Thinking Essays



    見えない規範、見えない言葉のタブー


                                               1998/3/13.



    この国ではどうも「言葉」というものが意味をなさないようである。

    言葉でいわれることがなんの実行力もないし、真実は語られないし、

   ほんとうの社会のあり方や規範といったものが言葉で語られることもないし、

   対話や議論、論理といったものが成り立たない。


    このエッセーでは、ダブル・スタンダード――見えるルールと見えないルールについて

   語ろうと思うのだが、「規範」というものはひじょうに捉えにくい。

    見えない規範と語られない社会の姿といったものが整理できていないかもしれないが、

   ともかくわたしの捉えられる範囲で語りたいと思う。


    言葉はあらゆるところで禁忌されている。

    ほんとうの規範のありかたは明示されないし、

   批判や改善の要求が口にできないようになっている。


    日本には積極的な規範がなく、消極的な規範しかないといわれる。

    「これをするな」「あれをするな」「こんなことをすれば、だれだれから嫌われる

   といわれて、「こうしろ、ああしろ」という積極的な規範がない。


    日本人がいちばん怖れるのは、人々や世間から「恐怖の対象」と見られることだ。

    人々から恐れられることを極度に怖れる。

    「犯罪者」や「精神病者」、「貧乏な人」といったものに見られることを極度に怖れる。

    これらはほとんどTVニュースなどから与えられるわけだが、

   この恐怖をもよわせる映像が、日本人の絶大な消極的な規範となっているようである。

    あまり表立ってこのことが指摘されることは少ないと思われるが、

   このTVニュースのオソロシイ人たちに見られたくないという消極的な精神は、

   いわゆる「空気」となってのちのちの社会ムードをずっと拘束するようである。


    この30年ほどは全共闘とか赤軍とかのテロ化による恐怖がわれわれを捉え、

   すっかり政治や哲学について語ることがタブーになってしまった。

    そのためにみんな「ネアカ」と「根バカ」になる消費ブームがもたらされた。

    そのあいだには「犯罪を犯した人物像・経歴・精神病歴」などにたいする恐怖が、

   規範をかたちづくっていたりした。

    つまりTVニュースの映像やその世論が規範を下支えしていた。

    連続幼女殺人事件はメディアに埋没する若者や社会に強烈なショックを与えた。


    しかしオウム事件や「女子高生ブーム」あたりから、嫌悪されるべき対象が、

   ある特定の人たちには、憧れられる対象に変わってきた感がある。

    現在の中学生たちのナイフ殺傷事件などの報道は、

   逆にかれらの行為をますます煽っているかのようになっている。

    一度そのような方向に火がつけば、「みんながやるものは自分もやらなければならない」

   という集団主義的傾向をもつこの社会ではますますエスカレートするばかりだ。

    メディアがブームばかりか、規範までつくりだしている。


    この日本社会では規範やルールというものが明確に口に表されない。

    日本人を律している規範がほとんど語られず、的はずれで、

   どう聞いても規範とならないようなきれい事だけが、表立っていわれる。

    日本社会はほんとうの規範を絶対に口には出さないようだ

    お口をにごして、不明瞭で、抽象的な言葉だけが語られる。


    このお口のエチケットは、「だれも傷つけず、自分も傷つかない」ことが、

   あらゆる行為を支配する公理になっているからだろうか。(中島義道『対話のない社会』)

