考えるための哲学エッセー集




        「思考」は超えられるか    第三部


                                                1997/6.




        はじめに


      これまでの第一部、第二部はわたしなりに考えをまとめたものを

     のべてきましたが、ここからは現在、学びつつある課題を、みずから考えたり、

     迷ったりしながら、書きつらねてゆきたいと思っています。

      したがってこれからのべるジャンルについては、誤っていたり、

     のちに考え方が変わったりする可能性があります。

      わたしの知識量はほとんどないに等しいのです。

      このことを理解した上で、以下の文章をお読みください。




  からだを癒す――ボディーワーク(1997/6)



    1. 呼吸を抑えつけること



       いまのわたしの関心事は、「からだ」である。

       からだにまったく関心のない人は、わたしがなぜ、からだなんかに、

      興味をもつのだろうかとふしぎに思うだろう。

       とくに知識や思考に優位をおいている人なら、なおさらだ。

       わたしもからだとかスポーツにはまったく関心をもたなかった。

       からだの存在なんか、ふだん、われわれは忘れているくらいだ。


       だが、からだはわれわれの精神や感情に驚くほど関わっている。


       わたしまず、呼吸の重要性について気づいた。

       だいたいわれわれはふだんの呼吸なんかに注意を払ったりしないが、

       われわれは緊張したり、怖れたりするとき、かならず「息」を殺している。

       息を止めたり、浅くしたりしているのである。


       息を止めてそのことに集中したり、注意深くなろうとしている。

       あるいは不安や怖れなどの感情を、コントロールしようとして、

      息をつめるのかもしれない。


       だが、人間というのは、5分たりとも息を止めていることができない。

       息が止まったら、死んでしまう。

       それなのに、われわれは緊張やストレスの多い生活のなかで、

      しょっちゅう、息を止めたり、あるいは呼吸を浅くしている。

       さぞかし、苦しい生活を迫られていることだろう。


       呼吸を止めたり、浅くしたりすることは、極端にいえば、

      身体を死んでいる状態にまで近づけることだ。

       首をみずから絞めているようなものだ。

       このような状態で、機敏で、臨機応変な考えや行動をすることができるだろうか。

       せっぱつまった、余裕のない、追いつめられたような、

      思考や行動しかできないのではないだろうか。


       怒ったり、悲しんだり、緊張しているときには、呼吸は、

      ほとんどせわしなくなったり、浅くなったりしている。

       リラックスしているときには、深くゆったりとした息をしている。


       せっぱつまったときの呼吸は、無意識に、自動的に変化するものだ。

       状況に応じて、呼吸は変化するようにできている。


       だが、呼吸は無意識の身体活動でありながら、

      同時に意識的にコントロールできるものだ。

       いま、呼吸が浅くなっているなと気づいたら、深い息をすることもできる。

       だから、われわれは緊張したり、あせったりしたとき、

      呼吸をゆったりすることによって、からだの緊張をときほぐすことができる。


       つまり怒ったり、不安になったり、緊張しているとき、

      それらの状態を緩和させることができるのである。

       ゆっくりとした呼吸は、われわれをリラックスさせ、

      ゆったりとした気持ちに導いてくれる。

       あまり肺いっぱいに吸い込むより(ますますあせる)、息を全部吐き出すことによって、

      自然な呼吸にもどすことが大事であるようである。

       緊張やあせりは、ゆったりした呼吸によって、ときほぐすことができるのである。


       呼吸の重要性が、わかっていただけただろうか。

       ひごろからだの活動は無意識におこなわれており、

      たまにわれわれのコントロールがまったく効かないときがある。

       緊張したり、不安になったり、怒りや悲しみがやってきたときだ。

       そういうときには、呼吸をコントロールすることによって、からだを鎮め、

      おだやかな状態にもどすことができるかもしれないのである。


       呼吸についてはまだまだわたしは学習中であり、知らないことだらけなので、

      直接、そのような本にあたってもらったほうがよいと思う。

       マイケル・スカイ『ブリージング・セラピー』(VOICE)や、

      ゲイ・ヘンドリックス『<気づき>の呼吸法』(春秋社)といった本や、

      そのほかにも家庭医学のコーナーにはたくさんの本がある。





