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 手塚治虫グラフィティ


 ■これから少年時代に楽しんだ手塚治虫のマンガの感想をつづっていこうと思っています。なつかしさを味わってもらえればいいなと思います。
 それと大人の目から見た、子どものころに教えられたテーマやメッセージを、いまでも受け入れることができるか再検討してみたいと思います。




 『ふしぎな少年 (1)』 手塚治虫漫画全集56
 講談社 591e

 
 

 時間を止めることができるようになった少年のSF物語である。時間をとめて大事故の犠牲者を救ったり、殺人事件を防いだりする。

 このような時間をとめるということはまったく現実にはムリな話である。この物語の効用は時間をとめているあいだになんでもできることから道徳の教訓を得ることができるし、または人にはまったくできないことができるという優越感を満足することができることだ。

 この物語が好きだとしたらそれはここに優越感を得ることができるからだ。人はどうして優越感を求めてやまないのだろうか。優越感がなくなれば人は人と応対することすら難しくなってくるし、社会を互角に渡ってゆくことも困難になる。だから人は必死に空想でもいいから優越感を求めるのである。

 だが、優越感はときに差別や蔑視に結びつくし、あるいは人への非難や暴力に結びつく。人が優越感を必要とするとき、他人は虐げられるのである。この優越感と差別のからくりを解体できないものだろうか。

 宗教が言ってきたのは自我や思考をなくすことである。自我とは優越感そのものである。この方法で人は優越感と劣等感から自由になれるのだろうか。劣等感を怖がる人はたとえどんな優越感を得ようとその恐怖から逃れることはできないのである。       2005/6/5





 ■手塚治虫の育った宝塚を歩く      2005/5/30

 手塚治虫は5才から24才の昭和10年代を宝塚で育ちました。私には一度マンガの天才の生まれ育った地を見てみたいという気持ちがありました。手塚の旧家はわかりませんでしたが、現在の様変わりした宝塚を見ることができました。

 宝塚歌劇があり、いぜんは宝塚ファミリーランドがあり、阪急の小林一三がつくったエンターティメントの街という感じがしました。ただ大阪平野の北限にあり、山を削り、山の上にへばりつくように高層マンションがたちならぶ現在の様は、神戸の町並み同様、なにかおぞましいものがありました。

 ちかごろはこの路線の大阪寄りで列車脱線事故があり、手塚の母校である池田小では殺傷事件があり、十年前には阪神大震災がありました。手塚の育った地域が崩れてゆくという感じがします。

駅を南に下るとぴかぴかな高層マンションやホテルがたちならびます。この街は一戸建ての街というよりか、マンション礼賛の街という感じがします。さらに南は六甲山系です。
宝塚大劇場です。男の私にはまったくわからない世界です。手前の武庫川はすぐに山奥の景観を誇る武庫川渓谷に入ります。
手塚治虫記念館です。手塚ファンの巡礼の地みたいになっています。私は『ブラック・ジャック』の生原稿のホワイトで修正したあとや、セリフの切り貼りが見れてよかったです。
手塚の旧家がある御殿山方向は、裏宝塚とよべるほどさびれている感じがしました。閑静な住宅地ではありますが。いきなり坂道がえんえんとつづきます。
御殿山をのぼったあたりから宝塚市全体が見渡せます。むこうの六甲山系のすそ野を削りとるように新興住宅地がならびます。
さらに上にのぼれば、巨大なマンション群がたちならびます。エスカレーターがなければ昇れないほど急勾配です。バスや車がなければ、ここまでこれないくらいです。
こちらは豪華な阪急宝塚駅です。もちろんデパートがあったり、宝塚歌劇寄りです。
その北側にはどこにあるかわからないほどのJR宝塚駅があります。このへんに脱線事故をおこすほどの焦りが見えるようです。JRは長距離にはいいのですけどね。もうほんとに輸送機関だけですね。

 ▼参考リンク
 手塚治虫の大阪を歩く 東京紅團

  宝塚市御殿山付近の地図。




 『アポロの歌 (1)』 手塚治虫漫画全集35
 講談社 561e

 
  

