旧い価値観と勤勉の強制力はなぜなくならないのか?


                                                  1998/4/5.



    日本が明治以降めざしてきた近代化はすくなくとも終焉したはずである。

    そしてアメリカの土地や会社を買いあさった80年代に、これ以上の経済膨張は、

   もう日本人には豊かさや満足をもたらさないことを知ったはずだ。

    これまでの目標や目的がいっさい終ってしまったのだ。


    われわれは発展途上国のメンタリティと勤勉観を捨てなければならない。

    われわれはもう山を貫いたのに、まだ宙を掘りつづけるようなことをしている。

    終ってしまった生産力過剰と勤勉にしがみついても、もうそこにお宝はない。

    われわれ日本人はたとえていえば、お宝を探して山を掘っていたのが、

   いつの間にか山堀りが最高の価値になり、山を貫いてもまだ宙を掘っている。

    こんなバカな国民がいるか。

    あまりにも長い間、山堀りに熱心になったため、なんのための山堀りかという目的を

   すっかりと忘れてしまったのだ。


    日本人の勤勉と会社というのはまるでこの通りになっている。

    目的なき経済成長が盲目的につきすすめられている。

    たしかにわれわれ個人が社会や国家の目標や目的といったものを捉えるには

   あまりにも大きすぎて、自分がどの位置に立っているのか見えにくいだろう。

    しかしどうやら近代の目標が終ってしまったらしいことは、デフレ経済の進展や

   大企業の倒産・リストラ、学生たちの暴走、家庭の崩壊などなどで、

   ぼんやりとは感づいているはずだ。

    大きな曲がり角、転換期に来ていることに感づかないほうがおかしい。


    でもなぜこれまでの価値観と慣習といったものは変わらないのだろうか。

    発展途上国の勤勉と会社が絶対だという価値観が社会をがんじがらめにしている。

    なぜこの近代化の分厚い鎖を解きはなつことができないのだろうか。


    目標が集団や社会のなかで忘れられてゆくのは、なぜなんだろうか。

    人間の集団というのはみずからが取り決めや規律をつくっておきながら、

   逆にそれに支配されて、操られるという性質をもっている。

    旧い慣習や習慣といったものは多くの人が嫌っていても、

   その形式に従わざるを得なくなっていることが往々にしてある。

    この日本人の勤勉と会社絶対主義もその最たるものだ。


    目標や規律があまりにも長い時間つづくばあい、それは個人の中で、

   常識や当たり前として根づいてしまう。

    常識や自明なものは、空があったり雲があったりする次元と同じものとなり、

   それが疑われることも点検されることもなくなり、絶対視されたまま存続する。

    こういう常識とかものの考え方といったものは本人にもいちばん気づきにくいもので、

   この思考の枠組み以外に価値観や世界観があるなんて思いもしないほど絶対化される。

    時代や世代ごとにこのパラダイムは変わってゆくのだろうが、

   旧い世代は旧いパラダイムを遵守しつづけるのだろう。


    時代の変化が目立ってきたり、転換期がやってきても、

   もうなかなかその価値観の変化の意味がさっぱりわからなくなる。

    自分たちの時代の価値観やパラダイムでものごとを見ているからだ。

    また価値観の変化を理解しようとしたり、それをとり入れようなどとは

   思ってもみなくなるのだろう。

    価値観を変えるということはいろいろな関係やつながりを再編成することにもなるので、

   人はおっくうがるのだ。

    社会というのはある時代の価値観によってヒエラルキーづけられていたり、

   家族の関係や組織のありかたが決められたりしているので、価値観の変更は、

   自分の身のまわりの世界の崩壊にも等しくなってしまう。


    日本はだいたい1970年あたりを境に大きな価値観の転換を迎えたようである。

    貧乏だから国や会社を大きくしようだとか、出世やたくさんの家電を手に入れようだとか、

   そんな目標とか夢は終っていた。

    もうそんな目的を追いもとめても仕方がない、軽蔑するという心情が、

   若者のあいだに広がっていた。

    もうそれらは頭打ちなんだから、努力するのはバカげているとなる。

    だがわれわれの意識とはまったく逆に、この30年間企業社会はますますそれを

   強化するほうに走っていったように感じられる。


    このようなズレ、ギャップはなぜ起こったのだろうかとわたしは不思議でならないから、

   哲学やビジネス書を読み漁らなければならなかったのだが、

   社会においては、個人の願望と社会の価値観は一世代はズレてしまうのだろう。

    子どもたちの現実とオトナたちの現実は一世代の差が歴然とある。

    かれらの現実が社会に反映されるまでには、そのくらいの時間が必要なのかもしれない。


    しかしそれにしてもこの企業社会はなぜこんなに硬いのだろう。

    あまりにも硬すぎて、まるで価値観の変化を受けつけない。

    企業が価値観の変化をまるで受け入れようとしない。


    だからそんなガチガチの勤勉主義で働いていてももうダメなんだ、

   逆にそれは未来の先細りと惨劇を招くだけだと言ってみても、

