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     祝! ホームページ開設記念エッセー



                                          1997/12/6/SAT.





    ようやくこのホームページがインターネット上に無事公開されることになった。

    ディレクトリ・サービスの「NTTディレクトリ」と「ヤフー」にも登録をお願いした。

    これではじめて日の目を見ることになるわけだ。


    97年の3月くらいから作成しはじめて、だいたい約半年以上かかったことになる。

    ここでその完成するまでの紆余曲折と、

    ホームページにたいして抱いている考えをのべてゆきたいと思う。



    ホームページをつくろうと思ったのは、やはり1996年あたりの爆発的な、

   インターネット・ブームに触発されてからだった。

    いまはだいぶインターネットに関する情報は鎮静されたみたいだが、

   そのころのテレビ・メディアではインターネットがかなりカッコよく喧伝されていた。


    まずはパソコンを購入しなければと思い、NECのワープロを机の下にしまい、

   パソコン雑誌を買ったり、大阪の日本橋でカタログをたくさん集めた。

    だいたい日本版ウィンドウズ95ブームのあとあたりの12月くらいだったと思う。

    MACはカッコよかったがモデムがあまり充実していなかったし、ウィンドウズ95ではないし、

   NECは98だし、DOS/Vの富士通はメイン・メニューの画面があまり気に入らなかったし、

   松下は消えそうだったし、IBMは高い上に品薄状態だった。

    インターネット目的だから当時モデムが速く、20万以下で買える、

   東芝のブレッツアという機種を買った。


    だけれども、インターネットをやるにはプロバイダー代と電話代という、

   二重にかかるお金に音を上げて、とてもじゃないけど払えないと、

   一年くらいはほとんどエッセーを書くためのワープロ機として使用していた。


    わたしはそれまでと同じようにもくもくと読書とエッセーの日々に明け暮れた。

    96年のだいたいの関心事はトランス・パーソナル心理学で、

   ケン・ウィルバーやクリシュナムルティ、ラジニーシなどを読んでいた。

    そしてインターネット用に買ったパソコンはワープロ使用のみになった。


    今年の3月、ダイヤルQ2の回線を使った入会費なしのインターQとZZZインターネットという、

   プロバイダーを知って、これならイケると、とりあえずインターネットを見てまわろうと、

   このプロバイダーにつないだ。

    インターネットにつながったときはとてもうれしかったが、静かなメディアだなと思った。

    はじめのころはヤフーを使って、トランス・パーソナル心理学系の

   ホームページを見てまわった。


     ちょっと見てまわって、だいたいこんな感じだなとわかってすぐに、

    雑誌のCD−ROMについていた体験版の「ホームページ・ビルダー2.0」を使って、

    さっそくホームページをつくりはじめた。


     はじめは「思考は超えられるか」というタイトルで、当時関心の強かった

    トランス・パーソナル心理学についてのエッセーと書評のみの予定だった。

     まずはトップ・ページを試験的につくり、

    そしてトランスパーソナル心理学のブック・レヴューからとりかかった。

     そのあとに「わたしをブチのめした十冊の本」、

    「経済や社会はこれからどうなってゆくのか」、

    「現代人はなぜみんなと同じ生き方しかできないのか」

     といったブック・レヴューを作っていった。

     現在のブック・レヴューのおおよそは、今年の3月から5月くらいに書かれたわけだ。