 手塚が永井豪の『ハレンチ学園』に触発されて描いた性と愛の物語。母親の性の乱れから動物虐待をくりかえしていた少年が愛の女神によって報われない愛を罰として与えられつづけるイタイ物語である。悲恋を味わえるというよりか、もうマゾイスティックである。

 手塚は多くの作品の中に恋愛の要素はとりあげたが、恋愛マンガはうまくはなかった。そこから少女マンガの学園恋愛モノは興隆したし、手塚に欠けていたスポ根モノも興隆した。昭和のマンガ界は手塚のすきま産業で成り立っていたのかもしれない。

 マンガに性を求める衝動というのは強いものである。エッチなものや裸ばかりマンガに求めるようになった私はなんとなくこの方向がいやになり、マンガから離れてゆく契機になったように思う。そればっかりかよという気になった。虚構に向かう性衝動はとめておいたほうがいいのか、とめないほうがいいのか、私にはわからない。

 ただこの物語が表わしているように性を憎むことはみずからを罰することになるのを覚えておいたほうがいいだろう。性への憎しみは自分の愛をも奪うのである。       2005/5/29




 『きりひと讃歌 (1)』 手塚治虫
 小学館文庫 590e

 
  

 これはどう評価していいかわからない。医学部の教授に生体実験のようにされ、モンモウ病という犬のような顔になる病気にかかり、見世物として売られたりするストーリーを描いている。

 『白い巨塔』に触発されて描いた作品だと思うのだが、医学部の権威主義や名声のようなものが告発すべきテーマには私には思えないのだが。医者が患者を生体実験のように見なすのはどちらかといえば当たり前っぽい気がするのだけれど。

 子どものときに読んだ私には四国の山奥の因習的な村や、ごちそうのかわりに女体がさしだされるなんて、みょうに印象に残ったなぁ。

 それにしても手塚は『バンパイヤ』や『火の鳥 太陽編』など人間が犬になる物語をよく描いたな。「文明」の差別としての「獣」側に身をおくことによって、文明の権力性や身勝手さを告発したのだろうか。差別され、虐待される獣としての人間の気もちを文明人も知れということか。文明の放漫さは大切なメッセージである。       2005/5/23




 『人間昆虫記』 手塚治虫
 大都社 673e

 


 見事な作品であった。いぜんはグラフィックデザインで世界的になり、こんどは芥川賞を受賞した女性が、他人の才能を完璧に模倣する女性であることがわかってゆく。

 秘密を知ったものは殺されてゆくわ、利用できるなら自分の肉体はかんたんにさしだすわ、エリート商社マンと偽装結婚をおこなうわ、成功や頂点にのぼりつめるためなら手段を選ばない。模倣された者は破滅してゆく。『人間昆虫記』とは蝶々のようにさなぎから蝶に変態するさまをいっているのだろう。

 この作品でいっているのは、おそらく日本の経済的模倣や文明の模倣のことをいっているのだろう。文明というの模倣によってなしとげられ、そのお株を奪ってゆくものである。日本の経済的成功がアメリカの模倣であったように。日本もいずれ後進国に模倣され、追い越されるのだろう。模倣の怖ろしさと、利用できるものはすべて食い尽くす女の怖ろしさ(と魅力?)を感じさせる作品であった。

 しかし彼女は満たされない。死去した母親の蝋人形に裸で甘えてみたり、かつて才能を模倣して裏切った男が忘れられなかったり。せつなさやさみしさが彼女からは抜け切らないのである。成功や名声の空しさや病理面がそこには立ち現れているのだろうか。それらに魂を売った日本人の姿が透けて見えそうである。        2005/5/22




 『ジャングル大帝 (1)』 手塚治虫漫画全集1
 講談社 561e

 
  

 これだよ、この表紙だよ。私がはじめて手塚治虫と出会った作品で、ぼろぼろになるまで読み返したものである。昭和52年、私が10才のときだった。それいらい、手塚の作品を読み漁った。僥倖の時期であった。

 子どものころは動物が好きなもので、シートンの『狼王ロボ』が好きだった私はこの作品のさいしょにあらわれるレオの父親パンジャに憧れたものである。

 きょう、マンガ喫茶で読み返してみてびっくりした。テーマがまったく文明礼賛だったからだ。未開で野蛮で後進的な動物たちをみちびいて、文明の先進的で進歩した知識や技術を教えるという恐ろしく植民地主義的な内容であったとはまったく知らなかった。