   まるでびくともしない。

    まったく若者がのぞむ社会や生き方をさせないではないか。

    若者の生き方や人生を会社がまる抱えにしてしまったら、

   文化も消費もひとつも育たず、未来は枯渇するだけではないか。

    なぜこんな愚かなことをするのだろうか。


    勤勉の価値観が足をひっぱっているのだ。

    この価値観で成功してきた者たちは、享楽や消費の価値観が出てくるようなら、

   いままでの繁栄はつづかないと思い、価値観の流れとまったく逆に、

   その価値観の頭打ちをおこなう。

    かれらの心配にしたらもっともなことだろうが、なぜなら勤勉こそがこんにちの繁栄を

   もたらしたのであり、その抑制力がなくなれば日本はふたたび貧困に陥ると怖れる。

    だから消費の価値観が強くなればなるほど、勤勉の価値観で抑えつけるのだ。

    自分たちの価値観がいつでも普遍的なもので、いつの時代にも合うと盲信している。


    またその抑制には年功序列による既得権や自己保身があるのだろう。

    せっかく高い地位にのぼったとたんにそれを放り出すなんてたまらない、

   といって勤勉の価値観が時代の変化とまったく関わりなく補強され、

   同じように年功序列の保身を願う部下も若者もひとつも批判が言えなくて、

   ますます組織が時代の要請からかけ離れてゆく。

    勤勉で自己犠牲の強い社員が猛烈に働けば、組織は儲けることができるかもしれないが、

   社会や時代の流れを無視して、軍隊的な方向に進んでおれば、

   いつか消費のニーズは捉えられなくなり、また未来の消費者も文化も育たない。

    どうも年功序列型の組織が、社会の奔流をまるで阻害したようだ。


    消費とか経済とかいう前に、人間として生きる意味がこの社会から抹殺されている。

    豊かになれば、自分らしい生き方や楽しみを求める気持ちをもつのはとうぜんなのに、

   会社はそれらを奪いとって、経済至上主義を貫いている。

     発展途上国の勤勉の強制力がいまだにあまりにも強すぎて、

    人生を楽しんだり、好きなように生きたりすることが罪悪視されてしまっている。


     人間の生きる意味とはほんらいこのようなものではないだろうか。

     だけどこの国では働いて自分の人生を捨てることが最高の価値になっており、

    人間らしい生き方、人生のほんらいの意味がまるで剥奪されている。


     勤勉の価値観が全世界の普遍的な価値観で、いつの時代にも通用する価値なんて

    大マチガイであって、西洋世界でもおそらくこの価値観が見直されていて、

    そのような価値観のうえに労働時短などが進められている。

     環境破壊や資源枯渇といったものは経済至上主義の反省をつきつけている。

     世界はいまこのような潮流に向かっているのに、日本はまたもや戦前の植民地主義が

    西洋ではとっくに捨てられているのにひとりその方向に邁進したことと、

    同じことがくり返されている。


     西洋では70年代以降、大きなテクノロジーが発明されなくなったが、

    たぶん経済や技術の方向性に人類の発展や幸福を見出さなくなったからだろう。

     ヨーロッパやアメリカの人たちはほかの方向を見出そうと模索しているのだ。

     そんなところに経済猛進主義の日本製品が輸出されてかれらの生態系をブッ壊す。

     かれらはもう経済の発展をがむしゃらに願ったりするメンタリティを捨ててしまって、

    その世界に安住しようとしているから、秩序を乱す日本に腹を立てるのだろう。


     日本はあまりにも急激に国家をあげて生産に傾斜したから、

    そのしくみや価値観が絶対視され、正義になってしまっている。

     会社が共同体やムラの役割をひきついだために、ここの規律が絶対遵守され、

    このほかの反対意見、批判がまったく通らないようになっている。

     われわれは会社ムラ以外よるべきところを失い、そのほかの価値観と規律が、

    効力や力を発揮することがまず不可能になっている。


     会社はわれわれの生き、生活し、友や知人を得る唯一の場所になり、

    ほかの会社との共通の地盤やつながりといったものがまったくなくなってしまった。

     だから会社の規律や慣習が絶対視されてしまったのだ。


     しかし若い者たちにとって会社以外の人々を結びつける共通の基盤といったものが、

    テレビという情報の世界において生み出されつつある。

     テレビの価値観や共通世界といったものが、人々を結びつける基盤になっている。

     若者のあいだ、あるいは主婦のなかで、この価値観と規律が猛威をふるっている。

     この共通のつながりはこんどはインターネットというメディアによって、

    またまた強められる方向に進んでいる。

     会社の規律と価値観が絶対化される基盤は、これらの人々のあいだでは、

    じょじょにつき崩されつつあるのだ。

     かれらは会社以外によるべきところをもっているからだ。


     しかし会社の絶対主義の価値観はなかなか崩れない。

     働かないとメシを食っていけないし、夢を食べて生きるわけにはゆかない。


     われわれ日本人はあまりにも経済の貧困や破綻を怖れ過ぎている。

     だからその価値観から逃れられない。