     最初は雑誌「ダ・ヴィンチ」のように本の写真をとりいれてカッコよくしたかったのだが、

    そんな作業をしてれば時間と手間がかかりすぎて、書きたいこと、言いたいことが、

    なかなかとり組めなくなってしまう。

     だから写真や絵はあったほうが見栄えはよくなると思うのだが、

    もう二の次にまわして、先に言いたいことを充実させることにした。

     いつかは少し絵などをとりこもうと思っているが、

    あまりこると今度はネット上でページの開くのがかなり遅くなるので、

    そんなにとりいれはしないだろうが、やはり少しは絵や写真などもとり入れたいと思う。

     せめてトップページのタイトル・ロゴくらいは立体のデザインにしたいと思っているのだが、

    適当なソフトがみつからず、また、時間的余裕がない。

     「ホームページ・ビルダー」の「3.0ヴァージョン」にはロゴ・デザインがついているようだが、

    それだけのために金を使うのもかんがえものだ。


     ブック・レヴューの項目別のアイデアは連鎖的にわきあがっていった。

     最初はトランスパーソナルだけだったが、雑誌の「ダ・ヴィンチ」の特集ににあるように、

    お気に入りの10冊を選べばいいだろうとか、むかし関心のあった社会論や経済の

    ブック・レヴューの項目もつくればいいと、アイデアがふくらんでいった。

     最近は関心の薄くなった共同幻想論や大衆社会論などの世界を

    もう一度ひもとくことができたので、なつかしいというか、

    むかしはこんなことに関心があったのかと、客観的に見ていた。


     このブック・レヴューを書くという作業はとてもしんどかったが、楽しくもあり、

    めったに再読をしないわたしは再読の機会を与えられることになってよかったともいえる。

     書評をおこなうのか、紹介をおこなうのか、どっちつかずで、

    そこらへんがあいまいなままで書きつづけたのがすこしだけ心残りだ。


     ひじょうに苦しかった。

     わたしの場合、本を読んでしまったら、あまり頭がよくないので、

    その内容はどんなものだったか、なにをメインに言いたかったのか、

    覚えてなかったりすることが多い。

     こういうことのために読書あとに概括をレシピのようにまとめるようなことを

    すればいいのだが、ちょっとめんどくさすぎるので、それをやらずに内容を忘れてしまう。

     だからふたたび書棚から本をとり出して、ぱらぱらとめくってみると、

    いったいどんなことが書かれていたのか、さっぱり覚えてないことがある。

     ほんとうに読んだのかと疑問に思うときもある。

     わたしはたいがいの本は、つまらなくても最後まで読むほうなので、

    読んでいるはずだし、読んだことだけは覚えているのだが、

    やっぱり内容がなかなか思い出せない。

     再読するには時間がかかりすぎる。

     ということで、本の内容は忘れてしまう。


     だからこの書評は本の内容の骨格を思い出すということで、

    ひじょうに難しい作業だった。

     ぱらぱらと本をめくってみて、なにを書くか思いつく場合もあったし、

    何度めくっても書く内容が思いつかないときもあった。


     この書評の作業が慣れてくると、次の書評の予定の本を2、3冊まとめてとりだして、

    ふとんの前につみあげて、(わたしはふとんのなかで読書する!)、

    なにを書くべきか頭に思い浮かべて、その作業を数冊分やり終えてから、

    ブック・レヴューに書きつけるということをおこなった。


     読み終えてからかなり時間のたった本はやはり思い出すのがむつかしかった。

     とくに共同幻想論、大衆社会論、記号論というのは興味が薄れてかなりたっているので、

