マザコン男、社会保障制度、官僚支配

             ――安定や保障をもとめた依存心の代償――


                                              1997/7.





     大人になっても母親とべったりとくっついて離れない

    マザコン男というのが、いぜん話題になった。

     テレビ・ドラマでは気持ちの悪い「冬彦」さんがわれわれの背筋を凍らせた。


     最近わたしは官僚の規制や保護にかんする本をたまに読むのだが、

    官僚の国民や企業にたいする扱いかたというのは、

    このマザコン男のママにそっくりではないかと気づいた。


     国民や民間の企業に任せておいたらなにをするかわからない、

    どんな危険な目に合い、いつ食いっぱぐれるかわからないといって、

    規制や保護の手をどんどんのばす官僚はまるで、「過保護ママ」そっくりだ。


     官僚だけではない、民間企業でも、従業員たちの意志や思考をできるだけ

    とりのぞいた教育や方針がとられている。

     学校教育もそうである。

     与えられたり、教えられるものばかり圧しつけられ、

    みずから考えるとか、新しく試みようとする行動をさせようとしない。


     つまり日本社会すべてが、過保護になってしまっているのである。

     自立や独立を許さない社会をつくってしまっているのである。


     逆にいえば、自立や独立をめざせば、まわりからとことん叩かれ、

    排斥されるような社会なら、自立や独立の意志をまったくもたない

    マザコン男のほうが、この世に可能な限り、適応していることになる。


     われわれはマザコン男を気持ち悪いとか、おぞましいとか思って、

    排斥しようとするが、かれらはこの社会のいちばんの適応者なのである。

     つまりこの社会の「優等生」であり、この社会の意志や方向を

    いちばん反映した「よい子」の鏡なのである。


     かれら自身を叩くのはまちがっている。

     かれらはこの社会が目指した方向の「結果」の産物なのであって、

    かれらは「原因」ではない。

     結果をいくら叩いたところで、原因はその子どもを産みだしつづける。


     この社会は、個人の自立や独立を許さない。

     自由や意志を尊重しない。

     どこまでも管理され、制御され、服従する人間がよしとされる。

     ママの言いなりになるマザコン男が、この社会にどれだけ適応しているのか、

    よくわかるというものだ。


     ママや企業、属する集団にどこまでも忠誠を尽くし、

    服従し、そつなくこなす人間が求められているのである。

     ママに反抗したり、組織に反抗的態度をもつ者は、

    この社会ではとても嫌われる。

     われわれはこの社会に適応しようとすれば、

    多かれ少なかれ、マザコン男にならなければならないのである。


     かれらには、反抗期というものがないのだろうか。

     ママを蹴飛ばしたくなったり、組織や集団の力にたまらなくムカついたり、

    憤る気持ちをまるでもたないのだろうか。

     もっていたとしても、社会や組織に従うしか生きる道はないのだから、

    その反抗の芽をそっと忍ばせるほかないだろう。

     こうしてわれわれは自立心や独立心を一生育てられずに、

    依存や服従の輪の中に絡みとられ、日本的集団のなかに埋没する。


     日本人の組織や集団に同調したり、画一化したりするする行動様式は、

    このようなところにその原因があるのだろう。

     工業社会や先進国のなかには、多かれ少なかれ、このような性質があると思われる。

     組織や集団に依拠しなければ、生存の道を見出せないのなら、

    できるだけ規律に従うほかない。


     日本だけではなく、アメリカや西ヨーロッパにも、

    このような性質は共有されていると思う。

     いくらアメリカが個人主義の国だと喧伝されていても、

    このような土壌があるから、少しでも抜き出たら、目立つのだろう。

     わたしはアメリカという国はとても個人主義の国だと思っていたが、

    どうもアメリカの社会学とかビジネス書とか読んでいると、忠誠心とか集団への同調とか、

    日本とほとんど変わらない部分をもっていることを知った。


     マザコン男は工業社会に適応した人間のありかたである。

     それなのに、なぜかれらは女性たちに嫌われたのだろうか。

     従来の「男」の役割であった自立心や独立心が、あまりにも失われたからだろう。

     かれらは組織や親にあまりにも服従しすぎて、自立心を失ってしまった。

     「男」の看板を捨てるまで、社会や組織への依存心や依頼心が強まったのである。

     たくましさや頼りがいのある男は、組織のなかに溶解してしまったのである。

     女性たちは溶けてしまった男たちに憤慨したのだ。


