企業社会で生きるということ


                                              1998/4/1.




     企業社会で生きるということがどういうことなのか、いまだにわからない。

     なにを目指し、どんな目的をもち、なにを得るために働くのか、

    どのようにして仕事や会社とつき合っていったらいいのか、わたしにはよくわからない。


     ほかの人は疑問に思わないのか不思議に思う。

     疑問に思うわたしが子どもじみていて、ほかの人にはまったく迷いがないのだろうか。


     たしかに働かなければ食えないし、家族がいればそんな疑問を抱く暇もないだろう。

     だけどわたしの中には企業社会にたいする強烈な疑問と不快感がある。

     ひとつの会社でこのまま一生を終えてしまうのかと思ったらぞーっとするし、

    毎日同じ仕事ばかりで空しくてたまらないと思ったりする。

     日本企業はおそろしいほど長時間、従業員を拘束するし、

    人格や心まで会社に捧げ尽くさなければならないようになっている。


     人生の楽しみや人生を生きる意味がまったく顧みられないようになっている。

     いつもこんな人生でいいのか、こんな社会のままでいいのかという疑問がよぎる。

     だけどこの社会はちっとも変わらないし、

    ほかの人たちはもくもくと仕事勤めに精を出している。

     だれも疑問に思わないのか、こんな人生のままでいいと思っているのか、

    わたしには不思議でならない。


     企業での目標や目的がなかなか見つけられない時代になっている。

     地位やポストをもとめる目標は、ポスト不足や成長経済の停滞でほとんど

    不可能になっているし、若い世代はそのような競争を軽蔑した目でながめている。

     日本社会ではポストを得るのは実力主義ではなく、上司への媚びやへつらいが、

    その最短コースだと子どものときから知っているからやる気をなくす。

     入社してみれば、下積みの年功序列でぜんぜん芽が出せない。

     組織がこのような構造をもっているのに新入社員を「指示待ち症候群」

    だとか名づけたりする。

     なにもできないように若者をがんじがらめにしているのは、

    企業や社会にほかならないのに、それを若者のせいにする。

     会社組織や社会はもう完成してしまって、それを壊したら上の者になにをいわれるのか

    戦々恐々だから、若者たちはぜんぜんおもしろみがなく、不満が鬱積する一方だ。


     若者たちは既存の組織の規律や慣習に服従するようにしつけられて社会に出る。

     だが会社ではなにができるのか、どのような貢献を会社にもたらすことができるのか、

    といった問いをつきつけられる。

     このような事態は学生のときには予想もしていなかったことだ。

     少年時代には学校や社会からさんざん規律や同調の技術ばかり叩きこまれ、

    そうすることが正しいことだと思いこんできた学生にとってはひどい仕打ちだ。

     同調を学んだ学生にできることはただ上司のいうことをよく聞く、

    昨日のくり返しをするだけの進歩のない社員になるだけだ。

     同調だけを教える学校は責任をとれ、そのような社会風潮は責任をとれ、

    といってもすべてのツケは自分個人の身の上にふりかかってくるわけだから、

    同調技術だけを磨いてきた自分にも責任があるといえる。

     ただこれまでどおりの服従と同調だけを教える学校をつづけてゆけば、

    大きな惨禍を将来に譲りわたすだけではないだろうか。


     学校はこの企業社会で生きてゆく技術や情報を教えない。

     この欠如は学校を卒業する子どもたちにとっては大きなハンデだ。

     わたしも学校のときにもうすこし職業や企業社会にたいする知識を得ていたなら、

    社会に出てこんなに迷わずにすんだのになと思う。

     学生時代にほとんど働くことに対する心構えができなかったわけだ。

     しかも社会に出たら、敗者復活戦はなかなかむつかしいときている。


     学校では企業社会のことはほとんど教えられない。

     職業社会のなかでのスキルづくりやキャリア計画などをまず教えない。

     小学校のときには「働くおじさん」などとかいって退屈なテレビを見せられたり、

