モノ貧乏/時間貧乏――「暇であること」の復権を!


                                              1998/4/29.




    現代の恐ろしいまでの「時間貧乏」はいったいなんなのか。

    なぜこれほどまでにわれわれは時間を失ってしまったのだろうか。

    ミヒャエル・エンデの『モモ』の「時間泥棒」みたいにわれわれは哀れだ。

    時間はかつての空気や水のようにいくら使ってもタダの資源なのだろうか。

    どんなに汚しても、どんなに使い込んでもよいものだろうか。


    とんでもない、わたしは時間がほしくてたまらない!

    貴重な自由な時間がもっとほしい!

    会社や仕事に人生のほとんどの時間を奪われるなんてヒサンすぎる。

    人生の時間を奪われるなんてまるで殺人なみだ!

    時間を返しやがれ! バカも〜んが。


    カネもモノもない時代ならともかくいまはモノがありあまる時代だ。

    モノより時間のほうがはるかにほしい。

    時間の価値はもっと見直されてしかるべきだし、若者もそう思っていることだろう。

    時間をクズだと思っている人は「貧乏哲学」の十字架を背負った人たちだ。

    もうそんな十字架を未練たらたら振り回すのは、はた迷惑だ。

    「はた」を「楽」にする「はたらく」ではなく、はた(ら)「苦」だ。


    チャールズ・ハンディがいっていたように若者たちには報酬を金銭で与えるより、

   時間を報酬として与えたほうがもっと働くのではないかというとおりだ。

    若者たちは時間がほしい、自分の好きなことに費やせる自由な時間を求めている。

    またそういった無目的な時間は将来の文化や消費をきっと育てることだろう。

    満員電車につめこまれることがイヒヒ!な会社人間や団塊世代は、

   空き時間にもなにかの用事をつめこまないと気がすまないのかもしれないが、

   それはもう化石時代の考え方に変わっている。


    これからはモノカネがないことを貧乏とするモノサシではなく、

   時間がないことを貧乏だとするモノサシをもちいたほうが、

   よりわれわれの心情に合致するのではないだろうか。

    仕事や会社に時間を奪われ、追われている人間が貧乏で貧困で、

   サイテーの境遇なのだ。

    このような価値軸をもちいると、バリバリに仕事をこなすビジネスマンや経営者が、

   サイテーの貧困者層であり、逆に時間がたっぷりありあまった昼間から酒をのんで

   昼寝しているホームレスの人たちがサイコーの富裕者層になる。

    ドーだ、まいったか!

    このような価値観の逆転もできるのではないだろうか。

    そのようなパラダイム・シフトも現代では可能ではないのか。


    もうモノとかカネをいくらもっていても大して見向きもされない時代だ。

    これ見よがしにモノを見せびらかせても、たかが知れている。

    旧石器時代のブランド好きの女たちにはまだモテるのかもしれないが。

    アフリカの「部族」みたいな女子高生はまだそういった株が高い?


    時間をありあまるほどもつことがステータスとなる社会的合意はできないだろうか。

    おシャカさんなんかは「ホームレスのススメ」を説いており、

   じっさいにホームレスが最高の社会階層になるような社会をつくった。

    『ブッダのことば(スッタニパータ)』(岩波文庫)にはホントにそう書かれている。

    まあでも現代ではあまりにもかけ離れ過ぎているけど。


    時間の価値はもっと見直されてしかるべきだ。

    カネやモノをたくさんもつ前にまず時間のほうがもっと大事だ。

    時間がなければ、カネやモノをたくさんもっても仕方がない。

    それでも日本人はバカ丸出しでカネやモノをかき集めてきた。

    墓場で金銀財宝にそい寝しても意味がない。


    日本人は生活や将来にあまりにも恐れを抱き過ぎる。

    資源がないだの貧乏だの老後の生活ができないだの、

   政府のプロパガンダにあおられて、強迫観念的に生産と貯蓄にハゲんできた。

    これは本末転倒だ。

    生活より生産のほうが重要になる人間の生活など恐怖症(フォビア)なみだ。

    生活できないなら、ほかの生き物がすべてそうであるように「のたれ死んでやる!」

   くらいの尊厳と気概をもてないものだろうか。(あくまでも心の中だけの勇気で……)