   2. 感情と筋肉とのつながり



        怒ったり、悲しんだり、緊張したり、不安になったりしたとき、

       われわれはからだがどのようになっているのか、気づいたことがあるだろうか。

        顔全体が緊張していることには気づいているかもしれない。

        怒ったり、不安になったりしたときには、それらの感情に特有のからだの状態が、

       現われ出ることは、知っているだろう。


        だが、われわれはその感情と筋肉とのつながりを結びつけてみることはあまりない。

        どの感情にはどの筋肉が働き、使われているのか、知らない。

        ある感情には、ある特定の筋肉の緊張が結びついている。


        もしこの筋肉の硬直に気づけば、われわれは感情のコントロールを

       身につけられるのではないだろうか。

        からだの一部分の筋肉の硬直は、感情などによって、ひきおこされるものだ。

        そしてそれは今度は逆に、われわれの気分や感情を規定してしまう。

        怒った顔の筋肉では、怒りの感情が継続するし、悲しみの筋肉では、

       悲しみの気分がつづいてしまう。

        筋肉の硬直が、逆にわれわれの気分を押しとどめてしまうのである。


        だから、われわれはある感情がどの筋肉を硬めるのか、

       どのようにしたらその筋肉をゆるめることができるのか、

       そういったことを知ったのなら、より感情をコントロールしやすくなるだろう。

        無意識にまかせていた筋肉の緊張を――そのために感情にふりまわされていた

       ――意識の中にとりもどし、そのコントロール力を手に入れるのだ。



         現在のところ、わたしはこの感情と筋肉の関係について調べているところだが、

        なかなかそのような本は見つからないのだが、

        増田明の『ボディートーク入門』(創元社)にはたいへんくわしく、

        そのことが、背骨を基準にして、のべられている。


        この本によれば、怒りのしこりは胸椎八番にあらわれ、

       切なさは胸椎三番、金銭苦は頚椎七番のあたりに、その他いろいろ、出るそうである。

        これらの場所については、この本で調べてほしい。

        このような筋肉の硬直は、この本の中では、動物の筋肉の働きにその理由が

       求められており――つまり猫が怒って背中をたてたり(上半身を硬くする)、

       犬がしっぽを丸めて逃げの姿勢を見せる(硬くしてからだを守る)ことと、

       同じであると見ているのである。

        われわれは動物の筋肉のはたらきをそのまま、もっているのである。


        要は、怒りや怖れなどの感情というのは、

       太古の人類が外敵から身を守るための筋肉の緊張による防御法なのである。

        このような筋肉の使い方は、必要のなくなった現代社会でも用いられていて、

       それが継続したりして、筋肉のこりや痛み、病気をもたらすのである。

        筋肉をきゅっと固めても、借金取りからも、生活の不安からも逃れられない。


        このような筋肉のはたらきを見ていると、感情とはなにかという気がしてくる。

       感情というのは、筋肉の緊張によるからだの流れといえるかもしれない。

        つまり、顔や肩、もしくは下半身などの一部の筋肉が固められ、

       そのために生じた呼吸や血液の流れの阻害や遮断、不均等が、

       われわれにその状態が、気分や感情として感じられるのではないだろうか。


        感情というのは、筋肉の硬直・弛緩による結果ではないだろうか。

        感情という実体があるのではなく、それぞれの部分の不均等が生じたために、

       感じられるからだの状態といえるかもしれない。

        からだのあっちのシャッターが閉められ、こっちでは筋肉のために管が狭くなり、

       ほかのところでは換気扇が回り――そういったからだの状態から感じられるものが、

       感情というものではないだろうか。


        感情というものは、筋肉の硬直・弛緩がつくりだしているのではないだろうか。



        われわれはさまざまなストレス状況に、筋肉の緊張が使われている、

       ということにほぼ気づいていない。

        だがわれわれの日常では、ちょっとした不安があったり、問題があったりしたら、

       どこかのからだの調子が悪くなるといったことは、しょっちゅう経験したり、

       あるいはほかの人に見たりするだろう。

        下痢をしたり、頭痛がしたり、食欲がなくなったり、腰痛になったり、とさまざまだ。


        たいていの病気というのは、このような筋肉の緊張・硬直により、

       起こるのではないだろうか。

        凝り固まった筋肉が、血液や酸素などの供給をストップしてしまい、