 ジャングルの動物たちが言葉や読み書きを教えられたり、道路や宮殿を建てたり、伝染病を進歩した人間の医学によって救われるという極度に無邪気な文明礼賛論だったのである。

 文明をそんなに讃美していいものかと思う。文明の負の遺産を経験しつつある私たちには手放しの文明讃美をもう唱えられないし、劣った文明を優れた文明が啓蒙するという考え方は世界の植民地化のイデオロギーにおおいに利用された歴史を知っているのである。

 もちろんこの作品が描かれたのは戦後まもなくであり、公害もオイルショックも経験しない高度成長期いぜんのことである。だけど高度な文明が無邪気にすばらしいという思想は、たしかにいまでも先進国と日本を比べるニュースからもうかがわれるのだが、もうこういう二分法からは脱却しなければならない。後進国を差別したり、侵略のいいわけに用いられるし、そして人生の意味も空疎になってしまう。私たちはこの後のつぎの時代を迎えているのである。      2005/5/22




 手塚治虫名作集 (3) 百物語
 集英社文庫 610e

 
  (旧版?)

 この物語はけっこう好きである。生きがい探しや人生の充実や幸福とはなにかといったことが語られているからである。

 切腹を命じられた主人公が願いごとの代わりに魂をさしだす契約を悪魔と交わす。願いごとは人生の充実と、一国一城の主となること、絶世の美女を手に入れることである。私は気づかなかったのだが、これはゲーテの『ファウスト』が下敷きになっている。

 これらを手に入れれば、人は満足して死ぬことができるのかといったことが語られているわけである。ふぬけだった主人公がたくましくなってゆくあたりや、魂を買った悪魔のスダマが主人公に惚れてゆく変節など、物語として楽しめた。主人公はそれらが与えられるものではなく、自分から手に入れようとしないと手に入らないことを悟ってゆくわけである。

 人は単純にはこの三つの願いを一度は夢見るものかもしれないが、はたしてこれら三つのものを叶えれば人は満足して死ぬことができるのだろうか。

 またはそれらは魂を売り払うほど価値のあるものかと問うこともできるだろう。現代人ならさしずめ金や安定のために魂を悪魔に売り払っているといえるだろう。魂を売り払った人生が生きるに値するものなのか、この物語を読んであらためて考えてほしいものである。       2005/5/17





 『ブッダ (第1巻)』 手塚治虫
 潮ビジュアル文庫 509e

 
    

 ブッダの物語であるけれども、ほかの登場人物が主役になって連作になるようなかたちになっていて、その物語のつづきを知りたいがためにつぎつぎ読んだ作品であった。

 ブッダが生まれるまではインドのカーストが主題になる物語が展開されたり、王権の争いが主題にあつかわれたりして、そちらのエピソードが物語をぐいぐいとひっぱるのである。その主人公たちは死んだり、あっけなく殺されたりして、悠久の物語がくりひろげられるのである。静的なブッダの物語にくらべてこちらのほうがよほどおもしろいわけである。

 動物の生命を尊重したり、輪廻の物語が『火の鳥』を上回るほど直接に語られるわけだが、輪廻や霊魂が私にはなかなか信じられないものだから、生命は連関しているとしか捉えようがない。せいぜい壮大な生命連鎖の世界の広がりを感じるくらいである。

 この物語はカースト制度に苦しめられる人たちや国王同士の権力闘争の物語のほうがよほどおもしろく、ブッダ本人よりインド社会の背景のほうが魅力的な物語になっているわけである。インド社会、あるいは人間社会や歴史そのものが主役であるといっていいかもしれない。その物語の中にカタルシスを感じるのである。

 ちなみに私の仏教理解は思考を捨てるための無念無想の方法論と、唯識と華厳経の世界観だけを知っているにすぎない。つまり実用的な心理学的程度しか必要としていない。生命や人生とはなにかといったスケールの大きい問題は、渇望したことがないのである。      2005/5/15




 『一輝まんだら (1)』 手塚治虫漫画全集282
 講談社 632e

 