     なぜここまで自立心を削ぎ落とした依存心が、増長してしまったのだろうか。

     わたしは遠いところに、社会主義思想がその原因を生み出したと考える。

     だれも生存の心配をしなくてもよかったり、平等であったりする社会は、

    貧富の差や貧困が激しい資本主義社会より、とてもすばらしいだろう。

      だがこのような完璧な計画経済は、表面とは違って、

     人々の心のなかに依存心や依頼心をどんどん育むだけだった。

      厳しさをなくした、甘えたがりやの大人ばかりを育てることになった。


      日本はもちろん資本主義国家だ。

      だが社会主義思想は日本のなかにものすごく影響を与えただろうし、

     福祉国家という政策は、そこから出てきたものだと思われる。

      年金や健康保険、雇用保険といったものは、社会主義の落とし子ではないだろうか。


      企業の終身雇用や年功序列といった「家族主義的経営」も、

     どこか社会主義に似ているのではないだろうか。

      忠誠心をあおって「会社人間」としてマインド・コントロールされたさまは、

     まるでどこかの社会主義国家かカルト宗教を思い起こさせる。


      官僚の保護貿易や、斜陽産業や零細企業の保護政策も、

     やはり社会主義的な発想が根底にあるのではないだろうか。

      戦後一貫して激しい競争にさらされてきたのは輸出関連産業くらいで、

     農業を含む7割程度の産業は政府の保護をうけてきた。

      役所や教育、銀行などを入れれば、

     この国にはほとんど自由競争がなかったといっていい。


      ソ連や東欧から日本にきた人たちは、この国は自分たちの国より、

     社会主義国家だと驚いて帰るそうである。

      年金が、企業と国に二重にかけられていることにびっくりするそうだ。


      日本は社会主義国家だと思ったほうがいいかもしれない。

      その看板を隠す技術がものすごくうまくて、われわれ国民すら

     それを知らないのである。


      けっきょく、これらの社会主義的政策は、われわれの

     政府や企業に対する依存心をものすごく強めてしまった。

      クビ切りをやめさせ、終身雇用をのぞみ、年金や健康保険をもとめ、

     老後の安泰をもとめ、職場の確保と安定をのぞんできた。

      われわれは知らず知らずのうちに、最高度の依存や甘えを、

     政府におこなってきたのである。


      職場が安定していて、生涯面倒をみてくれるのなら、すばらしいことだろう。

      ケガや病気になっても、保険があるのなら安心だろう。

      老後の年金があるのなら、将来は安泰だろう。

      外国からの激しい競争に勝ち残った産業をシャット・アウトすれば、

     われわれの職場は守られるだろう。

      貧富の差の激しい自由主義国に比べれば、平等な中流階級意識を

     みなもつことができるだろう。

      すばらしいことづくめだ。


      だが、依存心や甘えは最高潮に達し、しかもそれがあたり前だと思っているから、

     だれもおかしいとも、ちょっと異常だとか感じたりもしない。

      とうぜんの権利であり、この権利のないほうが恥ずかしいことになってしまった。

      依存や甘えが恥ずかしいことでも、なさけないことでも、

     なんでもないことになってしまったのである。


      わたしはこのような根性がどこかおかしいことのように思えた。

      保護されることや依存することに、だれもみじめさを感じないばかりか、

     みんながそれを求めているのである。

      だからわたしは親が進めるような保障のととのった大きな会社に入るとか、

     公務員になるのがとてもいやだった。

      そんなしみったれた根性が平気になるのがいやだったのである。


      歴史的には資本家に搾取される労働者というのは、

     そうとう酷かったと思われる。

      福利厚生の権利は先人たちの努力と抗争によって、

     勝ち取られたものであり、称えられるべきものである。

      だが、現在の日本はかなり豊かになり、

     中流階級とみずから思う人たちも、だいぶ増加した。

      このような豊かになる過程で、段階的に、年金や福祉制度を

     豊かな階層にのみでも、外してゆくべきではなかったのだろうか。

      保護政策を豊かな国にふさわしく、緩めるべきではなかったのか。


      この依存のメンタリティの損害は、計り知れないくらい大きいと思う。

      保護されたり、守られることが確保された環境のなかで、

     人々はどのようになってゆくか。

      努力や向上はおこなわれなくなり、活力や生命力が失われる。

      守りの姿勢に入り、保護や安定をもとめることだけに汲々としてしまい、

