手塚治虫とマンガとジャパニメーション






      子どものときには手塚治虫を片っぱしから読みあさった。

      だいたい昭和52年くらい、10才くらいのときだった。

      『ジャングル大帝』に頭をぶんなぐられて、連載記録と作品リストをたよりに、

     ありとあらゆる作品をつぎつぎと読んでいった。

      ほんとうに楽しかったし、本を遠くまで探しに行くのも楽しかった。


      もういまは全部まで思い出せないが、印象にのこったり、好きだった作品は、

     『火の鳥』や『ブラック・ジャック』『ブッダ』『三つ目がとおる』あたりであり、

     『キャプテンKEN』とか『ナンバー7』もひじょうに好きだった。


      手塚治虫はなにを語ろうとしていたのか、いまもよくわからないが、

     それぞれの作品世界に入りこむことは、ほんとうに楽しかった。


      ほかのマンガ家はそんなに好きな人がいなくて、

     ものすごくリアルな劇画を描いていた池上遼一がスゴかったくらいだ。

      そういえば、あだち充の『みゆき』とか『タッチ』なんかもよく読んだな。


      中学に入るともう興味が薄れていって、マンガもあまり読まなくなっていった。

      最近読んだといえば、相原コージの『コージ苑』とか吉田戦車の『伝染るんです』、

     岡崎京子の『PINK』、谷口ジロー『犬を飼う』くらいで途切れている。

      マンガの状況にもすこしは目を配ろうとしているのだが、

     なかなか入り込みにくい。

      『エヴァンゲリオン』なんてのは遅まきながらテレビで見てみたが、

     どうももう観つづけることができなかった。

      鶴見俊輔というアメリカ哲学者は『寄生獣』をものすごく絶賛していた。


      子どものころにはアニメや特撮ものをよく観たのだが、

     いま再び見てみると案外、テーマはスゴイなと思う。

      機械文明批判だとか、宗教集団批判(企業集団批判に通じるものがある?)、

     そういったカウンターカルチャー的要素のシャワーをうけて育ったんだなと思う。

      『人造人間キャシャーン』ではロボット集団が街をつぎつぎと破壊していったし、

     『忍者赤影』では金目教とかいろいろな宗教が人々を操っていたりした。

      『銀河鉄道999』も機械の身体を手に入れるという話で、

     そのために人間はなにを失ってきたかという深刻な話だ。

      でもロボット合体ものというのは、みんなで力を合せればなんでもできる!、

     というテーマだと思うが、それは魔術的試みにしかほかならなく、

     群れで力を得る哀れな集団を生み出すだけだ。

      変身ものはなにかなと思うが、満身の力をふりしぼればなんとかなる、ということ?


      マンガやアニメは大人たちにさんざん叩かれ、やれ低俗だとか、

     教養が育たないとか、オタクだ犯罪の温床だとかいわれつづけ、

     わたし自身も子どものころマンガをとりあげられたクチだが、

     文化的に世界中に影響を与え、評価されるようになってきた。

      バカな親や大人たちは新しい時代の文化というものを、

     海外からの評価によってやっと気づかざるを得なくなったようだ。


      『おしん』にはかなわないが、日本マンガは世界共通になるつつある。

      映画『AKIRA』はだれが観たってビビるだろうし、ハリウッドだってそうだろう。

      『ドラえもん』は海賊版など東南アジアに大量に出回っているらしい。


      テレビ『20世紀解体新書』の情報からピックアップすると、

     『マッハGOGO』、『ルバン三世カリオストロの城』はアメリカでヒットし、

     『コブラ』はフランス、『みなしごハッチ』はドイツ、『いなかっぺ大将』はイタリア、

     『ガッチャマン』は韓国、『ベルサイユのバラ』『巨人の星』『あしたのジョー』など、

     それぞれ世界でヒットしたそうだ。

      日本はすでに文化やソフトを世界に輸出するようになっている。


      映画というジャンルではあいかわらずアメリカがトップだが、

     日本はマンガアニメというジャンルで群を抜いたようだ。

      この実写からアニメへの変化というのは、文化的社会的になにかと思うが、

     わたしにはこの変化の意味がよく見抜けない。

      より自分の思い通りの作品に仕上げるのには俳優を使うより、

     絵を描くほうがより意に添うのだろうか。

      コンピュータ・グラフィックの発達などで、よりそういう方向に進むだろう。

      けっきょく、アニメと実写は合体して区別できなくなってゆく?


      わたしは共同でつくるアニメより、個人の手作業のマンガのほうが好きだった。

      個人の仕事のほうが、思い入れとか考慮とか強いのではないだろうか。


      大塚英志によると、マンガの発展はコストが安かったからだという。

      映画をつくるには多くの人手が必要だが、マンガは紙とペンだけでいい。

      だから映画をつくりたかった手塚治虫は、映画の手法をマンガにとりいれたのだ。

      マンガはコスト安のアイデア商品なのであり、これが次代のキーワードになる?


      マンガはこれから文学が担っていたような、

     哲学や宗教レベルの事柄まで語り出すだろうか。

      もうすでに語り出してもおかしくはないと思うし、

     すでにもう語っていたのだろうか。





      

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