       その部分に病気がうまれるのである。

        自分のからだの弱いところというのは、無意識のうちにおこなわれる、

       筋肉の硬直がおこなわれている箇所ではないだろうか。


        われわれは自分を守っていると思っている無意識の対処法が、

       じつは、病気や症状の原因ではないだろうか。

        このような対策はおそらく子どものころに無意識につちかわれたものだ。

        その誤ったやり方が何年も蓄積されて、病気をひきおこすのである。


        自分を守ろうとしていることが、じつは自分を傷つけているのである。


        筋肉を鎧のように固めることは、野生に生きるアルマジロのような生き物に

       とっては、ひじょうに優れたガードなのだろう。

        だが、われわれの人間社会はそういう危機にめったに出会わない。


        それなのに無意識のうちにそのような方法をもちいつづけ、

       不幸なことに人間社会は、野生の動物のように危機が去ったら、

       すぐに緊張をとけるというわけではない。

        人間の不安や怖れは、継続しつづけている。


        思考が肥大し、過去も未来もなくなり、危機は敵の襲う一瞬というわけではない。

        つまり思考が過去と未来の不安や怖れを「上映」しつづけるために、

       一刻も、筋肉の鎧を脱ぐことができなくなってしまったのだ。

        過去や未来をシャット・アウトすることがいかに大事なことか、わかるだろう。


        また人間は視覚や思考という知覚ばかりもちいるために、

       身体感覚といったものを、ほぼ抹殺してしまった。

        自分の身体でどのようなことがおこなわれているのか、てんで気づかない。

        そのために身体のコントロール法も忘れてしまったのだろう。


        ヨーガや東洋の賢者たちは、かなりの程度、身体の不随意活動を

       コントロールできるようになるらしい。

        わたしは最近これらのことに気づいて、ヨーガの意味がようやくわかってきたのだが、

       どうもヨーガの本というのは、気持ち悪いし、おそろしい。

        タコみたいにからだをものすごいカッコに折り曲げているさまは、

       ちょっと見るにたえない。


        われわれは身体は硬いものだという思い込みをもっていたり、

       あそこまで曲げたら骨が折れたり、からだを傷めてしまうのではないか、

       と思っているが、そのためにからだの硬さを温存しつづけ、

       老人のように曲がらないからだになってゆくのではないだろうか。


        からだは、やわらかいほうがよいようである。

        血液や酸素、栄養分などはそのほうが滞りなく流れやすい。

        だから、ヨーガなどではあんなにからだがやわらかくなっているのである。


        わたしはからだにちょっと怖れを抱いていたのか、からだの硬さはそのままに

       放っておいたが、おかげで首のうしろの筋肉はかなりカチコチになっていたし、

       顔やあごの筋肉もかなり硬くなっていると思う。

        わたしのからだのなかは、たぶん阪神大震災のときのように、

       道路に家や電信柱があちこちに倒れていて、トラックがぜんぜん通れないような

       状況になっているのかもしれない。

        道を通れるようにするには、からだをやわらかくしなければならないのである。




        わたしがこれまでに読んだボディワークの本である。


        ■ジョン・カバットジン『生命力がよみがえる瞑想健康法』(実務教育出版)

         同じ瞑想でも、西洋人の手にかかれば、ものすごくわかりやすい。
         痛みのコントロール法は、ほかにこんなのは見られないから、必読である。
         痛みを避けるのではなく、痛みを直視し、観察すること。

        ◆グラバア俊子『ボディー・ワークのすすめ』(創元社)

         この本を読んでボディーワークにたちまち興味をもった。

        ■ジョセフ・ヘラー&ウィリアム・ヘンキン『ボディワイズ』(春秋社)

         からだの叡智がくわしくのべられている。

        ◆フェルデンクライス『フェルデンクライス身体訓練法』(大和書房)

         自分のからだを「知る」レッスン書。

        ■竹内敏晴『「からだ」と「ことば」のレッスン』(講談社現代新書)

         かなり微妙なからだとことばの世界。

        ◆番場一雄『ヨーガの思想』(NHKブックス)

         ヨーガの基本的な体位法と思想面がよくわかる。


     




     F・J・マクギーガン『リラックスの科学』(講談社ブルーバックス)


                                              1997/7/10.