 手塚が大人向けのマンガを描くとなぜか歴史もの、それも近代の歴史を多くあつかった。『奇子』や『シュマリ』、『陽だまりの樹』などである。かれは自身のルーツやその生まれ育った時代を探りたかったのではないだろうか。

 物語はまだ西大后のいる清朝最後の時代に、義和団の乱に参加したはちゃめちゃな女性を中心に進んでゆく。『ラスト・エンペラー』の時代かな。彼女は日本に亡命し、孫文などと出会ったり、主役である北一輝と出会うわけだが、物語は未完で終わる。主役があらわれる前にべつの副主役が暴れるというのは『ブッダ』と同じである。

 なにか中国の近代化という問題をあつかっているようなのだが、社会主義者としての北一輝が主役ということは、手塚はそれが成就された国というものを描いてみたかったのだろうか。知識人にとって自分たちの頭で描いた青写真が叶うことはひとつの理想でもある。手塚は知性万能的な思考をもっていたのだろうか。       2005/5/9




 『三つ目がとおる (1)』 手塚治虫
 講談社漫画文庫 630e

 


 『三つ目がとおる』は私の中でも好きな作品のひとつである。ふだんは知恵遅れのような写楽クンがバンソウコをとって三つ目があらわれると、たちまち天才的悪人に変わってしまう。こういうグズと天才の転換は気もちをわくわくさせる。読者にも優秀さを味わわせてくれるからである。

 この作品のもうひとつの魅力は、超古代文明の謎解きがおこなわれることである。現代より進歩した文明が滅亡し、地球のあちこちにその痕跡をのこしている。その謎解きはひとつのジャンルとなっている。写楽クンと和登サンはこの謎解きの冒険にのりだすからおもしろいのである。

 手塚はここでも優秀さや高度な文明の警戒をテーマにしているのである。進歩した文明はやがて殺戮や人類の滅亡に導いてしまう。手塚の終生のテーマで、このヴァリエーションはさまざまな作品でくりかえされている。写楽クンのバンソウコウはその高度な文明の封印なのである。

 あるいは優秀さや卓越さをめざさなければならない現代人や手塚自身の苦悩だとも読める。優秀さの目標とはある意味では自身への攻撃や批判に転身しうるものである。刃はたえず自分にふりかかる。

 ナンバーワンをめざしつづけた手塚はその破滅的終焉を怖れなければならなかった。比較を超える大愚としての良寛のような道を見つけられなかった手塚は破滅的ヴィジョンから逃れられなかったとも読めるのである。第一線を走りつづけた手塚に安息の日はあったのだろうか。       2005/5/8




 『海のトリトン (第1巻)』 手塚治虫
 秋田書店 410e

 
   

 この作品も悪である怪獣をやっつけるという典型的なヒーローものである。そしてそういう物語は人気を博す。単純な目標に向かっているとき、人は美しさを感じ、賛同を得、団結をもたらすようである。

 物語はトリトン族の最後の生き残りがポセイドン族に立ち向かうというものだが、これは追いつめられたさいの最後の勇気の物語とも読むことができる。逆境や困難でもあきらめるなという強いメッセージをもつことになる。

 しかそれはあくまでも虚構の範囲内においてであって、現実に敵味方を明確にする捉え方は慎んだほうがよいというものである。現実の敵には家族もいるし、人間の心を持っているのだし、現実の人間社会では一方的に悪と決めつけるのは自己利益に鈍感すぎるし、オトナとはいえない。

 この手塚の作品はサンケイ新聞に一日一ページの割合で連載されたためか、絵は思いっきり雑であり、物語はふざけまくっている。まあ、それも味といえば味だが。

 アニメのほうは人気を博し、アイドルのようなファンクラブができたようだし、その後のアイドルタレント・ブームの先駆になった。海の物語ということで、その後の青い海のリゾート地という旅行ブームの先駆けともなったのである。

 都市民はなぜ青い海に焦がれるのだろうか。都市は水のない監獄だからだろうか。トリトンはイメージ広告の先駆としての爽やかな海の少年として消費されたのである。        2005/5/9




 『手塚治虫マンガ漫画館』 石子順
 清山社 楽天フリマ

 