    「ああいうオソロシイ人にはなってはいけません」とほんとうのルールをエライ人が語れば、

   たちまちだれかが傷ついたり差別発言になってしまうから、タブーになってしまう。

    おかげで、だれもがそれで律しているはずの規範が語られず、

   だれもが聞き流してしまうようなしょうもない訓戒がたれ流されるだけになってしまう。

    坊さんの寝そうになる念仏となんら変わりはない。


    規範が「悪い人」によって組み立てられているため、規範が語られない。

    直接的、具体的に語られないから、お口の規範はどんどん意味をなさなくなる。


    ほんとうの規範を語ろうとしないから、規範がどんどん現実とズレてゆき、

   どんなものなのかさっぱりわからなくなる。

    お口の規範はますますほんとうの規範からズレてゆき、役に立たなくなる。

    日本人は「人と違うことはしてはならない」という至上の規範をもっているのだが、

   口ではみんな「個性だ、多様性だ」と合唱する。

    規範が語られないからか、ともかく「みんながやっていることは安心だ」と

   みんなが流れる方向にいっせいに流れ出すから、その反動だろう。

    この「多数者絶対主義」というのは、そのときのムードに流され、ときには暴走してしまう、

   という恐ろしい性質をもっていたり、その基準がまちがっていたり時代に合っていなくても、

   だれも変更させることができないという退行性をもつ。

    だからだれもかれも個性を主張するのだが、いっこうに改まらない。


    個性的で人と違うことをやろうとすると、たちまち反発をうけるのがこの社会だ。

    口でいっていることとじっさいの行動がまるで違う。

    頭と口だけが先走りし過ぎて、自分の足元をまるで顧みないからそうなるのだ。

    「あれがほしい、これがほしい」とみんなで言いまくるだけで、

   みずからの絡まった足元をまるで見ようともしない。


    言葉の合唱は、この国では暗黙の規範を変える力をまるでもたない。

    坊さんの念仏ほどに意味のない言語に昇華してしまっている。


    言葉がここまで役立たずの骨抜きになってしまったのは、なぜなんだろうか。

    言葉は政治家の街頭スピーカーか、公約なみになっている。

    まあ集団の規範とか力学は、たったひとりの言動ていどでは、びくともしない。

    暗黙のルールのほうが百倍も千倍も強い。

    これは日本社会における個人の無力さにもつながっているのだろう。

    われわれはこの集団の暗黙の規範というものにまったく手をつけられないようだ。


    このびくともしない暗黙の規範は、言葉によって追究されないことからもくるのだろう。

    この社会の実態とか権力構造、差別構造、暗黙の規範といったものは、

   まったく口にされないし、明確にその姿が追究されることもない。


    明治以降の100年以上、たえず西欧というお手本があったから、

   そのお手本を「絶対に正しいもの」として、ただ輸入するだけでよかったからだろうか。

    西欧は「正しい」、「間違いはない」、「うらやましい」といって、

   日本的規格をまるで無視して、西欧的規格の導入がさかんにおこれわれた。

    日本の社会がどのような規範やルールで動いているのかといったことが、

   まるでかえりみられず、ただなんでもかんでも舶来品を上にすげかえた。

    おかげで自分たちがどのような規範で動いているのか、まるでかえりみられない。


    このことが大きな間違いのもとなのであって、まずは自分たちの規範を、

   「遅れたもの」、「古いもの」、「迷信」だとかの断ち切るべきものとしてながめるのではなく、

   まずはそのあり方や効用を検討してみなければならない。

    上から舶来品をむりやり乗せつけても、接合点がまるで見出せないから、

   ひとつも根づかずに舶来言葉が上すべりだけに終わってしまう。

    日常の生活や慣習の接合点がまるでないから、

   舶来品の規範や法律、学問は、われわれ一般人の世界にまったく入り込めない。

    ダブル・スタンダードといわれるゆえんだ。


    まずはじめに「なぜか」といった追究が大事だ。

    なぜこのような規範があるのか、どういう効用・用途があったのか、

   なぜこれまできちんと機能してきて、社会に受け入れられてきたのか、

   そういった追究が必要だ。

    だがたいていの場合、すげかえるべき新しいモデルがすでに西欧にあるから、

   そのような追究なしに新しい首はすえつけられてしまう。

    規範を古い捨てるべきものとしてながめるのではなく、