         この本は意外に名著であった。

         緊張とリラックスについてのべた本であるが、

        驚くべきことは、ある部分の緊張を完全にとりされば、

        その存在の感覚を失ってしまうということである。

         たとえば手の緊張を完全にリラックスさせれば、

        手があるということすら、気づかなくなるのである。


         ラム・ダスがLSD体験で手や足がなくなったという経験や、

        『般若心経』でいっている手も足もないという状態は、

        この完全なリラックスによってひき起こされたのだろうか。

         この本ではそのような可能性さえ、示唆しているのである。


         もうひとつ驚くべきことは、われわれはものを黙って考えるときですら、

        筋肉の緊張を使っているということである。

         なにかの映像や心象を思い浮かべるときでさえ、

        われわれは目の筋肉を動かしたり、緊張させたりしている。

         夢を見ているときの眼球運動も、そのことによるのだろう。


         本を読むときでさえ、唇や口、発話筋を緊張させている。

         われわれは本を読むときにはなんの筋肉の緊張も行れていないと思っている。

         だが、あたかも子どもが声を出して本を読むように、

        口の筋肉を緊張させているのである。

         つまり心の動きというのは、筋肉の緊張であるといえるのである。


         このことを逆に言えば、緊張を完全にリラックスさせれば、

        われわれはいかなる思考も心象も思い浮かばなくなるということである。

         ものを考えるときにわれわれは、目や口の筋肉を緊張させている。

         たとえば、なにかを思い出そうとするとき、ふいに目が上を

        向いているときがあるだろう。

         緊張させて、はじめて心的過程がはじまるといっていい。


         だからわれわれはこの緊張をすべてとりのぞけば、

        いっさいの心の動きを消滅させることができるのではないだろうか。

         もっといえば、恐怖や不安、苦痛すら感じないことも可能なのである。



         考えたり、なにかを思い浮かべたりするときですら、

        目や口の緊張を使っているというのは、わたしには意外であった。

         そしてそれは逆に言えば、筋肉の緊張が、思考や心象をつくりだしている、

        ともいえるのである。

         われわれの思考や心象は、筋肉のはたらきそのもの、

        といっていいかもしれない。


         とくにこの本の中にあるリラクセーションの技法で、

        目をつぶりながら、指が左右に動くのを想像するプログラムで、

        想像するときにすら、目を動かしていることに気づいたときには驚いた。

         目を動かさないことには、想像上の指を動かすことができないのだ。

         われわれがなにかを思い浮かべるさい、眼筋を動かさないことに、

        それを思い浮かべることができないのである。

         バカみたいな話だが、ためしてみたらよくわかる。


         われわれは想像上のものでも、実物のものであるかのように、

        目を動かしている。

         はたして、われわれにとって、想像上と実物の区別なんかあるのだろうか。

         眼筋や発話筋の緊張が、心象や思考、視覚をつくりだしているのである。

         心とはたんなる、筋肉の緊張なのだろうか。

         そしてその緊張は、特定の記憶や思考と結びついているのかもしれない。


         この本に書かれているリラクセーションの方法は、一日一時間ほど、

        ひとつの箇所だけを、腕からはじまって、足、胴体、眼、口、とリラックスさせてゆく。

         ある部分を緊張させてから、その緊張信号を感じとって、

        一時間ほどかけて力を抜いてゆくようである。

         とくに眼と発話領域のリラックスは重要で、行動の発令は、

        ほとんどこの部位からおこなわれていると思われるからだ。


         大事なのは、リラックスさせようとするのではなく、

        ――そうすればよけいに力んでしまうことになる――

        力を抜いてゆくことのようである。

         もうひとつ、緊張信号をはっきりと感じとることである。


         このリラクセーションのプログラムは、一日一箇所のみを

        おこなうようになっており、ひじょうに時間がかかるのが残念である。

         素直な感想としては、めんどうくさすぎて、一日一回のプログラムを

        全部まとめてやりたくなる。

         また自分で実行してみて、リラックスの方法が、

        このようなものでよいのか、わかりづらいところがある。

         むりに力を抜いていっても、いいのだろうか。



         この本で得られた大きなことは、心のなかの過程と、

        眼や口の緊張が、密接につながっているということである。

         そしてこの微妙な緊張がなければ、心的過程をなくすこともできるのである。

         心とは、筋肉の緊張なのだろうか。


         われわれはおそらく、なにかの感情やいやな気分があると、

        筋肉を緊張させることによって、それから防衛しようとしている。

         子どもが泣くのをこらえるとき、あごの緊張でこらえているのがわかるし、

        人前のスピーチなどであがるのは、やはりからだを緊張させているからだろう。

         スポーツのときでも緊張していれば、いつもの力を出せない。

         われわれは誤った方法を採用しているといえるのである。


         だからこのリラクセーションの方法はとても大事であると思う。

         とくにストレスの多いこの社会では、しらずしらずのうちに緊張を増し、

        その硬くなって、容易に緊張をとりのぞけなくなった部分が、

        病気や症状を生み出すとも考えられるのである。


         からだの緊張信号を感じとることが必要なのではないだろうか。





        悩みとは、けっきょくのところ、「絵空事」にしか過ぎない。



        心に手綱を張るには、わきあがる思考や感情を無視さえすればいい。

        思考や意志でそれに抗おうとすれば、その感覚を鋭敏にしてしまう。





   スワミ・シバナンダ『ヨーガとこころの科学 マインド その神秘さとコントロール法
                  東宣出版 1980円


                                              1997/11/16.


