事件主義批判


                                                1998/2/7.



      われわれはたいていニュースから世の中を知る。

      ニュースというのは、犯罪や事件、事故を全国各地からあつめてきたものだ。

      どちらかといえば、世の中の悪いこと、暗い面、いやなことを伝える。


      もちろん必要なことだ。


      だが、問題がないとはいえない。

      事件や犯罪のほうばかりに目を奪われ、

     むしろより大きな問題があると思われる日常の世界がないがしろにされるからだ。

      事件や犯罪はそれらの日常の問題がつみかさなった後の「結果」ともいえるわけだ。


      われわれはそれらの結果ばかりに注目し、

     大きな事件に発展せざるを得なかった日常のつみかさねを無視してしまう。

      そしてそれはニュースによって衆目をあつめることになるから、

     とりあえずその目立った人物を処罰して問題が終わったということになりがちだ。


      念頭において語っていることは、たとえば中学生の暴力沙汰や、

     官僚や企業の汚職腐敗事件などである。

      事件はとかく個人に問題の焦点を合せるが、

     問題の大元はそれらの事件をもたらした企業風土や組織のありかた、

     また学校の風土や社会関係ではないだろうか。

      つまり社会集団や組織自体に問題があると思われるのに、

     事件や事故をおこした個人の問題にされてしまう。

      これらは社会生態、社会全体に問題がある。

      事件にならなかった日常のつみかさねがどんどん溜まり、

     その問題の一端がほんのすこし噴き出たものが事件となって現われる。

      それなのにニュースは社会全体まで切り込めない。


      事件や犯罪がおこらないととりあげない。

      だれか個人が処罰されるとたちまち報道熱は冷め、

     すぐにニュースはほかの話題でもちきりになっている。

      そうしてシッポを切られたトカゲはいつまでもぴんぴん!で、

     また同じ問題で、ニュースをにぎわわせる。

      バカみたいだ。


      日本には個人は罰せても、組織や集団を罰する法律はあまりないのだろうか。

      ニュースもやはり組織とか集団をひじょうに捉えにくく、

     問題の焦点を個人にもっていきがちだ。

      個人をいくら叩いても、責めても、仕方がない。

      その犯罪や事件をもたらしたのは、組織の圧力であったり、風土であったりするからだ。

      ショッカー(仮面ライダーに出てくる悪の下っぱ)をいくらやっつけても、

     ショッカーはつぎつぎといくらでも襲ってくる。

      死神博士(悪の大元)はまったく安泰だし、幹部もまだたくさんいる。


      組織や集団が犯罪や事件をひきおこしているのであり、

     それらに焦点を合せた罰則・対処法を編み出す必要がある。

      もういいかげんに個人をたたくだけで、

     集団や社会生態になんの罰則を設けないのは、やめにしないといけない。

      個人が犯罪を犯したのではなく、集団や社会生態が犯罪を犯したのだ。

      社会生態を裁き、その実態をさぐり、対処法・罰則をとりきめるべきだ。

      この現在の組織社会において、個人がなにほどの力をもてるというのか。


      たしかに事件をもたらした集団の力学を捉えるのはむづかしい。

      だが問題の原因は個人だけで、個人に責任をかぶせれば、

     それで問題が解決するというような考え方などもう通用しない。

      社会生態自体にメスを入れなければ、解決しないのである。


      もしある組織、集団の個人が事件や犯罪を犯したのなら、

     内部で解決を図るのではなく、外部からの監査役や矯正役の投入を、

     義務づけるべきだ。

      外部からのパラシュート部隊がないと、内部の生態はもう癒せない。

      (官僚からだとまた腐敗してしまうので、民間の人のほうがいいだろう)

