「理想社会」というパラドックス
             ――中川八洋『正統の哲学 異端の思想』私感


                                                1998/5/12.


     『正統の哲学 異端の思想』 中川八洋 徳間書店 





    ひとびとが望むすばらしい理想は、いつも暴虐や虐殺に転嫁する。

    歴史が同じ過ちをなんどもなんどもくり返し見せれば、これはもう理想それ自体のなかに

   その残虐性が組み込まれていると考えるしかない。

    理想そのものの中に「悪」がある。


    中川八洋の『正統の哲学 異端の思想』(徳間書店)という本にはとても驚いた。

    マルクスやスターリンなどの共産主義がどのような残虐な歴史に陥ったかは知っているが、

   まさか人間の解放をもたらしたと思い込んでいたルソー思想のなかに全体主義の志向が

   あるとは思ってもみなかったからだ。

    フランス革命もロシア革命に先駆ける全体主義国家の先駆けにほかならなかったのである。


    ルソーは国民は自己とあらゆる権利を国家に譲渡し、そのことによって国民は平等となり、

   また群集は盲目であるから立法者が強制と教育によって指導するのが理想の国家だとした。

    つまり自由ゼロ財産ゼロになってはじめて平等になった国民を非凡な独裁者がひきいる

   かたちが、ルソーのめざした理想社会であると、中川八洋は解釈している。

    もしルソーの思想がこのとおりのことをめざしていたとするのなら、

   たしかにこれはソ連共産主義とまるで同じだ。


    平等と進歩を理想とした社会は過去や伝統を破壊する。

    平等や進歩を阻むのは過去や伝統であり、民衆を搾取しているのは資本家たちであり、

   それらを破壊しないことには平等や進歩、または民主主義は訪れないと考える。

    フランス革命やロシア革命はそれらを破壊して新しい社会をうちたてようとした。

    しかしこの破壊したもの自体――貴族や共同体、地方といった中間組織が、

   これまでの国家の暴虐から守っていたのであり、これらがなくなると裸で放り出された個人は、

   権利ゼロ自由ゼロ財産ゼロのまま国家に直接蹂躪される。

    これがフランス革命やソ連などの全体主義国家でおこった大量虐殺のメカニズムだと

   トックヴィルやハンナ・アレントは指摘している。


    これは驚きだ、過去の伝統や紐帯こそが国家からの暴虐を阻止していたとは――。

    それらの中間組織を破壊したからこそ、アトム化し孤立化した個人は、

   国家に要望を集中させ、そこにファシズムや全体主義がうまれるというのである。

    過去や伝統を破壊することが、だれにも頼ることのできない個人を生み出し、

   それが全体主義の独裁者へと集結してゆくというのである。


    われわれのたいていは民主主義だからファシズムのような全体主義国家には

   陥らないと思い込んでいる。

    だが民主主義だからこそ専制政治でも見られないほどの

   残虐な全体主義国家が生み出されたのは歴史が示すとおりだ。

    国家権力を制限していた既成秩序を破壊するからこそ、

   全体主義がうみだされるというのである。

    既成秩序を改善や改革さえすれば、よい社会がうまれるはずだと

   ぼんやりと思い込んでいたわたしにはショックだった。

    階層や不平等、エリート階級、特権をもつ地方の存在、そういったものこそが、

   国家権力の圧制から人々を守るクッションだったというのは驚きだ。


    既成秩序の破壊こそ、自由や平等、人権や主権、民主が守られる道だという考えと、

   真っ向から対立するのが、中川八洋が唱えるところの保守主義だ。

    この流れにはバーク、トックヴィル、ベルジャーエフ、オルテガ、アレント、ハイエク、

   といった人たちが連なるそうだ。

    逆に全体主義思考を導く平等や進歩、人権などの概念を唱える系譜が、

   デカルト、スピノザ、ルソー、ヘーゲル、マルクス、スペンサー、サルトルなどとされている。


    われわれは平等や人権、民主などは善いことであり、それを主張するのが、

   よい社会をつくるのだと思い込んでいる。

    だがそれは過去や伝統を否定することになるから、高貴さや名誉、美徳を育てる土壌

   となるものが破壊され、人々のレベルは低俗化・低級化し、モラルが崩壊してしまう。

    伝統や過去の中に人々の質的向上をうながす高貴さや名誉、栄誉といったものが

   あったのだが、平等や人権をもとめる人たちはその土壌を破壊してしまう。

    無秩序で公徳や美徳のない刹那主義、享楽主義の社会に陥ってしまうというわけだ。


    いままでわたしはぼんやりと既成秩序(=封建社会)を破壊することがよいことだと

   思い込んでいたが、この『正統の哲学 異端の思想』を読んではじめて、

   過去の否定がどのような悲惨な結果を導くか、ということを思い知らされた。