    その世界の内容からかなり疎遠になっており、本の字面すらなじみのないものに見えた。


     今年はトランスパーソナル心理学に興味があったので、

    ビジネス書はちょっとブランクがあったが、読み直してみるとおもしろくて、

    かなりのページをつい読み進めていたりした。

     ビジネス書はまだまだわたしの強い関心をひきつけているようだ。


     6月くらいから失業していたこともあって、また経済にたいして関心がもりあがってきて、

    経済にたいするエッセーを書き連ねてきたのだが、

    ちょうど最近(現在12月)、山一証券や北海道拓殖銀行、三洋証券の破綻などがあいつぎ、

    オヤジ週刊誌までが、「恐慌ネタ」と「倒産ネタ」で稼ぐようになってきた。

     いぜんは「週刊ポスト」とか「週刊文春」なんかはあまり恐慌ネタがなかったのだが、

    さいきんは不安をあおって稼ぐ「不安産業」になっているようだ。

     わたしも以前からこの恐慌ネタには興味があったので、その特集があれば買うが、

    週刊誌はものごとをこういう切り方をするのかと感心したりするのだが、

    いまはかなり一般の人たちにまで恐慌不安が広まっているのだろう。

     ニッポン経済はどうやらほんとうに沈没してしまうのだろうか。


     エッセー「思考は超えられるか」は予定では、

    このホームページのメイン・メニューにするつもりだった。

     だいたいはなんの資料もなく、自分の頭で考えながら書いていった。

     自分のものとなっている言葉で書いたつもりだ。

     これはだいたい6月くらいに書いて、現在も続行中のつもりなのだが、

    からだの感覚とは何なのか、不随意の筋肉をコントロールするといったテーマが

    これ以上進展せず、そのような本もなかなか見つからず、自分で探求するのもむつかしく、

    現在のところ、興味は立ち枯れになっている。

     またいつか興味がもどってくる可能性はある。



     エッセー群、「この経済社会はどうなってゆくのか」は、

    これまでわたしが20年間ほど社会や企業にたいする言いたかったことを、

    ブチまけるはじめての機会になったから、とても心躍った。


     インターネットでは不特定多数や公共の場に

    自分のメッセージ、言いたいことをブチまけることができる。

     わたしはこのことがインターネットの一番の魅力だと考えるが、

    なぜならこれまで個人が、社会や企業に対して、

    自分の言いたいことを公共に知らせるということが、まずできなかったからだ。


     社会や企業に不満や批判をもっていても、なんの手段も方法も、個人はもたない。

     友達や知人、会社の同僚のようなまわりの人たちにそのことを発しても、

    かれらも同じように無力でなんのメッセージ・メディアももたない。

     だから社会に対する批判はだれかに言ったところで、ただムダ骨になるだけで、

    赤提灯のサラリーマンのようにただ愚痴をかこつだけに堕してしまう。


     そういった意味で公共の場に自分のメッセージを

    発するメディアができあがったということは、この企業社会、

    奴隷のようなサラリーマン社会に不満をもっていたわたしにとっては、

    「福音」のようなものだった。

     またテレビや雑誌のようなマス・メディアの操り人形に堕している現代の日本人に、

    なんとかマス・メディアにリモート・コントロールされないための方法を探るということも、

    このインターネットの可能性だと思う。

     会社とマス・メディアにリモート・コントロールされないために、

    個人も、公共の場に声を発するメディアを手にもつべきなのだ。


     だからこのエッセー「この経済社会はどうなってゆくのか」は、