         これはひじょうによい本だった。

         こころとは何か、どのように働き、どのように欺くのか、

        どうすればコントロールすることができるのかといったことが、

        ひじょうに論理的に語られている。


         ふつう、われわれはなぜ心をコントロールしなければならないのか、

        とんとわからない。

         心のままに、心の思ったり通りに生きている。

         それでべつにかまわないし、べつに支障はないと思っている。


         だが、心のままに生きているとかならず苦しみをもたらすことになる。

         心は求めても永遠に得られないものを、永遠に追いつづける。

         また心が送り出す悲しみや怒り、悩みに振り回されることになる。


         われわれは欲望と感覚器官の奴隷になっているのである。

         だからわれわれは心の奴隷から、脱け出さなければならないのである。


         スワミ・シバナンダによると、心は動物園に似ているという。

         それぞれの動物が思い思いの方向に走るからだというのである。


         われわれの心を観察していればよくわかるが、

        心はつぎからつぎへと脈絡のない話や思い付きを思い浮かべてくる。

         あることを思い浮かべていたと思ったら、

        つぎの瞬間にはもう違うことを考えている。

         心はあてどもなくさまよっており、

        一日中こんな気まぐれにつき合わされるのは、たまったものではない。

         われわれは欲望や感覚器官にひきずり回される奴隷になっているのである。


         だから、思考をコントロールする必要があるのだ。

         思考とは虚構であり、想像力である。

         無視すればいい。

         捨て去ればいい。

         心が送り出す思考につき従わなければ――思考に焦点を合せなかったら、

        思考は勝手に去ってゆく。


         からだの感覚に似ている。

         からだの感覚というのはふだんまったく意識せず、

        存在していることすら忘れているが、

        いったん痛みやかゆみなどがあれば、その感覚に集中しつづける。

         思考とか心というのは、感覚がずっと焦点を合された場所なのである。

         焦点を合さなければ、その感覚が鋭敏になったり、増大することはない。


         思考という想像力は、われわれを悲しみや恐怖、怒り、

        悩みの苦しみの中に置き去りにする。

         快不快や好き嫌いという幻想の産物のために、

        われわれは悲しみや幻滅を味わう。

         だからこのような感覚の快楽に従ってはならないとシバナンダはいうのである。


         感覚器官や事物のなかに幸福はないという。

         それは幻想である。

         自己の中にこそ、幸福はあるという。


         わたしはいま感覚器官のコントロールということに興味をもっているが、

        からだの感覚とはいったい何なのか、どうすればコントロールできるのか、

        といったことがいまいちわからない。

         これをつかみたいと思っている。


         このシバナンダの本はたまたま書店で見つけたのだが、

        心のコントロール法を真っ正面からとりあつかった書物として、

        ひじょうに優れている。

         すこしインドの神秘的な概念などが出てきて、ちょっと違和感があるが、

        心についての観察はとても明晰明快なものである。

         ぜひ一読の価値はあると思う。


         ちなみにスワミ・シバナンダという人は1887年にインドで生まれ、

        医師から修行の道に入り、1930年に悟り、1963年に没したという。

         この本は1935年に出版されたそうである。








         あなたの感情をかわいがる必要はない。

         感情を大切に、その感情を尊重しようとすれば、

        あなたは悲しみや怒り、憂うつなどの感情の「奴隷」になってしまう。

         悪感情にふり回されるつづけることになる。


         大きな犬にひきずり回される小さな女の子の犬の散歩のように、

        感情の気まぐれな行きたい方向にひきずり回されることになる。


         主人はあくまでも「わたし」なのであって、感情ではない。


         自分を傷つける感情、自分をいやな気分にさせる感情は、

        相手にしなかったらいい。

         ちっともその感情の進む方向につき従う必要なんてないのである。

         「主人」はわたしなのだから。


         放っておけば、その感情はおとなしくなり、どこかに行ってしまう。

         感情はコントロールする必要なんてない。

         ただ犬のひもを手放せばいいだけなのである。

         そうすれば、少女は犬にふり回されることはない。


          心の奴隷から、心を従わせる主にならなければならない。




                                               1998/1/3.




         はげましのお便りをお待ちしておりま〜す。

         なかなかこれ以上の進展が見込まれませ〜ん。

         つぎにどんな本を読んだらいいとか、このような本が優れているとか、

        アドバイスやメッセージを送ってくれれば、助かります。


           メールお待ちしておりまーす。



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