      組織や集団の犯罪・事件は個人が起こしたと考えるのではなく、

     理由がなんであれ、組織の生態自体がひき起こしたと考えるべきだ。

      犯罪・事件を起こした時点で、もう個人の問題ではないのだ。


      ニュースは極端に事件と事故しかとりあげないから、

     ワイドショーのほうがまだ社会生態や組織に切り込む手法をもっていると思う。

      スキャンダルや芸能ネタで下品で下劣な番組も、

     その手法は社会生態や過去の生態まで切り込めるよさがあるのだ。

      現在のニュースの形態ももともと町のゴシップなどをあつめたものが、

     権威あるものとしてもちあげられてきたのではないだろうか。


      ニュースは事件や事故しかとりあげられないから問題だ。

      事件が起こらなかったら、ニュースはとりあげない。

      たいていの人の頭の中から、存在しなくなってしまう。

      これでは大きな問題でありながら、事件を起こさない問題は、

     人々の意識の片隅から忘れ去られてしまう、あるいは問題にさえされない。


      事件や事故がないからなんの問題もないということではまるでない。

      われわれが生きる日常では、大きな事件は起こらないが、

     深く、大きな問題が横たわっているのがふつうだ。

      われわれのたいていの人はこれらの問題と毎日闘い、

     格闘しているのではないだろうか。


      ニュースにとりあげられるようなトピックは、

     われわれの日常の生活ではほとんどお目にかからない。

      わたし自身の身のまわりで、テレビや新聞にとりあげられるような事故や事故を

     垣間見たことは、いままで生きてきたなかでほとんどない。

      いわばニュースというのはじっさいの生活において、

     なんの関わりもない、どこかの遠い世界の話でしかない。

      それでもわれわれはこのニュースをまるで自分の身の上に起こったことのように、

     熱心に関心をもち、行方を探ろうとする。

      もちろんなんらかの関わりはあるし、自分自身の生活に影響を与えるだろう。


      だけどわれわれ一般の人にとって、問題なのは、

     自分の日常の生活ではないだろうか。

      日常の生活や社会のなかになんの問題もないという人はいないだろう。


      マスコミのニュースは事件や事故はとりあげるが、

     大きな事件は起こらない、深い問題が進行している日常の世界まで、

     その目を向けることはできない。

      なにも大きな事件の起こらない日常の生活に、

     より大きな問題があるということにニュースはメスを入れられない。


      われわれだってこう毎日ショッキングなニュースばかり見せつけられて、

     そのことで頭がいっぱいになるが、じつはわれわれの日常の生活にも

     じゅうぶんに問題のある、解決しなければならない事柄がたくさんあるのではないか。

      わたしが言いたいのは、事件や事故だけが、毎日のニュースとして、

     問題としてとりあげることなのかということだ。


      つまりわたし自身が問題としているテーマ、企業中心社会や経済至上主義、

     あるいは社会生態の問題といった――べつにめだった事件をおこさないが、

     それでもわれわれの毎日の生活にいっそうの問題をのしかけている、

     そういった問題には、ほぼ目が向かないようになっている。

      一般の人たちは事件になったことがニュースにとりあげられ、

     そのほかのことは問題ではないように思い込むようになっていないか。

      つまり事件や事故が起こらないと、

     問題にしないような捉え方をしてはいないかということだ。


      そしてやっと事件がすでに起こってからおおいに騒ぎ出す。

      あるいは事件が起こらないと、問題にされないといえる。

      事件が起こってからでは遅すぎる。

      ましてや自分の家族や身内が事件・事故にまきこまれたあとで、

     その原因が追求されても、もう時すでに遅しだ。

      事後処理しかできないわけだ。


      事件主義というのはコトが起こらないと始まらないわけで、

     予防的なことまで手が回らない。

      犠牲者や被害者が出ないと、大衆の味方や擁護が得られないというのは、

     あまりにも危機感がとぼしく、平和ボケしすぎている。

      もし生かさず殺さずのような状態で、事件や事故がおこらなかったら、

     ニュースはその状態をなかなか捉える機会がないわけだから、

     問題はよりいっそう深刻になってゆくかもしれない。

      予知や予防という観点からも、ニュースの事件主義はそのありかたが

     問われるのではないだろうか。


      またニュースは大きな事件も、つぎの大きな事件が起これば、

     節操もなく、古いニュースは捨ててしまう。

      国民の多くがニュースによって世の中を知るわけだから、

     解決しない問題はもっとじっくり追ってゆくべきだ。

      その役割はあまりニュースに期待しないほうがいいのかもしれない。


      でもニュースという媒体だけで世の中を知る人は、

     その情報が途切れてしまえば、その問題は存在しないも同然になる。

      事件や事故だけを知り、そのあとの経過や犯人の逮捕、問題の解決を

     なにも知り得ないまま、あるいは申し訳程度にふれられるだけでは、

     ほとんど存在しないも同然になるだろう。


      というわけで事件や事故のニュースが国民のゆいいつの情報源になるというのは、

     ちょっと問題だと思う。

      もうすこしワイドショー的な事件や犯罪、あるいは社会の問題の、

     その背景に切り込んでゆく情報のほうが、もっと大事ではないかと思う。

      事件や犯罪、事故の情報だけでは、国民のほとんどはその問題の原因や背景を

     知り得ないし、問題の解決を迫ろうとする気概や追求の手をすぐにゆるめてしまうし、

     問題を予防するという点からも、あまりにも後追いになりすぎてしまう。


      事件や事故の報告だけのニュースでは、つぎの一歩になかなかつながらない。

      事後処理だけではなく、予防あるいは予期という点からも社会を捉えることが、

     大人の社会として求められるのではないだろうか。    







      まだ頭の中であまりまとまっていないが、わたしの言いたいことは、

     一般の人たちにとって問題なのは、メディアの中の事件ではなくて、

    日常の世界――自分の足元の世界――会社や学校ではないだろうか。

     若者たちが政治や社会に興味をもたなくなったのは、

    自分の日常の世界のほうが大事であって、メディアの中の事件は

    自分の日常となんのつながりも影響もないと感じるからではないだろうか。

     メディアは、一般の人たちとあまりにもギャップが生じつつある。

     われわれに問題なのは、身のまわりの世界のことなのだ。

     メディアはそのような現実に追いついていないのではないのか。



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