   まずそのルールがどのようなものか、しっかりと言葉で表す必要がある。

    その作業がおこなわれないと、これまでと同じようにまったく、

   慣習や規範が改まらないままに終わってしまう。


    事件や問題がおこっても、社会の対応は同じだ。

    性急に応急処置をほどこすだけで、すこしもその問題の構造的原因にまで、

   追究の手を入れようとしない。

    口をついて出るのは「対応策」や「改善策」ばかりで、

   どのような生態や風土のうえでその問題がおこったのか、原因の解明がおこなわれない。

    これではまるで足を切ったのに、頭にサロンパスを貼るようなものだ。

    日本人はいつもどこから血が出たのか、なぜ血が出たのか、

   そういった追究よりまず先に口から「サロンパス!」という言葉がほとばしり出る。

    原因の追究――なぜこの問題や事件がおこったのか、

   どのような生態や風土のうえにその問題はおこったのかという追究が必要だ。

    そのあとにはじめて、処置の場所や処置の方法がもとめられるべきだ。

    丸暗記だけで育ってきたから、問題や原因を追究する思考能力が、

   日本人全員に欠けているというのか。

    これらの能力は比較的かんたんに育てられると思うが、

   この社会は既得権益や変化を嫌う体質をもっているからか、

   社会にメスを入れられることをひじょうに嫌う。

    言葉や批判のタブー・禁忌があらゆる人にまで浸透していて、

   そのつぎの行為や行動の抑圧とタブーが社会の隅々までゆき渡っている。


    言葉で語られなければならない。

    問題を発見して、原因を追求し、それを解決する思考力が必要だ。

    でもこの社会は事実を表すことが禁止されている。

    原因や源泉といったものは、集団や組織の恥部・タブーとされる。

    社会に開かれていない。

    そうして問題はいつまでもつづいてゆく。


    これはとてつもなく大きな問題であり、功罪である。

    組織や集団の内部が丸抱えにされ、外部にその情報がひとつも漏れないようにされる。

    組織内部の情報鎖国がこの社会の当たり前の姿だ。


    またこの社会は、情報や知識のライトの当て方がいびつに歪んでいる。

    この社会、とくに企業社会のほんとうの姿といったものがなかなか現れてこない。

    財務状況や企業業績、新製品といったビジネス状況は表わされるのだが、

   人間が住んだり、生きている社会としての企業の姿はほとんど表されない。

    ビジネスは表わされるのだが、人間の営みとしての企業社会といったものが、

   まったくわれわれには知ることができない。


    この社会にはまるで経済学者がいったような経済合理性だけを追究する

   「経済人」という概念しか存在しないというのだろうか。

    人間や社会の営み、住みかといった角度からこの社会がとらえられることはない。

    TVでは新製品、新商品のCMだけが流され、無害で憂さ晴らしだけのエンターティメントや

   バラエティーといった情報だけが、われわれのとろけた脳みそに送り込まれる。

    またTVや新聞では事件や事故だけが伝えられ、

   一瞬のスポットライトが当てられると、その部分もまたもや闇の底に沈殿してしまう。

    TVや新聞といったものはどこを向いているのだろう。

    けっきょくは、カネが得られるスポンサー企業、あるいは権力だけなのだろうか。


    社会のほんとうのあり方や実態、権力構造とかどのような力関係で動いているか、

   といったことがほとんど言葉で表されず、規範も言葉に表されない。

    ほんとうにこの社会はクレムリンなみに重い扉が閉じられている。


    カレル・ヴァン・ウォルフレンの『日本/権力構造の謎』(ハヤカワ文庫)といった本は、

   はじめてこの社会はどのような力関係で動いているのか、はっきり知らせてくれて、

   とても驚いた。

    逆に日本社会の規律や力関係、権力とはこのような恐ろしいもので、

   見えない規律を破ってきたかもしれない自分の姿が恐くなったりもした。

    このような権力構造のあり方が、日本のほとんどの人に――たとえば、

   TVや大勢の人たちが目にふれるメディアに表わされることはほとんどない。

    こういう状態が、日本のマスコミの大きな問題だと思う。


    われわれ一般の人たちは言葉を奪われている。

    いったいだれからというと、むづかしいのだが、

   われわれは批判や疑問を発する言葉を奪われている。

    だれかというと、やはり見えない規範――口にされない裏のルールだと思う。