 この本のおかげで小学生の私は手塚治虫の多くの作品を知ることができた。そして近くの駅前の本屋にほしい本がなかったら、電車の沿線沿いに本屋を探す旅に出た。

 この本は本を探したり、見つけたりする方法論を教えてくれたわけだ。それはいまの学術書探しの方法に役立っている。だれかがいっていたが、学校はこういう本探しの方法を教えるべきで、あとは独学でいいのである。知識の楽しみはこの本と手塚治虫に教えてもらったようなものだ。優れたガイドブックを探せばいいのである。

 私がこのサイトで手塚評をやっているのは学術書を読むのはマンガと同じであるといいたいからである。好きな本を見つけたり、ほしい本を探す作業は同じである。私にとってマンガと学術書は同じ感性の上なのである。

 この本はもう手元にはないが、連載年表を見て多くの作品を知ったし、多くの作品の写真を見て想像力を駆り立てられたものである。私の読書の楽しみの原点にある本である。

 なお著者による手塚漫画10選は、『鉄腕アトム』『火の鳥』『ハトよ天まで』『リボンの騎士』『メトロポリス』『ロスト・ワールド』『0マン』『ジャングル大帝』『まんが平原太平記』『きりひと讃歌』だそうである。

 私の10選は、『火の鳥』『ブラックジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』『紙の砦』『ナンバー7』『キャプテンKen』『ジャングル大帝』『海のトリトン』『ふしぎな少年』くらいかなぁ。
         2005/5/7



 『紙の砦』 手塚治虫
 大都社 515e

 


 手塚治虫の自伝的作品がおさめられた本で、どれもこれも感慨深いものがある。

 『紙の砦』では爆弾が落ちてくる軍需工場でもマンガを描いていた手塚が宝塚をめざす女性と仲良くなるのだが、彼女は空襲で顔を負傷、戦争が終わって手塚はマンガを描くぞーと泣いて喜ぶのだが、彼女のほうは――という作品。

 『すきっ腹のブルース』では敗戦後のマンガが売れ出したころの手塚が色気より食い気に負ける作品、『トキワ荘物語』では石森章太郎とか藤子不二雄が住んだあのアパートの物語、『がちゃぽい一代記』では貧乏でやせ衰えたマンガの神様が出てくる。

 いずれも手塚が主人公の物語で、手塚がどんな人生を送ってきたか、フィクションであるだろうけれども、魅力的に描かれた愛すべき本である。         2005/5/6





 『どろろ (第1巻)』 手塚治虫
 秋田書店 440e

 
  

 父親の出世欲のために魔物に人体の48ヶ所を奪われ、妖怪を倒すことによってとりかえすという百鬼丸のストーリーは、親によい大学よい会社と脅迫される物語とも読むこともできるし、天下どりをめざした国家への復讐劇ともみなせる。ただ倒してゆく妖怪にはそのようなテーマがこめられている気配はまるでないが。

 この物語は水木しげるの妖怪モノをとり入れたり、時代劇の渡世ものを匂わせるものなど、時代の流行りものをご都合主義的にとり入れていった手塚の姿勢がうかがえるのだが、なんでもギャグにしてしまう手塚治虫のことである、それもギャグになるだろう。

 よくいわれるようにこの物語はどろろの物語というよりか、百鬼丸のほうがだんぜん魅力的で主役級である。なぜ、どろろなのだろう、理由はあるのだろうか。どろろも権力を倒すための軍資金の地図が背中に彫られている。ふたりで力とたたかう物語であるということか。やはりどろろである理由はわからない。        2005/5/6





 『ミクロイドS (1)』 手塚治虫
 秋田書店 410e

 
  

 アニメでもやっていた作品で再放送でもほとんど見かけなかったから、この本のほうで内容を知ったけど、アニメとは内容が違っていたかもしれない。

 高度な文明をもった昆虫集団が襲ってくるもので、アニメはたんじゅんに敵とたたかうストーリが好きだなと思った。正義と悪をかんたんに分ける思考法と、敵を無慈悲にやっつける姿勢には疑問を感じる。ただ、そういうのは童話解釈によると、自分の中の悪をやっつける姿勢につながるわけで、たんじゅんに悪とみなすわけにはいかない。

