豊かになればすべての問題が
       解決すると思っていた親たちの貧しさ


                                                  1998/4/19.




    いまの親たちは豊かになりさえすれば、すべての問題が解決すると思い込んでいた。

    だから豊かになった現在、中学生の犯罪や暴走にあれほどの衝撃を抱くのだ。


    かれらは――いや日本人のほとんどの人は富が全問題の終焉をもたらすものだと、

   まるで宗教の救いのように思い込んできた。

    貧しい時代にはこのような物語りが成立していた。

    日本人は一心不乱にこの宗教の信者になり、かなりファナティック(狂信的)な

   経済至上主義を盲信してきた。

    富を得ることによって、われわれを悩ませるすべての問題は完結するのだと、

   いまの中高年以上の人たちは思い込んでいる。


    子どもたちとの断絶はここに生まれる。


    豊かになればすべての問題が片づくのではなく、

   新たな未知の問題のはじまりにしかならない。

    豊かな時代には豊かな時代に特有の問題が生まれる。


    富が問題の解決をもたらすと思っていた親たちはこのことが理解できない。

    かれらにとっては死後の安らぎをもたらすはずの「富の国」では、

   おおいに満足し、幸福に暮らせる天使だけが存在するはずだと信じ切っている。


    でもそんな都合のいいハナシなんか、詐欺師のだまし文句でしかない。

    それにそんな夢や希望が抱ける人たちはあくまでも坂をがむしゃらに

   昇っている人たちだけであって、これはまったくかれらだけの共同幻想だ。

    この幻想の耐用年数はわずか高度成長の期間でしかない。


    この「富裕=幸福」の幻想にひたっていた人たちはまったくほかの価値観を排除した。

    その狂信のツケが、目的なき豊かな時代になったとたん、噴出しだした。

    この幻想は目的に到達したとたん、そのメッキと矛盾をぼろぼろと露呈せざるを得ない。

    なぜなら終ってしまった目的はその意味も価値もなくなるからだ。

    おまけに今日の不満を明日の希望にすりかえる方法は、

   そのような不満の思考習慣を形作ってしまうがゆえに永久に幸福になれない。


    キリスト教とか仏教の死後の楽園や天国の約束のほうがもっと高級だった。

    なぜなら死後にしかその結果はわからないのであり、死人は口なしだからだ。

    もっと長いタームで人々は幸福感にひたっていられる。

    富の救いはわずか数十年でしかない。


    富の救いに依存した人たちはまるで奴隷のように、

   豊かさをもたらす会社や国家にしがみついた。

    豊かな時代に生まれた子どもたちはそのなさけない姿がたまらないのだ。

    富のためならどんなにミジメな格好をさらしてもかまわない、

   といった姿勢が我慢できないのだ。

    豊かな時代においては貧困がミジメなのではなく、

   富の権力にしがみつく大人たちの姿があわれなのである。


    親にふるわれる家庭内暴力や校内暴力、会社人間を避けようとするフリーターや

   派遣社員、結婚しないOLたちはそういうことのメッセージだ。


    かつてヨーロッパ中世では教会に死後での救いをもとめて人々は隷属した。

    そのために宗教改革がおこった。

    いまの時代はその時代に似ているが、隷属からは完全には離脱できていない。

    隷属のほうが安定を得られ、リスクは少ないようであるし、世間的にも容認されている。

    だが近い将来、そういう安全地帯こそがもっとも危険になるのだろう。

    依存すればするほど、ひとつの会社以外の市場価値がまるでなくなるからだ。


    豊かさは歴史の終わりなのではなく、新たな問題のはじまりでしかない。

    新しい認識と価値観は新たな問題や悩みをもたらす。


    物質的富はそれだけでは満足しない人々を大量に生み出す。

    なによりも物質的富を得るために編成された人々の価値観、システムが、

   いちばんの不幸をもたらす要因に見える。

    かれらは富の救いのために隷属し、なさけない姿をさらしているからだ。

    その弱々しい姿が、子どもたちの親への怒りとなって表われる。

    物質的富の段階では、そのために編成された組織からの解放が、

   いちばんに願われるのだろう。


    豊かになれば、拘束されていたものから解放されたくなる。

    目的を達成したのなら、その手段は捨てられるべきものだからだ。

    しかし手段が目的化したこの国では、たとえば勤勉が美徳になったまま、

   そこから抜け切れない。

    勤勉は富への手段にしかほかならないのだが、勤勉自体が至上目的化してしまっている。

    生産ばかりに励んでも消費する者がいなければ、勤勉自体が意味をなさない。

    こんな美徳をもった国では、経済がうまく回らなくなる。


    富は新たな課題と問題をもたらす。

    富がすべての救いをもたらすと思っている人たちにはそのことが理解できないようだ。

    頭が死後硬直してしまっている。


    一本道の坂を登りつめれば、そこにはどこにも行くあてのない大平原がひろがっている。

    富はそういう茫漠とした不安をもたらす。

    目的も方向もなくなり、これまでの価値観も序列も意味をなさない時代がやってくる。

    貧乏な発展途上国の価値観でこれからの時代を乗り切ることは不可能だ。


    まずは貧乏時代の価値観と序列を払いのけることが第一歩だ。

    これは豊かな時代においては、豊かさを阻害するカセにしかなりえない。


    豊かになればすべての問題に解決がつくのではなく、

   新たな問題を生み出す出発点でしかない。

    カネと商品がともかくたくさんありさえすれば幸福だと見なす考え方は、

   貧乏な時代のひとつの「宗教」でしかない。

    いまはこの宗教をかなぐり捨てることが、大人たちに求められているのではないだろうか。


    物質的富を得た時代にはなにが求められ、どのような価値観が求められるのか。

    旧い貧乏価値観をとりのぞかなければならない。

    そんなものは新しい時代の「不幸の手紙」でしかない。

    不幸の手紙を子どもたちに押しつけようとする大人たちはいま一度、

   自分たちの信条が不幸の信任状になっていないか、考え直してほしい。

    「あなたたちはなんのために生きているのですか?」




                (終わり)



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