    蓄積された恐怖感がわれわれを縛りつけて身動きできなくしてしまうのだ。


    まあそのおかげで現在のたいがいの家庭には電化製品とか車が行き渡った。

    でもこれからは時間の富裕さを目指すべきだ。

    時間はあまりにも貴重品になり、稀少品になった。

    時間は欠乏して、窒息しかかっている。

    こんな時ほど、時間の価値と渇望が高まるときはないだろう。


    時間観念を変えることはできないだろうか。

    時間は交換価値がないからか、ぜんぜんその重要性をかえりみられなかった。

    生産と労働に使われてのみ、その価値が認められていた。

    価値とか目的、意味のない時間の用い方は、怠慢や無益だとして退けられた。

    それはたしかに生産や労働という目的のある価値観にはムダなものだ。


    だが人間の人生や生活には、有用や有益などの「条件的価値観」だけでは測れない

   意味や価値があるものだ。

    このような価値観をもう一度掘り起こして再発見することが必要だ。

    「役にたつか」「利益や得につながるか」「有用か」といった価値判断ばかり

   用いて生きてきたから、われわれは片時も心休まるひまもないのだ。

    条件的価値を捨てることが必要だ。


    意味とか価値とか有益とかいったものがまったくないことに、

   重要性を求める価値観をいまいちどルネッサンスするべきだ。

    これまでの思考の呪縛からとき放たれる必要がある。

    さもないとわれわれは永久に不幸なままだろう。

    ユダヤ差別を生んだ優生学というのはそういう思考枠組みのとうぜんの帰結なのである。


    目的や有益さがない価値観を再評価するにはどうしたらいいのか。

    われわれ自身がその価値観を奉じ、認め合ったらいいのではないだろうか。

    ほめたり、評価したりして声をあげることも大事だ。

    時間たっぷりのホームレスの楽しさも(限定つきで)評価したらいい。


    むかしのプロパガンダ屋なら、反対の価値観をもっと明確にするために、

   その価値観にランクづけられた歴史や物語りを宣伝合唱したものだ。

    経済合理性を追究しなかった中世ヨーロッパは「暗黒の時代」だとか言い聞かせて、

   新興商人や資本家たちは自分たちの活動に有利な社会をつくった。

    また社会主義者たちは、資本家は労働者階層を搾取し、食い物にする大悪漢であり、

   歴史は王や貴族、資本家などを民衆や市民がうち倒してゆく必然性をもつものだと教えた。

    このような階層の歴史観は、現在では国家や官僚が国民を守ると善人ヅラしながら、

   国民を食い物にするためのプロパガンダにひじょうに効果的に利用されている。

    明治以降の近代産業社会の推進者たちは、江戸時代は差別と階層、飢餓、

   農民の貧困がハゲシィ暗黒の社会だったと思い込ませて、その推進力をあおった。

    近代科学者たちはむかしの人は太陽が地球のまわりを回っていると思い込んでいた、

   と笑い者にしてその社会的地位を高めた。(民衆の専門家依頼心はまるで同じだが)

