ヤメられないトメられない暴走日本人に
       必要なストッパーとはどのようなものか

                  ――大勢順応主義社会の悲劇――


                                               1998/6/1.




     日本人は一度ある方向に走り出したら、みずからを止めることができない。

     支配的な風潮や世論に押し流されて、制御不能になる。

     念頭においているのはもちろん経済暴走主義であり、エコノミック・アニマルであり、

    生活や命より大事な本末転倒の会社専制主義であり、遠くには軍国主義である。

     このような暴走日本人に必要なストッパーとはどのようなものなのだろうか。


     従順さや服従心、規律正しさ、謙譲さといった生真面目さがアダになる。

     日本人にはどこか従順さに美徳をおく風土がある。

     これはまだ儒教的精神がのこっているためか、

    それとも年功序列システムが社会を覆っているからだろうか。

     目上の者に従順に従う人たちがよいという道徳はときには諸刃の剣になる。

     そのような道徳心がハリケーンのような暴走にも従順な集団を生み出す。

     このような性向はやはりレミングの死の行進と同じになるわけだから、

    もう少し賢明であるはずの人間はレミングといっしょに海の中にどぶんになることはない。


     暴走日本列島にはストッパーとなる装置をビルトインしなければならない。


     日本には支配的な勢力にたいしてアンチを唱える人や違った生き方をする集団などが

    あまりにも少なすぎて、不気味なほどひとつにまとまり過ぎる。

     正月の行事なりゴールデンウィークなりバレンタインデーなり、

    みんな愚かな牛のごとく集団でつっ走って、ほんとうに情けなくなる。

     こういうのは慣習が圧制的で、まるで自由や個性のない明証なのだから、

    日本人はもっと警戒心をもつべきだと思う。

     北朝鮮の国民を笑ってなんかいられない。


     権力にも立法、行政、司法と三権分立というバランスが必要とされているわけだから、

    従順一本やりの日本人だけで社会が構成されるのは問題だ。

     体育会系の目上の者には従順なタイプの人間が日本にはおおぜいいるとするのなら、

    それらに批判や懐疑を唱える一定の人たちが必要なのではないだろうか。

     社会が暴走しないためにはそのような逆方向に作用する力や反作用が

    必要なのではないか。


     立法と行政はイケイケの経営者と脳ミソ筋肉体育会系のサラリーマンとするのなら、

    そこに横ヤリを入れる懐疑・批判系の脱力系の人たちが司法というわけだ。

     社会が健全に存続するためには、イケイケ一本やりではなく、

    醒めた、ネガティヴなタイプの人たちも一定数、必要と認めるほうが、

    社会は暴走をくいとめられ、健全にはたらくとは考えられないだろうか。

     体育会系の脳ミソがバネのようなイケイケタイプの人たちばかりだと、

    社会は一度一方向に走り出したら、愚かにもその目的を達しても、

    またなんのために走っているのかも理解不能で、そのまま暴走しつづける。

     いまの日本社会、会社人間はそのような人たちに満たされている。

     社会はストッパーとなるタイプの人たちをビルトインすることが必要なのではないか。


     楽観系の人たちと悲観系の人たちもそれぞれの用途があって、

    やはりそれはアクセルとブレーキの役割を巧妙に果たしてきたと考えられる。

     ポジティヴばかりだと足元がおろそかになるし、

    ネガティヴばかりだと石橋をたたきすぎて一歩も踏み出せない。

     それぞれの性格傾向も社会にとってはそれなりの効用と用途を果たしているのだ。


     仲井久夫がいっているような先とり的構えの分裂病親和者と、

    蓄積の強迫症親和者が社会にそれぞれの役割を果たすように、

    ――あるいは逃げろ逃げろのスキゾと強迫蓄積のパラノという分け方もあるが、

    同じような性格タイプの人たちばかりに満たされれば、最後には破滅的になる。


     日本にはどうもストッパー役となる人たちの効用が認められていない。

     人間類型を一本に絞るのが好きであるようだ。

     目的追求には適した類型であるかもしれないが、そのシステムに過剰適応してしまって、

    このシステムはブレーキを失い、意味なき暴走が止まらなくなってしまう。

     「日本株式会社」というのはまさに目的が終焉しても、

    なおも理由なき暴走をつづけるブレーキなき暴走列車そのものだ。

     あまりにも過剰適応した目的追求型社会は、その不満分子を走行の最中に

    ぜんぶ放り投げてしまうから、もはや止まる術を知らない。

     おそらく社会の道徳と人間のタイプがそのようにしてしまうのだろう。


     不満分子は社会が盲目な暴走をしないためには一定数、必要なのではないか。

     一斉粛正なんかしてしまったら、社会の暴走を止められなくなってしまう。

     ひとつの目的に合致するだけがよい社会なのではなく、

    やはり社会は無方向な道筋をのこしておくほうが賢明である。


     反撥や不満を抱く人たちがいるからこそ、社会は曲がりなりにも健全性を保つと

    考えたほうがよいのではないだろうか。


     日本社会や日本企業は不満がひとつも漏れないような社会になっている。

     不満や批判、懐疑を一斉粛正してしまって、その効用がひとつも顧みられない。