 また高度な文明をもつことが手塚の一定した脅威であることを感じさせた。中期あたりまでの手塚はくりかえし高度な文明の不安を描きつづけていた。文明の進歩の不安である。それは敵の人種としてあらわれたり、ロボットによる支配や人類の滅亡などの物語としてあらわれた。『鉄腕アトム』もよく思われているように科学礼賛の物語ではなくて、高度文明の批判なのである。手塚は戦争の原因を文明の進歩に見ていたのかもしれない。

 この物語は人間が昆虫にやられっぱなしの物語で、アメリカ映画にもこういう昆虫が襲うパニック映画ってあったなあ。公害に対して自然の復讐を訴えかけていたわけである。

 アゲハがよくハダカになっていて、エッチだったなぁと小学生の私は思ったものである。マンガはエッチな感性を養うが、エロスをフェティシズムに誘導してしまうのはいいことなのか疑問だ。商品経済のなかではエロスは売り買いされるモノにならなければならないわけで、だから私たちは想像力のエロスを買う慣性にハマってしまう。いいことか悪いことかはまだ判断留保。         2005/5/6





 『シュマリ (1)』 手塚治虫漫画全集97
 612e

 


 北海道開拓史を背景に描かれた手塚の大人のマンガである。しかしシュマリは裏切った女を追いかけて北海道までやってくるが、人を殺しまくったり、田畑を耕したり、牧場をはじめたりして、未開の地を懸命に生きる様は見ていてたくましいと思うのだが、ひじょうにあいまいな存在に見える。

 西部劇のようなフロンティアとしての北海道を描くわけでもないし、ガンマン的要素もあるのだがアイヌはもちろん悪役として出てくるわけもないし、侵略されたアイヌ側からの視点で描くわけでもない中途半端な物語に思える。ただ流されるシュマリの姿が描かれているだけに思える。

 ラストにはシュマリが育てたアイヌの子が日露戦争に駆り立てられ、満州でシュマリと会うように、手塚は植民地化をはじめた近代国家の起源を北海道に見いだしているわけだが、ストーリーからはなかなかそのメッセージが読みとりにくいように思われる作品だった。          2005/5/4





 『火の鳥 2 未来編』 手塚治虫
 朝日ソノラマコミックス 900e

 


 人類が滅んでしまったあとも生命の進化が描かれる壮大な物語である。なめくじの高等種族が文明を築き、奢りたかぶり、さいごには滅んでしまうエピソードは印象的だった。

 主人公マサトはムービーという生物による幻想を夢見たり、猿田博士は絶滅した生命を再生することに情熱をそそぎ、わずかにのこった地下都市もコンピューター同士の争いにより人類は滅亡してしまう。ペシミスティックな未来編である。

 火の鳥に永遠の生命をふきこまれたマサトは五千年を生き、そして生命の再生を数十億年見守ることになる。人間の物語を超えて、生命の進化が相対化されるのである。

 この物語は私はあまりあまりおもしろみがなくて好きでもないのだが、人類という生命の種を相対化する視点は見るべきものがあると思う。        2005/5/4





 『奇子(あやこ) (1)』 手塚治虫漫画全集197
 講談社 591e

 
  

 手塚が健全な少年マンガ家のイメージをかなぐり捨てて、思い切りダーティな大人の劇画を書いてみたくなった作品のように思える。

 戦後まもなくの東北の封建的な旧家を舞台に描いており、父親が息子の嫁を手玉にとったり、奇子という娘を生ませたり、兄がその土蔵に閉じ込められた奇子と近親相姦したり、犬猫のような性愛関係は、少年だった私には煽情さをウリにした物語に思え、冷めた目でしか見れなかった。

 深読みすれば、子どもは出自が明確でないと許せないという近代核家族の皮肉にも思える。経済と所有関係がげんざいの性愛関係を規定づけているが、人間はそれだけの存在でないことを知らしめている。

 敗戦後のGHQや下山事件が背景となっているが、この天外一族とのかかわりが必然だったのかは私には読めない。

 あまり感動や希望をあたえる物語でもないし、読後感がいい作品でもない。ただ丸っこい子供向けのマンガばかり描いていた手塚からすれば、リアルな背景や劇画的な人物像の達成は手塚の画へのこだわりの頂点ともいえる。この点は私は好きだ。初期の作品もこんなタッチで描かれていたらどうなっていただろう。          2005/5/1