    牛乳だけが楽しみな工場見学に行ったりなんかする。

     でも小学生にとって仕事はまだまだ遠い現実だ。

     社会に出る年齢に近づくにつれ、受験戦争などで忙しくなり、

    そういった大事な授業が疎遠になる。


     学校で教えることはあまり社会では役に立たない。

     学校が社会に出るための準備機関だとしたら、なぜもっと企業のことを教えないのだろう。


     この社会はなぜか仕事や企業で生きるということの情報や知識が、

    ほとんど与えられない。

     企業社会の情報や働くことについての知識がぜんぜん得られない。

     テレビではエンターティメントや食べ物番組、恋愛などのドラマばかりであり、

    新聞では事件や事故だけが与えられる。

     人生の長い期間を過ごすはずの会社や仕事についての情報がほとんど流されない。

     なぜなんだろうか。


     サラリーマンの父は家から遠くのところで働いているから、その姿を見ることができない。

     働くということや仕事というものがどのようなものなのか、

    直接、父から教わる経験もかなり少ない。

     だからこそ、学校や情報機関の役割は大きいと思うのだが、

    たとえばテレビなんかは働くことにたいする心構えをまず教えない。

     かわりに魅力的な商品や遊びばかりを四六時中教える。


     けっきょくのところ、この日本社会の最大の消費者は学生であり、

    大人になれば、一日中会社や仕事に拘束されて消費者にはまずなれない。

     このような偏った需給関係があるために、学生がその自由な時間の大半を

    受け持たされるのは日本経済の牽引役としての消費者の役割なのだ。

     このいびつな消費構造があるために学生はどんどん骨抜きにされる。

     社会に出てはじめてこの社会がどのようなところであり、

    どんなひどい構造をもっているのか思い知らされることになる。

     こんな構造をもっておれば、日本経済の落日はかなりハイ・スピードになることだろう。


     豪華な商品がならぶ店先とはまったく逆に、

    その裏に回れば、ムチでも打たれそうなひどい舞台裏が待ち構えている。

     こんな二重構造をもった日本経済は維持するに足りないと若者は思うだろう。

     ピカピカの商品を得るためには牛のようにムチ打たれるのだ、

    もうこんなものいらないとなってしまう。

     日本企業はこのような二重構造から、企業にも楽しみを求められるような社会に

    脱皮するべきではないだろうか。


     企業社会があまりにもつまらなさすぎる。

     つまらないから、仕事や会社の内実がテレビなどによって世間に知らされることが

    ないのだろうか。

     また企業の格付け、ヒエラルキー、ウラの権力構造といったものが

    なかなか表わされることがない。

     こんなことで企業発展がこれから見込まれるだろうか。


     出世やポストの夢はほぼないし、新しい事業や新しい商品を創造しようという気概を、

    多くの若者たちはもたない。

     イノベーションが必要な時代に、そんなことより安定企業に入ることだけをのぞむ

    若者たちが大量生産される。

     大人や親たちも安定や同調だけを求め過ぎたため、変化を嫌い、抑えつけ、

    社会は保守的になり、ちっとも進歩も革新もおこなわれない。

     革新が嫌われるだけではなく危険と思われる社会はずぶずふと沈みこむ一方だろう。


     過去を守ろうとし過ぎる社会は若者にちっともチャンスがなく、

    ますますやる気や活力を殺ぐばかりだ。

     きっとこの社会はかなり硬直化してしまっていて、だからつまらないのだろう。

     中学のころに自分の将来が見えて絶望した少年たちは、

    他人を自殺にまで追いこむイジメと殺人にしか楽しみを見出せなくなるのだろう。


     死後硬直しかかっているこの社会を甦らせるにはどうしたらいいのだろうか。

     冒険や夢が描ける社会にならなければならない。

     いまの社会はこれとまったく逆の守りと失敗を恐れる人たちだけを生み出している。

     守るものがなくなったときにはじめて冒険や挑戦が描けるのだろうか。

     それは日本経済の崩壊にしかその活路はない?