     イケイケ支配者と従順な大衆だけで満たされた社会の行方は目を覆うばかりだ。

     暴走しつづける車輪の下でだれかが「グギギー」と踏みつけにされていても、

    疲労過労死していても、暴走日本列島は止まる術を知らない。

     従順型の人間を大量生産すれば、ブレーキがどこにもない社会ができあがる。


     現在日本社会はまさに破滅的状況の一歩手前ではないか。

     オウムじゃないがハルマゲドン一歩手前であり、あるいは20年前に流行った

    ノストラダムスの1999の7の月にこの世の終わりが訪れるのを心待ちにしているのか。

     蓄積型のパラノ人間は豊かになれば自分の出番がなくなるので、

    戦前もそうだったように蓄積した富の一斉破壊を目論んでいるのだろうか。


     従順一本槍の人間ばかりを理想とするのではなく、どこかにそれを否定したり、

    道を外れる人たちを、社会はその効用を認め、一定数確保すべきではないのか。

     従順な人間が社会に支配的な至上価値を否定なんかできやしない。


     いわゆる社会に支配的な「空気」ができあがってしまって、だれも「水」を差すことが

    できない状況というのは、まさに軍国日本が経験したことではないのか。

     同じことが戦後日本でもくり返しおこなわれている。

     なぜそうなったかというと、やはりこの日本社会は方向づけを明確にし過ぎて、

    その目的に過剰適応する従順な人間ばかりを大量生産してしまうからではないのか。

     人間を同タイプにする圧力や制御が過剰にはたらている社会だ。

     このような圧力は戦後にも圧倒的だし、戦前にもあったのだろう。

     受験戦争や会社人間への圧力をみてみれば一目瞭然だ。

     この機構が目的達成などによってうまくいかなくなると、破滅的・破壊的状況に

    日本は陥る――あるいは戦前に陥ってきた。


     このような社会というのは対外的には経済で成功したと思われているときでも、

    ひじょうに圧迫感や不自由感が強い悲壮な社会であるし、一度うまくいかなくなると、

    なだれを打ったように破壊的・破滅的状況にまっしぐらで、どの時をとっても最悪の社会だ。


     単一目的に集結しすぎる社会構造が問題なのだ。

     社会の目標や生き方は盲目的で、無軌道で、放射線状に拡散するほうがいい。

     それを単一目的に手を加えようとするのが、日本社会の悪弊だ。

     これからは逆にそのように働く力を抑制するのが社会の勤めではないのか。


     われわれ自身もだれもが同じような人間になることを――

    あるいは同じタイプの人間をほめたたえることに警戒しなければならない。

     だれもかれもが「安定」がいいだとか、「大企業」がいいだとか、

    「マジメ」がいいだとか、一億総絶賛するのではなく、たえずほかの評価も探すべきだ。

     社会がまったくひとつの評価だけにこり固まりはじめたとき、

    日本社会はまたふたたび危険水域に入ったと気づくべきだ。

     懐疑する精神、大勢順応主義になびかないことが暴走社会の歯止めになるだろう。


     日本はなにか問題があれば、すぐ手を加えたり介入したりするが、

    それを求めたとたん、自由や多様な生き方が圧殺されることに気づかなければならない。

     かつてのイギリス人がいったように、「警察に家の中を調べられるようなら、

    街の犯罪をガマンするほうを選ぶ」というように自由の剥奪にもうすこし敏感になるべきだ。

     日本人にはこのような気概はなく、やがて生き方が画一的になる。


     問題はどうすれば、支配的風潮に否定的となるストッパー的な人たちが育ち、

    社会に認められるようになるかだ。

     有識者や政治家だけにそのような人たちがいればいいのではなく、

    やはりどんな小さな集団にでも少数は存在していてほしいものだ。

     こういうタイプは一定数どこにでもいるのだろうが、家庭や学校があらゆる手を駆使して、

    そのような芽を削ぎ落としてしまうのだろう。

     キケンであるとか協調性がないのだとかワガママだとか、

    世間に笑われるだの落ちこぼれになるだの恐怖を植えつけ、集団に従順な人間をつくる。

     またそれに迎合的なマスコミや有識者がこれにいっそう加担する。


     はみ出し者には社会を逸脱させないための一定の効用があるのだと

    われわれは認識するべきではないだろうか。

     そのような「異人の効用」といった神話や世評を日本は培うべきではないのか。


     しかしこのようなタイプの人たちを人為的に制作しようとすることは、

    従順な人たちの製造とともにオゾマシイことだ。

     従順な人たちを大量生産しようとする思惑や道徳の力を抑制すれば、

    きっと社会は異質な人たちをおのずと生み出すと思う。


     従順なタイプの人間ばかりほめたたえていると、けっきょく支配的風潮に

    ボウフラのように押し流されていって、社会を破滅的状況に導いてしまう。

     異質さに寛容でなければ、同じように自分たち自身の異質さや自由も

    奪われており、多様さや自由な生は自分のものにならないばかりか、

    愚かな日本の舵取りたちと仲良く心中で、海の藻クズになってしまう。

     批判的・懐疑的な人を日本人は危ないと思いがちだが、

    自分たちの奴隷的状況と破滅的暴走を食い止めてくれるのは、

    彼らしかいないのではないだろうか。






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