    失業期間中という自由な時間もあって、いくつもアイデアがわきあがってきて、

    適当に資料になりそうな本を読んで、書きつづけた。


     もっと若いときにこのような個人の意見やメッセージを伝えるメディアがあれば、

    よかったと思うのだが、(学生のときのようなサラリーマン社会にたいする反発は、

    すこしばかり薄れていっている)、それはもう過去の話だ。


     ただこのわたしのメッセージがちゃんと多くの人が見てくれないことには――

    あるいは関心や賛同を抱いてくれないことには、なんの意味もない。

     いったいどれくらいの人がこのメッセージを読んでくれて、

    共感を示してくれるのだろうか。

     そしてこのサラリーマン社会、企業至上社会を変えてゆこうという社会意識を

    もってくれるようになるのだろうか。


     まずはこの無数にあるホームページから、このページを見つけるのは、

    そうかんたんではない。

     こういうことにはじめから興味があり、おおいにこの知識をあさろうと思っている人は、

    すぐにこのホームページを見つけてくれることだろうが、

    興味のない人はまずこのようなホームページがあることも気づかないだろう。


     インターネットはテレビとは違って、自分の興味のあることないこと、ともに、

    なんでもかんでも送られてくるというわけではない。

     だいたい自分の興味のあるジャンルだけに閉じこもってしまうという性質がある。

     わたしのばあいなら、ディレクトリ・サービスの社会学や経済、哲学、

    心理学のカテゴリーばかり見てまわるが、ちょっとばかり興味のあるエンターテイメントや

    個人の日記や趣味のページにはなかなかタッチすることがない。

     インターネット上におこっているニュースやランキングみたいなことが、

    あまり耳に入ってこないたこつぼ的状況にある。

     趣味の世界だけに閉じこもってしまう可能性があるわけだ。


     これではわたしのメッセージはあまり公共の場にふれるということはない。

     多くの人の目にふれるということがないというわけだ。

     でもわたしの言っていることややっていることはマイナーなことかもしれず、

    それはそれでしかたがないのかもしれない。

     いまのところ、興味のある人共感してくれる人だけが見てくれれば、

    それだけでも、なんの公共へのメディアをもたなかったわたしにとって、

    とてもすばらしいことではないかと思う。


     さてわたしのエッセーの作成ペースとしてはだいたい一ヶ月に

    一作か二作できている。

     これまでプライベートな社会や心理にたいするエッセーも、

    だいたいそんなペースで、でも興味のあるテーマがあるときは多く、

    もちろんないときには少ないというペースだった。


     ホームページに完成という区切りはないと思うが、

    このホームページがネット上にだいたい開設できるようになったのは、夏頃だった。

     それまで使っていたダイヤルQ2のプロバイダでは、

    無料のホームページ容量が少なすぎたので、

    もっと大きな容量のプロバイダーを探したり、

    ビンボーなわたしは入会金を払うのをためらって、なかなかふんぎりがつかなかった。

     それから仕事も見つかって、年間固定金15000円という大阪のガリバーインターネットという

    プロバイダーを見つけて、それで開設ということにあいなったわけだ。

     サーバーへの送信がうまくいかなかったり、

    ホームページ・ビルダーのリンクみるだ〜という送信ソフトが開かなかったり、

    (これまでホームページ・ビルダーも何度も開かなくなり、そのたびにインストールしている)