 『火の鳥 4 鳳凰編』 手塚治虫
 朝日ソノラマコミックス 900e

 


 マンガ喫茶で再読してみたが、すさまじいものがあった。波乱万丈というか、慟哭するというか、ものすごく圧倒されるものがあった。『黎明編』も好きだが、この『鳳凰編』もかなりの傑作である。

 むかし読んで忘れられなかったシーンが、片腕のない我王(猿田彦の生まれ変わり)が囚われて両腕を縛られながら、口だけでメシをがつがつ食うシーンだ。記憶では腕を切られたあとのシーンだと思っていたが。犬のような生命力のすごさを感じたものだ。

 おそらくこれは芸術と権力のテーマが語られていると思う。いや、それ以上にそれらをめぐる生き方の問題、生命とはなにかというテーマが中心を貫いている。

 身体の欠損の差別ゆえに殺人鬼になる我王が、良弁という僧に助けながら生命の輪廻を悟るまでの様と、謙虚に芸術を極めようとしていた茜丸が大仏建立という権力にのみこまれてゆく様を対比として描いている。

 なによりも我王の物語がすさまじい。人を殺しておきながら助けたてんとう虫に慕われて速魚という人間の女として我王につれそうのだが、疑いから殺してしまう。良弁という僧が諸国遍歴の旅に我王をつれだし、石仏をつくりながら自分や生命と向き合い、悟ってゆくエピソードは感動的である。それにしても悟った生命の輪廻とはなんなのだろうか。

 この物語では大仏建立を権力に宗教が利用されていると批判していたが、げんざいの仏教も仏像と建築の見かけのものばかりになってしまい、中身がてんで伝わってこないのは嘆かわしいことだと思う。仏教は心理学的にも読めると思うのだが、知識として利用されていないのである。           2005/5/1




 『ブラック・ジャック (1)』 手塚治虫
 秋田書店 410e

 


 いまの若い人にとっては手塚治虫といえば、『ブラック・ジャック』になるのだろうか。アニメにもなっているし。

 ブラック・ジャックは天才的な手術の腕をもちながら、巨額の手術料を請求するという非情な無免許医師である。大金を請求するから、金より大事なのは生命という、こんにちの生命より金が大事という風潮に対する風刺になっている。

 また法外な手術料を請求するために人情や金より大切なものが問われることになる。大金が惜しくないほど生命や人とのつながりが大切なのかと踏み絵を踏まされるわけである。ブラック・ジャックはときには手術料をいっさい請求しなかったり、無料で手術したりするのである。そこに毎回感動のドラマが生み出されるのである。

 一話完結の物語で、泣いたり、笑ったりするひじょうに内容の濃い短編となっており、感情の高まりを感じない作品はほとんどないといっていい作品である。        2005/4/29




 『火の鳥 1 黎明編 (1)』 手塚治虫
 朝日ソノラマコミックス

 


 死と不死の生命をもとめるという手塚治虫のライフワークである。ひとつの物語ごとに時代設定を過去や未来、歴史にもとめ、輪廻や孤独や生命力を描き、壮大な叙事詩になっている。

 この「黎明編」は卑弥呼の時代をとりあげ、クマソとの戦など古代史のロマンを駆り立てられたものである。

 主人公が不死の生命火の鳥を自分のものにしようと殺されるラストは衝撃だった。『火の鳥』全編にあらわれる猿田彦も殺されており、主役に思い入れをもっている読者には衝撃である。

 洞窟の中に閉じ込められ、それでも家族が何代も生き延びるエピソードには人間の生命力の強さや賛歌を感じさせるものだった。       2005/4/27




 『キャプテンKen (1)』 手塚治虫漫画全集25
 講談社 700e

 