    保守主義の考えはいままで触れることもあったのだろうが、この中川八洋の著作のように、

   理路整然と進歩主義の弊害といったものがはっきりと説明された本は初めてだ。

    日本ではマルクス主義が社会科学に多くの影響をいまも与えているらしく、

   この保守主義(伝統主義)という立場にも耳を傾けることが必要だと思う。


    われわれは過去は悪の巣窟だ、既得権益を破壊すればよい社会が訪れると、

   ともかく思い込んでいる。

    不平等はとにかく悪だ、人権や権利を主張することは善いことだ、と信じている。

    だが果たしてそうなのか。

    無条件に肯定しているわれわれの主張や権利は社会を絶対に良い方向に導くのか。


    過去や既得権益を破壊してゆくのが戦後の現代社会だった。

    なにもかもを破壊してゆくのが戦後の民主主義社会だった。

    果たして現在は過去より良い社会といえるのだろうか。


    世の中から権威あるものは失われ、名誉ある人も栄誉ある人も皆目ゼロだ。

    私欲と金儲けと私腹を肥やすことだけの低俗な大人たちに満たされ、

   人々は自社企業の利益と体面だけに囚われ、企業犯罪のために人を犠牲にし、

   薄っぺらなカッコよさとおもしろさだけを演出する人だけが憧れられる。

    権利や利益だけはいくらでも要求し、責任や義務はてんで問われない。

    人々の連帯意識もまるでなく、しかし生き方やライフスタイルでは恐ろしいまでの画一化が

   進む一方、人々の心のつながりはてんでばらばらだ。

    過去のうさんくさいイデオロギー色のあるものはすべて脱色され、

   そのために連帯のさいごの砦としてのファッションなどの画一性が残るのかもしれない。


    われわれは自由や平等を声高に求めるあまり、丸裸でこの世界に放り出されてしまった。

    国家意識がまず破壊され、政治の信頼性が崩壊し、いまは経済の信頼性が失墜している。

    権威や伝統、イデオロギーといったキナクサイものはすべて廃棄処分することが、

   戦後の正義であり、善となった。

    まさにトックヴィルやアレントの指摘する中間組織の破壊ではないだろうか。

    なにものからも守られるものを失った個人は、現在の権力――国家や企業、マスコミに

   蹂躪され、自由ゼロ生命尊重ゼロの圧制にさらされる。

    われわれはとにかく過去の紐帯から脱け出しさえすれば、自由の楽園が待っていると

   思い込んでいるが、それは新たな圧制や自由ゼロの入り口でしかない。

    われわれは新たに口をあけた脅威の正体を知らないから、喜んでその中に入りこむ。

    それがフランス革命やロシア革命、またはポルポトの大虐殺に起こったことではないだろうか。

    企業の過労死もまた、伝統を破壊した社会の守られなくなった個人の犠牲者だろう。

    国家は個人を守るのではなく、企業を守る専制を敷いている。


    階層や不平等、伝統、権威、既得権益を破壊する傾向は、

   産業化とともにその手を携えてやってきたのだろう。

    産業化はもたざる者たちをもてる者にするための道具であり手段であり運動だった。

    そのような流れのなかでデカルトの理性主義、ルソーの平等思想、スペンサーなどの進化論、

   マルクスなどの社会主義が起こってきたのだろう。

    要は優越した人たちをめざす運動が産業化であり、大量生産であり、

   その思想面を埋めるのが、いくたもの哲学者や知識人たちの仕事だった。

    思想面での突然の跳躍が行われると、現実との軋轢が生じ大量虐殺がおこる。

    マルクスが共産主義を打ち立てなくとも、テイラーの大量生産のシステムによって、

   プロレタリアはブルジョワジーの物質的レベルを享受できるようになった。

    ヨーロッパはきわめて不平等な社会だったからこそ、産業化が進行したのだろう。


    こうしてどこまでも平等の地ならしが進んでしまうとその原動力を失ってしまう。

    ヨーロッパやアメリカはこの段階に達してしまったのではないだろうか。


    国家に全信頼をたくし、国家以外の中間組織を破壊してきたのが近代だ。

    われわれはありとあらゆる権利や生命尊重、教育や福祉までを国家に要求してきた。

    その一極集中は逆に専制国家より恐ろしい全体主義体制を導く。

    なぜならすべての権利は国家に集中してしまうからだ。

    われわれは自由や平等をもとめ、過去を否定し、ますます国家に依存する。

    結局、そこには国家の権力を制限する歯止めがない。

    同時にわれわれは国家権力を抑制していた中間組織、権威、伝統といったものを、

   自由や平等を抑制するものだとして破壊してきたために、両輪のように

   国家依存の度合いを強め、ますます全体主義国家に近づいてゆく。

    自由ゼロ権利ゼロ生命尊重ゼロの圧制国家体制ができあがる。


    われわれはなにもかもを国家に要求しないほうがよいのだろう。

    国家はわれわれの自由や権利を尊重するよりか、