     創造的破壊が必要なのだろうか。

     キツイ事をいうが、雇用を守っていたら社会はますます停滞することになり、

    自由な競争社会、自由な資本主義のルールはまったく芽生えず、

    若者たちの冒険や挑戦の意欲はどんどん失せてゆくだけだろう。

     今日のために未来は犠牲になるか、未来のために今日は犠牲になった方がいいのか。

     まだ生まれていない子どもは言葉がないし、昨日を守ることはもはや不可能だ。


     だけどわれわれはもっと金儲けだけを望んでいるのだろうか。

     企業社会がつまらなく思えるのは、金儲けだけの価値観にすべてが

    覆いつくされているからだろう。

     こんな金儲けの価値観だけで覆われた社会や会社なんかいやだ、

    とだれだって思っていることだろう。

     若者が出世やポストに望みをかけなくなり、安定だけを望むようになったのは、

    やはり私利私欲の金儲けの価値観を軽蔑しているからだろう。

     だけど金儲けをしないことにはメシを食えない。


     この日本社会は金儲けの価値観を嫌っているのか、あるいはそれが最高の価値なのか、

    よくわからない。

     安定や大企業をめざす若者や母親のメンタリティには、

    金儲けの価値観を否定する道徳観があるから、それがのぞまれるのではないだろうか。

     あまり実社会の私利私欲の競争の矢面に立ちたくない――、

    それが安定志向を生み出してきたのではないだろうか。


     出世やポストをのぞまない若者の心には、金儲けを軽蔑する気持ちがある。

     だから保守的や堅実志向になる。

     新しい世代には会社や金儲け以外の価値観をなんとか見出そうとする流れが

    あるわけだが、この社会はほぼ方向転換ができないようである。

     会社の集団主義的傾向をつき崩そうとしても、変化は遅々として進まない。


     最近は金融ビックバンという自由化の流れがあるが、これは金儲けの競争を激化させる

    方向に進むのか、あるいは集団主義的な金儲けの価値観が崩れ去ることになるのか。

     稼ぎたい人間は思いっきり働き、あまりのぞまない人間はもっとゆったりと

    生活できる個別的な自由を手に入れられる時代になるだろうか。

     一糸乱れずみんなで勤勉を強制される時代から、

    人それぞれの価値観で生きられる時代になってほしいものだ。


     ビッグバンにともなって自己責任や企業家にならなければ生き残られないなどと、

    がむしゃらに働くことをあおられるわけだが、これからの若者はそんな競争を望むだろうか。

     親のように会社に呑みこまれた人生を送りたくないと思っている若者たちが、

    果たして牛のようにがむしゃらに働こうとするだろうか。

     われわれは仕事や会社にたいしてかなりネガティヴに捉えるようになっている。

     会社が人生や人格まですべてを奪いとってきたからだ。

     だから仕事に人生を賭けようなどとは思いもしなくなった。

     こんな社会の仕組みで、仕事への情熱などもてるわけがないのだ。

     情熱は仕事以外のなにかに求めようとする流れがこれからもっと強くなることだろう。


     企業不祥事や官僚汚職、大企業の倒産などいろいろ起こったが、

    大企業や官公庁をもとめる人生コースはこれからもまだ根強い信仰がのこるだろう。

     ただ受験戦争が加熱すればするほど、マスコミがそれを報道するたび、

    その競争からドロップアウトしてゆく人たちは増えてゆく。

     そのような輝かしい人生の目標が目の前から消え去ったとき、

    つまらない企業社会のありのままの姿があらわにされる。

     働くことや会社というのはつまらなくて、ツライ毎日のくり返しなのだが、

    大企業とかエリートコースという神話があるあいだは、それは緩和されていた。

     その魅力的な神話がなくなったとき、われわれはこの打ち捨てられた夢の残りかす

