Thinking Essays



    のんびりした、ゆたかな社会の実現


                                             1997/12/13.





      江戸時代の町人は一日に、たったの4時間くらいしか働かなかったという。

      宵越しのカネはもてねえ、とタンカを切るくらいだから、

     奥さんにコメが切れたと注意されるまで、働きに出なかった。

      それほどまでに江戸の町人は、のんびり、あくせくせずに生きていた。


      わずか100年ちょっと前までは、当時のヨーロッパ人を驚かせたほど、

     不動の牛のように、日本人はスローリー・テンポで生きていたのだ。


      それが現代の経済大国になったはずの日本社会は、

     朝から夜中まで働きつづけ、一年中、会社に釘づけられ、

     果てはマイホーム・ローンの返済や一流企業や社会的ステータスを

     得るための競争のために一生を棒にふるといっても過言ではない。


      われわれはいつからこんな貧困な、悲惨な生き方しかできなくなったのだろうか。

      なぜ日本人はこんなふうに強迫的な蓄積志向の生き方しかできなくなったのだろうか。


      ヨーロッパ的な、近代的な文明というのは、

     豊かな社会を実現すると思われてきたのに、

     われわれの理想とまったく逆の、超貧困社会になってしまった。

      近代文明というのは、鉄道やら車やらさまざまな外観的魅力をもった文明であるが、

     その機能を維持するためには、個人の全生命を賭してまで――、

     つまり個人の生涯を「人柱」にしないと成り立たない経済システムなのだ。


      このショッピング・センター社会というのは、理想とは裏腹に、

     すべての成員を超過密労働に奉仕させないと成り立たないのだ。

      それほどまでに過酷な前提をうけいれたうえで、

     われわれはこのショッピング・センター社会を

     維持しつづけてゆくほうがいいのだろうか。

      それほどまでに、マイホームやら鉄道やら車、電化製品といったものは、

     享受するに値するものなんだろうか。

      自分の人生を捨ててまで、そんなものを得ても、

     はたしてわれわれは幸福なのか。

      天国ではじめてマイホーム・ローンを払いきったとしても、

     本人はおシャカになっているのだから、なんにもならないではないか。


      未開民族は一日に4、5時間しか働かない。

      それも狩猟生活なら、なおさらのんびりした生活を送ることになる。

      たいがいの毎日は昼寝したり、話し合ったり、踊ったりして、

     毎日を暮らしている。

      太陽と雲とともにゆったりと生き、季節に合せて生活は流れ、

     星や月とともにやすらぎの一日を終える。

      人生は青い、大きな空とともに自由で、ゆったりと流れる。


      だが、われわれは未開民族や後進国を貧しい、

     悲惨な社会だ思いこんでいる。

      それはおそらく、車やら電化製品をもっているか/もっていないかという

     尺度の中での、手前勝手な判断でしかない。

      戦後の日本が貧しい貧しいといってきた基準というのは、

     じつはモノをとなりの家並みにもっているか、社会的ステータスを保っているか、

     という一点にしか尽きないのである。


      われわれは爪の先からどっぷりと、物質文明の価値観に染まりきっている。

      その価値観の前では、先進国以外みんな貧しいのである。

      ヨーロッパ人はそういう基準を頭から信じて、アフリカ人やらアジア人たちを

     動物以下の奴隷として、こき使う正当性を自分のものにした。

      物質文明の価値観のなかでは、モノをもたない生活者は、

     軽蔑すべき、ケダモノ以下の存在として思い込まれてしまうのである。


      だが、この物質的に富んでいる/貧しいだけの価値観で、

     われわれの生き方、幸福、満足度などを測れるだろうか。

      現在われわれは物質の富に囲まれた生活を送っているわけだから、

     物質的富がかならずしも幸福をもたらさないことを知っているはずだ。

      ブランド品をいくらもったところで、車がどんなに優れたものであったとしても、

     やはりいつかは飽きてしまうものだし、つまらなくなってしまう。

      人生を物質の多寡だけで測れるわけなどないのだ。


      あるいは日本人はステータスを幸福の指標と思いこんでしまったから、

     こんなにも貧困な人生しか送れなくなってしまったのかもしれない。

      一流企業の会社員というステータス、あるいは一流大学出身者というステータス、

     マイホームのステータス、高級車のユーザー、ブランド品というステータス、

     そういったことばかりを追い求めたために、ほんらいの人生や生活の質が、

     ものすごく削りとられてしまったのだ。

      われわれはステータスに夢中で、自分の人生や生涯が、

     どんなに貧困化してしまっているかということに気づかない。