     ほんらいの目的である活力や魅力ある世界や社会を創造しようとする

     努力や意志は、削ぎ落とされてしまう。


      この何十年か、競争に勝ち残る魅力的な商品やサービスを考え出そうとする努力より、

     安定や安心をもとめる努力のほうが強かったように思われる。

      人々が安定をもとめるようになると、創造的な雰囲気は失われ、

     過去を守ることだけにその努力のほとんどはふり向けられる。


      社会はドラスティックな変化を嫌い、変化の芽さえ摘みとろうとする。

      変化はこれまで蓄積した安定を脅かしてしまうからだ。


      だが、これがものすごい過ちだった。

      この資本主義は変化や創造のみによって動いてきた。

      この2、300年の工業化の変化はすさまじいものがある。

      鉄道が生み出され、車が生まれ、飛行機がつくりだされた。

      もし最初の段階で創造の努力が怠られていたら、

     経済発展はたちまち止まっていただろう。


      変化を嫌い、淀みはじめたとき、この経済はたちまち停滞し、

     経済的な苦境に立たされる。

      市場経済は、必要のなくなった商品や時代遅れのサービスは

     いともかんたんに捨て去ってしまう。

      われわれ消費者は、だれかのためを思って、いつまでも旧式の商品や、

     高すぎる商品を買いつづけたりするだろうか。


      政府の保護政策や福祉制度はそのすばらしい目的と裏腹に、

     われわれの活力や創造力の源を奪い去る方向に作用してしまった。

      あるいはわれわれ国民が求めたのかもしれないが、

     そのために変化を嫌う、ひじょうに停滞した組織をつくりあげてしまっていた。


      この20年の経済の変化はとても大きかったと感じるかもしれないが、

     たぶん若者たちが感じているほどの変化は出てきていない。

      車やテレビはたいして代わり栄えのしないモデル・チェンジばかりくり返し、

     企業や組織は人間の全てを奪い去り、人間をロボットのように配置したままである。


      おそらく変化は企業や組織において起こらなければならなかったのではないか。

      豊かになった社会では、労働の量や質すら問われる。

      だがこの分野の変化の乏しさからみれば、

     かなり変化を嫌う、古びた制度が大手をふっているのだろう。

      変化ができないということは、そこには利権や権益が、

     山のように折り重なっているということだ。


      わたしはこの企業組織の変化の乏しさが、

     社会や若者の活力や創造力を奪ってきた大元だと思っている。

      安定や保障が、人々の活力や活気を奪ってきたのだ。


      もし多くの産業が保護されなく、外国からの自由競争が行われておれば、

     この企業組織はもっとドラスティックに変化していたと思う。

      そのような組織の変革は、若者たちに安定をもとめない活力を、

     生み出したと思われる。

      だがこの企業組織は旧態依然としたままで、

     新卒の若者たちにロボットになることを要求しつづけている。

      活力も創造力も失われるだろう。


      若者の活力が失われるということは、結果的には社会の停滞をもたらし、

     守られるべき保護の対象者たちも守られなくなるのではないだろうか。


      保護や保障はそのおもてのすばらしさと裏腹に、

     自由経済の活力や活気を奪ってきたのではないだろうか。

      もし自由経済なら変わっていたはずの社会や組織のかたちが、

     現在も権力や慣習として、残存する余地を与えてしまったのではないだろうか。

      そしてそのような利権や権限をもった人たちが、それを守ろうと

     組織や社会に居残る結果、若者たちは活力や精力を失い、保身や安定のなかに、

     将来の道をもとめるようになってしまったのではないか。


      つまり流れによって淘汰されるべきものが、

     保護や保障を与えられたために、いつまでも力をもつことになり、

     ますます流れをせき止めるようになってしまったのではないだろうか。

      先進国や文明の衰退といったものは、このようなところにその原因が

     あるのかもしれない。

      つまり利権や既得権で、上が根づまりをおこしてしまい、

     新しい経済や文明の流れにとりのこされていってしまうのである。


      ソ連などの社会主義国家は指導者層の利権や権益の蓄積のために、

     経済の流れにとりのこされていってしまったのではないだろうか。

      日本も同じく、かなりの保護主義経済をおこなっている。

      競争にさらされず、国民の生活が守られることはすばらしいことだが、

     それは現実の経済をまったく無視するやり方ではないだろうか。

      そうして商品やサービスはぜんぜん進歩せず、