 このマンガは好きだったなあ。火星という舞台に魅かれた。主人公が女だったという設定にはがっくりきたが、火星というSFがよかったなぁ。

 それにしても内容のほうはきれいさっぱり忘れてしまっている。好きな印象は残っているんだけどなぁ。。。 残念。

 のちに再読してみてキャプテンKenがめっぽう強い西部劇的ヒーローであったことから魅かれたことがわかった。少女が正体を隠しながらKenになるところもよかったのかな(正確にはその子ども)。Kenは植民地化された火星人の味方になっており、深い見方をすれば大日本帝国の侵略をテーマにしているとも読めるし、あるいは善人面したイデオロギーと読めるともいえる。           2005/5/3





 『ナンバー7 (1)』 手塚治虫漫画全集193
 講談社 561e

 


 核戦争あとの地球とか侵略者とかの話がよかったな。黒のユニフォームがカッコよかった。ヒロインの女性が宇宙人のスパイだったというのはショックだった。荒廃した未来の地球という設定は少年にとっては悪夢のようにリアルだった。    2005/4/26




ご意見、ご感想お待ちしております。
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マンガ、映画、音楽を
読む解くための本

サブカルチャー神話解体 宮台真司他

少女マンガの変遷がすごい。

『私の居場所はどこにあるの?』 藤本由香里

少女マンガはなにを語っていたのか。

『「本当の自分」をどうみつけるか』 小此木啓吾

名作を精神分析する。

『愛の真実と偽りをどうみわけるか』 小此木啓吾

名作を何本も観た気分。

『恋愛は少女マンガで教わった』 横森理香

少女マンガのぶっとび具合。

ベストセラーの構造 中島梓

読者の知的レベル。

アイドル工学 稲増龍夫
虚構とどう向き合ってきたか。

現代マンガの全体像 呉智英

コワイ批評?

ハリウッドで政治思想を読む 副島隆彦

映画に政治国家を読む。

『シネマのなかの臨床心理学』 山中康裕他

成長、家族、無意識で読む。

『ビデオで女性学』 井上輝子他

女性の不自由や苦悩。

『ヒロインは、なぜ殺されるのか』 田嶋陽子

映画の女性像を問い直す。

紅一点論―アニメ・特撮・伝記のヒロイン像 斎藤美奈子

なぜ男の中に女ひとりなのか。

『メディア論―人間の拡張の諸相』 マーシャル・マクルーハン

メディアは五感をおとしめる。

『「宮崎アニメ」 秘められたメッセージ』 佐々木隆

読み解けば深くなる。

『〈美少女〉の現代史』 ササキバラ・ゴウ

国家から美少女のために死ぬへ。

『マンガと「戦争」』 夏目房之介

戦争観の変遷。

『マンガは哲学する』 永井均

マンガは哲学しております。

大人になったのび太少年

マンガの主人公ってビョーキ。

映画で読む二十世紀―この百年の話 田中直毅ほか

近代化、大衆、貧困、デモクラシーで読む。

考えるヒット 近田春夫

音楽を考えることはあるか。

音楽誌が書かない「Jポップ」批評

思っていると、言葉にするのでは違う。

現代アメリカを観る―映画が描く超大国の鼓動

ヒーロー、アンチ・ヒーロー。

カルチュラル・スタディーズ入門 上野俊哉ほか

新しい流れだそう。

手塚治虫―時代と切り結ぶ表現者 桜井哲夫
社会哲学者が読む。

手塚治虫はどこにいる 夏目房之介

表現から読む。

手塚治虫の奇妙な世界 石上三登志

いささか古い手塚。

マンガの現代史 吉弘幸介

マンガも歴史化される。

なつかしのTV青春アルバム!  清貧編(Vol.3) 岩佐陽一

ヒーローの極貧ぶりに爆笑。

『昔話の深層』 河合隼雄

昔話とはこう読む。

『名作童話の深層』 森省二編 創元社

おお、こういう話だったのか。

『絵本と童話のユング心理学』 山中康裕

絵本はこう読むのか。

『昔話とこころの自立』 松居友

自立で昔話を読み解く。

『昔話の魔力』 ブルーノ・ベッテルハイム

昔話心理学の金字塔。

『メルヘンの深層』 森義信 

社会史からも読み解く。

▼だいたい以下のページで書評しています。
2001冬 サブ・カルチャー分析、マンガ論、映画論 01/2/1.
01年春 物語を読む―童話心理学 01/3/26.


   
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