      ステータスのために幼少期から受験戦争に自分の人生の豊かさを失い、

     マイホームやら社会的ポスト獲得のための競争に、

     自分の人生と時間を置き去りにしてしまう。

      そのような目標のために人生をものすごく多忙に走りすぎてしまうのである。

      目標があれば、ジェット機のように走り過ぎるのもそれはそれでいいだろう。


      だがそのようなステータスをなんともおもわない、

     あるいは嫌っている世代がどんどん増えつつある。

      流行にしろ、新しい世代にしろ、たいがいかれらは、

     前の世代の流行や生き方に反発しながら、社会の前面に登場してくる。

      「あんたらのやり方はもうオレたちには通用しないんだ」という、

     腹にイチモツをもちながら、権力をもつ前の世代の仲間入りをしてゆく。

      ファッションや商品の流行は社会的強制が比較的ゆるいから、

     どんどんおかしな、キミョーな格好を若者たちはしてゆくが、

     生き方や働き方はかなり融通が利かないらしく、前の世代に従うしかない。


      古い世代のステータスは捨てられてゆく。

      そして新しい世代のステータスが生まれ育ってゆく。


      長い目でみれば、そのようになると思うのだが、

     この社会は古い世代のステータスをなかなか変えられないし、終えられない。

      なぜこんなにわたしの思っている旧世代へのステータスの反発が、

     ほかの社会の人たちにも共有されていないのか、

     わたしにはよくわからないが、なかなかこのステータスは崩壊しない。


      わたしにとってはこれまでの、ステータス獲得の気違いじみた

     「労働強迫症」は、とうてい理解することができないのだ。

      なぜもっと、のんびりした、豊かな社会を、社会全体で構築しようと思わないのか、

     わたしにはとうてい理解できない。

      なぜこんな朝から晩まで会社に拘束される人生や社会を

     継続しつづけようとするのか、わたしにはとんと理解できない。

      やはりこれまでの金持ちブランドのステータスを捨てられないから、

     ガチガチのサラリーマン生活を継続するしかないのだろうか。

      あるいはステータス生活を送れないことは、

     人生の死より恐ろしいことだ、そんなことになれば生きてゆけない、

     と思い込んでいるのだろうか。


      われわれはこのステータスを失ってしまえば、

     食ってゆけないと思いこんではいないだろうか。

      べつに豪華なマイホームも高級車もゴルフもカラオケもなくても、

     人間はなんとしてでも食ってゆけるのだが、

     金持ちステータス思考にイカレてしまった人は、

     そのような貧しい、ヒサンな生活がものすごく恐ろしいようだ。

      だけどキリスト教でいわれていることは、

     「恐れていたことがわが身にふりかかる」のだ。


      自分のステータスというアイデンティティに固執しつづけたせいで、

     ことのほかこのアイデンティティの喪失が必要以上に恐ろしくなったのだ。


      いま、企業社会のリストラや倒産などで、

     そのようなステータスに目がくらんでイカレてしまった、

     中高年たちに受難が襲いはじめている。

      景気がのびない不況期ではまず年功賃金の高い中高年が、

     リストラのターゲットにされる。

      カネがないときには高いものは買わない、それは市場のとうぜんの原理だ。


      アメリカでは10年前にこのような中高年のリストラが産業界を襲い、

     中産階級の没落や貧富の格差が二極化しているという話を聞いたことがある。

      ふつうの格好をしている人がホームレスになったり、

     アルバイトのジョブにしかありつけないといったありさまだ。

      日本にもそのような波が押し寄せてきたが、

     げんざいの転職市場はだいたい35歳くらいまでだ。

      かれらはステータスをもとめつづけるか、

     それとも安い給料に甘んじて、新しい生き方を模索しはじめるか。


      わたしはこのような人たちにこれまでのステータスを捨てるような、

     新しい生き方を社会に提示してほしいと思う。

      ヒサンで、サイアクの人生隘路に落ち込んでしまったと捉えるのではなく、

     ゆとりとゆるやかさのなかで生きているんだという姿勢を、

     自信をもって提示してくれるのなら、このステータスにイカレた社会も目を醒ますだろう。

      そしてわれわれ後続世代のために、ステータスや会社に拘束されない、

     生き方と社会を押し開いてゆくような先導者になってほしいと思う。

      すくなくとも40歳以上の転職市場は開かれてゆくだろう。


      山一証券の倒産で、その社員の奥さんがテレビのインタービューに答えていた。

      「ブランド品も海外旅行も必要ないんだ。

      ただあたり前の生活があるだけでしあわせなんだ」と――。


