま、なされるがままに、

    従う若者や人々があまりにも多くい過ぎる。

     もうすこしTVメディアをシラケた目で見たり、醒めた目で見る必要がある。


     TVが「神」であってよいものなんだろうか。

     情報や知識というのは、だれの所有物でだれの言い分でだれの利益なのか、

    わかりにくいところがある。

     知識というのは、身近な知人の意見に感じられるように、偏見とか悪意、

    自分の立場・利益などのひじょうに狭い視野のうえに語られるものだ。

     それはどんなエライ学者であろうと知識人であろうと、TVメディアであろうと、

    変わりはない。

     とくに学者とかになると無意識の前提条件がきれいさっぱり忘れ去られている。

     それが人間の限界であり、社会や時代に規定された人間の限界だ。

     われわれはどのような知識・情報も、それを発信する人の利益とエゴと、

    まったく無関係ではないということを心に刻印しておくべきなのだ。

     さもないと他人の利益やエゴにまったく気づかないでそのとおりに行動させられる、

    あわれなあやつり人形に堕してしまうだけだろう。

                    

     いじょう、わたしがのぞむ生き方や社会についてざっと素描してみた。

     わがままや身勝手すぎるという思いが自分にもないわけではないが、

    これらはいまのあまりにも全体主義的な社会からくる反動なのである。

     自己を犠牲にして社会のために奉仕するという精神は、

    戦争時の全体主義国家を思わせて、あまりにも恐ろしすぎるものに感じられる。

     われわれはそのような教育をうけてきて、全体主義志向を忌避してきた。


     だが社会に出るとまさに嫌悪されてきた全体主義的な組織が満ち満ちている。

     このような形態はもう時代の流れにそぐわないし、

    個人主義的になった若者にはあまりにも耐えがたいものだ。


     個人の幸福が集団や組織のために犠牲にならない社会が、

    もっとはやく実現してほしいと思う。

     仕事や会社に一生拘束されることがまともな人間だという考え方は、

    長い歴史のなかでは、少数に属する異常で奇形的な考えだ。

     個人が犠牲になる社会に個人の幸福はないし、ゆえに社会は幸福ではない。

     考えなおしてほしいと思う。






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