     古ぼけた経済システムとして停滞していってしまう。


      戦後の日本と西ドイツの経済発展は、

     設備の壊滅と、指導者の公職追放の結果、もたらされたのではないだろうか。

      保護や保障の乱発は、これとまったく逆の方向ではないだろうか。


      皮肉なものである。

      われわれのだれもがもつ保身や安定の欲求が、

     この経済の停滞をもたらすのである。

      そしてそれは社会や経済の動脈硬化をもたらし、

     若者たちの気概や活力を奪っていってしまう。


      だれだって地位や保障、安定がほしいだろう。

      だがそれがならずしも、社会や経済にとってはプラスになるとは限らない。

      変化をせきとめ、妨害し、足手まといになってしまうのである。

      しかもかれらが権力や権限をもっているとなると、なおさらやっかいだ。

      そのような現実を見えなくさせるのが、また権力の力でもあるからだ。


      現在のわれわれの社会は、われわれが保障や安定をもとめなかったら、

     もっと大きく変化し、まったく違った社会風景になっていたかもしれない。

      学校や郵便局はなく、役所の建物は豪華ではなく、公園は廃虚にならず、

     湾岸部は工場に独占されるのではなく、市民に開かれていたかもしれない。

      商品の値段はもっと安く、サービスの悪い機関や古いサービスはなくなり、

     なによりも、企業組織や労働時間といったものは先進国なみになっていたかもしれない。


      保護や保障はわれわれから自由を奪い、

     隷属や拘束のみの多い閉塞社会をつくってしまったのではないだろうか。

      われわれ日本人は、安定か自由かの選択において、

     自由を投げ捨ててきたのではないだろうか。

      そして依存心の強い、自立心のない大人たちを大量に育ててしまった。


      けっきょく、この激しい国際経済のなかで、

     保護や保障はもとめても得られないものなのだろう。

      右肩上がりの経済成長が終わってしまったら、

     たちまち、これまでのかずかずの保障が破綻寸前になってしまった。


      だが、依存心や安定志向の精神を育ててしまったわれわれは、

     はたして、もう一度、独立心や自立心を養えるだろうか。

      大企業や公務員、福利厚生といったものによりかかりつづけたわれわれは、

     はたしてこれから必要とされる自由経済の精神をとりもどせるだろうか。


      けっきょくは、そのような競争のなかに投げ込まれるしかない状況が、

     やってくるのは確実なのだから、いやがおうでも、このような精神を

     身につけるしかないだろう。

      そしてその精神が生まれ出るのは、経済の破滅的状況しかないのだろうか。


      老後や将来の安定を計れないことは、恐ろしいことかもしれない。

      だが人類の大半は今日生きることだけに精いっぱいで、

     明日の心配なんかしていられなかったのが、ふつうではなかっただろうか。

      明日や、それも老後のことなんか心配していたら、

     今日を楽しむことなんてできやしないし、人生の楽しみを得ることすらできない。

      やっと「まとも」な時代がやってきたのかもしれない。




                            (終わり)




      このエッセーの発想を思いついたのは、たぶん宮本政於の

     『官僚の官僚による官僚のための日本』(講談社+α文庫)や

     ジョエル・シルバースティン『アメリカから見た日本人』(ごま書房)を

     読んだからだと思う。

      稲垣武の『達人の手の内』(PHP研究所)も参考になった。

      保護や福祉が人々をどんなに骨抜きにしてきたかは、

     ミルトン&ローズ・フリードマンの『選択の自由』(日本経済新聞社)にかなり学んだ。


      日本の中流階級がなぜなにもものを言わないのかと、いぜんから

     不審に思ってきたが、やはり年金や福利厚生、年功序列にあるのではないか、

     とわたしは思ってきた。

      そしてそれらの安定や安心を得るために、若者や大人たちの精神は

     どのように歪み、ふぬけになってしまったのだろうか。

      安定や保障をもとめる気持ちは、自由主義経済のハングリー精神を

     奪ってしまうのではないだろうか。

      そしてその結果生み出されたのが、マザコン男の精神構造だと思う。

      このような精神は社会の多くの人にも共有されていると思われ、

     これが今後の経済にどのような影響をおよぼすことになるか、不安に感じる。

      社会はこの帰結を思い知ることになって、はじめて

     変わろうという気持ちをもつことになるのだろうか。




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