    としての会社勤めにどのように耐えてゆけばいいのだろうか。


     企業社会から魅力的なオブラートはとり去られた。

     またほしい商品や家電などもほとんどないし、出世やポストの夢もほぼない。

     革新的な企業家精神は、中途半端に年功序列や集団主義的な根回しが残る組織では、

    ほとんどつぶされるか、既成の組織からはその芽がつまれる状況もある。

     社会が固まり過ぎて、ぜんぜんおもしろ味がない。


     こんな状況の中でどうやって働くことの楽しみや魅力を見出したらいいのだろうか。

     多くの大企業や中堅企業が倒れても、まだこの社会では革新的な企業家や、

    冒険をもとめるサクセス・ストーリーといった神話がまったく立ち上がっていない。

     夢も目標もない。


     ただ毎日毎日、同じ仕事のくり返しと同じ顔ぶれだけの集まりに

    耐えてゆかなければならない。

     このつまらない会社勤めを、目標も夢もしぼんでしまった時代に、

    どうやって適応してゆけばいいのだろうか。


     日本の企業というのは、約7割が中小企業だという。

     のこりの3割が大企業で、マスコミにとりあげられたりするのはほとんどこれらの企業の

    ことであり、終身雇用もこれらの大企業だけの特権だったとも言われている。

     大企業の下請けなんか思いっきり親会社にいじめられてヒドイ状況だが、

    こんな企業で大半を占められているのが日本のほんとうの姿だ。

     マスコミはこれらの大企業の姿だけを捉えて、大半の企業を捉えていなかったことになる。

     そして母親や子どもたちはマスコミにとりあげられる有名企業をめざそうとする。


     マスコミにとりあげられることも、知名度もほとんどない約7割を占める中小企業に

    勤めるのがほとんどの人だ。

     そして上昇志向や安定志向をたたきこまれた若者にとっては、

    これらの企業は魅力のないものに映る。


     働くことや会社に勤めることはほんとうにつまらない。

     よくみんなこんなつまらないことに毎日毎日耐えられるなと思うのだが、

    わたしだけが特別に職業倫理のタガがはずれてしまったのだろうか。

     最近の就職氷河期に就職した若者たちはウカれたバブル世代と違って、

    そうかんたんに転職しないと思われていたが、どうやらそうではないようだ。


     まあみんなそれぞれの仕事のおもしろ味や目標を見つけていることだろうし、

    楽しみを見つけようと努力したり、ほかに楽しみを見つけて耐えているのかもしれない。

     与えられたことが変えられないのなら、そこに楽しみを見出してゆくことが、

    人間のたたえられるべき才能だ。


     みんな、こんな目標やほしいモノがない時代によく働くと感嘆するのだが、

    でもそんなことを言っておればメシも食えないし、会社から爪はじきにされてしまう。

     社会から信頼されて働くには、つまらないことでもこつこつこなしてゆくことが、

    いつの時代でもいちばん大切なことなのだろう。


     怠け者でこらえ性のないのわたしはやっぱりいまでもビンボーだし、

    仕事ではなかなかうまくいかない。

     みなさんはわたしのようにネガティヴにならずに、

    ポジティヴにこのビジネス社会を渡っていってほしいと思う。


     ネガティヴにしかこの企業社会や仕事を捉えなれないわたしが悪いのか、

    それともこの社会があまりにもネガティヴに捉えるしか仕方がない状況になっているのか。

     だけど社会の状況を嘆いていても、そのツケがふりかかるのはいつも自分だ。

     自分の世界や結果をつくりだしているのは自分にほかならないのだから、

    必要な批判はしても、建設的な生き方をこころみるべきなのだろう。

     自分のおこないはかならず自分にふりかかってくるものだ。






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