   それらを剥奪する権力に転嫁してしまう両刃の剣でもある。

    国家の要求を増大し、一方ではその権力抑制のクッションだった中間組織を、

   伝統や権威は悪だとして破壊してゆけば、個人は国家権力から守られなくなる。

    国家総動員や一億玉砕といった戦時体制は、そのようにして生み出されたのではないのか。

    現在の企業の専制状態のような社会も、完全雇用や労働条件改善という要求を

   国家に集中した結果、ひきおこされたものではないだろうか。

    自由や平等、権利などの国家への過大な要求は、逆にわれわれの自由を

   ますますゼロにしてゆくパラドックスに満ちたものである。


    われわれは権威や伝統といったものをますます破壊する方向に走っている。

    それらこそが悪であり、自由や平等を剥奪する元凶だと思い込んでいる。

    ルソーの平等思想、ダーウィンの進化論、マルクスの社会主義に影響されているためか、

   それとも進歩と拡大を是とする産業化の当然の帰結なのか。

    過去や伝統、権威を保持しようという声はほとんど聞こえてこない。

    ときにはそのような声は戦前の国家主義への逆戻りだとして恐れられる。

    わたしもそのように思っていたから、ともかく過去を否定することが善いことだと思っていた。

    この中川八洋の著作に出会うまで、過去の否定が全体主義への道を開くなどとは、

   夢にも思ってみなかった。

    こういう人が現在のほとんどの人ではないだろうか。


    過去の破壊、権威や伝統の否定、不平等への嫌悪、こういった思潮の流れの中で、

   たどりついた現在は果たして過去よりよい社会になったのだろうか。

    われわれは権威や伝統といったよりよいもの、心のよりどころとなるものをもっているか。

    精神の高貴さや気高さ、名誉や栄誉といったものを誇れるか。

    企業や金儲けだけが群を抜いて価値をおかれる社会に、

   はたしてわれわれに自由や権利は存在するのだろうか。

    わたしがいちばん問題とするのはこの企業の権力肥大化であり、

   家族や地域、因習の不自由から脱け出した先は、企業専制への網ではなかったのか。

    過去を否定する社会はこのような結果を導いたのではないだろうか。


    過去を破壊するからこそ、企業の専制や人間の低俗化、モラル崩壊などが

   起こってきたのではないだろうか。

    過去の破壊がなにをもたらしたか、われわれは自問するべきだろう。


    ただやはり伝統や権威にはなんの問題もないのかという疑問がのこる。

    搾取や暴力、暴虐、差別などはまさにその中で育まれたのではないのか。

    保守主義はこれらへの批判や懐疑をなにひとつもたないというのだろうか。

    過去や伝統のなかにこそ自由を守る砦があるというのは、

   あまりにも現状維持的、満足せる者たちの保身のためのイデオロギーではないのか。

    これは進歩や平等、人権といった概念をあまりにも信奉する人たちの世界観、

   イデオロギーに染められた結果だともいえるわけだが、このような疑問もたしかにのこる。


    この問題はもうすこし保守主義に関する本を読んだあとで考えたいと思う。


    理想社会はその信念とは裏腹に圧制や暴虐に陥る。

    人間の知性の限界なのだろう。

    ひとりの人間の理想のためにほかの人々は配置や方向を決められる道具になる。

    将棋やチェスの駒のように人々は操られる。

    その理想をもった当人の頭にはまさに理想を具現した世界になるのだろうが、

   社会のすべての人がその理想を共有するとは限らない。

    あっち行けこっち行けと指一本で指示される人たちには大迷惑だ。

    そしてその軋轢がホロコーストや選別をうむ。


    ある人の理想社会はかならず理想から逸れる人たちをぶった切らざるを得ない。

    そういった理想のために人々を排斥する正当化の理論をつくったのが、

   ルソーやヘーゲル、マルクスの思想だった。


    このような残虐な歴史を見たあと、われわれは理想社会の創出に警戒すべきなのだろう。

    だれか専門の高級な人たちが理想社会をつくれるなどとは、

   人間の大いなる過信やおごりなのだろう。

    人間は社会がなぜできているのか、文明はどのようにしてできあがったのか、

   文明にとってなにがいちばんよいのか、人間にとって幸福はなんなのか、まったくわからない。

    そんな人間のひとりであるだれかが、理想の社会をつくれるなどと過信してはならない。

    社会主義の歴史が示したとおり、人間にはそんなことは不可能だ。

    そしてその全体主義への圧制への礎はいまも築かれているのではないだろうか。


    過去の破壊や否定はよりよい社会をほんとうにつくれるのか、

   保守主義とよばれる人たちの思想を手がかりに考えてゆきたいと思う。





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