    ファイル名を日本語で入れていたりといろいろトラブルが続出したが、

    なんとかこうしてあなたのお目にかかれたわけだ。


     ホームページがネット上に開設されたといっても、

    ほかの人がどのようにこのページを見て、どのように思っているのか、

    まるでわからないわけだから、反響がまるでない。

     だれかが見てくれているということがわかるのは、

    アクセス・カウンタと電子メールだけである。

     反響がなければ、ネット上のホームページというのは、

    電線にひっかかった吹きさらしのたこのようなものだ。

     たしかにメールでもこなければ、たこはぶら下がっている意味がない。


     ほかのホームページを見ていると、よく「死んでいる」ページを見つける。

     更新がいつからかストップしてしまっていて、とてもさみしいものだ。

     はじめて見つけたときは内容を知るのに時間が費やされるが、

    二度三度寄ってみるとだんだんとこのページは死んでいるんだなとわかってくる。

     いぜんみたいにマス・メディアでインターネットが騒がれなくなったというのも、

    おおいに影響しているのだと思うが、死にページはほんとうになんだかさみしい。

     うんともすんともいわないダッチワイフの頭をたたきたい気分だ。


     なんとかぜひ続行させてもらいたいものだし、

    このホームページもそうならないよう、がんばりたいと思う。

     だいたいプライベートなエッセーはひとりでこつこつと10年以上は書いているので、

    そうかんたんにはこのエッセーの習慣はやめないと思うので、安心してください。

     ただしプロバイダ料金を支払えなくなったときには別だが……。


     さてわたしはなんのためにホームページを開設するかというと、

    先ほど述べたように企業至上社会にモノ申すというのもあるが、

    わたしがこれまで考えてきた社会や経済、心に関する考えをほかの人に知ってもらいたい、

    ほかの人がどう思うのだろうかと知りたいからではないかと思う。


     わたしはひとりでこつこつとこの10年ほど社会や経済、心に関して、

    疑問に思ったり、知りたいと思ったことについて、ずっとエッセーを書き連ねてきた。

     疑問や探究したくなったときには、いくらかの本を読みとき、エッセー上で考えてきた。

     べつにだれかに聞いてほしいとか、知ってほしいということではなく、

    ただ自分の疑問や関心のために、この問題解決をおこなってきたのである。

     友人や知人にたいしてはほとんどこの哲学や社会にかんする話題は、

    口にしなかったし、だれかに言いたかったというわけではない。

     ただ自分のためにおこなってきたわけだ。

     インターネットでその考えを開示するというのは、やはりいくらかはわたしの考えを

    知ってもらいたいし、ほかの人の評価や意見はどんなものか気にかかるし、

    だれかに読まれることを想定してのエッセーは緊張感と励みがあると思うからだ。

     またわたしは書くことが好きだし、ひととしゃべることより数段好きだし、

    書き物に凝るということは子どものころからの(むかしはマンガだったが)傾向だったから、

    こういう書き物はわたしのヨロコビでもあり、人に読んでもらえるのはもっとうれしい。


     あるいはネット上に自分の価値感をつくりたい、

    自分が仕事以外に社会になんらかの価値・足場をもっているんだという、

    思いをもちたいからではないかと考える。

     わたしは会社や仕事に自分のなんらかの価値・アイデンティティをもちたいとは、

    これっぽっちも思っていないし、むしろ軽蔑しているくらいだから、

    よけいにこういう趣味の世界に価値のあるものを見出そうとする衝動が強いのだろう。


     人間はこの世の中になにかの足跡や記録を残しておこうとする。

     それは墓であったり、文学であったり、音楽であったり、建築であったり、

    歴史に残る名であったり、また写真であったりする。

     そういう衝動はあまり肯定するべきではないと心の観点からいって思うのだが、

    人間の認めないわけにはいかない根本的な衝動である。

     多くの人が働く会社やサラリーマンの仕事というのは、

    たいてい、なんの記録も足跡も残せない。

     だから、むなしさが深海の雪のようにつもってゆくのだろう。

     このホームページはそのようななにか世の中に、

    価値のあるものを残しておこうという一端かもしれない。


     このホームページのタイトルを「哲学エッセー集」としたのは、

    このエッセーは厳密な意味では「哲学」ではないかもしれないが、

    (デカルトやカント、ヘーゲル、サルトルなどの哲学を語っていないから)、

    けれども経済や社会、心理などいろいろ語るつもりなので、

    ジャンルを限定せずに最大公約的な意味で「哲学」と名づけることにしました。

     (でも「哲学者」を語ることより、現実を考えることが哲学なのではないか?)

     「考えるため」というのは、疑問や謎をとくための機会としてエッセーを利用したいという

    考えからなのだが、つまり「考えながらのエッセー集」というわけだが、

    そうすると稚拙になったり支離滅裂でワケのわからない内容になりそうなので、

    ある程度は考えがまとまった段階で書き始めることを心がけたいと思う。


     ホームページ開設の経緯はこのへんで終わりにしたいと思う。

     これからもこのホームページにちょくちょく寄ってくれて、

    かわいがってくれることを望みます。

     わたしもこのホームページの充実をよりいっそう心がけたいと思っています。

     また電子メールも気軽に送ってください。


     これからの更新予定としては、リンク集と、

    みなさんからいただいたメールを発表する場を設けたいと考えています。

     電子メールの内容というのはホームページの水面下にもぐっていて、

    どのようなものが送られているのかわからないところがあるし、

    このホームページを読者の方々がどのように思っているのかもわからないので、

    公表するのも悪くないと思っています。(注/これは企画倒れになりました。)


     これからもこのホームページ、

    「精神・社会・経済――考えるための哲学エッセー集」を

    よろしくお願いします。




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