    いろいろ悪い例と物語をはっきりとさせ、新しい時代の価値観と目的を、

   凹凸がぴったりと当てはまるように民衆に植えつけていったわけである。

    とくにヒドイ歴史を言い聞かせることは、恐怖を植えつけ、嫌悪の対象を明確にし、

   はっきりと教訓と方向性を教えるわけだから、ひじょうによい訓育方法だっただろう。


    もし目的を追求しない社会をつくろうと思えば、

   金儲けやエゴイズム、モラル崩壊、管理統制社会、超ビジー社会など、

   枚挙にいとまがないほど、「チョ〜極悪歴史絵巻き」がつくられることだろう。

    もしその宣伝広告が成功すれば、「近代の人間はなんてキチガイじみていたんだろう、

   かわいい息子よ、そんな人間に育ってはいけませんよ」と教え諭されることだろう。

    近代ビジネス社会はそこまで醜悪さをさらす社会だ。


    ちなみに「文明の衰退」もひとつのプロパガンダにほかならなく、

   物質消費社会にいちばんの価値をおいた基準から創作されたものだ。

    文明は衰退したのではなく、みんな疲れて文明を見捨てて投げ出したのだ。

    もちろんこれもひとつの見方にしかほかならないが、

   これからの時代には文明の「イチ抜けた〜」の歴史観のほうが合致するだろう。


    時間観念を石ころからダイヤモンドに磨かせるにはどうしたらいいいのだろうか。

    時間観念をゴミなみにおとしめている社会観念とはどんなものだろうか。

    やっぱり今日よりは明日のほうがよくなっているという「進歩史観」だろうか。

    時間はよりよい明日のためにもっと短縮し、圧縮するべきもの――捨てられるべきもの、

   という観念にこの進歩史観は導いてしまうのだろうか。


    進歩史観の土台には、ダーウィン以降の進化論がある。

    生物の進化論は厳然とした世界観をうちたて、われわれを逃れられないようにする。

    みごとにその世界観に呪縛してしまうわけだ。

    生物は進化してこそ生き残るという世界観は、人間の世界にも適用される。

    進化論は人間社会のイデオロギーにほかならなく、

   このために現代の超ビジネス社会は、その下支えと道徳的容認を得ている。

    ダーウィン理論が、経営者や資本家、われわれにがむしゃらの経済信仰をもたせていると

   するのなら、われわれはこの進化論を捨て去るべきではないだろうか。

    進化論なんてものはたんなるプロパガンダにしか過ぎないのではないか。

    のんびり、こころ豊かに生きたいと思うのなら、この世界観は点検すべきだ。

    このことに関しては今村仁司『作ると考える』講談社現代新書がくわしい。


    近代ビジネス社会では「多忙であること」に価値がおかれ、

   「暇であること」は断頭台に追いやられる。

    中高年の人たちは昼間からぶらぶらしていると近所の目が気になって、

   いたたまれなくなるそうだ。

    こんな意識をもち、そのような社会観をもっている人たちこそが、

   この多忙の価値観を押しつけ合っているのだ。

    専業主婦たちがこの「多忙強迫症」を男たちに押し売りしているのだろうか。

    自分たちの生活基盤をつき崩す昼ブラ男はたしかに脅威だろう。

    でもこのまま自分たちのために男たちを食い物にしてうれしいものなんだろうか。

    暇であることの社会的評価をみんなで高めたいと思わないのだろうか。

    まあもちろん女性たちにも社会進出をこばむ壁があるのはたしかだけれど。


    男たちにも多忙に価値をおく勤勉精神はなぜ抜け切らないのだろうか。

    こんな自分の人生を殺害するような価値観をよくもつものだとわたしは感嘆するが、

   自分たちをミジメだとかアワレだとかあまり思わないのだろうか。

    多忙という自己犠牲の宣伝と販売が会社人間の業務内容と評価方式だったから、

   しかたなく自己犠牲の営業成績をあげてきたのだろうか。

    それともほんとにマゾヒズムがかれらの快感になってしまったのかワカラナイ。


    リストラや失業が盛んになり、かれらはこれからも多忙さに価値をおくだろうか。

    失業期間中にでももう少し暇のシアワセ感を味わってもらいたいものだ。

    中高年の人たちが変わってくれないとこのままキチガイ多忙社会は同じままだ。

    「暇であること」の価値観とよさをみんなで認め合おうではないか。


    「多忙であること」のみっともなさやアワレさをあぶり出すことが必要だ。

    この価値観を自慢にする人たちの追撃を開始しよう。

    ロボットでもいいし、機械でもいいし、イヌでも奴隷でもパブロフの犬でもなんでもいいから、

   そのあわれさや異常さを露見してやれ。

    多忙さに社会的評価や称賛なんか与えてはならない。

    そんな価値観を称賛するとわれわれはもっと忙しく立ち回らなければならなくなる。

    メイワクなんだよなー。

    あちこちを駆け回る多忙人はバカだ、あわれなぶただ。

    みんなで軽蔑してやれ! 侮蔑してやれ!


    かわりにホームレスの豊かな時間とのんびりした生活をほめたたえようではないか。

    もちろん生活困窮という点ではめざすべきではないが、

   時間のリッチマンとして、われわれはこの点を見習いたいと思う。

    社会はそのような意識や評価をもったほうがいい。


    いまはそういう時間感覚のパラダイム・チェンジが望まれるのではないだろうか。

    「暇であること!」――これまでの会社人間が見つけられなかった幸福は

   ここにあるのではないだろうか。





      |BACK99-97|TOP|断想集|書評集|プロフィール|リンク|

    

inserted by FC2 system