    批判や疑問を口にすることはタブーだということを、家庭からはじまって、

   学校の教師や先輩との関係、企業での上司や幹部との関係などとにおいて、

   徹底的に叩き込まれる。


    批判や疑問はタブーなのである。

    そしてその問いかけがなければ、思考力が育つわけがない。

    社会はいっこうによい方向に改善されないし、大きな過ちや失敗に気づいたときでも、

   このシステムの方向転換がまるでできないようになっている。

    子どものころから懐疑や疑問という思考力を根こそぎにされれば、

   時代の大きな曲がり角にはいつもみんなでいっしょに共倒れだ。


    懐疑や疑問がタブーになったのは、全共闘や赤軍などのテロ化や過激化などの恐れが、

   政治や哲学について考えることを禁止してきた面もあると思う。

    社会のムードにこのようなものがあり、学校教育では自分の疑問や好奇心より、

   ちっとも興味もわかないような古い学問知識を徹底的に暗記させられて、

   好奇心や思考力が根こそぎにされる。

    TVや雑誌はいくらでもおもしろいものを提供してくれるし、至れり尽くせりだ。

    考える必要もないし、マスメディアが提供する偏った世界だけを世界だとおもいこむ。

    これまでの消費社会は比較的人々が気に入ってきたのだろう。

    だから大多数の人は社会や政治について懐疑や疑問を発することはなかった。


    だけどとんでもない

    大衆がそっぽを向いていたあいだの政治や企業はしたい放題やりたい放題の

   権力肥大や構造的癒着・汚職を平然とおこない、国民をまったく無視する社会システムを

   きっちりと仕上げていた。

    この社会は企業が人々の全人生や家族、地域家庭まで呑み込み、

   個人が豊かに自由に生きるための基本的な部分がまったく奪い去られていた。

    「企業専制国家」のような状態になっていても、人々はなんの手も打てずに、

   ただ黙々と企業の社畜となっているだけだ。

    人々から疑問や不審の声があがらないというのが異常だ

    思考力がなくなるということはここまで人々が無力になることなのだろうか。


    たぶん権力への恐れもあるのだろう。

    批判や懐疑を口に出せば、たちまち企業や集団は当人を村八分にする。

    この企業の村八分を政府は抑制するよりか、まったく助長してしまっている。

    そして世間の人は声をあげる人たちに冷たい。

    ひじょうによくできた国家の権力構造が、いっぱんの人たちにまではり巡らされている。

    これはたしかに批判や懐疑を抱くことはむづかしいだろう。


    でもこんな状態のまま、グローバル・スタンダードに追いつけるというのだろうか。

    規範は明確に言葉に表されないし、国民はみんながやっていることにレミングの集団の

   ようにいっせいに走り出すし、懐疑や批判の声が国民からぜんぜんもれてこないから、

   制度疲労の政治・社会システムが旧態依然としたまま、まるで改善することもできない。

    馬車馬のように国民を牽引する時代には適合したのだろうが、

   道もコースも方向もまるで定まらない時代に無思考・無批判の集団主義的日本人は、

   集団で破滅するしか方向が見つけられないのではないだろうか。

    いま、国民をこのように訓育した権力者たちは、

   大きなふたつの選択肢を選ばざるを得なくなっている。

    おとなしい国民といっしょにタイタニック号か、自由な国民の力をとき放つかだ。

    こんな連中と国家心中なんてまっぴらごめんだ。


    われわれに必要とされているのは、批判や懐疑力、思考力を身につけることであり、

   改善策や改革案だけを先にもってくるのではなく、この社会が実際のところ、

   どのような規範やルールで動いているのか、正確に言葉で捉えることではないだろうか。


    「言葉」でこの社会が正確に描かれることが必要なのである。



                          (The End)




    見えない規範、言葉のタブーについて、以下の書物が参考になります。

      なぜ日本人はここまで言葉を奪われてしまったのか、みなさんも考えてください。


     中島義道『<対話>のない社会』 PHP新書

     安土敏『ビジネス人生・幸福への処方箋』 講談社文庫

     山本七平『「空気」の研究』 文春文庫

     中根千枝『タテ社会の人間関係』 講談社現代新書

     カレル・ヴァン・ウォルフレン『日本/権力構造の謎』 ハヤカワ文庫



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