      日本人はほんとうにこんなにイタイ目にあってはじめて、

     われわれはなんてイカレた、気違いじみた生活を送ってきたのだろうと、

     気づくことになるのだろう。

      山一證券の倒産は戦後の日本社会の崩壊を象徴する事件になったが、

     おおくの日本人はまだまだほんとうに「ショック療法」となるような経験をしていない。

      目を醒ますまでには、まだまだもっとイタイ目に遭わなければ、

     気がつかないようである。

      日本人にはもっともっとイタ〜イお灸が必要なようである。

      わたし自身もブランドものにイカレていた時期もあったが、

     ちょっとした信頼喪失というイタ〜イ目にあって、回心した。


      そのときにはステータスと一生を労働と会社で終わるような生き方の、

     猛反省をおこなわなければならない。

      日本人ははじめてこのときに、自分のこれまでの人生や生き方を反省するのだろうか。

      敗戦のときのそれまでの軍国主義への反省とまるで同じように――。


      のんびりした、豊かな社会を構築するべきだ。

      仕事は昼間の半分だけ、あとはのんびり昼寝したり、遊んだりして、

     暮らせれれば、最高だろう。

      そのような社会は若者にとってもとても魅力のあるものになるだろうし、

     商品やソフトだけではなく、軽蔑されていたライフ・スタイルも海外から憧れられる、

     真に尊敬に値する社会だと認められるようになるだろう。

      そしてわれわれ日本人も幸福に生きられるだろうし、

     生活も潤いやゆとり、豊かさを真にとりもどすだろう。


      もう会社と仕事だけに人生を浪費する人生なんて、たくさんだ。

      これまでの日本社会はたくさんの精神的殉死者――つまり戦死者を生み出しながら、

     つっ走ってきたわけだが、もうそのような気違いじみた社会は終わりにすべきだ。


      ふたたび、のんびりした、ゆるやかなスロー・テンポの社会を、

     われわれの手の中にとりもどそうではないか。

      ステータスのために一生を過酷な労働や受験に

     忙殺させてしまうのをやめようではないか。

    
      だが、ただひとつ気がかりがある。

      のんびりした、豊かな社会ははたしてこの社会のすべての人の

     食いぶちを用意することができるかということだ。

      これまで狂的な物質量でこの産業界とひとびとの収入口を養ってきたわけだが、

     はたしてのんびりとした社会はわれわれの雇用を確保することができるだろうか。


      のんびりした、時間的に豊かな社会は、

     これまでのような機能社会を維持することはできないだろう。

      それらの大半はムダであったり、要らないものなのになければ死ぬと

     思いこまされていたり、必要以上に過剰なものばかりだったかもしれない。

      だけど、このおかげでわれわれの大半はメシをくうことができたのだということもできる。


      それが多くの人があまりマジメに働かない、のんびりした社会を構築しようとすると、

     物質商品量も減るだろうし、サービスの量も減ってゆくだろう。

      それはわれわれの雇用口の減少と直接に結びつく。

      金持ちがカネをおおいに散財しないことにはメシを食えない。


      なんらかの方法があるだろう。

      全体のパイが小さくなれば、小さいなりに細々と社会の成員に

     行き渡らせる方法があるはずだ。

      そういう社会では過剰な労働は人々の害になる。

      行き渡るはずのカネや食糧が回ってこなくなるからだ。

      日本がアメリカに働き過ぎだと非難されたのも、

     同じような構図でアメリカ国民の生活を破壊するからだ。

      ひとりシャカリキになって働かれたら、カネが回ってこなくなるのだ。


      過剰な労働、勤勉な労働が、「社会的悪」になる時代がやってくればいい。

      それは貧しく、物質的にまたは機能的にあまり豊かな社会ではないかもしれないが、

     時間的な、ゆったりした豊かさをもつ社会になれることだろう。


      便利な機能的な社会は、われわれを過酷な労働時間に放りこむ。

      火を燃やすためには薪を投げ入れつづけなければならないのだ。

      もうそんな生活はまっぴらだ。


      われわれ日本人は、気違いじみた勤勉社会から、

     のんびしりた、ゆとりある生活テンポをもった大人の社会に進むべきだ。

      そのためには過剰労働の原動力であった

     ステータスやら物質消費の夢や魅力を断絶しなければならない。


      これらの魅力がわれわれの人生を台なしにし、幸福を収奪してきたのだと、

     心の底からうなるような気づきの体験をしたとき、

     われわれ日本人は進むべき方向を、もう見誤りはしないだろう。




                                        (終わり)




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