     ホームレスになるのがコワイとか、老後の生活が保障されなかったらどうしようとか、

    あまりにも経済全般に怖れを抱き過ぎなのだ。

     それが経済絶対主義の価値観を下支えする。


     もちろんそれはとうぜんのことであって、現実的な生活の心配はわきまえるべきだ。

     だがあまりにも怖れ過ぎるのはよくない。

     たいがいそれは取越し苦労に終るのだが、怖れ過ぎるとその価値観に捕えられてしまう。

     その不安がわれわれの全行動を支配するようになってしまう。

     不安や怖れがわれわれの人生をハイジャックするのだ。


     われわれの怖れというのはたいがい社会的体面を保てるかどうかということだ。

     この見栄があるためにわれわれはなかなか気を休めることができない。

     この価値観や欲望を捨てられれば、われわれはどんなに楽になることか。


     これまでの社会的体面の価値観はどんどんその値を下げてゆくだろう。

     なぜなら家電とか車、マイホームといったものは多くの人がもってしまったら、

    その優越性はまったくなくなってしまうからだ。

     そんな価値観はだれも見向きもしないものになる。

     貧困を必要以上に怖れる必要はない、そんな価値観はどんどん低落しているのだから。

     若者が破れたジーンズや小汚い格好をワザとするようになったのは、

    もう貧困の怖れには囚われていないというメッセージなのだ。

     できればこれらの不安を捨ててしまって、よけいな心配をやめて、

    もっと解きはなたれた生き方をこころみるべきだ。


     経済的な価値観はどんどんデフレをおこしている。

     インフレをおこしているのはそれ以外の価値観――たとえばテレビやインターネット、

    といった情報であり、それは経済以外の価値観である。

     物質的多寡で優劣を測れるような価値観ではない。

     これらの世界にわれわれは将来を見出すべきなのだ。

     経済ばかりを怖れ過ぎていたら、新しい時代の価値観は理解できないだろう。


     われわれは経済以外の目標や目的を見出すことができるだろうか。

     そうしなければならないのであり、人間の幸福という意味でも、

    われわれは経済以外になにかを見つけなければならないのである。


     それでも会社はわれわれの全人生を収奪しており、

    休暇や余暇は毛のはえた程度しか与えられないし、

    生き方やものの考え方、価値観の自由まで剥奪している。

     人間存在の自由をことごとく奪っているのが、現在の会社だ。


     会社は人間の価値観や幸福なんかどうでもよい。

     利益や売り上げ、存続が目的なのだから。


     われわれは会社に幸福や豊かさ、価値観、生き方を全部依存してきた。

     しかし近代化が終わり、経済が成熟化し、人々が多様な価値観を追究するようになると、

    会社はまったくそれに応えられなくなるばかりか、逆に幸福や価値観の自由さを

    収奪する方向にさまがわりする。


     もうこのような時代には会社は幸福を与えてくれるものではなく、

    ただわれわれから幸福を剥奪する寄生虫でしかない。

     新種のウィルスは宿った生物と共生できればいちばんよいのだが、

    ときにはその宿られた生物を死に追いやってしまうこともある。

     会社はいまそのような存在になってしまったことを理解しなればならない。


     だけれども、とうぜんわれわれの価値観と会社の論理は対立する。

     とくに日本の会社は、人件費を残業でまかなおうとする。

     もうこのような方法を許すべきではない。


     われわれの幸福や価値観はもう会社からは与えられず、奪いとられる一方なのだ。

     会社生活や会社に滅私奉公することがほんとうに幸せなことなのだろうか。

     経済成長や経済の夢が頭打ちになった現在、

    われわれはこれらに夢をたくすのではなく、新たな夢を模索しなければならない。


     子どもたちがこんな価値観なんてクソくらえだってことはいちばんわかっている。

     いまの会社絶対主義の社会はもう輝かしい将来も、希望大きな未来も、

    与えてくれないことをいやになるほど思い知らされている。

     流行や時代の流れをいちはやくキャッチするのはやはり子どもや若者たちであり、

    社会が高圧的であるから、しかたなくこの社会に従っているにすぎない。


     大人たちよ、早くこの至上価値を捨てて、子どもたちがもっと希望のもてる社会や、

    人々のありようを模索してゆくべきなのだ。

     子供たちの不満はやはり大人の不満でもあり、

    大人たちはもうすこし計算高くふるまっているに過ぎない。


     なんとかしてこの旧い勤勉の強制力を捨てるべきではないだろうか。

     大人たち、とくにオヤジの価値観はもうこの時代にはまったく通用しない。

     これ以上、自分たちの旧い価値観に操を通そうとしたら、

    もっと痛い目に合うのは、たぶん自分たち自身だろう。


     もはや、過去の栄光や勲章とともに心中しなければならない時代なのだ。





     |BACK99-97|TOP|断想集|書評集|プロフィール|リンク|

inserted by FC2 system